あちこちで色々
トランプは巨大な壁の内側にある。
広大な敷地の周りを円形に囲む物々しい壁は高さが十メートル以上もあり、外から中の様子を窺うことはできない。昼間でも重苦しい空気を放つ鋼鉄の巨大な壁は、月光以外の明かりがない夜中になると息苦しささえ感じさせる存在になった。
「外から見ると陰気な場所だよね。これが世界レベルの組織だって、未だに信じられないことがあるよ」
そんな暗闇の中で、一人の少年が静かな声で呟いた。常に気怠そうな色の瞳に灰色の髪――その姿は間違えようもない、ロクローンのものだった。
「君もそう思わないか……っていうのは訊くまでもないよね? 僕と君は昔から変わらず同種の人間だ」
「ワシは世間話をしに来たわけじゃない」
普段は長々と話すことさえ面倒がるロクローンが珍しく饒舌に語る。その言葉を苛立ちのこもった声で遮ったのもまた一人の少年だった。
赤い袴を身につけているが引き締まった上半身には左腕の包帯以外何もつけてない。足元には下駄を履いていて、袴よりもさらに赤い炎のような背中を覆う赤毛を携えたその少年は歳も背も大体ロクローンと同じくらいだろうか。年上だとしてもせいぜい一つか二つ程度だろう。少なくとも十歳かそこらの少年には絶対に見えなかった。
「そう怖い顔しないでくれるかな。ていうかなんで完璧に戦う準備してきてるのさ、ガザリア」
誰が見ても明らかに機嫌が悪いことが分かる赤毛の少年――ガザリアに、ロクローンは若干引いた調子でやれやれというように首を振った。それがガザリアを余計に苛立たせていることもきっと分かってやっているのだろう。
「端的に言え。お前は一体何をしようとしとるんじゃ」
回りくどいことを嫌うガザリアは単刀直入に聞く。すでに敵対しているかのような物言いにロクローンは苦笑いをして頬を掻いた。
「ガザリアとは味方のつもりなんだけどな」
「それは返答次第じゃ。お前が今からでもクライアスに手を出すのならばワシはこの場で敵になる」
「そっか……」
低い声で放たれたガザリアの言葉の意味を、ゆっくりと噛み砕くように深く考え込むロクローン。考える時の癖なのか俯いてしまっているためにガザリアから表情を見ることはできなかった。
数分という長い時間をかけて、やがて顔を上げたロクローン。その右目はいつの間にか三角形を二つ重ねた形の六角形に囲まれていた。
そしてそれだけで、ガザリアはロクローンの言わんとすることを理解した。
「ごめんね、それじゃ僕は今から君の敵だ」
事実、ガザリアが予想した通りの言葉をロクローンは使った。長い付き合いであるがために、こんな時に相手がどういう言葉を使うのかまではっきりと分かってしまうのだ。奇妙な図形が現れた途端に無機質になった彼の瞳も、何回見たのか数えきれない。
「正気か。今になってどういう心変わりをしたと言うんじゃ」
はっきりとした敵対宣言を告げられながらも、ロクローンの真意を知るためにあえて怒りを抑えつけて冷静に訊くガザリアだが、
「僕のためだよ。クライアスの名前は僕にとってこの上なく都合がいい。何と言っても彼は歴史上最高の犯罪者だ」
さも当然のようなその発言で、驚くほどあっさりと理性の糸が切れた。
「お前は……お前までトランプに寝返ると言うのかっ!」
腹の底から叫んだ直後、ガザリアの体に異変が生じた。まるで膨張するようにその身が巨大化し、筋肉質ながらも細く引き締まっていた身体がごつごつと太く大柄に変わっていく。鍛え抜かれたその肉体は荒々しい岩石を思わせた。
ほんの一瞬の間に、彼の体はロクローンより一回りも二回りも巨大になっていた。腕や足などは巨木の幹を連想させるほどに太く、それを支える肉体は鋼を思わせるほどに逞しい。もしも正面からぶつかり合おうものなら、ロクローンなどは防ぐこともできずにただ押し潰されて終わるだろう。それだけ圧倒的な力量差を感じさせる存在だった。
「〝敵殴進化〟か……久しぶりに見るけど、弱くなってるなんてことはなさそうだね」
化け物のような巨体に変貌を遂げたガザリアを前にしても、ロクローンは慌てなかった。いつもとは違う無機質な瞳で、自分の倍も大きいのではないかと思えるガザリアを見上げるだけだ。
「敵ならば容赦はせんぞ!」
血走った目でロクローンを睨みつけ、ガザリアは拳を構えた。
構えられた左腕の包帯は腕が急激に太くなったためか破れて風に飛ばされていて、露わになったガザリアの腕には等間隔で黒い輪が刻まれているのが見て取れた。
容赦なく振るわれた拳はごう、と風を切り一直線にロクローンに迫った。誰が見ても全力だと分かる躊躇ないその一撃を、ロクローンは避けずに正面から受け止めようとする。両腕を交差させ岩をも砕く勢いの拳を受け止める彼は無謀としか言えなかった。
案の定、拳が命中するのと同時に彼の体は高く吹き飛ばされて宙を舞う。細身とはいえ小柄なわけではないロクローンが小石のように空を飛ぶ姿は、単純にガザリアの力の恐ろしさを示していた。夜空に浮かぶ白い月の中に一瞬だけ彼の影が浮かび、そして重力に引かれ落下していく。
普通ならば即死でもおかしくない一撃だった。
「……本気にならないでよ。さすがに痛い」
しかし、ロクローンは生きていた。地面に投げ出された体勢のまま顔をしかめながらも、無機質な口調は変わらない。倒された、と言うよりは起き上がるのが面倒だから倒れたままでいるだけのようだ。
ガザリアもそれに驚くようなことはない。むしろ今の攻撃でロクローンに勝てるなどとは思ってもいないらしく、早くも拳を構え直していた。
「なんか今ので気力削がれたや。戦うなら徹底的にって思ってたけど、もう帰る」
「ならばクライアスから手を引くと一言誓っていけ」
「いやだ」
ロクローンが即答した瞬間、彼の周囲の地面に変化が広がった。倒れている彼の体から染み出すように地面が銀色に染まっていき、波立つようにしてその体を包み込んでいく。
「僕は止まる気なんてない。守りたいなら君のやり方で止めてみなよ」
その言葉を最後にロクローンは変色した地面に包み込まれ、それによって隆起した地表はほんの数秒で元の平らな大地に戻っていった。ガザリアが構えを解くころには変色もなくなり、今までの変化が嘘のようだった。
「……ああ、止めてくれる。トランプを潰してでもな」
怒りのやり場を失ってなお、ガザリアは力強く宣言してみせた。
✚✚✚
「帰れ」
「宿がないから泊めてくださいってさっきからお願いしてるじゃないですか……って、だからお願いですかららドアを閉めないでください!」
どんどんどん! と辺りに近所迷惑な騒音をまき散らしながらレヴィア宅の玄関を勢いよく叩きまくるイリーナ。実は彼女、昼間の間にグストと話をしたりレヴィアに追い出されたり友達になろうとしていたりで時間を浪費しすぎて、もうすっかり夜中だというのに泊まる宿すら決まっていないのだ。イリーナがミルトの住人ではないというレヴィアの記憶は間違っていなかったことがはっきりしたわけだが、しかしあまりにも間抜けな気がしないでもない。
そもそもイリーナと縁を切ったつもりでいるレヴィアとしては、自宅に泊めてくれと頼ってくる彼女が鬱陶しくて仕方ないのだが、
「今から宿を探してたら朝になっちゃいますよ! というかミルトに来てから宿なんか一度も目にしてないです!」
さっきから何回も繰り返していることをドアの前でまた繰り返す。実際、規模の小さい村であるミルトには旅行客が来ることもめったにないために宿も一軒か二軒くらいしかない。その宿にしても民家よりは少し大きいかな程度のものだ。宿主だってもうとっくに眠りに入っているような時間だろう。
「……グストの所に行け。あいつなら拒みはせんはずだ」
「行ってみたけどいませんでした」
「帰ってくるまで待っていろ」
「……レヴィアさん、今の季節知ってますか? 実は今も結構寒いんですよ?」
実際は昼間の会話のこともあり、例えグストが家にいたとしても彼女は彼と二人になる状況を避けていただろうと思う。二人になったら今度こそ追いつめられてしまいそうだ。そういう意味では彼が留守にしていて幸運だったとイリーナは思わないでもなかった。
しかしその分の不運として延々と続くドア越しの会話は平行線上をなぞっている。この調子では言い争いをしながら朝を迎える羽目になりそうなくらいだ。
日が完全に落ちて肌寒さを感じさせる空気の中で懇願し続けるイリーナは体力的にかなり辛いが、レヴィアの方は彼女のしつこさに精神的にまいってきているようだ。あと一押しでドアが開く気はするのだが、レヴィアもなかなか頑固でそう簡単には彼女を招き入れようとはしない。
仕方がないので、イリーナは奥の手を使うことにした。
「……レヴィアさん、私、今、本気で困ってますよ」
がたん、とドアの奥で物音がした。どうやらレヴィアは今の一言でかなり動揺したようだ。イリーナの読み通り、表面上ではそうでなくても本質的に無邪気でお人好しな彼は困っていると言われれば見捨てることもできないのだ。今までも困っている人がいれば手助けするような生活を送っていたらしいし、そういう性分なのだろう。
ともあれこうして困ったアピールを続ければレヴィアも一晩くらい泊めてくれるだろうというイリーナの作戦は、実に見事に成功したのだった。