閑話 レイカの憂鬱
リルレットがハンメルト邸の門を叩く前夜のこと。
レイカは業務が終わると挨拶もそこそこに職場を飛び出し、ハンメルト邸へと向かった。日はすっかり落ちて空腹も感じていたが、あの男に話をするまでは何も口にする気にならなかった――リルレットの雇用主となるかもしれない男、クラエス・ハンメルトに。
彼とレイカ・マクレーンは、古くからの知人だ。クラエスの家とマクレーン家、そして今は正騎士であるロルフ・ブラントの家は並んで建っていた。その縁で三人は知り合った。昔から馬の合う仲だったが、偶然か運命か、三人とも今は実家を離れて暮らしている。クラエスは父から譲り受けた別邸に、レイカは自ら探し見つけた借家に、ロルフは騎士団の宿舎に。ロルフは時々実家に戻っているようだが、クラエスとレイカはもう何年も家族の顔を見ていない。
レイカが実家を離れたのは、彼女の仕事が原因だった。レイカは、両親から早いうちに結婚することを望まれていたが、本人はまず働いて一人前になりたいと考えていた。結婚して家を仕切るのも貴族の女として大事な役目だということは分かっている。しかし、レイカは貴族である前に王国の民の一人として、王都の暮らしを知りたかった。その結果、婚期を逃して行き遅れてしまうかもしれないことも承知の上だ。
これはレイカの我侭だ。だが、一度しかない人生、後悔は絶対にしたくない。
結局、両親とは分かり合えなかったが、祖父という心強い味方を得たレイカは何とか自立することができた。だが勘当同然で飛び出したことに変わりはなく、実家には戻りづらくなってしまった。今は少しだけ後悔している。もっと早いうちに勇気を出して帰っていたら、今頃両親と仲直りできていたかもしれないのに、と。
一方のクラエスの事情は、レイカもあまり詳しくは知らない。だが、彼女の家よりもずっと複雑な事情があることは確かだ。もう二度と実家に顔を出すつもりが彼にないことも薄々と感じている。
が、今はそれぞれの家庭事情より大事なことがある。
他でもないリルレットの未来だ。
レイカは、王都で働きたい人にはぜひ王都で働いてもらいたいと思っている。多くの人に王都の空気を吸ってこの国を好きになってもらいたいのだ。リルレットにはその意思があり、頑張りも十分だった。しかも王都が好きで、これからもここに住みたいと思っている。レイカも、中途半端のまま故郷に帰ってほしくない。リルレットにはグランリジェで幸せになる権利があるのだ。
だから、そのために――リルレットが心安らかに暮らしを勝ち取るために、なんとしてでもクラエス・ハンメルトに話をつけなければならない。
用心することを知らない開きっぱなしの門を潜り、ノックなしに玄関を開けようとする。が、さすがに夜は鍵がかかっていた。だが勝手口は――。
「馬鹿ね! こっちもちゃんと戸締りしないと意味ないじゃない」
勝利の言葉を口にしつつも、口調は苛立たしげだ。「まったく、鍵も掛けないなんて無用心にも程があるわ。泥棒に入られたらどうするのよ、最近の泥棒は包丁とか持ってて危険なのよっ」と、切れ長の目が物語っている。
ずかずかと無遠慮に上がると、台所の方で「あらぁ?」と呑気な女の声がした。レイカはその声には構わず、食堂の扉を開く。相変わらず面倒な構造だと思いながら更に正面の扉をくぐって小さな玄関ホールに出ると、足を止めずに左手に曲がって書斎を目指した。
「クラエス、いるんでしょ! 寝てるんなら起きなさい!」
目的の人物は、本棚や魔術道具が積み重なった大きな机に突っ伏していた。案の定、座ったまま寝ていたらしい。彼はレイカの剣呑な声に気付くと、面倒くさそうに上半身を起こした。
「何か用、こんな時間に? 誰の許しも得ずに勝手に上がりこむなんて、これがマクレーン家のご令嬢のすることか」
クラエスの嫌味は無視して、レイカは高圧的に腕を組んだ。
「こんな時間って言うけどね、あんた今が何時か正確に言えるの? 時計もないじゃない、この部屋」
「どこかにあるよ、たぶん」
「あったとして、螺子が取れてるか巻いてないかの役立たずに違いないわ。そんなことどうでもいいのよ。あなたの時間管理の放漫さに物申しに来たわけじゃないの、あたしは」
「じゃあ、さっさと用件を言ってくれないか」
ぎしりと椅子を軋ませて、クラエスはゆったりと背凭れに体を預ける。その態度にレイカはイラッと片眉を跳ね上げる。つかつかと――足元に絨毯が敷かれてあるので、靴音はしないが――中央に歩み寄り、傷一つない白い手をばんっと机に叩きつける。職場の予算をきりつめた安いカウンターならいざ知らず、厳選された高級品であるハンメルト邸の机はびくともしない。
……ちょっと痛かった。
「…………」
「……キミは昔から怪力だったけど」
「う、うるさいっ。昔のことを持ち出すなら、あたしだって言いたことはたくさんあるわよっ」
すると、クラエスは大人しく押し黙った。言葉以上の効果をあげたものの、レイカは内心やってしまった、と後悔した。だが、ここで弱味を見せてはならない。動揺を気力でカバーし、さっきよりは少し落ち着いた声で切り出す。
「あんたと言い争うために来たんじゃないの。今日は仕事の話をしに来たのよ」
「仕事?」
「忘れた? 使用人の件。あんた、依頼出しっぱなしだったでしょ」
眉をひそめる友に事実を突きつけてみれば、彼は肩を竦めて一言、「忘れてた」と言った。
「そんなことだろうと思ったわ。でも、引っ込めるつもりもなかったでしょ?」
「まぁね。続いてくれる使用人がいれば、助かるし」
「それよ、それ。今回の子にはどうしても頑張ってほしいのよ」
レイカは鞄から一枚の用紙を取り出し、書類やら何やらが散らばる机に置いた。クラエスは手を伸ばしてそれを取り、感情の読めない翡翠の瞳でじっと読み始める。そんな彼に溜息をつきたい気持ちを抑えながら、レイカは自分の思いを打ち明ける。
「その子ね、リルレット。あたしの大事な友達なの。とても良い子なのよ。ま、あんたにこんなこと言っても仕方ないでしょうけど」
当て擦るように言うと、クラエスは困ったように笑って、紙を机に置いた。いつの間にか、妖艶な女が二人の頭上に浮いて熱心に用紙を覗き込んでいる。魔人に人の文字が読めるのだろうかと疑問に思いつつ、レイカは勝手に続ける。
「それを読めば分かるでしょうけど、彼女仕事が続かないのよね。といっても、やる気がないとか不真面目だとかいうんじゃないわよ。むしろ、やる気も真面目さも十分。能力が足りないことはあるかもしれないけど、あんたんとこなら大丈夫だと思う。家事は手馴れてるって言ってたから。一度彼女が泊まってる宿にお邪魔したことがあるけど、綺麗に整頓されてたわよ。田舎の村出身だから、行儀作法には不安があるけど……まさか、今更マナーがなってないヤツはお断りだとか言わないでしょ?」
「言わないよ」
当然だ、という風にレイカは頷いた。彼が礼節を重んじる人間なら、使用人に辞められて困ることはないからだ。しかし、クラエスは冷静に反論する。
「だけどね、レイカ。彼女が辞めたいと言えば、俺はそれを拒むつもりはないよ。今までの人たちもそうだったし、俺は俺でこれまでと態度を変えるつもりはない」
「ま、それは仕方がないわ。あたしにあんたの態度を決める権利はない。ただ、一つだけ付け加えさせて」
「なに?」
「ただの一回でもあの子の心を傷つけたら、責任取ってもらうから」
首を傾げるクラエスに、レイカは凄んだ。少しの欠点もない完璧な美貌に笑みを貼り付けて。何も知らない人間は、この笑顔に騙される。彼女が笑顔で冗談を言う人間でないことを知らないのだ。逆に言えば、今の彼女は本気だということだ。
クラエスはしばしレイカの言葉を噛み締めるように目を瞑り、生徒みたく片手を挙げた。
「何かしら、クラエス君」
「その子のことをほとんど何も知らない俺に、絶対に彼女を傷つけないなんてことは可能だろうか」
「頑張ればできる。信じてるわ、あたし」
身も蓋もない。次の質問も真っ当な答えは半ば諦めつつ、クラエスはもう一度手を挙げた。
「……もう一つ。責任取るって、具体的にどうすればいいのかな」
「もちろん、結婚よ! 責任とって、結婚して。そうすればリルレットはずっと王都にいられるわっ」
嫌な予感はど真ん中に的中した。見るからにテンションの上がったレイカを止めるべく口を開こうとすれば、それを上回る速さで捲くし立てられる。
「そっちにだってメリットはあるわよ。リルレットはとっても良い子だから、きっとあなたも気に入るはず。マルギット・バルテルスみたいなのは嫌でしょ、いいのよちゃんと分かってるから。ヘンニ・フリークルンドとかリリアナ・ベナークとか……あんたって本当面倒くさいのに気に入られる性質よね。まぁそんなことはどうでもいいわ、興味ないし。あたしが心配してるのはリルレットのことなのよ。もしあんたんとこがダメだったら田舎に帰っちゃう勢いなんだからね、どうしてくれるのまったく。あたしがどれだけあの子に目をかけて――コホン。とにかく、そういうわけだから。ちゃんと責任は取るのよ、分かった?」
「そう言われてもね……」
「――ま。結婚は冗談だとしても」
抵抗を試みようとすると、レイカはむすっと不機嫌な顔をして再び遮った。
「あんたみたいに嫌味なくらい綺麗な顔した男が仏頂面でそこにいるってだけで、女にとっては威圧になるのよ。まずはその顔を何とかしなさい」
「どうしろと。笑えとでも言うのかい、面白くもないのに?」
「そうね。それがいいわ。無理にでもずーっと笑っていてちょうだい」
「さっき、俺の態度を決める権利は自分にはないとか言わなかったっけ」
「あら、これはあなたのための提案でもあるのよ。使用人がころころ変わるのは面倒なんでしょ」
まともな反論を返され、クラエスは言葉に詰まった。確かに以前、長続きする使用人がほしいと言った覚えがある。それも一人で全てをこなしてくれる人でなければならない。二人以上雇えば必ずその間で会話が生まれる。多少煩くても我慢できる自信はあるが、ストレスは溜めたくない。
幼馴染ゆえに、容赦するということをレイカは知らない。クラエスは諦めて要求を呑むことにした。
「分かった。やってみるよ。キミの友情には参ったね」
両手を挙げてお手上げのポーズ。予行演習のつもりで笑んでみせる。物腰の柔らかそうな、完璧な笑顔がそこにあった。
それを見たレイカは眉を曇らせた。了承を得られたというのに、なぜか浮かない顔だ。不安要素が一つ減ったことは、リルレットが平穏に過ごせる可能性が広がったということだ。レイカにしてみれば喜んでしかるべきである。
しかし。
(こんなことじゃ、こいつの人間不信は治らないか)
日の光のような笑顔に晒されたのは、彼の心に深く根付く暗い影だった。それを引っ張り出したのが自分だということに、少しだけ後ろめたさを感じる。レイカにとってリルレットは大切な友達だが、クラエスもまた同じくらい大事な幼馴染なのだ。誰とも会わず、魔術の研究にのみ没頭して生きるのは本来の彼ではない。だけど、何年も屋敷に篭るクラエスを見るうちに何が本当の彼なのか分からなくなってしまった。
いつか、昔の彼に戻ってくれるとよいのだが。そう願う反面、そんな日が訪れるのだろうかと胸が支えるような思いも存在する。
重たい身体を引き摺り家に帰ったレイカは、二人の友人の行く末を思いつつ、深い眠りに落ちたのだった。