第十一章
11
もう、視たくない。
閉じた現実、逃げ込んだ先は幻想。
しかしそこも容赦などしてはくれなかった。
ノルンの意識は深く、深くに沈み込んでいた。まるで沼の底のような場所。上も下も、西も東もない。これがノルンの世界。
薄い硝子の膜に覆われた意識は、否応なしに流れる時の狭間に落ちた。
目を覆っても流れ込んでくる景色。生まれたばかりの子羊。土の中で育ちゆく新芽。笑う子供が絶望する瞬間。千年を生きた大樹が倒れる刹那――。この世のあらゆる記憶が、過去が、今が、未来が、濁流のようにノルンを襲い、流れていく。
ひとひらの記憶がノルンの閉じこもった硝子玉に落ちてきた。
「王妃様の命だ」
嫌みな髭を生やした男がそう言った。ヴェストリだ。沈痛な面持ち――とは、まさにこのことだ。一通の手紙を握りしめ机を叩いた。
「村ごと消せと……! さもなければ私の娘の命はないと……!」
砂のように落ちてくる記憶の欠片がノルンの掌に零れた。ヴェストリと同じ色の髪をした、侍女姿の娘。
――ああ、ベルタ付きの子だ。
愛らしい娘に、見覚えがあった。そうか、ヴェストリの娘だったのか。ぼんやりとノルンは記憶の断片を視た。
「王妃に逆らえば娘の命がない。しかし……〈荊の魔女〉様を殺せと……しかも村人たちまで……」
ヴェストリが嘆息したところでその断片は消えた。
――だからヴェストリは、私を殺すことを選んだんだ……。
ノルンは親を知らない。しかし、親が子を大切に思うことは知識としてしか知らない。
――私には、誰もいない。
ヴェストリのように、誰かを殺してでも守りたいと、思ってくれる人などいない。母も死んだ。祖母も死んだ。父は誰だか知らない。生きているのか、死んでいるのかすら知らない。ノルンは膝を抱え、硝子玉の中で蹲る。
――もう、どうでもいい。
優しかったフレンもいない。たくさん話をしたゼンもいない。
――もう、いい。
母同然に慕っていたベルタの優しさすら、嘘だった。
ノルンの中で疑問が渦巻くが、それすら諦念の凪に飲まれて鎮まってしまう。なぜ、ベルタがノルンを殺そうとしたのか。ノルンはそれをまだ知らない。
――でも、もういい。
知りたくない。分かりたくない。考えたくもない。細い体を小さく丸め、ノルンはぎゅっと目を閉じた。
「それでいいのか」
雪色の光がノルンの網膜に届いた。
心地よい声。凛と冷たいのに、春の日だまりのように温かく広がる。
「ノルン、本当にもう、どうでもいいのか?」
逆らえない流れの中、アスクは平然とノルンの前に立っていた。硝子玉の向こう側。手と手が触れあうその距離に、アスクは立っていた。
「だって……もう、村がない。私、滅茶苦茶にしちゃった! それに、愛してくれた人もいない……! もう、なんにもないんだもん!」
「この不届き者!」
「ったぁい!」
硝子玉を叩き割ったアスクの手刀が思いっきりノルンの脳天に直撃した。
「何するんだこの馬鹿力!」
「馬鹿はどっちだ大馬鹿者めが!」
白磁の両手がノルンの頬を挟んだ。
「愛してくれたものがいないだと? 世迷い言は寝て言え」
それを言うなら寝言は寝て言え、だ。反論しようにもアスクの両手がノルンの顔を潰しているからまともな言葉が出てこない。
「お前はこれを見てもそんなことが言えるのか?」
暗い空間に窓が開く。そこに映ったのは土砂降りの雨の中、診療所を守るリトとオリガの姿だった。逃げ落ちた兵がこの場所を見つけ、未だ撤回されていないヴェストリ――否、ベルタの命に従い、二人に武器を向けていた。いつの間にか消火から戻って来た男たちも加わり、必死の攻防を繰り広げている。
「何が何でも守れ!」
「ノルンが俺たちに何をしてくれたか思い出せ!」
村人たちの記憶がノルンの前に、星のように瞬いた。
薬草を手ずから渡した日のこと。フレンに教わって初めて編んだ籠を見せた時。壊滅的な味の料理を青い顔をしながら「うまいぜ」と言ってくれた人――。
「彼らの中のお前は、本当によく笑っている」
アスクの言うとおりだ。屈託のない顔で笑い合うノルンと村の人たち。日々の暮らしに溶け込み、笑い、泣き、そしてまた笑った。
「おばあちゃん……」
家の中を映す窓が開いた。
女子供、身を寄せ合い、震え、それでもじっと耐えている。その中心にいるのは、ラーンだ。
「ノルン……大丈夫だよね?」
幼い少女がラーンに尋ねた。
「当たり前じゃよ。ノルンは偉大なる〈荊の魔女〉様なんじゃから。そう簡単に死にゃあせん。今も、儂らを守ってくれとるよ」
ノルンが施した守式〈円舞の曲輪〉をラーンは見た。向こうが透けて見えるのに、重厚な存在感を放つそれ。
「ほらごらん。この壁がある限り、ノルンも、儂らも大丈夫じゃよ」
嗄れた声が子供たちに、母親たちに安心感をもたらした。
窓からこぼれ落ちる星屑の欠片が、またもノルンに過去を見せる。
「あの子……おばあちゃんの膝に縋ってる子……私が助けた子だよ。蛇に噛まれて……」
この騒動の中でもすやすやと眠っている赤ん坊を、ノルンは抱いたことがある。白い指を握り、きゃきゃ、と笑ったんだ。
次から次へと降ってくる記憶の欠片。その中の全てにノルンがいて、笑っている。
「これでもまだ、お前は愛してくれた人がいないと嘆くのか?」
手の上に、溢れそうなほどの星の欠片が積もる。その一つ一つが熱を持ち、じわりとノルンに沁みていく。アスクの問いに、ノルンはふるりと首を振った。
「私……いつの間にこんなたくさん持ってたんだろう……」
温かな涙が頬を伝った。
何もなかったはずの掌。掴めたものは孤独と寂寞だけだった。
今、ノルンの手に確かにあるものは、そのどちらでもない。
「愚か者め。華麗に俺を忘れてくれるな」
アスクの長い指が、一つ、真っ白な星の欠片をノルンの掌に乗せた。
映し出される幻灯は、懐かしい思い出。咲き乱れる薔薇。夜の帷の下の遊戯。カンテラのわずかな明かり。しかと握られた手と手。ノルンとアスクの幼き頃の記憶だ。
「俺は変わらない。あの頃と少しも」
「……そうだね。相変わらず馬鹿で、向こう見ずで、方向音痴で、食べ方が汚い」
「悪口しか言ってないぞ……」
「でもそれがアスクだ」
記憶の窓で小さなアスクが言った。
「おれがおっきくなったら、ぜったいにノルンをおよめさんにするよ」
「ばかだなぁ、アスク。王様になったら魔女なんてお嫁にできないよ」
「ばかはどっちだ! 王様になるんだからなんでもできるんだよ」
「そういうのをぼーくんって言うんだ」
子供の戯れ。額と額を合わせて結んだ小さな約束。
「俺はあの約束を守るよ」
「守らなくても良いよ、馬鹿」
――愛してくれるだけでいい。
それさえ知れば、ノルンは十分だった。二人は額と額を合わせ、手を握った。
「ありがとう、アスク。こんなとこまで来てくれて」
「何てことはない。俺を誰だと思っている」
「馬鹿王子」
「馬鹿って言うな……」
最後の最後で締まらない男・アスクはがくりと項垂れた。
「……でもどうやって帰ろう」
「は?」
ふと気がついてしまった。
「いや、だって、こんなこと初めてだし、どうやって現実世界に戻っていいのか皆目見当もつかないよ」
「……待て。待て待て待て。何、これってお前の心の葛藤が解決すれば自動的に戻れるものじゃないのか?」
「え……そうなのかな……。じゃあもう戻ってもいいはずなんだけど……一向にそういう気配、しないや」
二人の会話が途切れ、どうどうと流れる記憶の河の音しかしなくなった。星降る愛の記憶さえ止んでしまった。
「…………さすがにまずいぞこれは!」
「うわわわわどうしよう……え? まだ私の心が迷っているってこと?うわぁ、確かに村滅茶苦茶だし、結構気持ち悪い捩れ起こしちゃったからなぁ……うわぁぁぁだから戻りたくないのかな?」
「反省しろ。悔い改めろ。今ならまだ間に合うぞ」
「うわ、人任せ過ぎだろう、その発言。……てか君、どうやってここまで来たの? 私、理性飛んじゃってて誰彼構わず弾き飛ばしていたと思うけど……」
「飛んでた割によく覚えているじゃないか……」
「そういう嫌味を言うな! 緊急事態なんだからな! 来た方法が分かれば帰る方法も分かるだろう!? ほら、どうやって来たの?」
「まったく世話の焼ける連中だな」
侃々諤々を背後から低音が両断した。
「ヴァン! 君もここに来ていたの!?」
「ああ……まぁな」
茫洋と、ただ漂うだけの空間に一人、褐色の肌のヴァンは悠然と足を組んでそこにいた。巨狼の姿ではなく、人の姿をしたヴァンにノルンは泳ぐように近づいていった。
「もしかして……君、アスクを連れてきてくれたの?」
「……ま、そうなるな」
いまいち歯切れの悪い返答にノルンはかすかに眉をひそめた。
「君らしくないな……どうかしたの?」
「ノルン、これから俺が言うことをよく聞け」
細い肩を大きな掌が掴む。アスクとは違った、粗野な力。それでも流れ込んでくる感情は凪のように静かだった。
「ここは時と因果の狭間。今まで〈久遠の誓い〉とお前自身の力の制御でどうにか奔流を抑えていたのに、お前がぶち切れてウルド・ヴェルザンディ・スクルドの三つの扉の鍵を粉々にしちまったからできた、いわば歪みだ。ここから出るにはもう一度鍵を作り直すことになる」
穿つようにノルンを見据えるヴァンの瞳はこの世の何よりも黒く、そして真摯だった。ばらつく思考をかき集め、ノルンはヴァンの言葉をようやく理解し始めた。
「……どうやって作るの? 鍵なんて……私、見たこともない」
理解できたのに、解決策はノルンの手の中にはなかった。
「今まで制御の時に無意識に使っていたんだが、所詮それは借り物。お前自身が作ったものではなく、はじまりの魔女が作ったものだ。正体が分からなくても何ら不思議はない」
ノルンの顔にかかった前髪をさらりとかき分けた。愛しげに。その顔をよく見るかのように。
「時は満ちた。〈久遠の誓い〉の守人は、番人は、もう、必要ない」
ノルンの額に手を触れる。
――瞬間、理解した。
今度こそ、理解できた。
同時にノルンの大きな瞳から、涙が零れた。涙は星のように空間に漂った。
「お前の因果を狂わす力を抑える力が、アスクにはある。……まぁ、本人はまだ気づいていないようだがな。もう〈久遠の誓い〉とあの〈因果の塔〉で縛ることはない。アスクがいる限り、お前は自由になれる」
「でもそれは……!」
「そうだ。その条件を満たすためには、俺が、鍵になることが不可欠だ」
「そんなの……」
そんなの嫌だ。
ノルンがヴァンと過ごした期間は、ごくわずか。一年にも満たない月日。しかしそれはノルンにとってかけがえのない日々だった。生を受けて、初めて味わった時間に、ヴァンはいてくれた。
「泣いてくれるな」
そっと涙を掬う指は、誰よりも逞しかった。
「これははじまりの魔女――お前の祖先から受け継いだ大切な約束だ」
囁く声は誰よりも甘く響いた。
「因果の抑止力が現れ、魔女がそのものを愛する日が来たら、新たな鍵を作る。それが俺と魔女が交わした最期の契約だ」
遠い昔、交わした約束。ノルンと同じ顔と名前をした魔女と、あの塔の中で結んだ契約。ヴァンは目を閉じ、ノルンを突き放す。
「はじまりの魔女を凌ぐ力を持つ娘よ。道は俺が開いてやる。扉は俺が閉めてやる。さあ、帰れ。お前の愛しい人が、灯となって道を示してくれる」
褐色の男が犬の、巨狼の姿と重なる。
飛ばされた体は、アスクの腕の中に落ちた。ヴァンとは違う、優しい力に満ちた腕。促された先には道がある。暗く、遠くにつながる道。不安はない。後悔もない。ただ、言いようのない寂しさがこみ上げてくるだけ。
「――っ、また会えるよね!」
口をついて出た一言に、黒い影は一瞬瞠目し、そして笑った。
「お前次第だ」
ヴァンは高らかに答えた。それだけで十分だった。
ノルンはアスクの手を取った。白い、長い指。これが自分と歩む手だ。
「帰ろう」
「……うん」
取った手は昔と変わらない。ノルンを内側から温めてくれるアスクの手を、ノルンはしっかりと握った。
「もう放してくれるなよ」
「…………ああ」
暗かった道はいつの間にか雪明かりのように白く輝いていた。後ろで聞き慣れた遠吠えが聞こえた気がした。
「ノルン!気がついたか!」
視界いっぱいに村人たちの顔があった。驚いて身を起こすと体に激痛が走り、思わず顔を顰めてしまった。
「ここは……」
雨が嘘のように止み、雲の隙間から光が差し込んでいた。兵の姿はない。あるのはいつも見ていた村人の顔だけ。
「あの人が説得してくれたんだ」
子供が指さす方を見ると、一人、集団から離れて佇むアスクがいた。
「……ヴェストリにも事情があったからな」
白銀の髪をなびかせ、アスクはノルンとは反対の方へと歩いた。
「許してくれとは言えない。ただ……憎まないでやってほしい」
真雪の王子の手は小さな老婆の肩に触れた。娘とその思い人の亡骸の前でしゃがみ込んだラーンの肩に。
「フレン……ゼン…………儂を置いて逝ってしまった……」
村長の嘆きに村人たちが目を伏せた。あるいは哀悼の意を表し、あるいは共に鼻をすすった。オリガは耐えきれず、ヤンに縋ってわんわん泣いた。
「おばあちゃん……ごめん……」
ノルンは他に言葉が出なかった。全ては自分が招いた不幸。拗くれた因果。死ぬはずだったノルンとアスクの代わりに、フレンとゼンが死んだ。それは紛れもない、ノルンしか知らない事実だ。
「謝らないでおくれよ……ノルンや……お前のせいじゃないんだから…………」
「でも……」
首を振り、ラーンは尚も言い募るノルンを抱きしめた。
「謝る代わりに一緒に泣いておくれ……」
深緑の目から静かに涙が流れた。しわくちゃの手を握り、小さくなった体を抱いた。震えるラーンは、母親だ。子供を亡くした母の嘆きを、その深さを、ノルンは初めて知った。
胸に刺さる悲しみ。打ち身のように疼く痛み。これが、死だ。嵐のように襲い来るのではなく、ただ静かに。常に隣にあったかのように。理不尽に。自然を粧って来るのが、死。
刹那、視たことのない記憶が流れ込んだ。
「私が死んでも、この子を守って」
見知らぬ女性が誰かに訴える。死相の出た顔。誰?誰に言ってるの?
「恨んじゃ駄目よ。私は全部知ってて、受け入れる……」
寝台の上、隣で赤子が寝息を立てている。
「私の罪は、戦争の手引きをしたこと……誤解を招いたこと。私の罪を、裁くというなら……それでいい。つまらない妄想を抱かせた私が悪いのよ」
記憶が弾けた。
誰かの記憶。美しい、黒髪の人。
――ああ、そうだ。
ノルンは知っている。
――これは、私の記憶だ。
塔の中、雷雨の日。落ち窪んだ瞳で微笑む人――かすかに見えたあの色は――。
「おばあちゃん……私、行かなきゃ」
知って、初めて解った。
「私、やらなきゃいけないことがある」
風が吹く。初夏の風だ。燻りくさい村を一掃するかのように風が吹いた。




