人質、それとも
「今度はイフリータを人質にね」
ふよふよと浮いた魔術の明かりに照らされて、クラエスの表情に影が落ちる。
監視は依然として続いているようだが、リルレットたちに接触してくる様子はない。そのおかげで、話す時間は十分取れた。
以前リルレットを使ってクラエスを苦しめようとしたように、今度はイフリータを利用するのではないか――そんな推測をリルレットは二人に披露した。盗み聞いた敵の会話を基にしているので、可能性は高いのではないかと思う。
「敵は結構追い詰められてるんじゃないかって思うんです。緊張してたからうろ覚えなんですけど、『一度失敗した計画をまたやるのか』とか何とか言ってたんです。それって他に手がないからですよね」
クラエスはひとつ頷く。
「目的は俺を苦しめること。だが、苦しめ方にも色々ある。家族や仕事を奪ったり、経済的に困らせたり、出世を妨害したり。ただ俺の場合、大概のことはどうでもいいって思ってるからね。魔術の腕さえあれば仕事には絶対困らないし。養父が残した家は大切だけど、所詮は人間の容れ物だし。俺のことを調べた時、敵さんは頭を抱えただろうなと思うと笑える」
「笑わないで、他に執着するもの持ちましょうよ」
「ん? 反論してほしいのかい?」
流し目の意味に気がついて、リルレットは気まずそうに頬を染めた。「そういうんじゃないです」と抗議する声が小さい。
いつの間にか寝てしまったリルレットは、体が揺すられる感覚と声で目を覚ました。
「う……?」
真っ先に目に映ったのは自分の膝。器用にも膝を抱えて眠り込んでいたらしい。伸びをして関節を解しながら、はてここはどこだろうと思い辺りを見回す。その視線が隣にぴったりとくっついて微笑むクラエスを捉えた瞬間、全身がぎくりと強張った。
にっこりと爽やかな笑顔。
「おはよう、リル。やっと起きたね」
「……おはようございます」
くっついているだけではなく、抱え込むように彼の手が肩に回されている。まさか一晩中こうしていたのかと青くなり、いやいやそんなはずはないと真剣な顔で頭を振る。
瞬きの少なくなった彼女の表情を楽しんでいたクラエスは、やがて堪えきれずにくっくっと笑い出した。
「な! 女の子の寝起きの顔を見て笑うなんて、趣味悪いですよっ」
「いいじゃないか。減るもんじゃなし」
「乙女心は傷つきやすいんです! 壊れたらおしまいなんですからねっ」
「それじゃあ大事にしないとね」
そう言うと、つ……とリルレットの頬に指を滑らせる。言葉通り労るような繊細な手つきだったが、彼女はなぜかぴんっと糸でも張られたように身動きが取れなくなった。
目と目がぶつかり、言葉を失う。
力仕事をほとんどしない細い指が、頬にかかる横髪を耳の後ろへ流す。産毛を撫でられるようなこそばゆさにリルレットはぴくりと肩を揺らしたけれど、見開いた目はまっすぐクラエスをみつめたままだ。暗示にでもかかったかのように、目を逸らすことができない。
クラエスはリルレットの癖の強い茶髪を梳いた。一回、二回、三回と。それがいつもの優しさから来る行為だと分かると、リルレットはほっと力を抜いた。彼の肩に頭を載せ、身を委ねる。そのまましばらく、為されるがまま髪を撫でられていた。
「すまない」
「……どうしてクラエス様が謝るんですか」
ぽつりと呟かれた謝罪に、リルレットは疑問ではなく否定の意思を込めて答える。落ち着いた口調だが、子を叱るにも似た響きがあった。
「謝ったって無駄ですよ。危ない目に遭うのがクラエス様のせいだなんて、私これっぽっちも思ってませんから」
「俺に原因があるのは明らかだ」
「ないです」
「いや、実際に――」
「ないんです。厄介な人に目をつけられた、それだけです。運が悪かったんですよ」
それから、とリルレットは続ける。
「あの金髪美人が最初に私に狙いをつけたのは褒めるべきだと思います」
「褒める?!」
「ええ、そうです。だって、私がいなくなったらクラエス様が悲しむって確信したから手を出したんでしょ。周りからそう見えてるってことじゃないですか。嬉しいです。にへへ……」
と、実に締りのない顔。危機感のなさにクラエスはきょとんとした後、無言でリルレットのほっぺたをムニムニと揉みはじめた。「何するんですか」と抗議する声も無視し、頬を揉みしだこうとする男とそれを阻止しようとする女の攻防がはじまる。
「だ、だからぁっ! やめてくださいってば! 家に帰ったらやってもいいですから!」
「いつでも?」
「いつでもはちょっと……」
再び手が伸びる。
「わー! いいです! 許します! いつでも来いです!」
投げやりに言うと、クラエスは満足したようににっこりした。
はーっと大きく息を吐きだしたりルレットは、見上げた彼の顔に少しばかり朱が差しているのをみつけて瞬きする。
「もしかして、照れ隠しでしたか?」
クラエスは無言でさっと顔を背けた。図星だ。これは珍しい。思わず笑いがこみ上げてきて、リルレットは口の端をむずむずさせた。興味深くみつめられているのが分かるのか、彼は決して顔をこちらに向けようとしない。それがますます面白くて、声を押し殺して笑った。
「リル」
「フフフ。いいんですよ。照れるクラエス様は貴重です。これからもたまに見せてほしいです」
「…………」
小さく聞こえる溜息。抗うことを諦めたようだ。
その時、二人の頭上に影が差したかと思うと、少年が民族衣装を靡かせてスタッと目の前に着地した。
びっくりして目を白黒させていると、ナシートがとてもいい笑顔を向ける。そういえば目が覚めてから一度も彼の姿を見ていなかったことに、今更ながら気がつく。
「報告! こっちに近づいてくる気配を察知! あと二十分くらいで来そう」
「やはり向こうから接触してくるか」
「え? どういうことですか?」
リルレットはわけが分からずクラエスとナシートの間に視線を行き来させる。
「イフリータを餌にするつもりなら当然考えられることだ。ボスの姿はあった?」
「姿は見てない。離れたとこから気配を感じただけ。なんたって数が多かったからさ、近づいたらバレそうだったんだ」
「多いってどれくらい?」
「五十くらいかな」
「多っ!」
思わずリルレットは小さく叫んだ。
よく分からないが敵がこっちに来るらしい。
そして五十くらいいるらしい。
こっちはたったの三人、しかもリルレットは戦う術を持たない。
絶望的な状況ではないかと二人の顔を覗い見るけれど、まったくもって緊張の欠片もなかった。
「どうせ有象無象だろう」
「兄ちゃんの言う通り。ほとんどが小型の魔獣で、そっちは大したことはない。人間は二、三人かな」
「ふむ」
ナシートは大したことないと言うが、昨日襲ってきた三ツ首の魔獣のような魔獣が何体もいたら大変なのではないか。十分脅威だと思うのだけど。
でもクラエスの魔術は強力だし、ナシートも相手を石ころのように蹴り飛ばしてしまうくらい強い。そんな彼らからすれば大したことないレベルなのかもしれない。
「あ、でも一つだけめちゃくちゃ強い気配があったよ。正直オレ震えたね。一回だけだけど。一回ぽっちだけど。色んな国に行ったけどさー、あんな強烈な火の気配には会ったことない」
「……火?」
クラエスがぽつりと反応する。
「うん。気配ってのは当たり前だけど目には見えないんだ。でもそいつは、周りの景色がゆらゆらと揺らめいて見えた。陽炎っつーのかな。そのせいで、他の気配も実は上手く測れなかったんだよなー。もしかしてあれと戦えんのかな。わくわくするなー。勝てる気しないけどー」
ナシートは呑気に笑っている。負ければ死ぬかもしれないのに。これは戦闘狂だ、近づかない方がいいと、リルレットは心の中で距離を置く。
無意識に体も動かしていたようで、肩が隣に座るクラエスにぶつかった。謝ろうとすると、彼はうつむき加減に思案し、体がぶつかったことにも気づいていなかった。
「クラエス様?」
「繋がりが弱くなってる。まさか……。でも、完全には……。逆に……」
誰に対して言うでもなく、ぽつぽつと独り言を呟いている。その姿は真剣というより何かに憂えているようで、リルレットは強い不安を覚えた。
――いつもの目じゃない。
凪いだ水面のように穏やかな彼の目が、今はほのかに揺れている。瞳に何も映していないどころか、リルレットの声も届いていない様子だった。
「クラエス様!」
「あ……。すまない、何?」
やっとこちらを向いたクラエスだが、焦点はおぼつかないまま。辛うじてリルレットを捉えているといった様子に、心配する言葉さえ出てこなかった。
そこへ、話が進まないことに業を煮やしたナシートが割り込む。
「なぁ、どうすんの? とりあえずオレが先行してウゾームゾーを減らしてこようか? それとも待ち受ける?」
「ああ、えーと。そうだね。いくらか減らしてほしい。でも、人間や君の言う強い気配には手を出さないように。最終的にはここまで連れてきてくれ」
「なんで?」
「勝てる気がしないんだろう?」
「人間には負けねーよ!」
クラエスは困ったように苦笑する。その表情からは、ナシートのことを手のかかる弟のように感じているのが見て取れた。
「森の中で戦うより、少しは見晴らしの良いここの方が向いている。俺は戦闘訓練を受けたことがあるわけじゃないから。それに、敵と向かい合えば話をする余地も生まれると思うんだ」
「兄ちゃんは話がしたいのか?」
「どんな奴なのか知りたいってところかな。捕らえてからでもいいし、どうしてもというわけじゃない」
「ふーん。そういうことなら分かった。任せろー!」
そう言うが早いか、ナシートは猿のように飛び出していった。クラエスが言ったように、近くには木がなく隠れる場所も少ない。なのに、彼の姿は瞬きする間もなく離れた茂みの奥へと消えてしまった。本当に、どんな身体能力をしているのか。
しばし、クラエスと一緒に呆気にとられて見送る。
「えっと、もう行かせてよかったんですか?」
「まあ、いいんじゃないかな」
ならいっか。
リルレットも切り替えは早い方だった。
「そうだ、クラエス様。さっき捕らえるって言ってましたけど、どうやって?」
「昨晩のうちに、ロルフに魔術で伝令を飛ばした。あいつ経由で、こっちの――ウェスター卿に兵を送るよう要請してもらう。俺が直接言うより早いだろうから」
「そういうものですか?」
「そういうものだよ」
コーデリアとは個人的な顔見知りに過ぎない。ましてやその夫のヒューバートとは話したこともなければ会ったこもない。一方、クラエスは才ある若手とは言え一魔術研究員に過ぎず、いきなり魔術で伝令を飛ばすような無礼をするわけにはいかない。その点、ロルフの所属する騎士団からなら正式な要請を飛ばすことができる。
「早く全部終わるといいですね」
「……そうだね」
頷くクラエスの顔には、色濃い翳りがあるのだった。