第四章
4
天まで届く程の本棚。飛び交う論争。
刺激的で、享楽的で、それでいて荘厳なあの風景を、ゼンは生涯忘れない。こうして夢に見るほど。
「くそ……っ、低脳野郎が」
だがあの頃の夢はいつもこう。煌びやかな学舎は朧気で、いつも夢の中、過去の中のゼンは大理石の床の冷たさを感じていた。
投げ捨てられた教科書。破られた帳面。ああ、今回の夢はもっと酷い。髪を引っ張られ、顔を殴られ、左足の義足も次の角まで蹴飛ばされていた。這って義足を求めれば、周りからは嘲笑が沸き上がる。
――見ろよ、あのなり。
――嫌だわ、あんな髪の色。
――当然の報いだな。
田舎者、粗忽者と嗤われた日々。まったく自分に関係ないことで殴られたりもした。血の混じった唾を吐き、ゼンは無表情で転がる義足に手を伸ばした。
「私の元にいらっしゃい」
懐かしい声が聞こえた時点で目が覚めた。
狭い中央城下の部屋ではない。慣れ親しんだ木の匂いがする。
「……随分見ていない夢だったな」
独りごち、窓に目をやる。眩しい朝日に紛れて、一羽の白い鳥が窓をつついていた。
「さぁ今日も元気に始めようか」
朗らかにゼンが言うと子供たちが元気よく返事をした。
西の果ての村で学問ができるのはゼンの家だけ。村人たちは王立大学出のゼンのもとにこぞって子供を預けた……というわけではなく、まだ働き手にならない子供を預かってくれる保育所程度に思っていた。繕い物や食事の世話をするだけで子供を預かってくれ、尚且つ読み書きまで教えてくれる。親たちにとってはありがたい場所だった。
「午前中は読み書き計算の宿題を答え合わせして、そのあとはまたお話でもするか」
「読み書きよりお話がいい!」
「そうだよゼン、昨日の続きを話してよ!」
「ダメダメ、宿題が先。早く終われば早くお話が聞けるぜ?」
むくれる子供たちを宥めながら宿題帳を開かせる。ゼンの一日の始まりだ。
子供たちは大きな食卓を勉強机代わりにしてそれぞれの帳面を出す。帳面と言ってもただ古い紙をまとめた程度のものなのだが、ゼンが一人一人に作って渡したものだ。子供たちはそれに宿題をやってくる。ゼンは義足の左足を引きずりながらそれを見て回る。
「ここ、一つ多く足してるぞ。林檎を三つ、桃を五つ。指で数えてごらん」
いーち、にー、と声に出して数える子供を見つつ、
「お、今日は間違えずに書けてるな。ちゃんとRの数も合ってるぞ」
隣の子の綴りも確かめる。座ってやった方が体は楽だが、やりにくい。コツ、カツ、固い音を鳴らしながらゼンは子供たちに教えて回る。決して楽な仕事ではない。けれどもこれが性に合っている。それなりに誇りを持ってやっているので満足だ。
この村にいる限り金銭はそんなに重要ではない。金がなくても食べ物は教え子の親たちから月謝代わりにもらえるし、服だって洗い替えさえあれば別段困らない。時折本は欲しくなるが、好事家だった村長の夫が残したという古い書物を漁ればそれなりに満足できた。どうしても金が入り用の時は西の工芸品である、樹液で五分咲きの薔薇を固めた「薔薇琥珀」を作って市場に卸す。結構良い値で売れるので重宝している内職だ。中央での職は得られなかったものの、せせこましい都会暮らしよりずっと自分らしく生きていける。ゼンは今の暮らしが気に入っていた。
「ねぇゼン。今日は何のお話してくれるの?」
すっかり答え合わせを終えた子供たちが騒ぎ出した。日々答え合わせの速度が上がっていくのはひとえに自分の指導力の賜だが、子供たちが勉強よりも歴史を子供向けにした御伽噺を楽しみにされるのは少々複雑な気分だった。
「しゃーねーなぁ……」
それでも自分が学んできた歴史学を子供たちに教えるのは楽しい。口ではなんだかんだ言いながらも基本的には人のいいゼンは嬉しそうに
「今日は天気が良いから外で話すか」
一冊の本を片手に戸を開けた。
セピア色の表紙を開けば古い紙の匂いが風に乗る。子供たちが運んできた木の椅子に腰掛け、ゼンは御伽噺を始める。
「確かこの前は魔女様の話をしていたからな、今日はこの本を読もう。俺が王立大学に入った時、俺の先生からもらった大事な本だ」
「ぇえっ! だいがくって絵本が教科書なの?」
ゼンが持ってきた本は薄い絵本だった。右にわずかな文章と、左の頁に緻密な挿絵のある、見事な装丁の絵本。かなり古いもののようで、角は丸くなり、頁の指の当たる部分は黒くなってしまっている。
「まあ、そうだな。この本にはライアドルの歴史の原点が書いてあるんだぜ?」
「絵本なのに?」
「絵本なのに」
にっと笑って、ゼンは読み聞かせを始めた。
荒野に一人の女がいた。
草は枯れ果て、木も朽ち、花もつけない不毛の地に、女は一人、立っていた。
国を追われた一人の男が荒野で女を見つけた。
「こんなところで何をしている?」
尋ねた男に女は言った。
「この地のために泣いている」
そういった女は、静かに涙を流していた。白い頬を伝う涙が真珠のように玉結び、涸れた大地に吸い込まれた。
男は黙って女を見た。
美しい少女だ。肌は白く、黒い髪には一輪の赤い薔薇が飾られている。男の国でもよく見る色なのに、彼女の目だけは異質だった。
金だ。
珠の涙を流す瞳は、眩い金色をしていた。
野生の獣のようなその瞳は、どこか温かい日の光のようだった。
不意に男は足下に熱を感じた。気になって足下を見ると、先程までなかったはずのものが地を割って顔を出していた。
緑だ。
新しい、柔らかな緑が、少女の涙が落ちた場所から芽吹き始めていた。
一つ、また一つと芽が出ては花が咲く。
右を見ればすでに大樹が枝を広げ、左を振り返れば泉が湧いていた。
一体どれほどの距離を、少女は涙しながら歩いたのだろう。瞬く間に荒野はこの世の楽園と化した。
少女は男の方に向き直り、金の目に男を映した。蛇に睨まれた蛙のように、男は身じろぎ一つできない。少女の金の目は男をその場に縫い付けてしまった。
男は呼吸一つ、ままならない。指の一本も、動かせない。滝のように流れる汗が、少女の涙と同様に地に落ちた。しかし草が芽吹くことはなかった。
「汝、行くところはあるか?」
出し抜けに少女が尋ねた。
男は声を出すことすらできなかった。かろうじてかすかに首を振った。
男に行く場所などない。謂われのない罪で国を追われた男は、あてもなく歩いていただけだった。
少女はゆっくり瞬きをした。重たげな睫毛の隙間から覗く金を、男は吸い込まれるように見ていた。
白い指が男の後ろを指した。
「ここより西に、渇き、餓えた村がある。汝はそこへ行き、動けるものをここへ連れてくるがよい。彼らが、汝の国の民となろう」
男には少女の言っている意味が分からなかった。
男の言葉を待たず、少女は言った。
「汝、王の器を持つもの。民を救い、国を興すがよい」
鈴の音の如き声が、男の命運を今、分けた。
だが男はにわかには信じられなかった。
「私は潔白とはいえ母国では罪人。かような人間が、民を導く王になどなれる道理がない」
先程まで喉の奥でわだかまっていた声がするりと出た。男の言い分を少女は黙って聞き、そして再び口を開いた。
「王の器を持つものよ」
その声はなぜか頭の奥深くで響いた。
「母国で汝が被りし罪は、空言申した友を守るため。それが正しき道か否かなど、餓えた民には関わりなきこと」
少女の口からは男が語ったことのない、真実が語られた。鈴の声は涼やかに尚も続けた。
「汝に罪があるとすれば、それは器に水を満たさぬこと。汝の器は王、汝の満たすべき水は民。居場所がないのなら汝が汝の居場所を作れ。そこは居場所なき者たちの安住の地となろう」
一陣の風が吹いた。
思わず目を瞑った男の手を、少女は取った。
「王の器を持つものよ。我が汝を導こう」
少女の手から湯のように熱いものが流れ込んでくる。男の全身を駆け巡る熱は、立ち尽くしていた男の足を動かした。
少女の涙が作った実りの地に、男は痩せこけた人々を導いた。彼らはその地の水を飲み、果実を口にした。腹を満たした者たちは村で待つ妻や子に食物を運び、村は程なくして癒えた。
人々は男を生涯の主と定め、世が果てるまで忠誠を尽くすと膝をつく。
こうして男は国を興した。
安住の地を手に入れた男は少女に言った。
「貴女にはなんと言って礼をしたら良いのか分からない。本当に感謝しています」
少女は優美な笑みを浮かべ、男に言った。
「ならば我をこの地に住まわせてくれまいか? 我も、汝らと同じく、安住の地を求めるもの故」
男は二つ返事で引き受けた。少女は大輪の薔薇のように笑い、高らかに言った。
「我はこの地に永遠の安寧がもたらされるよう、祈りを捧げよう」
それを受けて男が誓った。
「ならば私はこの地の民を、貴女を、子子孫孫に至るまで、久遠に護ることを誓いましょう」
男の名はオルディン。我らがライアドル王国最初の王である。そして薔薇の少女こそ、この国のはじまりの魔女。後に〈荊の魔女〉と呼ばれるものである。
『ライアドル国語り』
ゼンの声がそっと物語に幕を下ろした。美しい挿絵と朗々と響くゼンの声に魅了されていた子供たちは、本を閉じる音がしても口を開けたまま余韻に浸っていた。
幼い日の寝物語にしては堅苦しく、学舎で聞くには耐えない幼稚さを備えたその国語りを知るものは少ない。もっと奇々怪々摩訶不思議な冒険譚を交えた最初の王・オルディンの伝説ならば子供でも知っている。けれどもゼンが語った国語りは、おそらくラーンですら知らない話。
限りなく真実。そして一匙程度の虚構。その境界線は未だ歴史学者や文学者たちの間で熱い論争が繰り広げられている。
「この本は、かの有名なスノール・エーダが貧乏詩人だった時に作った彼の最初の作品だ」
繊細な線で描かれた挿絵をなぞればインクの凹凸が分かる。遙か昔、百年以上昔の本は今、ゼンの手の中にある。生まれたての子猫を撫でるように、ゼンは絵本にそっと指を這わせる。
「ゼン……そのお話は本当なの?」
「本当かもしれないし、スノール・エーダの創作かもしれない。でも、確かに言えることは、この国が魔女様と王様の、〈永遠の祈り〉と〈久遠の誓い〉によって成り立っているってことだな」
「それ、お話の中にも出てきたね」
「よく覚えていたな。偉いぞ」
ゼンの右足に縋るようにして聞いていた娘の頭を撫でてやる。嬉しそうににゃは、と笑う少女の顔が、何よりの報酬だった。
「どういう誓いなの?」
「何を祈るの?」
「〈久遠の誓い〉は王族と〈荊の魔女〉の間に結ぶ……まぁ、約束だな。詳しいことは、秘密なんだがな」
「「「「「「「「「「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!」」」」」」」」」」
村中に響き渡るような大ブーイングが発せられた。思わず耳をふさいでしまったゼンは危うく椅子から転げ落ちるところだった。
「えーって言ったってこればっかはなぁ……俺も知らん」
「ゼンは先生だろ? 何で知らないんだよ!」
「馬鹿、先生だからってこの世の全てを知ってるわけじゃないんだぞ? だから世の中の学者ってヤツはじじばばになっても勉強すんの。宿題忘れてくるようなヤツに文句言われる筋合いはねぇよ」
うぐ、と盛大に唾を飛ばした少年が詰まった。宿題忘れの常習犯・パン屋の息子のクスタはむぅ、とむくれてそっぽを向いた。
「でも、知ってるか?〈永遠の祈り〉は実は身近にあるんだぜ?」
「え! どこに?」
「どんなものなの?」
きょろきょろあたりを見渡す子供たちに、ゼンは人差し指を一本。す、と空に向けて立てた。
「ここに、ある」
指につられて仰ぎ見る子供たちの目に映るのは、よく晴れた群青色の空だった。
「……………………雲?」
「空じゃない?」
「昼間でも星はあるってばあちゃん言ってたけど……それかな?」
思い思いの考えを、上を向いた口で空に話す。幼い子供の純真さは、時折ゼンの目には眩しすぎるように思えた。わずかな後ろ暗さから目をそらし、ゼンはいつものように笑う。
「正解は、見えないんだよなぁ」
またも沸き上がる盛大な負の歓声は今度こそゼンを椅子から落っことした。弾みで義足が外れたが、すぐに子供たちが拾ってくれた。ゼンが義足だったことを忘れていた小さな子は、本当に足がとれたかと勘違いして泣き出してしまった。
「驚かせて悪かったな。大丈夫だよ、痛くないから」
事実、足は痛くない。雨の日には引きつるように痛んだり疼いたりはするが、普段はそんなことは一切ない。泣いてしまった女の子を抱き上げ、膝に乗せる。頭を撫でていれば次第に泣き止んでくれるだろう。ゼンは空を見上げながら講釈を続けた。
「国境の荊の生垣、あるだろ? あそこからこう、ぐぁーっと上に、目には見えない荊が網を作ってるんだ。ちょうど……そうだな、ざるを伏せたみたいな感じだ」
「ぜんっぜん見えないよ」
「ホントにあるの?」
「あるさ。でも、魔力って特別な力がないと、見えないんだ。だってそれこそが〈永遠の祈り〉なんだから」
子供たちは首を傾げた。さすがに難しかったか、と思ったが、これは国の成り立ちに関わること。大きくなって村を出て、街で働くことになったら、これくらい知っていないと笑われてしまう。難しいことを難しく言うのは簡単だ。しかし難しいことをいかに簡単に、わかりやすく伝えるか。それが問題なのだ。
うんうん唸りながら、ゼンは頭を動かした。ぱさぱさの金髪をかきむしって。はぁああぁん、と変な声を出してみたり。それがゼンの癖だったが、あまりの奇妙さに子供たちが引き始めていた。しまいには背もたれが折れんばかりに反り返って空を見上げるものだから膝に座っていた女の子がひぃぃっ、と引きつった叫びを上げた。
「そうだなぁ……ほら、目に見えたり触れたりすると……雨とか雪とかも降らなくなっちまうだろ? 鳥だって飛べない。そうなると……あー…………ジョゼの家の畑はどうなる? 鳥撃ちオリガはどうなる?」
「しょーばいあがったりだね!」
「そう。その通りだよ。そうなると困るもんだから、魔女様は目に見えない、触れられない、誰にも気づかれない護りを作ったんだよ。それが〈永遠の祈り〉の正体、〈荊の柵〉っていうヤツだ。……わっかるかなぁ……?」
「目には見えないけど、あるってこと?」
「…………ま、そういうことだな」
見えないものを説明するのがこれほどまでに大変だとは思わなかった。ゼンは深い溜息をついた。しかも着地点は至極単純なところ。まだまだ修行が足りない。
「ゼンにはみえるの? とわのいのり」
膝の上の少女が舌足らずな言葉で尋ねた。
「うーん、残念だけど、俺にも見えない。この村で見える人は……もしかしたらいないかもな。呪い師もいないし」
辺境の村には呪い師がいるものなのだが、西にはいない。呪い師は医者のように薬を作ったり、天候を占ったりするのだが、この西の果ての村には医者がいる。先程の話に出た鳥撃ちオリガの旦那がそうだ。この近辺で医者は彼一人。呪い師の怪しげな薬に手を出すよりマシ、むしろ大歓迎。おかげで呪い師は西には近づかない。多くの呪い師がインチキだというのもあるのだが、村人たちにとってはどうでもいいことだった。
「でもな、一度だけ見せてもらったことがある」
その言葉で子供たちの目の色が変わった。
「いつ? どこで?」
「どんなの?」
「ほんとにざるみたいなの?」
「あれは俺が中央城下にいたときだったな。学士仲間に城の魔導師と親戚だってヤツがいたんだ。そいつになんっとか〈永遠の祈り〉をこの目で見たい! って頭下げまくったら、なんと見せてくれたんだよ」
「どうやって!?」
「確かな……小さな水晶玉に映してくれたんだよ。どういう理屈で見えるのか知らんけど、それを目にかざして空を見上げたら…………本当にあったんだよ」
懐かしむようにゼンは空を見上げた。
空は群青。雲は絹。ゼンの目にはあの時見た〈永遠の祈り〉が今も鮮やかに映し出される。見えはしないのに。
「光の網みたいな……荊がこう、縦横無尽に張り巡らされてて…………世界の果てまで続くんじゃないかって思ったよ。……綺麗だった」
中央に未練がない、とは言えない。ただ、今の暮らしと天秤にかける術を、ゼンは持たないだけだった。ないものを皿に乗せるなど、誰にもできないことだから。
「ゼンはお城に上って見たの?」
「違う違う。その魔導師の家で見たんだ。お城に行けるのは俺の先生の……そのまた先生ぐらいなもんだよ。誰でも行けるわけじゃない」
「でもゼンは学士様だったんだろ? 魔女様にも会えるんじゃないのか?」
「無理無理無理無理! おま、魔女様っつったら、あれだぞ? 王様と王妃様くらいしか会えないんだぞ!? 下々の者が魔女様見たら目が潰れちまうらしいぞ?」
「うえぇぇぇぇ……本当?」
「本当さ。学士とかいっても所詮は一般庶民。王様にも会えないし、貴族様にだっておいそれとは会えないんだよ」
「つまんないねー」
「ま、世の中そんなもんだよ」
ゼンは明るく笑った。雲雀が一羽、遠くで鳴いた。
小高い丘の上、羊たちは今日も飽きずに草を食む。少し離れたちょうど丘の頂上で、ノルンは薬草摘みも終え、手慰みに白詰草を摘んでいた。横では昼の日差しを嘘のように吸い込む漆黒の体を投げ出したヴァンが退屈そうに欠伸をした。
「仮初めの平和だな」
地の底から響く声はノルンの耳にだけ届く。前掛けに乗せた白詰草を丁寧に編みながらノルンは笑った。
「仮初めでも平和が一番だよ」
晴れ渡る空。羊の鳴き声。薔薇摘み歌と子供の笑い声。最果ての村でも食べ物に困ることはない。
ノルンは知っている。これが当たり前ではないことを。
編み上げた花冠をヴァンの頭に乗せ、ノルンはフレンが持たせてくれたサンドウィッチを肩掛け鞄から取り出した。チーズとゆでたキャベツ、ハムが挟んである。入れた覚えのない林檎も一つ、鞄に入っていた。
「フレンは優しいなぁ……」
突然現れた得体の知れない少女を拾って、養ってくれる。羊飼いの仕事だってフレンがしていたものなのに、申し訳なさそうにしているノルンのために譲ってくれた。ノルンはフレンに一生頭が上がりそうにない。
「フレン、ありがと」
お祈りの代わりに礼を言ってノルンはサンドウィッチを早速……
「開くなよ」
「だって、ハムだし……」
細い指でハムだけぺろんと取り出し、ヴァンの口に放り込んだ。ヴァンの大きな口で租借するには些か薄すぎるハムは二回噛まれただけで腹に収められた。ノルンは無言でハムだけ取り出してはヴァンに投げる。たまに意地悪して遠くに放り投げてもすぐに取って戻ってくる。可愛げのない犬。ノルンは口をへの字に曲げて溜息をついた。
「肉が食えないならあの嬢ちゃんに言えばいいだろうが」
「やだよ。居候の私が食べ物の好みを言うなんて、失礼にも程があるだろう?」
「だからって毎回俺に食わせるの止めろ。加工肉は俺だって好きじゃない」
「それもやだよ。こっそりヴァンに食べてもらわなきゃ私が困るもの」
「ガキが」
不機嫌そうに鼻を鳴らし、ヴァンは吐き捨てた。
「これが天下の〈荊の魔女〉様とはな」
ノルンは横目でヴァンを見て、笑った。
それは村長の家で見せる花のような笑顔では違う。歳よりずっと大人びた、妖艶な笑顔だった。
「私じゃ不服?」
「…………いいや、全く」
歯の間に詰まったハムで遊んでいたヴァンが、ごくりと唾を飲んだ。やけに人間くさい仕草をする犬はノルンの横に腹ばいになり、尖った耳を動かした。
「そういえば、あの片足の兄ちゃんが面白い話をしてるぞ」
「へぇ? 珍しいね。君がゼンを気にするなんて」
艶やかな黒を風にそよがせる一人と一匹は、黙々と食を進めながら耳を澄ませた。
「……本当だ。随分と趣味のいい絵本を子供に読んでいるんだね」
ノルンたちがいる丘は、ゼンの家からだいぶ離れている。ノルンの足で半時はかかるだろう。それでも黒毛の犬とノルンには側で語られているように聞こえる。
「スノール・エーダは気の毒な人だね。あらゆる著書や詩編に魔女のことを書き続けたのに不思議なことは全て創作と思われてしまっているもの」
「時代だな。特に今となっちゃあ、魔力を持つ人間の方が少ない」
「彼のオルディン王だって魔力があったのに、今や王族でも魔力が顕現するのは何百年に一人……哀れなものだね」
ノルンの瞳は遙か東を見ていた。そちらにあるのが王都だとも知らず。ただなぜかノルンの目はいつも東を向くのだった。
「お、こりゃ傑作だぞ。庶民が〈荊の魔女〉を見ると目が潰れるらしい」
「ぶはっ!」
危うくサンドウィッチを吹き出すところだった。すんでの所で飲み込んでよかった。
「そんなこと言ったら西の果ての村の人たちみんな盲目だよね! ふふ、面白いことになってるんだね、下界は」
腹を抱えて笑い出したノルンをヴァンは冷めた目で見ていた。こんな小娘が主だと思うと、なんだか頭痛がしてくる。
口の端にチーズをつけて笑う少女は、どこをどう見てもただの村娘だった。この国の護りを一手に引き受ける〈荊の魔女〉だと、一体誰が信じようか。第一、〈荊の魔女〉の顔を知るものなど、国中で片手の指で足りる程度だ。こんな田舎ではノルンを魔女だと思うものなど一人もいない。身を隠すにはうってつけの場所だ。
「ノルン、分かっているのか?」
ヴァンは涙をためてひーひー笑っているノルンに問いかけた。その声は重く、そして地の底から沸き上がる冷気を孕んでいた。
「何のためにここにいるのか、ちゃんと自覚しているのか?」
「……………………分かっているさ」
「羊のケツ追っかけ回している場合じゃないだろうが。まして、ハムをよけてる場合でもない」
黒い尾がノルンの頬を張った。弾みでヴァンの頭に乗っていた花冠が落ち、鋭い爪がそれを引き裂いた。
「お前が因果の塔を出ざるを得なかったのは、なぜだ?」
「…………〈久遠の誓い〉が、破られたから」
白い頬を一筋、赤い血が流れた。刃物で裂かれたような傷がノルンの花の顔を真一文字に穢していた。
「誰だか分からないけれど、王族の誰かが、〈久遠の誓い〉を破ったからだよ」
「ならばわざわざこんな辺鄙な村に来たのは、なぜだ?」
「………………最悪を、回避するためだ」
草の上に血が露のようにこぼれ落ちた。ノルンは手の甲で頬を拭うとすでに傷口はなく、白い肌がわずかに熱を持っているだけになった。
「でもまだ時じゃない」
深緑の瞳がわずかに揺れる。
底の見えぬ黒い瞳がノルンの目を真っ直ぐに見つめてくる。緑の瞳は鏡面のように、ただじっと黒を映し続けた。
「時が動くのは、きっと私が十五になる日」
――だから。
ノルンは無言で訴える。
だからその日までは……。
いつの世も少女の儚い望みは傲慢か、ささやかかのどちらかだ。ヴァンの目の前で、ヴァンを映す緑の目の少女は、後者だ。溜息のような鼻息で、ヴァンは自分が折れたことを伝える。ぱっと笑うノルンは、〈荊の魔女〉よりも白詰草の姫の方が合う。ヴァンはちぎれた花冠を咥え、ノルンの膝の上に落としてやる。
「君はいつだって優しい」
「戯言だ」
「知ってるよ。だって本当は残酷なんだもんね」
ノルンは空を仰ぎ見た。
燦然と輝く日の光に透けて見える〈荊の柵〉。
「史上最高の防壁魔法……か」
膝を抱え、下を向く。
「私はもう……誰にも死んでほしくない」
少女の悲痛な叫びは、風に乗ることなく前掛けの布に吸い込まれて、消えた。
白い鳥が飛ぶ。
尾羽を優雅に棚引かせ。
白い鳥が飛ぶ。
誰にも気づかれることもなく。
白い鳥はちち、と啼き、その身を夕日色に染めて行く。
郷愁の赤橙と寂寥の青藍が混じり合う空に、白い鳥は溶けていく。
差し出された人差し指に、その羽を休める時まで、白い鳥は飛び続けていく。