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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第二章
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不意の接近

 田舎の村には井戸がなく、近くを流れる川までわざわざ汲みに行っていた。それは力の弱い女の子の仕事ではなかったが、全く出番がなかったわけではない。リルレットにも経験がある。そのときの大変さを思ったら、自宅の庭に井戸があるなんて贅沢そのものだ。


(貴族様のお家なんだから、当然と言えば当然だけどね)


 グランリジェは水の街というだけあり、どこにいても水の音が聞こえてくる。地下を流れているのは魔石で浄化された河の水だ。水は用水路を流れる他、ハンメルト邸のようにポンプで汲み上げる家もある。


「よいしょっと」


 と、桶を持ち上げる。水面がきらきらと揺らめいていた。

 グランリジェの良いところは、綺麗な水には事欠かないところだ。


 裏口から戻ろうとしたところで、リルレットの視線が土色の花壇に向けられた。世話をする者がいないせいだろうが、何も植えられていないのは流石に寂しい。こんなに広いのに勿体無いと思ったが、彼女には草花を育てた経験はない。

 だが、もし庭で育てた花を家中に飾ったら一気に華やぐだろうなと夢想するうちに、その計画を実行に移したくてうずうずしてきた。そのうちクラエスに許しを得て挑戦してみようと、リルレットは密かに決めた。



 体力のあるうちに寝室を綺麗にしてしまうことにした。シーツとフットスローを全部剥いで洗濯籠に放り込んでおき、次に埃を全部落とすると満遍なく床を掃く。机やベッドの下まで丁寧に床を拭き込み、仕上げに真新しい手拭いで調度品を全て磨く。全部終えるのに一時間以上掛かってしまった。広いが物が少ないおかげで思っていたよりも大変ではなかったが、綺麗にしようと思うあまり、小さなものを磨くにも力が入ってしまう。そのせいで、掃除し終わった後はもうヘトヘトだった。


 大きく息を吐き出すと、やや満足げな顔で扇形の部屋を見回した。水拭きだけで洗剤の類は一切使っていないが、魔力を通した地下水の効果か、ピカピカと輝いて見える。魔術の光の仄かな温かみと相まって、初めて入ったときよりもずっと上品な部屋に見えた。


「後は洗ったシーツをベッドに被せるだけ――と、あれっ? 手拭いどこに置いたかな」


 手に持っていたはずの手拭いがいつの間にか消え失せていた。バケツに放り込んだだろうかと思ったが、違うようだ。掃除が終わるまで固く握り締めていたはずだから、最後に磨いた場所に置き忘れたのだろう。だが、どこをどういう順番で磨いたのかサッパリ覚えていなかった。

 仕方なく、キョロキョロと忙しなく視線を動かしながら部屋中を歩き回る。しかし、一通り巡ってみても見当たらず、リルレットは「どうしよう」と困り顔で床に座り込んだ。


 もしこのまま見つからなかったら。当初のクラエスに寝室で休んでもらおうという目論見だけが成功して、万が一に引っかかった手拭いを彼が見つけたりしたら――。


「間抜けすぎる! 絶対見つけないとっ」


 あわあわしながら必死で床を探した。

 机の下、ベッドの下。棚の後ろ。

 すると、奇跡が起きた。低くなった彼女の視線が、サイドテーブル下に落ちている手拭いを見つけたのだ。どうしてそんなところに潜り込んだのかは不明だが、今となってはそんなことはどうでもいい。リルレットはぱぁっと顔を明るくして飛びついた。

 が、


「ぶっ」


 派手な音を響かせて、テーブルに顔面が直撃する。少し遅れて、背中に何か当たった気がした。

 なまじ勢いがついていただけに、痛みは半端ではなかった。特に鼻がぺったんこになりそうなくらい痛い。血は出ていないが、擦り切れている感触が鼻先に触れた指に伝わってきた。

 これは恥ずかしい。クラエスに見られたら何と言われるか。想像してみて、落ち込んだ。


「あーうー……」


 なんでこんな失敗を犯すんだろう、とつい悲しくなった。自分の粗忽っぷりには慣れっこのつもりだったが、十六歳になっても治らないとなるとお婆さんになってもこのままなんじゃないかという気がしてくる。六十歳になってテーブルに自ら顔面をぶつけるとか、絶対いやだ、孫に笑われる。


 兎にも角にも、手拭い確保。顔の痛みと引き換えに「どんなときでも慌ててはいけない」という教訓を得たリルレットは、少しだけ成長したのだと無理矢理自分に言い聞かせて立ち上がった。


「あ、何か落ちてる」


 サイドテーブルにぶつかったとき、上に置いていた物が衝撃で落ちたのだろうか。背中に当たった感触はこれが原因だったのか、とリルレットは納得した心持で、逆さに落ちていた木箱を取り上げた。その拍子に、開いた蓋から何かが転がり出る。

 それは、猫の目ほどの真っ黒な玉だった。宝石だろうか――黒真珠に似ているが、違うようだ。以前働いていた店に訪れていた婦人が黒真珠のネックレスを首に提げているのを見たことがあるけれど、あれとは輝きが全然違う。どんな光も反射しない、まるで他を拒絶するような闇色をしている。


「何かしら、これ」


 なんとなく手に取ることは躊躇われて、爪でつんと突いてみた。ころころと転がるそれを、背後から伸びてきた腕が摘み上げる。驚いて振り返ろうとしたリルレットのすぐ傍に、いつの間に入ってきたのかクラエスの顔があった。初めて間近で見る横顔に、心臓が止まりそうになる。


「これには触らない方がいい。危ないからね」


 そう言ってにこりと笑うと、リルレットの手から木箱を取り上げて蓋を閉めて衣装棚の上に置いた。長身のクラエスでもギリギリ手が触れるくらいの高さだ、リルレットなら椅子に乗らないと届かない。


(あんなとこに置かなくたって、もう触らないのに)


 まるで子ども扱いをされたみたいで面白くないが、クラエスの有無を言わせぬ態度には何も言えない。もしかして高価なものなのだろうか。壊されては困るから、触れないようにしたのかもしれない。


「あの黒いのって宝石ですか?」


 価値のある石なら宝石なのだろうと思った。クラエスは否定しなかった。


「魔石だよ。既に魔力を放出しきって力を失ってはいるがね。何かの拍子で僅かに残った魔力が暴走しないとも限らないから、もう二度と触ってはいけないよ」

「危険な魔石だったんですね」


 民間で使う魔石には暴走するほど強い力は込められていない。それに、僅かな魔力で暴走を引き起こすような代物なら余程特別な事情があって作られたのだろうとリルレットは考えた。クラエスは即座には何も答えなかったが、リルレットの短い言葉に含まれた意味を読み取り、感心したような目を彼女に向けた。そして。


「…………ぷっ」

「な、なんですか! 何が可笑しいんですか!」


 顔を見て笑われたことに、リルレットは多大なショックを受けた。都会の子ほど綺麗ではないけど、これでも容姿には気を使っている方なのだ。ただでさえ、そんじょそこらの女性より綺麗な顔に指摘されるのは心をぐっと抉られるような痛みが残る。


「ごめんごめん、そうじゃないんだ。鼻の頭擦り剥いてるからさ」

「笑いながら謝られても、説得力感じません」


 ぷうっと頬を膨らませると、クラエスはやや笑いを収めてもう一度謝った。出し抜けにリルレットの眉間に掌を翳すと、彼女はびくんと両肩を強張らせて目を瞠った。


「じっとしてるんだよ」


 声にはもう笑いは含まれていない。リルレットは忠告されるまでもなく、微塵も動けなかった。代わりに翳された掌を凝視する。彼の手はインクで汚れていたが、リルレットは綺麗だと思った。

 十秒くらいそうしていただろうか。


「もういいよ」


 声と同時に手が離れていく。リルレットは自分の鼻をぺたんと触った。擦り傷が消えている。驚いてクラエスを見上げると、彼は悪戯が成功した子供みたいに笑った。魔術で傷を治してくれたのだ。魔術=魔石だったリルレットにとって、初めて目にした本物の魔術かもしれない。魔術ってこういうこともできるんだ、と彼女は素直に感心した。


「ありがとうございます、クラエス様。それから、ごめんなさい。勝手に物を触って」

「いいんだよ。触れられて困るものなんてアレの他にはないから」

「そうなんですね……あっ」


 何かを見つけたリルレットが、突然手を伸ばす。クラエスの襟元に向かって。


「!?」


 今度は彼が動けなくなる番だった。何を思ったのか、リルレットがクラエスのシャツのボタンを上から外し始めたのだ。その顔は真剣そのもので、悪戯を企んでいるような顔ではない。すぐに釦を閉めなおしたリルレットは、頭の中が真っ白のクラエスを見上げて満面の笑みを浮かべた。


「はい、出来ました。釦、掛け違えてましたよ? 家の中だからって油断しちゃダメです。良いですか?」


 ぎこちなく頷く。するとリルレットは満足げな表情で一礼し、汚れた水の入ったバケツを抱えて一階へ降りていった。様子のおかしなご主人様に気付くこともなく。


 彼女が出て行ったすぐ後、丁度部屋の前を通りかかったイフリータが怪訝そうにクラエスに声を掛けた。


『あらぁ、寝室で休むなんて珍しいのね。でももう朝よ?』


 その声に我に返ったクラエスは、本来の用事を思い出し、動揺を押し隠した早足で隣の資料室へと向かうのだった。

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