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終章

終章






 毛足の良い絨毯は青。白亜の外壁に映える。執務に追われる文官たちを追い抜き、少女が一人、城内を疾走する。干し草色の髪を振り乱し、紅茶色の大きな瞳はしっかりと前に向け。全速力で走りながらも、目的地だけは見落とさない。回廊の一番奥、紫檀の扉が見えると彼女は急停止した。

「一の公爵様! フィアラル・ガラール両将軍からもぎ取ってきましたよ! 兄弟喧嘩で壊した城の壁の修繕費、自腹切りますって念書! 署名捺印血判付きです!」

 勢いよく扉を開け、少女は大声で報告した。執務室の大机。座した一の公爵――もとい、翡翠の宰相・グリーノは若干頭を抱えながら溜息をついた。

「……ソラン。何度言ったら分かるんですか? 今の貴女は公爵家の家人ではなく、歴としたライアドルの文官です。私のことは一の公爵ではなく宰相と呼びなさい。あと廊下は走るんじゃありません」

「ぅわっはい! すみませんでした一の公爵さ……じゃなかった宰相様!」

「はい、よろしい」

 穏やかに笑い、ソランの手から念書を受け取った。確かに署名捺印血判付きだ。良く取れたものだ。

「もう仕事がなければ休憩を取りなさい。体を休めることも、仕事のうちですよ」

「おお恐れ多いお言葉! ありがとうございます! それではソランはお昼休憩に入ります」

 慌ただしく頭を下げてソランは執務室をあとにした。

「嵐のような少女だな」

「これは……珍しいお客人ですね」

 音もなく扉を開け現れたアウリール三世に、グリーノは親しみのある笑みを浮かべた。主従とはいえ二人は旧知の仲。椅子を勧め、手際よく茶の用意を始めた。

 注がれるのは琥珀色。薫り高き薔薇茶。

「彼女は……セルリリーク族か」

 印象的な髪と瞳の色。最後の侵略戦争を経験したアウリール三世とグリーノにとっては忘れがたき色。

「優秀な〈耳目〉を……失ってしまった罪滅ぼしでしょうかね。侍女にしようと思ったんですけど、どうにも御転婆で……試しに使い走りをさせてみたらまぁ仕事のできる子で。少し勉強を教えたら見事な文官になってくれましたよ」

 カップを置き、茶菓子でもてなす。黒スグリのジャムが入ったクッキーは王の幼い頃からの好物。グリーノが切らしたことのない菓子だ。

「昔からお前の家には戦地で見た髪や瞳の色をした者が多かったな……」

「私はね、陛下。他民族であろうと、女性であろうと、子供であろうと何だろうと、仕事のできる者を雇っているだけです。元を正せば、彼のオルディン王も国を追われた人。ライアドル王国は、あらゆる民族の安寧の地であれというのが、古来よりの教えです」

「理想だと鼻で嗤っていた頃もあったがな」

 馥郁たる薫りを楽しみつつ、王は呟いた。

「けれど貴方はその理想を目指した」

「ロータとの約束だ。私は彼女のオルディンになるのではなく、民のオルディンになると、死に際に約束したよ」

「……そうですか」

 壮年の男が二人。薔薇茶の香りに包まれて思い出すは一人の女性。今は亡き先代〈荊の魔女〉ロータは、二人の思い出の中で今日も変わらず微笑み続けていた。

「そんな思い出話をしにいらっしゃったのですか? 何か私に話でもあったのかと……」

「おおそうだった! 聞いてくれ、グリーノ。シャルヴィのヤツ、私を老いぼれ扱いしおって……! 今日も私の仕事を全部奪って行ったぞ。全部だぞ、全部! おかげで私は来る日も来る日もぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽん判を押すだけの毎日だ! 酷いと思わぬか? 父上はどうぞお休みくださいーといけしゃあしゃあと言いおってあの小僧!」

 何かと思えばただの愚痴か。こっそり溜息をつきながら、グリーノはいきり立つ王を宥めた。

「いいじゃないですか。今まで働きづめだったので、いい骨休みだと思えば」

「お前はまだ現役なのに……」

 にわかに矛先が自分に向いてしまった。内心かすかに舌打ちをしたくなったが、何でもない風をグリーノは粧った。

「シャルヴィ殿下は賢い御方ですからね。この国の未来を、きっと明るくしてくださいますよ」

「まさかシャルヴィがあそこまで政を知っているとは思わんかったよ」

「ふふ、まぁ、教師が良かったのですよ」

「お前が教えていたのか!?」

「さぁ? どうでしょうね」

 明言は避け、意地の悪い笑みを浮かべる。ああ、この男はそういうヤツだった。王は忘れかけていた幼なじみの底意地の悪さを改めて思い知った。

「それよりどうだ、一の公爵家というものは」

 えへん、と咳払いをし、話題を変えた。

「どうもこうも、ただ邸が広くて調度品が悪趣味なだけです。掃除に手間取りました」

 ベルタの一件は国民に公表されることなく、内々に処理された。しかし彼女の手助けをし、村一つ焼き払った一の公爵・ベルトランはその責を負って自害。当主のいなくなった一の公爵家は取り潰しとなった。空席となった一の公爵家には臣籍降下を願い出たアスクを、との声があったが、アスク自身が辞退した。そしてこの翡翠の宰相がその空位におさまったのだ。変わり者の二の公爵は「二という数字が気に入っていますので」と言って異議を唱えることもなく、三の公爵も異論はなかった。グリーノは三の公爵家の人間とはいえ、跡継ぎの資格をすでに放棄しており、個別に邸を構えていたため何ら問題はなかった。

「それにしても、問題は彼です」

 眉間を押さえ、深く溜息をついた。

 グリーノの目下の悩みの種。まさかこんなことになるとは思っていなかった。

「貴方、長男にどんな教育していたんです?」

 まさか臣籍降下したアスクが、自分の養子になるとは思ってもいなかった。

 最初から一人で家を構えるには若輩過ぎると一の公爵家を辞退したアスクは、よりにもよって宰相・グリーノの養子となったのだ。二十歳過ぎた息子ができるとは思ってもみなかったが、跡継ぎのいないグリーノとしても悪くない話だった。

 だが、問題はそこではない。

「どうして第一王子だったのにあそこまで汚く食べられるのですか……!」

 挨拶、着こなし、身のこなしは完璧なのに、グリーノの息子となった元第一王子は壊滅的に食事の仕方がまずかった。ナイフ、フォークの持ち方は正しいのに、どうしてかいつも彼の周りには食べこぼしが発生し、飲み物類は少なくとも日に一回は盛大にひっくり返し、上品に食べているのになぜか口の端に食べかすがついていたり……。アスクの食事作法はもはや芸術の域に達しそうだった。

「……あれだけはなぜか治らないのだよ」

「治してから養子にもらうべきでした」

 アスクの食事方法は、宰相・グリーノの生涯における最大の誤算であった。

「息子は可愛くないですけど、娘はやはり可愛いものですね……」

 薔薇茶をすすり、一息ついたグリーノがしみじみと言った。

「本当に可愛いんですよ……この間、城下の仕立屋に頼んでおいたあの子の普段着をですね、仮縫いでついて行ったんですけど、本当何着ても似合うというか、可愛いんですよ。ついうっかりもう三着頼んでしまって買いすぎだーって怒られてしまいましたけど怒った顔すら愛しいというか何というか……」

「お前は親馬鹿と言うより馬鹿親だ」

「私、どうにも愛した人はどろどろに甘やかしてしまいたい性分らしくて……」

「絶対嫌われるぞ」

「き、嫌われないようにしますよ! 今まで放って置いてしまった分、いろいろしたくなってしまって……加減が分からないだけです」

「その鬱陶しい愛をアスクにも分けてやれ」

「嫌ですよ」

 間髪入れずに即答された。養子に出したとはいえ元は自分の息子。グリーノの一言はアウリール三世の心に鋭く刺さった。

「あれは私が見守りに見守った宝を奪っていく男ですよ。そんな男を愛せるものですか」

 珍しく本気でふて腐れているグリーノに王は目を見張った。ノルンの父親だと名乗ってから、冷徹なる翡翠の宰相は感情がよく表に出るようになった。抑えていたノルンへの愛情が解かれ、諸々の感情も露わになってきたのだろう。情に厚く、湯のように熱い愛を持ったかつてのグリーノが戻って来た。王はグリーノに見えぬよう、かすかに笑った。

「果報者だな、お前は」

「どこがです? 愛しい娘がようやく我が腕の中に来たかと思えば、どこぞの馬鹿に掻っ攫われるんですよ?」

「それでもお前の手中には二つの珠がある」

 娘と息子。

 王が持たぬそれを、友人が持っていてくれるならそれでいい。

「…………不肖の息子ですけどね」

「大概失礼だな、お前」

 黙した二人は窓の外を見遣った。




 遙か西。

 ライアドルの西の果て。日の沈む色に染まる村がある。小川を渡り、小高い丘を上り下り。小さな森をくぐり抜け、開けた先に広がる村。

 軽快に蹄鉄の音を響かせて、白馬が一頭。黒髪の乙女と白銀の青年を乗せ、丘の頂上で止まった。

 白薔薇の群れる村。羊の鳴き声。釘を打つ音、子供たちの笑い声。村全体が見渡せる、この丘すら遠き日の思い出。

「懐かしい……と思うのは、なぜだろうね」

 あれからまだ一年と経っていないのに。

 温かな春の風。新しい季節が巡る。

「本当に、会わずに行くのか?」

 真雪の如きアスクがノルンに尋ねる。ふるりと睫毛を震わせ、瞼を閉じる。

 鮮明に思い出せる村での日々。甦るは彼女を呼ぶ声。

「……うん」

 深緑の瞳は眼下の村を見つめる。瞳に込められたのは、慈愛か、それとも悲哀か。定かではないもののそれは、温かな眼差しだった。

 ノルンの声は凛としたものだった。

「私の還る場所はここじゃない」

 強がりなどではない。口をついて出る言葉はノルンの偽らざる本心。

「私の安寧の地は、父様の隣。そして君の腕の中だ」

 艶やかになびく黒髪の中、三日月型の横顔が緩やかに瞬きをした。

「結び直した〈久遠の誓い〉に従って、私はライアドルに永遠の平和が訪れるよう、祈り続けるよ」

 振り返ったノルンの顔は、かつての大人びた少女の顔ではなかった。凛とした、淑女の顔で後ろの愛しい人を見、笑った。

「自由なんていらないよ。君の不自由と引き替えにした自由なんてね」

 真雪の青年は屈託なく笑うノルンに、ただただ胸が痛んだ。不自由を強いてきた王族である――今はその席を捨てたとはいえ、その一端を担ってきた自分に、彼女はそう言って笑うのだ。アスクは大人になっていくノルンを抱き寄せ、そっと口づけをした。

「いつか私たちの子が、孫が。誰の自由も犠牲にしない自由を手に入れるよ。きっと」

 ノルンはそう答え、また笑う。

「……そうだな」

 アスクも笑った。寸分の憂いもなく、少年のような顔で。

 スレイプニールが高らかに嘶いた。

 白と黒の影は颯爽と風を纏い、東へと走り去った。





 村と丘の間。小さな森の中。

 白衣を着た男と、鳥打ち帽を斜めに被った女性が、老婆の手を引いてくる。今朝開いたばかりの白薔薇を手に、ゆっくり、ゆっくりと森の日だまりへと歩を進めた。

 薄暗い森で、たった一つ開けた日だまり。そこに小さな墓標が一つ。

「……ラーン婆さん!」

 目のいいオリガがいち早くそれに気づいた。ラーンを支える手を夫に預け、彼女は墓標へと駆け寄った。

「見てごらんよ、これ!」

 御影石の冷たく、艶やかな墓標に一輪。紅薔薇が海のように深い青色のリボンが結ばれて供えられていた。

「オリガ、墓標に文字が増えているよ」

 追いついたヤン医師が老婆の手を再び妻に預け、真新しい刻印を指でなぞった。ここに眠る二人の名の下、刻まれたのは短い散文詩。



 暮日の乙女、朝日の君と共に眠る

 夜の裳裾に隠した愛を

 君は暁に、乙女は黄昏に知る

 流れし時を嘆くなかれ

 朝日も暮日も同じ陽の光なのだから



 哀悼の詩。その詩に込められた意味を、誰もが心の底で理解した。

「粋なことをしてくれるもんだねぇ……」

 穏やかな春の陽光。朝露を湛えた紅薔薇の香り。見上げた空はただただ青い。遠くで少女の笑い声が聞こえた気がした。


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