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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第二章
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はじまりの朝

 早朝の、水際が物資運搬のため次第に騒がしくなってくる時間帯。白む空を右手に、ゆったりと船が動き出す。人口の多い王都では、近隣の村や港から、毎日大量の農産物や水産物などが運び込まれるのだ。荷を積んだ船は南門外の河岸にて一旦降ろされ、別の船に積み替えて王都へと入ってくる。

 街の目覚めだ。


 ほぼ同じ時刻に、リルレットは目を覚ました。寝ぼけ眼で部屋の中をきょろきょろと見回し、ぼんやりと虚空を見つめる。柔らかいベッド。肌寒い部屋。前より少し広い部屋。

 考える。ここ、どこ?


「……あ、そっか。しよーにん。お仕事だ」


 ようやく自分の使命を思い出したリルレットは、うんしょっ、と掛け声を掛けて床に下りると、窓を開けて空気と明かりを入れた。

 肌を晒すには少し冷たい空気が、じんわりと部屋に侵入してくる。だが、暖炉のない家で育ったリルレットにとっては懐かしい冷たさだった。


「う~ん、いい気持ちっ」


 うんっと両手を天に突き出して背伸びすると、自然に声が出た。

 田舎にいた頃から、リルレットの朝は結構早い。働き者の父より早く目覚めることもあって、そんな日は家族全員の朝食を作ったり農具を出したりして時間を使った。

 使用人の朝とはどんなものだろうか? 掃除に洗濯に朝食作り……とぱっと考えただけでも思い当たるけれども、どの順番でどのくらいの時間をかけてやればいいのか、よく分からない。

 困ったときは主人の生活を第一に考えるのだとレイカが言っていたことを思い出したが、解決にはならなかった。レイカに聞く限り、クラエスの暮らしぶりは実に自由奔放で、これといって決まりがないからだ。滅多に外出しないというのは本当なのだろう。彼との会話の端々からは、出る必要もないとすら考えているようだった。


(そういえば、やけに詳しく説明されたけど、レイカさんとクラエス様は知り合いなのかな?)


 斡旋所とのやりとりもあるはずだし、知り合い同士でも不思議はないかもしれないが、レイカにしては妙にクラエスのことを気遣っていたように思う。仕事以外の関係を勘繰ってしまうのも仕方がない。二人並んだら美男美女だ、気にならないはずがない。しかし、聞きたくても面と向かって聞かないのが淑女というものらしい。

 まぁいいや、とリルレットは頭を切り替えた。


「まずはご主人様に挨拶だ……と思ったけど、起こすなって言われてるんだっけ」


 なんでも、時間の使い方が独特だそうで。朝寝ていたり昼寝ていたり夜寝ていたり、あるいは三日間一睡もしなかったり。その辺りの機微を覚えることからまず始めなければいけない。大変だ。下手を打って解雇されたりしないように気を付けなければ。


 リルレットは窓を開けたまま手早く着替えると、エプロンと三角巾を身につけて、鏡の前で紐の位置や髪の具合を確かめた。一つに纏めた髪はぴんぴんと跳ねている。昔から、リルレットは癖の強い自分の髪が好きではなかった。温めた手拭いを何度当てても、いくら櫛を通しても直らない。耐えかねて母に訴えたら、「生まれつきだから諦めなさい」の一言でバッサリきられた。そういう母の髪はサラサラの艶々で、リルレットはいつも恨めしい気持ちでそれを見ていた。

 諦めきれずに何度も髪を撫で付けていたが、そのうち外がすっかり明るくなってしまいそうで、リルレットは口を尖らせて鏡から逃げた。


(仕方がない、ちゃんと纏めてさえいれば変に思われないでしょ)


 それに、あんな優しそうな人が髪の毛質で使用人を解雇するとは思えない。

 リルレットは笑顔を取り戻すと、一階までの階段を一気に駆け下りた。


 ハンメルト邸は屋根裏部屋を除いて三階まであり、階段も東と西にある。

 一階は書斎、食堂、水周り。二階は主人の寝室、資料室と称した広い部屋。三階は客室。

 二階と三階は外周をぐるりと廊下が囲み、内側に部屋がある。

 一階は中央に丸い部屋があり、そこが食堂。食堂を挟んで十時と四時の位置に間仕切壁があり、南側に玄関と階段、書斎がある。その反対側へは東側の階段を使って二階から降りるか、中央の食堂を通らなければ行けない。北側は水周りが占めていて、庭へ出る裏口もある。


 慣れるまでは目が回りそうだ。最初見たときは、からくり屋敷かと思った。どこかに隠し扉があるんじゃないかと何度も壁を叩いたほどだ。

 どの部屋にも錠がついているが、鍵は掛かっていない。リルレットが予想したとおり、窓は階段と屋根裏部屋以外にはなく、部屋は日光を取り入れる代わりに魔術の照明で一定の明るさが保たれる仕掛けになっていた。

 やはり、これを設計した人はヘンだ。


 昨日屋敷の中を見回っていて、リルレットはひとつ気付いたことがあった。一階以外、ほとんど使用された形跡がないのだ。その割りに清潔に片付けられているのは、業者か誰かに頼んでいたからだろう。これからはリルレットだけなので、全部一人で掃除しなければならない。全室を毎日やらなくてもいいだろうし、そんなに気負う必要はないだろうと、今までのリルレットなら思いもしないことを考えた。

 だが、気にかかるのは主人の寝室の片付き様だ。物を動かした形跡がないのである。人のいる屋敷でありながら、人が住んでいる気配が感じられないのはどういうことだろう。

 クラエスはとにかく仕事以外の万事に対して興味が薄い。おそるおそる普段はどこで寝ているのかと聞いたら、「書斎」と単純明快な答えが返ってきたほどだ。たぶん、眠くなったら机に突っ伏して休んでいるのだろう。

 とりあえず、寝室のシーツに皺一つない理由は分かった。

 当分の目標はこうだ。


(クラエス様には、なんとしてでも寝室で休んでいただくわ)


 でないと疲れが取れないだろう。椅子に座りながらうとうとするのは睡眠不足だからに違いない。窓のないあの部屋では、昼も夜も分からないだろうから、睡眠時間にはムラがあるはず。若いときの不摂生が後年祟ったりするのだ、使用人としてこの事態を見過ごすわけにはいかない。


 今日の掃除は一階の書斎以外と二階の廊下と寝室、これで決まり。

 日が昇るにはまだ時間がある。リルレットは早速掃除に取り掛かった。

 階段を上り下りするのは大変だけど、山育ちのリルレットは体力に自信がある。水を汲んだバケツを持って走り回るのだってなんてことない。それに、すべきことがあるというのは嬉しかった。食事や風呂の準備以外は自分で仕事の配分を考える必要があるが、人目を気にしなくていい点が非常に性に合っていた。

 何もかも上手く行く、そんな気がして気持ちが軽くなった。

 掃除をするときは玄関を開けっ放しにして、少しでも新鮮な空気が入ってくるようにした。


 グランリジェの空気は水の匂いがする。清らかで仄かな温かみのする匂い――王城の背後に聳えるグレマニシエ渓谷から流れ込む、ジェール河の気配だ。王都に暮らす者は皆この自然の恵みに感謝を捧げて一日の始めとする。


(グレマンの神様、リジェの神様。今日も一日、皆が元気で過ごせますように)


 胸の前で手を組み合わせ、しばし黙礼する。王都に来てからの習慣だが、ずっと前からこうしていたような気もする。田舎で祈りを捧げるのは年初めと収穫のときだけで、神様に感謝するよりも収穫祭を楽しむ方が好きだったリルレットにとって、一番の変化といえるかもしれない。

 清清しい空気を思う存分味わったリルレットは、地面に置いたバケツを持って庭に回ろうとする。そのとき、背後から女の細い声に呼び止められて振り返った。


「あの。もしかして、ハンメルトさんの新しい使用人の方ですか?」

「はい、そうですが」

「あ……やっぱり」


 くるりと向き直ったリルレットの前にいたのは、同い年くらいの少女だった。気の弱そうな子で、おどおどとした目でリルレットを窺っている。リスみたいだな、とリルレットは思った。強く押したら簡単に倒れてしまいそうなくらい儚げで、庇護欲を掻き立てられる。

 少女は手にバスケットをぶら下げていて、白いナプキンの下からは良い匂いが漂っていた。


「あ。もしかして、それ」

「はい、ハンメルトさんの朝食……なんですが、私、聞き間違えたみたいですね。たぶん、『明日からは持ってこなくていい』と言われたのを『明日は』だと勘違いしたんです。」


 気のせいか、少女は寂しげに笑った。


「私、この近くの食堂の娘です。シンシアって言います。ハンメルトさんは以前よく店にいらしてて、お一人の間は当店が食事のお世話をさせていただいてたんです。でも、新しい方が来るなんて知らなかったので……ごめんなさい」

「いえ、謝る必要なんて。あの、それ頂いてよろしいですか?」


 バスケットを指差しながら問うと、シンシアはびっくりしたように目を丸くした。


「えっ。でも、あなたの仕事……」

「クラエス様のために作ってくれたのでしょう? だったら、勿体無いもの。あ、ダメだったら無理にとは言わないけど」

「ううん。ダメじゃないです、そんなこと……!」


 慌てて否定するシンシアは、首がもげそうなくらいブンブンと頭を振った。その慌てようが可笑しくて、リルレットはつい噴出してしまう。するとシンシアはぴたりと静止して、こちらを凝視した。


「あ、ごめんなさい。笑っちゃって。悪気はないんだよ? ただ、可愛いなって」

「かっ……」


 シンシアは首から頭の上まで、見る見るうちに真っ赤になった。そして、


「可愛くなんてないですー!」


 と叫ぶと、手にしたバスケットをリルレットに押し付けて、逃げるように立ち去った。その姿は門を出てすぐ曲がったせいであっという間に見えなくなる。

 言葉を挟む間もなく取り残されたリルレットは、しばし唖然として立ち尽くしていた。彼女の正気を取り戻させたのは、バスケットから漂ってくる良い匂いと、手に伝わる温もりだ。ナプキンを持ち上げると、野菜と鶏肉を挟んだサンドウィッチと果物だった。ぐぅ、と腹の虫が鳴る。


「あぅ」


 誰にも聞かれてはいない。が、恥ずかしい。正直な自分の身体に恨めしさを感じつつも、リルレットは朝食をクラエスに届けるため屋敷に戻っていった。

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