第十章
10
その日はとても嫌な気配がしていた。後に鳥撃ちオリガはそう語る。野山に紛れて鳥や鹿を撃つ彼女には、野性的な勘が備わっていたのかもしれない。
とにかくその日、村は妙に落ち着きがなかった。市場はいつものように活気づいていたが、軽口を叩いては値段交渉するけちくさい西の要塞の兵たちが一人もいなかった。彼らの奥さんや子供たちの明るい声もなく、いつもの賑わいとは違う……言葉にできない違和感があった。糸を納めに行ったフレンは、違和感に気づいたものの、きっと訓練でもあるんだわ、と思い、いつものように買い物を続けた。今日はノルンの好きなオレンジが安い。艶やかに光る橙の球を手に取り、重さを確かめて笑う。
「おじさん! これ、三つ頂戴」
クレープでも作ってあげよう。最近心配かけちゃったから。
時を同じくして西の果ての村。村人たちは未だかつて経験したことのない緊張感の直中にいた。
「ここに〈荊の魔女〉様がいらっしゃるということはもう分かっているのです。早く彼女をお出しなさい。さもなければどうなるか……分からぬほど愚かな民ではないでしょう?」
西の要塞の守護長官・ヴェストリは高慢な物言いで村人に詰め寄った。彼の後ろには数百もの兵が武装して控えていた。村の広場に集められた村人たちは不穏な空気を感じた。子供たちは母親に縋り、男たちは無意識に拳を握った。
「長官様はなにやら勘違いをなさっておるようじゃな。このような辺鄙な村にそんな高貴な御方、いらっしゃるわけがない」
「何?」
ラーンは村長として、毅然と答えた。
「長官様も御存知のはずじゃ。果ての村という場所は、どこからともなく流れてきた人間が行き着く最後の場所。戦争で家族を亡くしたもの、夢破れたもの、理由は様々あれど、皆が身を寄せ合い、家族として暮らす村でございます。人の出入りは余所と比べれば激しいものですが、高貴な方が堕ちてくることはまず、ありません」
腰の曲がった老婆に諭されつつも、ヴェストリは引くことを知らなかった。
「貴方たちのような下賤のものが〈荊の魔女〉様の御尊顔を知るわけがない。とにかく、ここ一年の間にこの村に来た奴を出し給え。私が直々に確かめましょう」
その言葉で、村人たちの脳裏に一人の少女が浮かんだ。
(まさか……ノルンが……?)
予感はあった。狼のような犬と共にやって来た少女。羊の世話をよく見、子供たちと戯れ、時折薬草摘みなどもする。人懐こく、どこか歳より大人びた不思議な少女が、〈荊の魔女〉だとは信じられなかった。が、この一年、彼女以外にこの村に住み着いた人間はいない。
だが、これはおかしい。
村の大人たちはすぐに感づいた。
長年この村を治めてきたラーンが、ヴェストリの問いに即答しないのだ。一緒に暮らしているラーンが、言わない理由などないのに。
それになんと言ってもこの重武装。王族に匹敵する身分である〈荊の魔女〉を迎えに来たにしては、些か物騒すぎる。
(それに一年の間……と言ったね。魔女様がそれだけの期間身を隠していたとなると……どうにもくさいじゃないか)
濁った目を片方だけ開け、ラーンは思案した。そして辿り着いた結論は
「ここ数年、この村に新しい人間は入っていませんよ」
徹底的にしらばっくれることだった。ノルンが村長宅と羊の世話の往復だけしている子でよかった。一度も市に行ったことのないノルンの存在を、要塞の兵たちが知るよしもない。真実を見極めるためにはこれが最適で最善だ。ラーンは年老いた体にぐっと力を込め、相手の出方をうかがった。
ヴェストリは顔を歪め、側近となにやら密議を始めた。何を言っているのか、村人側に聞こえるものは誰もいない。
しばらくしてヴェストリの顔がにやりと嫌な笑いを浮かべた。
「嘘はいけませんなぁ……嘘は」
粘つく笑みを湛え、自慢のカイゼル髭を指でつまむ。底意地の悪さが滲み出る仕草だ。
「ここにノルン……という娘がいることはすでに掴んでいるんだ! 隠し立てするな。とっとと出せ!」
「村長!」
ラーンの小さな体が張り倒された。後ろに控えていた水車小屋のマリウスが慌てて支えなければどうなっていたか。マリウスはヴェストリをぎろりと睨みつけた。
「……反抗的ですねぇ、西の民は。これはもう……反逆罪でしょう? 違いますか?」
即座に兵が臨戦態勢になった。抜き身の剣が鈍く光り、遠くでぎりりと矢を番える音がした。
誰も口を開けなかった。刃向かえば剣が貫く。口を出せば弓が飛ぶ。押し黙り、下を向く。
「ノルンは……」
誰かがその名を口にした。
「待て!」
村人と要塞の兵たちの目が一斉に声の主に向けられる。
「仮に〈荊の魔女〉様がこちらにおわすのなら、武力を持って出迎えるは無礼になるぞ。即刻村から兵を退かせろ」
義足の左足を引きずりながら前に出た青年――ゼンはヴェストリにそう告げた。
「誰です、貴方は。口の利き方がなっていませんね……!」
「挨拶が遅れた非礼は詫びよう」
突然ゼンは乱暴にシャツの襟ぐりを引っ張り、肩をはだけさせた。
「お前……それをどこで!?」
兵たちに動揺が走る。薄い色素の肌に刻まれた刺青。それは月と鷹を模した紋章。たった一色、翡翠色で彫られた刺青だった。
「俺の名は、ゼン。三の公爵家……いいや、宰相直属の〈耳目〉だ。この件はすでに俺が宰相・グリーノ様より預かった一件。……要塞側には、手を引いてもらいたい」
決して明かさなかったゼンの秘密。今まで誰にも言わず、誰にも気づかれず任務を遂行してきた。そしてこれからも、密偵として生き続ける覚悟をしていた。
だが今は非常事態だ。
(西の要塞の動きに気をつけるよう言付かっていたのに……!)
ノルンの居場所を鳥で伝えたのはゼンだ。宰相の命を受け、それとなく監視することになった矢先にこれだ。ゼンは完全に後手に回ってしまった。歯噛みしつつも、ゼンはここで打てるだけの手を打たなければならない。三の公爵家の、宰相の権力を使ってでもだ。
「さあ、退け。俺の言葉は今、宰相の言葉と同じだぞ」
紅茶色の瞳が居並ぶ兵を威圧する。国の政治的権力者である宰相の威光は効いているはずだ。ざわつく兵の様子を見守りながらごくり、と唾を飲み、兵の踵が返るのを待った。
「それは無理な相談ですね」
だがヴェストリは笑った。
「この西の要塞は、誰のものかお忘れか?」
促され、我に返った旗持の兵が高らかに旗を掲げた。
日輪と二頭の獅子。それは一の公爵家の家紋であった。
「西の要塞最高責任者は一の公爵・ベルトラン様。王妃にして賢女であらせられるベルタ様の兄君だ。それが何を意味するか、お前も〈耳目〉ならば分かるだろう?」
「……くそっ」
ベルタの兄ということは、王の義兄。しかも一の公爵家は三の公爵家よりも地位が上だ。迂闊だった。ゼンは最後の頼みの綱が脆くちぎれる音を聞いた。
「……だからといって武力が罷り通るわけないだろう!?」
だがゼンも退くわけにはいかない。
(何のために〈耳目〉になったと……!)
戦乱の地から逃げ惑い、這々の体で辿り着いたこの村。母子二人を守り、育ててくれたこの村を。愛してくれた人たちを。友を。全てを守るためにあらゆるものを犠牲にした。中央での職も、温かな家庭も、愛しい人との生涯も全て捨ててでも守ると決めた。
(なら諦めるな! 知恵を絞れよ、俺……!)
「この村の人たちはその人を〈荊の魔女〉様だと認識していない。知らぬ存ぜぬをしているわけじゃない。彼の御方は俺が責任を持ってここに連れてくる。だから頼む! 今すぐ剣を収めてくれ!」
地に手をついて頭を下げる。
「頼む……!」
高圧的なヴェストリの視線が後頭部に刺さるほど低く、額を土にすりつける。ゼンの後ろには百にも満たない果ての村人たちがいる。この命を、全て守ると誓ってきた。そのためなら頭ぐらいいくらでも下げられる。
ふぅ、
小さくヴェストリが溜息をついた。
「仕方ないですねぇ」
「じゃあ……!」
村人とゼンの目に戻った希望は
「放て」
無情にも一瞬で消え去った。
まさに疾風迅雷。ヴァンはノルンを乗せ、限界を超えて走った。
「振り落とされるな!速度を上げる!」
答えの代わりに首に回された腕に力が入った。飛ぶように走る巨狼は黒き風となって西へと向かう。
(きな臭い……)
何かが燃える匂いがする。ノルンの手が、震えている。
地を蹴り、突風となったヴァンが、止まった。
「……………………なんだこれは」
おそるおそる目を開けたノルンは、絶句した。
見慣れたはずの村が、
「燃えてる……」
渦を巻く炎は家々を焼いていく。火の海。まさに火の海だ。押し寄せる炎の波が、水車小屋を、パン屋を、薔薇の木を、羊小屋を飲み込んでいく。舞い散る火の粉が蛍火のように飛び交っては熱を持つ。肺に流れ込む熱風にノルンは激しく噎せた。
「ノルン!」
噎せながらも駆けてくるのは鳥撃ちオリガだった。
「こっちだ!」
有無を言わせぬ力強さでノルンの細腕を引っ張り、村の奥へと走った。誰も通らない獣道。オリガはノルンの手を引いて走った。
遠ざかる焼け野原。周りに点在する家が崩れる音に紛れて兵士の怒号が聞こえた。
ああ、あそこは腰痛の婦人がいた。あっちの家はまだ乳飲み子がいた。ノルンの頭にはいつもと変わらぬ風景がまだ残っている。
「どうして……!」
夢中で駆けた先は果ての村の外れ。村と市を遮る小さな森の中。誰の家も近くにない、ヤン医師の家だった。ここはまだ火の手が回っていないし、石垣に囲まれている。
「動ける男たちは消火に当たってるけど、女子供はうちにいる。村長もいるよ」
オリガに促され、固い扉を開けた。
診療所を兼ねたヤンとオリガの家には、村人たちが所狭しと入っていた。血の匂いもする。ノルンの目の前が真っ暗になりかけたが、いつの間にか犬の大きさに戻ったヴァンが足に爪を立てて意識を保たせてくれた。
「ノルン、無事だったか!」
いち早くノルンに気づいたジョゼの父親が声を上げた。頭に包帯を巻いている。
「ノルン、怪我ないかい?」
怪我をしているのはそっちなのに。
「ああよかった。もう連れて行かれちまったかと思った」
口々にノルンを労る彼らの優しさが、痛い。
ノルンは分かっている。どうして村が燃えているのか。あの兵士たちがなんなのか。全部、全部分かっている。
「みんな、私のせいで……!」
「何も言わんでいい」
嗄れたラーンの声がノルンに言葉を飲み込ませた。
「ここにいるみんなが、ノルンが誰なのかを知ったよ。けどね、誰もノルンが悪いなんて思っちゃいない。ノルンにも事情があったんだろう? え? だったら謝らんでもいい。自分を責めんでもいい」
「おばあちゃん……」
「最初に言っただろう? 果ての村は流れ者が行き着く最後の地。来るもの拒まず、去る者追わず。しかし一度入ったからには、皆家族できょうだいじゃ。家族の誰かが困っているなら、助けてやるのが家族というもんじゃろ? 違うかい?」
深緑の目に涙が溢れた。涙腺はきっとアスクにあったあの時に壊れてしまった。涙を耐えることは得意だったはずなのに。ノルンは大粒の涙を流してラーンに縋った。声を抑え、唸るように泣いた。ノルンの頭に置かれた手が、心地よく撫でてくれる。
温かなラーンの手が震えているのに気づいた。ふと我に返ると、いつも目につく色がない。
「おばあちゃん……フレンは? ……ゼンも、どこにいるの?」
どこにいても分かるあの赤毛とぱさぱさの金髪が、ここにいない。
ラーンと村人たちは目線をそらした。その仕草が意味することを、ノルンは瞬時に理解した。
「泣いてる場合じゃないね」
手の甲で乱暴に涙を拭い、すんと鼻水を啜る。
「みんな、絶対にここから出ないで。オリガもヤン先生も、絶対に」
今し方入って来た扉に再び手をかける。ノブは外の熱気で熱くなっていたが気にならない。
「どこ行くんだ、ノルン! 外は危な……」
「大丈夫」
静かな声ではっきり言い切った。
振り返れば見える。優しくしてくれたおばさん、おじさん。一緒に遊んでくれた子供たち。
「だから、待ってて」
深緑の目が金色に変わる。驚愕に息を飲む気配を背後に感じながら、犬を従えたノルンは外に出た。
「王子! こっちです!」
ヴァンの後を追っていたアスクとリトがようやく追いついた。
「アスク、君はここにいて」
「……どうする気だ」
「ゼンとフレンを探す」
「……俺もついて行く」
「王子!」
「止めるな、リト。今、西の要塞の兵が動いている。俺がいればお前の盾ぐらいにはなれるだろう」
ノルンは金色の目でアスクを睨め付けた。
「……ここにいてよ」
「嫌だ」
「なんで! 私……私は君を守るためにここまで来たのにどうして! わざわざ危ないところに行くんだよ! ここにいてよ!」
髪を振り乱し、叫ぶノルンの言葉に、アスクは戸惑った。
「……何のことだ? 俺を守る? そのために塔を出た?」
「…………婆様が亡くなったあの日……私、視たんだ。断片的にだけど……君が……城で殺されるところを」
あの日開いた〈スクルドの目〉は、ノルンに未来を垣間見させた。青薔薇城、玉座の間。青の絨毯を黒く濡らすアスクの赤い血。その亡骸を抱いて泣く自分――。
「〈久遠の誓い〉が破られたことも、そのとき知った。あの時私が塔を出たら……婆様の言いつけを破って塔を出れば、未来が変わるって…………それで……」
アスクが身を挺してまでノルンを守って死ぬ。その未来を変えたかった。〈久遠の誓い〉が破られたことで訪れる未来。ノルンを殺そうとした誰かの兇刃に倒れるアスクを、見たくなかった。
「だからここにいてよ……その未来が、今……形を変えて起こるかもしれないんだ……!」
そんなことになったら、全てが無駄になってしまう。ノルンの逃走劇も、焼けた村も、全て……。
「大丈夫だ」
真雪の王子はあっけらかんと言った。
「俺はそんなに簡単には死なない。勝手に決めてくれるな」
アスクはノルンの手を取り、握りしめた。
「一人で背負い込むな。俺を信じろ。あの日、力の制御ができないお前の手を取っても枯れなかった俺を、信じろ」
不思議な手だ。ノルンはいつも思う。臆せずノルンに触れるこの手。雪のように白いアスクからは想像もできないほど熱い手。握られればいつも温かな熱が流れ込む。聞こえるはずのない彼の鼓動すら聞こえる。その手に触れられると、自然と心が落ち着いてくる。
木々の燃える音にはっとし、ノルンは手をふりほどいた。
「……絶対、死なないで」
それだけ言って、ノルンはヤン医師の家に相対した。
「……ああ」
アスクの返事と共に、ノルンは胸の前で手を合わせた。
「鋼の靴、水銀の歌。猛き身に捧ぐ乙女の涙。舞え、舞い散れ、鏤めろ。藍に染めよ朱の夜を。守式三十六番〈円舞の曲輪〉」
ぱん、と手を打つと、石垣の家をぐるりと囲む透明な壁が現れた。つきん、と胸が痛んだが、無視した。
「この家に防壁を張った。余程のことがなければ破れないけど……大挙して押し寄せられたら分からない」
「〈荊の柵〉を張ったままでは三十番台までが限界か……」
滲み出る悔しさを抑えながら、ノルンとヴァンが唸った。
「ならば私がここに留まりましょう」
沈黙を守っていたリトが申し出た。
「これでも私は近衛兵です。多対一には慣れていますよ」
格好いいことを言っているが、膝の震えを隠せていない。
とんでもない大見得を切ってしまったリトは、遠くの火影に照らされながらも青ざめているのが分かった。
「ならあたしもここにいさせとくれよ」
「オリガ!?」
長い栗毛を馬の尾のように束ねながら、オリガは背負えるだけの武器を持って家から出てきた。
「この家はあたしと旦那様の家だ。家を守るのは……妻の役目だ」
「ですが」
「お兄さん。あたしはね、ここらじゃ有名な鳥撃ちなんだ。アンタも弓はやるみたいだけど、猟銃ならあたしの方が上だ」
十丁程の銃に弾を込め、オリガは呻いた。
「だからノルン。フレンの大馬鹿を連れ戻して。あいつ、ゼンがいないって大騒ぎして探しに行きやがったんだ。……頼むよ」
ハンチングに髪を詰めたオリガの目に、涙が光っていた。溢れず、留まるその涙の意味を、ノルンは汲んだ。
「リト、オリガは頼りになるよ。だから……」
「なんとしてもこことご婦人を死守いたします!」
「……頼んだぞ」
ここでの気遣いは武人の恥。信頼を損なう侮辱だ。アスクは一言だけ残して馬に、ノルンは巨狼に跨がり、炎に濡れる村へと走った。
どこを走っても村は荒れ果てていた。熾火が方々から吹き出し、柱が崩れる。轟々と騒がしい兵の声が耳障りだ。
「ゼン! ゼン! どこにいるの!?」
フレンは声の限り叫んだ。口を開けるたびに熱気が喉を焼くが、気にしてなどいられない。噎せ返りながらもフレンはゼンを探した。
足が悪いゼンが、逃げ遅れていたら……。そう思うと寒気が止まらなかった。
自分の赤毛によく似た炎が、村を焼く。フレンは火の海を彷徨い、ただただゼンの名を呼んだ。
「一体どういうつもりなんだ……! 村を……村をこんな……」
ゼンは消火活動を続ける男たちを避難させ、西方守護長官・ヴェストリと対峙していた。すでに村の口元は燃え尽きてしまい、ゼンがよく子供たちに本を読んでいた広場ももう、手遅れだった。
「この村の人たちが何をしたっていうんだ! 何も知らず……哀れな少女を住まわせていただけなのに!」
「仕方がないでしょう? 私もこれが、仕事なので」
燃えさかる炎の中、悠々と笑みすら湛えるヴェストリが溜息をついた。
「さる高貴な御方からの勅命なんですよ。魔女を殺せ……とね」
「な……」
「おや、私どもが彼女を迎えに来たと勘違いしたのは貴方ではないか? 私はそんなこと一言も言っていないのに……」
ゼンは耳を疑った。
護国の要である〈荊の魔女〉を、殺す?
「立派な反逆罪は貴様らの方だろうが……!」
「勝ってしまえば反逆も正義になる」
「馬鹿な……! これがライアドルの人間のすることか!」
「……貴方、セルリリーク族ですね? その髪、その目……ああ忌々しい」
上から下まで、改めてゼンを見たヴェストリが呻いた。
干し草色の金髪、紅茶色の瞳は、かつて戦火の中で見たあの色と同じだと、皮肉にもこの燃えさかる村の中ではっきりとヴェストリに思い出させたのだった。
ヴェストリは眇めた目を憎悪に歪ませた。
「最後の侵略戦争……! 狩猟と農耕で鍛え上げられた自然の戦闘民族! あの戦争で仲間も何人死んだことか……」
不意に空気が冷えた気がした。
「宰相殿も何をお考えなのか……こんな蛮族を〈耳目〉にするなど……」
「危ないっ!」
ヴェストリの言葉を最後まで聞くことなくゼンは尻餅をついた。
「あ……」
温かい何かが、顔にかかった。
何が起こったんだ……?
分かったのは目の前にちらついた見慣れた赤が、消えてからだった。
「…………フレン?」
地に倒れた幼なじみの名を呼んだ。
「……馬鹿なお嬢さんだ。自分から間に入るなど……」
ヴェストリの酷薄な声は熱風にかき消された。
「フレン……おい、フレン! 何で……」
すぐにゼンはフレンに駆け寄った。思うように動かない左足を、今日ほど憎んだことはない。惨めな姿だ。地を這いながら血塗られた幼なじみの蒼白な顔を撫でた。
薄い腹に銀の剣が刺さっている。抱き起こしてみればその剣がすでにフレンの背から切っ先を覗かせていた。
「ゼン…………けが、してない……?」
「馬鹿野郎! 喋ってんじゃねぇよ!」
口の端から血の泡を吹き、それでもフレンはゼンを気にかけた。糸を紡ぐフレンの手が、ぬるりとゼンの頬を這った。
「ごめん…………いっしょに……にげるつもりだ…………った……に」
「待ってろ! すぐにヤン先生の所に連れてってやる」
「わたし……まだ……ちゃんと…………ってない…………たし…………ずっと……」
ごぼ、
一際大きな血の塊が、フレンの言葉を濁らせた。
ゼンの腕の中から力なくしなだれたフレンの手は、もう二度と糸を紡ぐことはない。快活だった瞳は、半開きのまま虚ろになった。
「フレン…………フレン……!」
抱き寄せて初めて知った。この人はこんなに細く、脆く、壊れそうだったのだと。
ゼンの腕の中でフレンは、死んだ。
こんなことならはっきり言えばよかった。
素直に伝えればよかった。
三の公爵家の〈耳目〉という立場を忘れ、一瞬でも望んだ未来を、欲せばよかった。
「まだちゃんと言ってないのは俺の方だ……」
行き場のない感情が胸に渦巻き、出口を求める。しかしそれは次の瞬間、声になることも言葉になることもなく、ゼンの中で儚く消えた。
「遅かれ早かれ村人は全員始末する予定でしたが、些か後味が悪い」
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああっ!」
隠し持っていた短剣を抜いた――
「ゼ――――――――ン!」
ゆっくりと反転する視界の端に、黒髪の乙女を見た。
「にげろ……ノルン…………」
最期の力を振り絞り、ゼンはノルンにそう言った。フレンを貫いていた剣は、ゼンの頸動脈を切り裂いた。
――赤い。
――赤の中に赤が散る。
――ああ、扉の向こうの景色だ。
「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああぁぁぁあぁぁぁぁあああぁぁぁっ!」
慟哭と共に突風が起こった。
「ゼン……ゼン! あああ……フレンも……なんで…………どうして……!」
あの日見た赤い景色。
しかしあの時見たのは血まみれのアスク。
ノルンはちぎれた首をだらりと後ろに倒すゼンの顔を見た。
「……ちがう」
違う。そう。違うのだ。
あの日のノルンが見た最悪は、別の最悪として訪れた。
「こんなのちがう……」
ざわ、
腰まで伸びた黒髪が波打ち始める。
そこかしこで吹き出していた炎が徐々に鳴りを潜めていく。
「これはこれは〈荊の魔女〉様。御自らお出でに……」
血に濡れた剣を下げ、歩み寄るヴェストリを上目遣いで見た。深い緑だった目は今や金に輝き、怪しげな光を放つ。並の人間なら一瞬で気を失いそうな威圧感を放つその瞳を、ヴェストリは真正面から見据えた。
「お初にお目にかかります私、西方守護長官・ヴェストリと申す者。……私怨はありませぬが、貴女にはここで死んでもらう」
キンッ
小気味のよい金属音が響いた。
「……アスク第一王子」
「思い通りにはさせんぞ」
二振りの剣が火花を散らし、拮抗する。しかし下から押し上げるしかないアスクに、ヴェストリが容赦なく体重をかけてくる。
「ちょうど良いところに! 貴方様が現れたら始末するよう仰せつかっていましたからね!」
「母上の差し金か!」
一際大きな音を立て、アスクの剣がヴェストリを弾いた。
「…………え?」
ノルンの瞳が緑に戻った。
「母上が、俺と! ノルンを殺せとお前に命じたのだな!」
アスクの言葉が、やけに遠くで聞こえる気がする。
「……真実は、死に逝く者のためのせめてもの餞ですかね。そうです。私共はこの国の王妃にして賢女であらせられるベルタ様の命により、此度の一件を起こしましたよ!」
「……………………うそ」
「貴女様が悪いのですよ。代替わりと同時に事は起こるはずだったのに、塔から逃げ出したりするから……」
ノルンの中で何かが崩れた。
少女は疑いなどしなかった。
母のないノルンを憐れみ、ことあるごとに塔に来ては慈しんでくれたベルタを。
巾着から出てくる可愛らしい髪飾りにおいしいお菓子。極上の笑顔をくれたベルタを。
ノルンは考えもしなかった。
アスクを護ることで、誰かが死ぬことを。
ノルンの〈目〉は、肝心の真実を彼女に見せてはくれなかった。ノルンが視たものは、断片的な未来だけ。
祖母の言いつけを――本当に怖いのは他人の過去を視る力だと言った祖母の言葉に忠実だったノルンは、親しい人の過去を、ただの一度も覗いたことがなかった。
「ベルトラン様が治める西の要塞は事実上一の公爵家のもの。ベルトラン様、ベルタ様ご兄妹の命こそ至上! 王も、宰相も、王子。貴方さえも、私たちを止めることはできないのですよ」
歯噛みするアスクを嘲笑し、ヴェストリは合図の笛を吹いた。甲高い鳥の鳴き声に似たその音を聞き、兵たちが即座にアスクとノルンを取り囲んだ。
「村人たちはあとでゆるりと探しましょう」
「俺を舐めるな、ヴェストリ」
剣を地に突き刺し、アスクが詠唱を始めようとした――
「うそだ」
ノルンが言った。
ゼンの無残な亡骸を、息絶えたフレンの横に安置し、ゆらりと立ち上がった。
「ぜんぶ、うそだ」
小さな声。しかし底冷えするほどの冷気を放つ声に、兵たちはつぎつぎ武器を落として震えた。
「まずいぞ!」
「分かっている!」
ヴァンの忠告より先にアスクが魔法を攻式から守式に転じた。
「こんなのうそだあああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁああああああああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあああああ――――!」
「うぐっ」
「うわあぁぁあっ」
「な、なんだぁぁぁぁぁ!?」
炎を纏った突風が円陣になった兵たちを吹き飛ばした。詠唱を省略したアスクの守式四十九番〈夜会の天球儀〉に守られたものもいれば、鈍い嫌な音を立てて転がるものもいた。呻き声を上げる兵に、死人はいなかった。だが本当の惨劇の幕は上がったばかりだ。
突如空に暗雲が垂れ込め、焼けた村を覆い尽くした。
「うそ! うそばっかり! こんなの本当じゃない! みんなうそ! うそだぁぁあああぁっ!」
視界が光に塗り潰された。
ノルンの嘆きに呼応して雷光が走った。
「ああああああああ! あぁぁぁぁぁああぁあぁぁぁあああっ、ああぁあああ――!」
大声で泣き叫ぶ少女の声が、次々に雷光を、雷鳴を呼んだ。そしてノルンの涙が、雨を誘った。
「か……雷が……降ってくる……!」
誰かがそう叫んだ。
雷が、降る。雨霰のように、雷が降った。そして先の長雨とは比べものにならないほど大粒の雨が落ちた。激しい雷雨が西の果ての村を襲う。息巻いていた炎はもはや消え果て、真夜中のような空を真昼にするかの如く雷が光る。もう前すら見えない。滝の中にいるかのような錯覚。誰もが逃げ惑い、ノルンから、西の果てから遠ざかった。
「ノルン! ノルン!」
散り散りになって逃げる兵を確認し、アスクが守式を破棄して駆け寄った。その体を抱き寄せようと伸ばした手が、バチッ、と何かに弾かれた。
「嘆きが……深すぎる……!」
もはやノルンに触れることすらできない。幼き頃、触れれば何もかもが枯れると泣いたノルンに唯一触れられたアスクさえ、拒む。
遠くで腹に響く轟音がした。
「うああああああ!」
要塞の方へ逃げ帰った兵の足に、荊が絡みついた。まるで意志を持っているかのように蠢く白薔薇の荊が、次々に兵の手足に絡みつき、捻り、叩きつける。
また別の方角では、雨となって地に落ちた水が天を衝いた。壁のように聳え立つ水に、兵たちが垂直に溺れ始めた。
燃え尽き、倒れた家屋がめりめりと動き、転ぶように逃げる兵に向かって灰を噴いた。
「くそっ、このままでは……」
ノルンが望まぬ結果を生むだけだ。
アスクの死を避けようとした結果、誰よりも死を厭うノルンが、ライアドルの民を殺してしまう。それだけはなんとしても止めなければ。アスクは再びノルンに手を伸ばすが、やはり弾かれてしまう。
「今のノルンは嘆きの塊だ。理性なんざ少しも残ってない。今まで自分の中で堰き止めてきた〈因果の奔流〉が……解放されちまった」
村を焼く炎はおさまった。しかしまた別の地獄絵図が広がっている。
裂けた木が虚を満たすように人を引きずり込む。焦げた家が奇妙に捩れる。雷が轟音ではなく女の笑い声になる。あらゆる自然の秩序が狂い、歪み、混沌へと堕ちていく。
諦念したように下を向くヴァンを、アスクは無理矢理自分の方に向かせた。
「だからといって諦められるものか! ノルンは……ノルンは誰も死なない未来を望んだはずだ。このままでは……国が、世界が捩れる。そんなこと、我に返ったノルンが、許せるわけないだろう!」
激しい雷雨の中、アスクは声の限り怒鳴った。
万物を狂わす力を持つ〈荊の魔女〉が、日常生活を営む上で最も重要なことは、力の制御である。幼い日、ノルンが薔薇園の薔薇を枯らし、手を触れた侍女の命を涸らしてしまったのは力の制御ができなかったからだ。成長と共にその術を身につけることでようやく平穏な日常を手に入れられた。
だが、今。ノルンはそれを止めた。
〈因果の塔〉による第二の制御もない今、ノルン本人だけがこの奔流を止められるというのに。そのノルンが全てを放棄した。
雷鳴と共に泣き叫ぶ少女。その声に応えるは狂った自然。荊が絡まり、誇らしげに咲いた白薔薇が嘲笑う。崩れた羊小屋から這い出た羊の死体が血を流しながら灰を吐く。水車は降りすぎた雨を飲み込んでは流れに逆らい回り続ける。何もかもが拗くれ、平衡感覚すら失うこの現実が、徐々に、次第に東へと流れていく。
「どうすればいい……! くそ……どうすれば止まるんだ!」
強すぎる魔力が引き起こす歪曲を、アスクは止めることができない。その場しのぎで溺れる兵を引きずり出しても、すぐに別の怪奇が迫ってくる。
「殺せ……殺せ!〈荊の魔女〉を殺すんだ……! そうすれば魔女の呪いは終わる!」
水の壁で溺れていた兵士が叫んだ。
血走った眼が瞬時にノルンに向いた。
「駄目だ! 殺せば呪いは永遠に解けない! 魔導を知らぬものが、下手に手を出せば自分が死ぬぞ!」
アスクが警告を発するより早く、ノルンに敵意を向けた兵たちが羊の死体の群に轢かれた。べぇぇぇ、べぇぇぇぇぇと鳴きながら灰と血を吐く羊の群が、ノルンを取り囲んだ。まるで彼女を守るかのように。
「……ここらが潮時か」
そう呟くと、ヴァンは雷鳴を凌駕する声で吠えた。大気がびりびりと震え、一瞬だけ周りの雨が止んだ。
悲しいかな生前の習性。ヴァンの声に恐れをなした死体の羊たちは牧羊犬の怒りを感じ、電光石火の勢いで逃げ出し、倒れた。
「おい、馬鹿王子」
漆黒の瞳がアスクを見据えた。
「お前にしかできないことがある」




