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第二章




 西の果ての村の朝は早い。村人たちは日が昇る前に起き出し、畑仕事を始める。村長の娘のフレンは妙な胸騒ぎを覚え、目を覚ました。まだ起きるには早い時間だ。二度寝する気も起きず、仕方なくあくびをしながらベッドを出た。

「さすがに寒いわねぇ……」

 真冬のライアドルは雪深い。吐く息は白く、夜明け前の外は雪がわずかに光って見える。ショールを羽織り、慣れた手つきで暖炉の火を熾し始めた。ぱち、ぱち、と爆ぜながらじわりと広がる火を、フレンはぼんやり見ていた。

 静かな朝だ。村人も誰も起きていないらしく、鶏の鳴く声すらしない。ただ火の粉が踊る暖炉を見つめるだけの時間。たまにはそういう時間もあっていいじゃないか。フレンは起き抜けの頭で思った。毎日羊の世話と年老いた母の世話をして、幼なじみのゼンの世話を焼いて……。慌ただしく過ぎていく毎日の中で、ただひとときの、この沈黙が愛おしい。揺り椅子に座り、揺らめく火の前で膝を抱える。不意に襲ってくる波のような不安に攫われないように固く、固く身を強ばらせた。

「……………………」

 溺れるような静寂に身を浸していたそのとき、不意にフレンの耳に何かが届いた。

「…………なにかしら?」

 誰かの家の戸が開いた音だろうか?それにしては嫌に耳障りだった。空耳かもしれない。そう思いながらもフレンはじっと耳を澄ました。

「……………………鳴き声だ」

 遠く、遠くから確かに聞こえた。

 遠吠えだ。

 細く、遠くまで響くような犬の遠吠えが聞こえた。

 この村にそんな鳴き声をする犬はいない。水車小屋のマリウスの家にいる大型犬が似たような声をしていたが、こんな低い声ではない。

 いい知れない衝動に駆られ、フレンは外に飛び出した。

 一瞬でフレンの視界が閉ざされた。未だ深い闇に沈む村は、濛濛たる雪煙に満ちていた。間に合わせの防寒では吹き荒ぶ冬の風が体に噛みつくようだったが、フレンは構わず音を聞いた。

 遠吠えは轟々と鳴る風の中でもよく聞こえた。一定の間隔を置いて聞こえる遠吠えが、そこかしこの山々に反響する。一声鳴いて、間を置いて。また一声吠えては黙りこくる。その繰り返しは何かの信号のようにも思えたが、教養のないフレンには意味のない音の羅列にしか聞こえなかった。

 フレンの足は遠吠えの方へと向かう。けれども一向に音は近くならない。

(どこで鳴いているの……?)

 犬らしき影も見えない。遠吠えはフレンの心を逆撫でするように谺するばかりだった。

 いつの間にか何もない雪原に来てしまった。フレンの家は遙か彼方、民家ももう一軒もない。ここはフレンが夏場に羊をよく連れてくる場所だ。良い草が生えていて羊たちも喜ぶ。雪に埋まった今では何も見えないが、確かにそこは草原だった場所だ。耳がちぎれそうなほど冷え、頬が逆に熱を持ち始めた。白い風の中、それでもフレンはただ黙って耳を澄ませていた。

 一際大きな遠吠えが聞こえた。

 近い。

 よく聞けばズズ、と何かを引きずるような音もする。雪が潰れる、きゅき、ぐきゅ、という独特の音も聞こえる。フレンはあたりを見渡した。見渡す限り白い景色。風に舞う雪はチカチカと明滅してはフレンの網膜に焼き付く。人もいなければ犬もいない。変わった様子はない。

 諦めかけたその時、背後に息遣いを感じた。

 ――いた。

 おそるおそる振り返ると、夜がその身に凝ったかのような犬が一匹、フレンをじっと見据えていた。

 この犬だ。

 フレンは確信した。まだ直接鳴き声も聞いていないが、家を出る時に感じたあの衝動を、追いかけねばとフレンの背中を押したあの感触を、この犬は彼女に抱かせる。大きな犬だ。犬と言うより、狼のようだ。二本足で立ったらフレンぐらいあるのではないか? フレンの困惑を余所に、巨大な闇の塊のようなその犬は何かを咥えて近づいてくる。ずる、ずぐず、引きずる音は不吉な不協和音を奏でながらフレンに忍び寄る。

「……………………っ!」

 叫び声すら出なかった。

 犬がフレンの前に落としたものは、人だった。長い髪は黒く、そこから覗く肌は下の雪のように白かった。

「あ……あああ……」

 力なく崩れるフレンを無視し、黒い犬は尚も落とした人を引きずってきた。

 ――生き、てい……る、の?

 分からない。だが、少なくとも意識はない。冷気でこちこちに固まった肉体は巨大な犬によってフレンの足下に改めて落とされた。

 じ、と犬がフレンを見つめる。何かを訴えるかのように。勿論フレンに犬の言葉を理解する能力などない。だが、なぜか犬が「拾え」と言っている気がした。

 震える手を伸ばし、フレンは犬が運んできた人間に触れる。死体の冷たさを覚悟した。そっと触れた指先をすぐさま引っ込める。

(こ……怖い……!)

 がたがた震えながら胸の前で自分の手を握りしめた。

「ぅおんっ!」

 犬が低く鳴いた。

 苛立っているのだろうか。その声に促され、びくつきながらもフレンはもう一度それに手を伸ばし、触れた。

 ――温かい。

 まだ生きている。

 この雪の中でも感じられる体温が、確かに生きていると告げる。死体ではないことが分かっただけでもフレンの恐怖は幾分か和らいだ。見様見真似で脈を確認する。

「…………やっぱり生きてる」

 ゆっくりだが、規則正しい呼吸も聞こえる。乱れた髪を横に分けると、まだあどけなさを残した少女の顔が出てきた。フレンよりずっと若い、否、幼い。まだ成人していない少女が、なぜ犬に引きずられてきたのだろう……?

「……とりあえず……連れて行けばいいのね?」

 ちらりと犬を見た。雪を長い毛に絡めたまま、黒い犬はじっとフレンを見つめるばかりで鳴きもしない。犬に了解を得ようにも言葉の通じない相手だ。

 次々に沸き上がる疑問は置いておいて、フレンは良心の思うがままに行動することにした。このままではこの子は雪の中で本当に死んでしまう。

「家に連れて帰って……それからのことは、また考えよう……」

 フレンは少女を背負い、来た道の足跡を辿る。後ろに凶兆のように黒い犬を従えながら。







 「……夢か」

 気づけばまだベッドの上。朝露に濡れる窓は白い日の光を浴びて燦々と輝きながらフレンの重たい瞼を照らした。小鳥のさえずりさえ聞こえる穏やかな春の朝。フレンはノルンを拾った日の夢を見た。

 思えば拾った時から不思議な少女だった。拾って三日目に目を覚ますまでぴくりとも動かなかった。呼吸はしているものの、食事も摂らなければ排泄もしなかった。村唯一の医者のヤンにも診せたが、健康そのものと太鼓判を押されたくらい健康体だった。

 目を覚ましてから「何も聞かずにここに置いてくれ」と頭を下げられたのには面食らったが、何かと気遣いもできる働き者だったため、フレンもラーンも助かっている。別に不都合などない。ないのだが……

(如何せん素性が知れないのよね……)

 昨日の残りのシチューをかき混ぜながらフレンは思った。

 着の身着のまま飛び出してきたような格好だったが、よく見ると上等な仕立ての服を着ていた。言葉遣いもどことなくフレンたちとは違う気がするのだが、何が違うのかと言われると言葉に詰まる。どこぞの貴族様の娘が家出でもしてきたのかと最初は疑ったが、汚い家畜の世話も文句一つ言わず丁寧にやってくれるし、人を見下すあの独特の選民意識がノルンにはなかった。

(大体犬連れて家出なんてするのかしら?)

 ノルンを引きずってきた黒い犬――ヴァンは、ノルンが何でもするから一緒に置いてくれと床に頭をすりつけてまで頼んだ犬だ。確かに飼い犬かもしれないが、貴族様が飼うような犬ではない気がする。どちらかと言えば無愛想で、躾は行き届いているものの獰猛さを隠そうとしない、野性の匂いがする。今も大人しく暖炉の側で丸まっているが、狸寝入りをしているのだ。犬のくせに。フレンの一挙手一投足を監視している。そんな気配さえ漂わせている、油断ならない犬。嫌いではないが、いまいち好きになれない、というのが本音だ。

「どうしたの、フレン? 考え事?」

「っ!」

 いつの間にか背後にノルンが立っていた。寝間着のままで、まだ眠いのか目をこすりながらあくびをした。

「シチュー、焦げちゃうよ?」

「え、あ! ああ、そうね。もう上げなくっちゃ」

 動揺を隠しきれずに変な声が出てしまった。が、ノルンはそんなこと気にもとめず、生あくびを連発しながら顔を洗いに行ってしまった。ほ、と安堵の溜息を漏らし、ふとヴァンを見た。夜の名残のような暗い目がじぃぃぃ、とフレンを見ている。思わずごくりと唾を飲み込んだ。




 ノルンとヴァンが羊たちを連れて出て行けば、家に残るのはフレンと年老いたラーンだけになる。つい最近まで二人だけの生活だったのに、少女と犬がいないだけでこんなにも音が少なくなるのかと、不意に寂しくなった。家の中にはフレンが糸を紡ぐ音しか聞こえない。

「ねぇ、お母さん」

 糸車を止め、フレンが口を開いた。

「ノルンって、本当にどこから来たのかしら?」

「……さぁてねぇ」

 しわくちゃの手が器用に豆をさやから出す。ラーンは一粒一粒指で確かめながらもフレンに言った。

「あの子が何も聞くなと言うなら、儂は何も聞かんよ」

「そりゃそうだけど……」

 フレンは気になるのだ。フレンのあまり賢くはない頭では「~のような気がする」や「~かもしれないけど」など曖昧きわまりない、予測とも想像とも言いがたい、いわば妄想のようなものが暴走するだけで一向に手応えのある答えに辿り着けないのだ。そうこうしている間にフレンの中の「気になる」の芽は徐々に育っていき、今ではノルンをじっと観察するようになってしまった。おかげで不審がられることが多い。今朝だって危うくシチューを香ばしく焦がしてしまうところだった。

「何か事情があって家出してきたのかな……ねぇ、何だと思う?」

「お前、噂話とか好きだろう?」

 呆れたようにラーンが言った。

 噂話は料理の次にフレンが好きなことだった。

「だからお前は一人行き遅れるんだよ」

「うぐ……」

 返す言葉もなかった。

「情けないねぇ……お前の姉さんたちはもうとっくに嫁に行ってこっちに帰ってくる暇もないっていうのに」

「だ、だって……」

 フレンの上には姉が五人もいる。本当は下に三人妹がいたが、皆生まれてすぐに死んでしまった。実質的に六人姉妹の末娘として育ったフレンだが、五人の姉とはあまり似ていなかった。今は見る影もないが、若い頃の母は美しく、五人の姉たちは皆母に似た。流れるような金髪は秋の稲穂のように輝き、野良仕事をしていても肌は綺麗だった。なのにフレンだけが亡き父親に似た。夕焼け色の赤毛は好き放題に跳ね回り、腰まで伸ばしてやっと落ち着くくらいだ。肌もそこら中にそばかすがあって、体だって姉たちよりずっと貧相だ。

(姉さんたちみたいに美人だったら……)

 そうすればきっとあの人だって……。

 フレンはありもしない現実を仮定してはふるふると頭を振って誤魔化した。

 ふぅ、溜息をつきながらも二人はそれぞれの作業に戻った。フレンは糸を紡ぎ、ラーンは豆を出す。

 結局ノルンについての話は、うやむやになってしまった。







 羊たちは相も変わらず草を食む。時折群れを離れる子羊をヴァンが戻しながらも、白い羊の群れはもこもこと固まって草を食むばかりだ。

 のどかな景色だ。

 ノルンは羊たちを視界の端に捉えたまま、ごろりと草の上に寝そべった。青空に雲がいくつか浮かんでいる。

「…………そういえば空って青かったんだ」

 独り言は風に虚しくかき消され、そよぐ前髪だけが風の気配を残すだけだった。ノルンは仰向けのまま空を眺める。じぃ、と空に穴が開くほど。眺めると、言うには些か物騒な目つきだ。鋭く、何かを見つけるかのような。

 ノルンの「目」は次第に上へ上へと昇っていく。はじめは羊の背丈まで、そこからぐぅっと遠くなる。

 木の上、リスの巣穴よりも上へ。

 群れで飛行する椋鳥の羽の色さえ分かる高さへ。

 上へ。上へ。上へ行き、中空で止まる。

 ノルンの意識は空に浮いていた。

 天空に立ち、それをじっと見つめる。

 目をこらせばチカ、と光るものが見える。

 それは半円状に広がり、網のような体をなしていた。

 見渡す限りの光の網はライアドルの国土を覆い尽くすように編まれている。ノルンはその上に立ち、東、南、北へと「目」を向けた。

(……綻んでは、いない)

 鳥は網に絡まることなく上昇と下降を繰り返し、山頂から漂う風花は網の上に落ちても切れることなくそのまま大地へ舞い散っていく。下の人間も、羊や牛や馬さえも、誰一人網に気づかない。

 は、と息をつけば意識が体に戻ってくる。ゆっくり身を起こし、ぐっと伸びをする。背中が痛い。

「あんまりやりたくないんだよね、これ」

 意識を切り離すのは体に負担がかかる。それでもこれを欠かすことはできない。

「…………じっと待つのは、大変だな」

 ノルンはぎゅっと膝を抱いた。子猫のように背中を丸め、蛹のように身を強ばらせた。目を固く閉じれば、炎のような朱が揺らめいた。銀の砂が端々に散り、暗転した視界を掻き乱す。

 目を閉じれば蘇るあの光景。

 あの日見た、赤い悪夢がノルンの心を支配する。

「……駄目だ。分からない」

 頭を振り、両手で頬を叩いた。冷えた頬は破れるような痛みを与え、熱を持つ。

「大丈夫。きっと、どうにかなる……うん、どうにか、する」

 一人、決意を固めるノルン。深緑の瞳は移り気な新芽のように揺らめき、再び羊の群れを見つめ始めた。








 下弦の月が笑う。

 夜の帷はあらゆるものを包み隠し、白い光を一筋だけ道標のように漂わせるだけだった。

 少女は裸足のまま土を踏みしめる。

 外に出てはいけないと、耳にたこができるほど聞いていたのに。

 真昼の深緑は夜の天蓋の下ではただの黒。

 それでも艶やかな葉は月の光を浴びてわずかに輝く。

 白い、小さな足が確かな足取りで道を行く。

 背丈よりも少しだけ低い生け垣に囲まれた道。その先にあるのは秘密の花園。

 夢中で駆けていけばすぐに開けた場所に出る。

 月光の下。

 閉じることを忘れた薔薇が咲き乱れる庭。

 黄薔薇は貴族の象徴。

 数多くの白薔薇は平民。

 温室には誰も知らない王の青薔薇。

 順に薔薇を辿れば最後に巡り会えるのは、紅薔薇。

 この国で最も高貴な薔薇の園。

 少女は薔薇園を駆け巡り、蔦の絡まる四阿を目指す。

 息を切らしながらも少女は速度を落とさない。そこに自分を待っている人がいるから。

 仄かに灯る角灯の光は温かく待ち人の顔を照らす。

 ささやかな記憶の断片は、壊れた鏡のように反射して舞い落ち、それが夢だと告げた。



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