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第九章






 その日は稀に見る緊迫した朝議だった。

 宰相・グリーノがある報告をするということだったが、普段軽口を言い合っている双子の将軍フィアラルとガラールですらその日はむっつりと黙り込んでいた。これはただならぬことだと他の重臣たちも戦々恐々としているのだ。

 現王アウリール三世と賢女にして王妃ベルタ、そして第二王子シャルヴィが現れると同時に皆起立し、最敬礼をする。普段と変わらぬ朝議の始まりの風景だ。

「陛下、私から一つ、報告があります」

 鈴のようなグリーノの声が響く。翡翠の宰相は日頃下ろしている髪を今日は一つに束ねている。彼がここ一番の時によくする髪型だ。王もそれを知っている。平生よりもやや重厚な声で許す、と告げる。グリーノはやはり柔和な笑みを浮かべたまま、口を開いた。

「今朝方、私直属の〈耳目〉から報告がありました。西の果ての村に、〈荊の魔女〉と思しき少女がいると」

 議場は一気にざわめきだした。約半年間、行方知れずの魔女が、ようやく見つかった。国の安寧は盤石だと。色めきだつ重臣たちを、しかし、グリーノの重苦しい咳払いが静まりかえらせた。一気に水を打ったかのように静まりかえる議場で、翡翠の宰相は平然と王の前に歩みを進めた。玉座の目前。階の裾にグリーノは跪くことなく真っ直ぐ王を見つめた。

「我が王よ。これから私は貴方様に大変なことを打ち明けねばなりません。どうぞ、私が貴方にただの一度も嘘偽りを申したことがないという事実を、努々最後までお忘れなきよう」

「……どうした、グリーノ。貴様が斯様な言い訳を先に申すとは」

 一種異様な空気が場に流れた。鳶色の頭を少しだけ俯かせ、そして今一度玉座の君を見上げる。覚悟は決まっている。もう、十五年前から。

「皆の者もよくお聞きなさい。此度の魔女の出奔……その原因を作りしは青の玉座に連なる者に他なりません」

「なっ……」

「魔女の出奔、それはすなわち王族による〈久遠の誓い〉の反故。古より民を守るために〈荊の魔女〉と結びし契約の一方的破棄」

「馬鹿も休み休み言え! グリーノ、お主、王が国を……我々臣下や民を捨てたとでも言うのか!」

 すさまじい剣幕で唾を飛ばしたのはスラーインだった。かつて国政に大きく関わった能吏の姿は侍従長となった今でも衰えることはなかった。

「落ち着いてください。私は王が……などとは一言も申し上げておりません」

 冷静……もとい冷酷な声が凛と響いた。

「たしかに」

「そういえば宰相殿はこう言った」

「「青の玉座に連なる者」」

 重臣たちの目が一気に王の後ろに走る。

「な…………」

 王妃・ベルタがただ一人、青ざめた顔をしていた。

「王妃……貴女は非常に優秀な魔導師でいらっしゃる。流石は賢女の地位を得た御方だ。……彼の先代〈荊の魔女〉を呪い殺すとは」

 ベルタの瞳が見開かれた。

「な、にを言っているの! お前、先代はあの雷雨の日、老衰で亡くなったのを、」

「私が申し上げているのはあくまで、先代……そう、出奔したノルンの母、ロータのこと」

 場がざわめくのは一体何度目だろう。数え切れないほどの動揺が次々に起こる。

「ロータ」

「その名の〈荊の魔女〉といえば」

「有名だね、兄さん」

「ああ有名だな」

「「戦乙女だ」」

 先代アウリール二世と共に血塗られた歴史を築き上げた〈荊の魔女〉ロータの名前は、武人である双将軍には忘れられない名だった。

「だが弟よ、彼女は娘を産んだすぐに、所謂産後の肥立ちが悪くて亡くなったのではなかったか?」

「確かそうだ。王妃であり賢女であらせられるベルタ様が呪いをかけたなど、言いがかりでは?」

「事と次第によってはお前の首が飛ぶぞ、グリーノ」

 王の言葉が鉛のように重く沈んだ。

「我が王よ。私の命など元より貴方様に差し上げたもの。事と次第に寄らずとも、お望みとあらばいつでもこの首、差し上げます」

 翡翠色の目はいつになく強い眼差しで王を射貫いた。旧知の仲とは言え、このようなグリーノを見たのはもしかしたら初めてかもしれない。アウリール三世は浮かせかけた腰を再び玉座に、深く下ろした。

「ここに一枚の紙片がございます」

 懐から取り出したのは、今朝方届いた二通の手紙のうちの一通。姿を消した鳥の手紙だ。

「魔女の住まいである〈因果の塔〉の彼女の部屋を調べたものです。あの部屋には二つの魔法の形跡が残っていました。一つは現〈荊の魔女〉ノルンが発動したと思われる移動魔法〈戦乙女の血路〉。そしてもう一つは禁呪〈墨の一滴〉だと……」

「魔導のなんたるかを心得ぬお前に何が分かるのです! 陛下、この痴れ者の言うことなどこれ以上聞く耳を持ってはなりません! 即刻この場であの五月蠅い口を閉ざすべき――」

「黙るのは貴様だ、ベルタ」

 猛禽にも似た王の目がベルタを射竦めた。

「続けろ」

 徐々に場内の空気が凍り付いていく。重臣たちは未だかつて味わったことのないほどの緊張の中、ただ黙って宰相の鈴の声を聞くだけだった。

「この紙片はベルタ様と拮抗する魔力の持ち主より預かり、私より知識のある方が正当な儀式に則り調べ上げたもの。……いい加減静観する振りをお止めくださいませ」

 グリーノの視線が向かう方を皆が一斉に向いた。


「シャルヴィ第二王子」


 ベルタの横に座るシャルヴィは、冷ややかな瞳でグリーノを見下ろした。

「シャ……シャルヴィ?」

 声を震わすベルタに一瞥もくれず、シャルヴィは深い溜息をつき、座り直した。頬杖をつき、足を組む様は重臣たちも、侍従でさえも見たことがないほど不遜だった。これがあの兄の影に隠れ、おどおどしていた第二王子だろうか。あまりの豹変ぶりに誰もが口を開けたまま数秒間放心していた。

「これくらいで助けを求められては、翡翠の宰相の名が泣きますよ」

 亜麻色の髪をくしゃくしゃとかき上げ、シャルヴィは立ち上がった。横で青ざめている母を気にかけることもせず、滑らかな足運びで階を降りて行く。

「この紙片は、いち早く異常を察知した兄上……第一王子アスクから僕が預かったもの。狭い部屋の中で行われた魔術をあぶり出す代物です。僕が手ずから儀式を執り行いました」

「いつの間に……」

「兄上の出立前の朝議のあとに。儀式を行ったのは先の満月の夜です。大変でしたよ。なぜか僕の周りには多くの見張りがいて……彼らの目をかいくぐって調べて、宰相に知らせるまでに半年もかかってしまった。本当……過保護は困りますね」

 底意地の悪い笑みを浮かべ、クツクツと笑うシャルヴィを、ベルタは今にも気を失いそうな顔色で眺めていた。これは悪い夢だと言い聞かせたい。このまま気を失ってしまいたい。しかし長年気丈に振る舞う癖のついたベルタに、それは叶わなかった。

「禁呪って恐ろしい魔法なんですね。書庫で調べて吃驚しました。その呪いをかけるのは一瞬。でもかかったら最後、まるで水に墨を一滴落としたかのようにじわりじわりと呪いは広がり、身を蝕み、そして……死ぬ」

 底冷えのするような目。

 ――ああ、私の息子はあんな目をするような子ではなかった……。

 ベルタの頭は絶望に満ちていた。

「母上、貴女は僕の器を量り損ねていたんだ」

 震え、腰を抜かし、這いつくばるしかない母に、シャルヴィは近づき、いつものように無邪気に笑った。

「僕は貴女が思うほど愚鈍ではないし、貴女ほど鬱屈した人間じゃない」

「あ……あああ…………」

 情けなく声を上げるベルタにシャルヴィは容赦なく言葉の刃を突き刺した。

「貴女が〈荊の魔女〉に嫉妬の炎を燃やしても、僕は兄上に嫉妬なんてしたことはない。尊敬はしても、嫉妬なんてするだけ無駄。僕は兄上にはなれないし、兄上も僕にはなれない。どうして母上はそんな簡単なことに気づかないまま愚かなことをしてしまったんだろうね? 馬鹿みたい」

 羽虫を千切る幼い残酷さ。シャルヴィは庭の蟻を足で磨り潰すように、笑いながらベルタを見下ろした。

「わ、私は……」

 開きかけた口をシャルヴィの声が遮った。

「以上でこの女の容疑は固まった。あとは父上……貴方の一言で事は済みます」

 無感動な瞳を息子にちら、と向け、そして王妃へと向ける。

 ――哀れみの目だ。王がベルタに向けたのは、愛情の一片もない、ただの憐憫と嫌悪の目だ。

「あああ……ああ貴方が悪いのですよ陛下!」

 突如金切り声を上げてベルタが王の足に縋った。

「わ、私を娶っておきながらあの女に情けをかけるなんて……許せなかったあの子が……! 私が欲しかったもの全て持っているのに私から奪っていくなんて……」

「だからロータを殺したと言うのですか?」

 聞き苦しい言い訳をするベルタの背筋が粟立った。

「貴女のくだらない自尊心と嫉妬如きでロータを殺したのですか?」

「あ…………あああああああ……」

 グリーノの鈴の声が、次第に別の色に変わっていく。硬質な音を立てて距離を詰めるグリーノに、ベルタは無意識に後ずさりをした。

「彼女がどれほどの思いでこの国を護り、娘を産んだかも知らず、菓子をねだる子供のような我が儘さで一人の人を……〈荊の魔女〉に危害を加えた。貴女が王妃という立場にいなければこの場で即刻首を刎ねられても文句一つ言えませんよ」

 いつもと変わらぬ口調だというのに、グリーノの声は聞いたことがないほど感情に濡れている。憤怒、憎悪、悔恨。あらゆる負の感情が体中に渦巻き、沈着冷静な宰相を駆り立てる。

 逃げ場を失ったベルタの顎を、乱暴に掴み上げ、睨みつける。翡翠の目は直視できないほどの激情に満ちあふれていた。

「恥を知りなさい。身の程知らずが」

 するりと懐剣を抜いたその時、

「よせ、グリーノ!」

 王の一声がベルタの命を救った。ゆらり、と影のように動き王を睨め付けるグリーノに、尚も王は首を振った。

「ベルタはしかるべき手段の元、しかるべき刑を与える。そのためにはまず、現〈荊の魔女〉ノルンを迎えることが先決だ。彼女には、ベルタを裁く権利がある。貴様もそれぐらいの判断を下す理性は残っているだろう」

「……………………仰せのままに」

 汚いものでも捨てるようにベルタを放し、グリーノは膝をついた。

「では急ぎ、西に使いを出しましょう。アスク王子も西に向かったとシャルヴィ王子に文が届いたそうですし、うまくいけば合流も可能かと……」

「ふふ、」

 低く、嗤う声が呟いた。

 床に突っ伏したままのベルタが、背を震わせながらくつくつと嗤った。

「……ふ、ふふ……あーっはっはははははははははは……」

 ベルタの高笑いが禍々しく轟いた。









 雨が勢力を落とすにつれて、徐々にフレンも元の明るさを取り戻し始めた。何日かぶりの眩しい朝日。目が眩むような夏の朝。その日、フレンは太陽と同じくらい明るい笑顔でノルンを送り出してくれた。いつものサンドウィッチも持たせてくれた。

「よかった。フレンが元通りになってくれて」

「本当に元通りか? 強がってるだけだろう」

「強がりでもいいんだよ。そのうち本当の笑顔を取り戻すために、嘘でも笑う。人はそういうものだよ」

 不機嫌そうにヴァンは鼻を鳴らした。本日は晴天。羊たちは幾日ぶりかの外出に浮き足立っていた。当たり散らすようにヴァンが一吠えしてもべぇべぇ鳴いて取り合わない。軽く舌打ちをしつつも、ヴァンとノルンは瑞々しい草が茂る丘に登る。

 夏の日差しを避けてノルンは木陰に身を寄せた。そこは羊たちも見渡せる絶好の場所だった。ぐっと背伸びをし、ノルンは空を見る。

 今日もしっかり張り巡らされている〈荊の柵〉を確認する。王都の方も、北も南も東も西も。四方を見張り、綻びは編み直す。羊と自分の体をヴァンに預け、ノルンは日が中天に上るまでその作業を繰り返した。意識は空高くに登り、目の前には雲の平野と空の地平線が広がる。

 不意に意識が体に戻された。

「……どうかした?」

 ヴァンがノルンの手を噛んだことで意識が強制的に戻って来たのだ。低く唸り声を上げるヴァンにノルンは胸騒ぎを覚えた。

「来るぞ」

 全身の毛を逆立て、牙を剥く。羊たちが怯え初め、自然と群れを作り、ノルンの後ろで団子になる。

 ピリ、と空気が張り詰める。遠くで馬の嘶きが聞こえた。

「スレイプニール……」

 聞き覚えのある声に、ノルンが馬の名を口にする。

「逃げるなら俺に乗れ」

 漆黒の体を丸めれば、徐々にヴァンの体が大きさを増していった。彼本来の大きさに戻ったのだ。犬ではなく、巨大な狼。それがヴァンの真の姿。ノルン一人軽く乗せて走れる。ヴァンは凝った夜の目でノルンを見た。

「逃げないよ」

 ノルンは嘶きの方向を見据えたまま答えた。

「時が、動くよ」

 草原をかける馬の蹄鉄。早駆けの律動が次第に近づいてくる。肺腑に直接響くような足音に怯むことなく、ノルンはその場から微動だにしなかった。

 丘の頂上に、ノルンは立つ。馬影は二つ。断頭台の上にいるかのような錯覚に目を閉じれば、瞼の向こうが不意に陰る。

「久しぶりだね、アスク」

 ゆっくり目を開き、眼前の影を見上げる。

 真雪の髪、凍える湖面色の瞳。白尽くめの王子がたった一人の従者を連れて、馬上からノルンを見下ろした。

「…………ノルン」

 よく通るアスクの声が、懐かしい。

「私を殺しに来たの?」

 羊を従え、巨狼に守られたノルンの目はしんと冷えた光を湛えていた。アスクの銀の瞳が感情の色さえ失う。

 軽やかに馬から下りたアスクがノルンの前に立つ。ヴァンが低く唸るのもものともせず、二人の距離を縮めていく。

「ノルン」

 そっと名を呼び、アスクはノルンを抱きしめた。

 抱きしめられて初めて分かった。

 自分、が震えていたのだと――。

「よく無事でいた……本当によかった……!」

「…………アスク」

 最後にこの人に触れたのはいつだっただろう。もう思い出せないくらい遠い記憶なのに、ノルンはアスクの匂いを懐かしいと感じた。こぼした紅茶と馬の匂い。相変わらずドジなんだな、と思うと、自然とアスクの背に腕が回った。

「よかった……アスクだけは私を裏切らないって信じてた…………」

 この人だけは、大丈夫だと。

 ノルンは雪降るあの日、塔から逃げたあの日からずっと胸の内に押し込んでいたものをようやく吐き出せた。

「私……ずっと怖くて…………外なんて出たことないから……でも、でもすごくいい人に拾ってもらえて……ねぇアスク、わ、私……」

「もう何も言うな」

 アスクの腕に力がこもる。

「何も、言うな……!」

 体が折れそうなほど強く。吐息さえ聞こえるほど近く。

 アスクの体も震えている。吐息にかすかな嗚咽が混じる。ノルンはアスクの腕の中で、ようやく安堵の息をついた。

 何度も脳裏に浮かび、夢にまで見たあの悪夢の未来は、訪れなかった。

 ――大丈夫。私は、この人を守れた。

「あ、あのぉ……お取り込み中申し訳ありません」

「……………………お前、本当に無粋なヤツだな」

 感動の再会に見事に水を差したのは、アスクの随伴・リトだった。青ざめた顔でノルンとアスクとは違った意味での震えを催しながらそれでも声をかけるとは……。この男に密かにヴァンは舌を巻いた。

「ほほ、本当に申し訳ないのですが……」

「何だ、早く言え」

 若干苛立ち気味にアスクが尋ねた。この王子の凄いところはこんな状況でもノルンを抱きしめた手を離さないことだ。無論、我に返ったノルンはアスクから離れようと頑張っているが。

「はい! ああああ、あの! に、西の方角にけ、煙が……!」

 リトの言葉にバネ仕掛けの人形のようにノルンが振り返った。

「……なんだあれは……!」

「ノルン!」

 気づけば黒髪の少女は颯爽と巨狼に跨がり、走り去ってしまった。

「くそ、俺たちも追うぞ!」

「は、はい!」

 再び馬の腹を蹴り、アスクとリトもノルンの後を追った。

「しまった……先を越された!」

 アスクは歯噛みし、美しい顔を悔恨で歪めた。




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