救いの手
――イフリータは炎を支配する魔人。彼女と契約した人間もまた、炎を巧みに操るという。
助けに来てくれたのがイフリータなのか、それとも咄嗟に名を呼んだ人なのか、リルレットは最初分からなかった。ただ、二人のうちどちらかだと確信した。
だって、こんなピンチで、絶妙のタイミングで、二人の得意な炎で、助けてくれる人なんて他にいないもの。
炎が踊る。魔物も踊る。熱さと痛みと苦しみに悶えて。魔物と言えど、それは恐ろしい光景だった。
正直、見たくない。けれど体を縛る恐怖はなかなか解けてくれなくて。
震える彼女の前に跪き、その小さな肩に夜色の外套を被せた人影がなければ、リルレットは死のダンスを最後まで見る羽目になっていただろう。
今見ているのは、燃え盛る炎でも魔物の最期でもない。
金糸のように細い髪。深みのある翡翠の瞳。涼やかな目元には、溢れんばかりの愛情と慈しみ。その唇から柔らかい吐息が漏れると、リルレットの震えが自然と収まった。
「良かった。リルレット、無事で」
「あ……く、クラエスさま……」
弱々しく名を口にする少女に、彼はふわりと笑う。
――せっかく会えたのに。
たった一日にも満たない間に、何度も何度も会いたいと願った。
なのに、涙で滲んで顔がよく見えない。
溢れ出す安心を止められない。
「ぐ、ぐらえずざまぁ!」
「ざまぁて。え、何? 心の中でそんなこと願ってたの?」
「ぢ、ぢがいまずぅ! はにゃ、はにゃみず……」
ずずーっと勢いよく洟をすすると、閉じた瞼から涙の粒がこぼれて視界が良好になった。ぱちぱちと何度か瞬きをすると、困ったような、思い切り笑いたいのに堪えているようなクラエスの顔が見える。
「元気そうで何より。大きな怪我はないみたいだね」
「はい、おかげさまで……」
恥ずかしいところを見られてしまったと、やや顔を赤らめて俯く。クラエスは彼女の頬に手を当て、残った涙のしずくを拭った。その際、なぜか彼は顔を顰めた。
「リルレット」
「はい?」
深刻そうな声色で名を呼ばれたので、きょとんとして応える。
クラエスは何も言わず、土の上に置かれたままの彼女の左手を取った。そして、流れるような動作で手の甲に口付けを落とす。
「!」
突然のことに、物差しを入れられたみたいに背筋がピンと伸びた。
口付けは一瞬。クラエスの顔はすぐに離れ、窺うような表情でちょっと首を傾げ、
「どう?」
と尋ねてきた。
「どどど、どうとは!」
「体、暖まった?」
「え」
「頬がかなり冷たかったから、寒いのかと思って魔術で暖めてみたよ」
「あ」
――言われてみれば。
今まで気づかなかったが、かじかんで動かしにくかった指先が今はやすやすと曲がる。顔もそうだ。お風呂に入った後みたいにぽかぽかする。決していきなり口付けされたからではない、たぶん。というか、そうする必要はあったのだろうか。疑問だけれども。
「あったかいです。ありがとうございます、クラエス様」
「どういたしまして」
礼を言えば、優しい微笑みが返ってくる。
それを見たリルレットの胸が、万感の思いで満たされる。
――ああ。会えたんだ。来てくれたんだ。こんな山の中にまで。やっぱり好きだな。手を繋ぎたい。早くみんなで家に帰りたい。
イフリータのことを口にしようとした、その時だった。
クラエスの背中越しに、全身を黒焦げにした三ツ首の魔物がふらり立ち上がった。毛は縮れ、端の首がぐったりとして、開いた獰猛な口から黒い煙が立っている。それでもまだ息があったのだ。
「クラエス様、あぶない!」
悲鳴のような声を上げ、クラエスを押しのけようと手を伸ばす。
しかしそれよりも早く。
「セイヤー!!」
上空から矢のように飛んできた何かが、視界を横切ったかと思うと巨大狼の横っ腹に突き刺さった。そのまま魔物ごと、「どーん!」と岩壁に衝突する。
僅かに地面が振動し、衝突で巻き上がった土煙がもくもくと立ち上り、リルレットは思わず身を竦めた。すぐさまクラエスが肩を抱き、大丈夫というようにぽんぽんと背を叩く。それでとりあえずは安心できたが、何が起きたのかはさっぱり分からない。
やがて土煙が晴れてくると、岩壁に文字通り突き刺さった魔物の巨体と、どこか見覚えのある風体をした少年が見えてきた。
鳥の羽を使った民族風の飾りと縄を編んだような文様が特徴的な衣装。幼さと精悍さの中間といった顔立ちは、リルレットにとって忘れたくても忘れられない憎っくき一味の一人。
そう、ナシートだ。
「あー! あの時の誘拐犯!」
リルレットは、びしぃっと指を指し、これでもかと目を吊り上げる。
その声にびっくりした少年は、目をまん丸にして半身引いた。
「あッ。そういうそちらさんはあの時の……」
「そうです! あの時の私です! ここであったが百年目、今日こそ蹴りを入れてやる!」
「あッ。ごめんなさい。ではこの辺に……」
と、体の一部を指差すナシートへ突進しようとするリルレットを、クラエスは敢えて止めなかった。
そして、指定された場所に十点満点の蹴りを決めたその後。
クラエスから簡単な経緯を聞いたリルレットは、眉を八の字に下げて申し訳なさそうに頭を下げた。
「その、ごめんね。怒りに任せて蹴っちゃって」
「なんのなんの。悪いことしたのオレ。蹴りたい時に蹴っていいよ」
「いえ、そういう趣味はないので……」
丁重に辞退する。
イクセルがリルレットを拐かした時、彼に雇われた一人がナシートだった。無一文だった彼は、国に帰るための金につられてイクセルの仲間になったのだった。しかしそのイクセルは表向き罪を免れたため、その雇われ者である彼らも放免されていた。被害者であるリルレットにしてみれば冗談かと思うような裁定だが、これが貴族のやり方だと言われれば反論できない。リルレットが貴族であれば違ったのだろうが。
それはともかく。
首がおかしな方向に曲がったナシートは、今、リルレットの正面に正座している。彼女が蹴りを決めた際、運悪く突き出した木の枝で頭を打ち、首の筋を違えたのだった。痛みで軽くのたうち回っていた姿が気の毒だったこともあり、流れで謝ったというわけだ。
まだ少し複雑な気持ちだが、助けてくれたことに変わりはない。クラエスが山に立ち寄ることになったのも、ナシートから気になる情報を入手したからだというし。
「最初は遠くからざっと見てみるだけのつもりだったんだけどね。途中、イフリータの魔力に異変を感じたから」
イフリータがいるということは、リルレットも山に入っている可能性が高い。なのでもう少し近くで様子を窺おうとしたところ、今度はナシートが異常を察知した。曰く、「強い魔獣がいる」と。
「なんとなく分かるらしい」
「なんなんですか。その能力」
「故郷じゃ普通だぞ?」
「普通じゃない故郷なんですね……」
ナシートはそれを『気功』と呼んでいた。彼の故郷では、魔力のことをそう呼ぶのだろう。使い方も、エリュシオンでは一般的な自然現象に変化させる魔術ではなく、肉体を強化する方法を主流とするらしい。自分より何倍も大きな魔獣を蹴り殺した先程の技も、気功によるものだ。
ふと、リルレットは不安を覚える。
「じゃあ、魔獣を操るというのも……」
「魔獣を? リル、どういうことだ」
「えっと……。最初から話します」
説明に困ったリルレットは、そう前置きすると話しはじめた。ところどころつっかえつつも語ったのは、クラエスが知りたかったこと――事件の核心に迫るような話だ。
聞き終えたクラエスはしばし腕を組んだまま黙考し、やがて長いため息をついた。
「俺がいないところでそんなことになっていたとはね」
「ご、ごめんなさい。勝手なことして」
「いや。謝らなくていい。万が一のためにイフリータを付けていたんだから」
そのイフリータが山登りを提案した結果、こんなことになってしまった。大丈夫だろうと判断を下したクラエスの責任であるとも言える。
彼は深刻な表情を浮かべて唸る。
「さっきの三ツ首の魔獣、本来ならもっと北に生息しているはずだ。図鑑でしか見たことないが。それがここにいるということは、その魔獣使いとやらが持ち込んだのかもしれないね」
そもそも、王国内に魔獣は少ない。もともとの生息数が少ないこともあるが、定期的に魔獣討伐のために軍が動くからだ。その甲斐あって、強力な魔獣は滅多に出現しない。
「まあ、魔獣のことは置いておこうか。あれより強力な個体を操っている可能性もあるが、その時はその時だ。俺とナシートで対処するしかない」
「さっきの、やっぱり魔獣使いが操ってたんでしょうか?」
「だろうね。たぶん、リルレットを監視してたんだよ。今もどこかで見られてるんじゃないかな」
と、クラエスが言うと。
「うん。確かに何方向から見られているなー」
こともなげにナシートが頷く。
リルレットはげんなりして、つい「うげー」と低い声を出した。
「手を出してこないってことは、向こうにも何か考えがあるんだろうね。かと言ってこちらから動くのもまずい」
「道分かってるし、オレと兄ちゃんがいれば魔術と気功で馬車のとこまで戻れるだろうけど、そん時は確実に動くだろな。敢えて動かすのもアリだと思うけど」
「リルレットがいるから駄目だ。安全を優先する」
「分かってるよー」
話している間に日はだいぶ傾き、闇の帳が落ちつつある。そのため、魔術の光を灯していた。少しでも安全を確保するために崖ギリギリに場所を取り、風よけの結界を張っている。気配の読めるナシートが周囲を警戒し、万全とは言えないものの落ち着いて話せる環境が出来上がっていた。
不思議なことに、リルレットはあまり恐怖を感じなくなっていた。
さっきまでは一人ぼっちだったし、これからの算段もつかなかった。不安しかなかった。しかし今はクラエスが――ついでにナシートもいて、こうして意見を交わし合っている。戦闘になれば自分は邪魔でしかないが、生き残れる可能性がほぼゼロだったさっきまでと比べれば希望がある。
しかし、全く不安が消え去ったわけではなかった。
「クラエス様、イフリータさんは……?」
おずおずと尋ねる。
よくない答えが返ってくることを恐れて、少し声が震えた。
クラエスはそんなリルレットをちらりと一瞥し、安心させるように微笑む。
「大丈夫。まだ繋がりを感じるよ。酷く弱っているのか場所までは特定できないけど、生きているのは確かだ」
「ほ、本当ですか!」
思わず身を乗り出して確かめると、クラエスの微笑が苦笑に変わった。
「よかった……」
何も解決はしていないが、無事だと分かっただけでも意味がある。とてもとても大きな意味だ。
リルレットは表情を引き締めて、膝の上に置いた手をぎゅっと固める。空気が変わったのが分かったのか、クラエスとナシートも無言で聞く姿勢を取った。
「あの、さっき言ってた敵の考えですけど……」