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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第六章
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 判断を誤ったかもしれない。

 日が落ちかけて、辺りは薄闇に包まれている。身動きが取れなくなったリルレットは、辛うじて身を隠せる窪みに蹲って自らの行動を反省していた。

 顔に傷のある男は何とか上手く撒くことができた。危ない場面は何度かあったが、物陰に隠れてやり過ごしている内に、いつの間にか男はいなくなっていた。きっと他の場所を探しに行ったのだろう。

 下生えに潜んだりしたので手足や頬はかすり傷でいっぱいだ。が、深窓の令嬢でも何でもないリルレットにとってこの程度は傷のうちにも入らない。舐めときゃ治るというもんである。

 とは言え、汚れを落とすくらいはしたい。イフリータと休憩した湧水がどこかにあるはずだが、とにかく方向を気にせず逃げたので、どこがどこやら分からない。それ以前に、薄闇の帳が降りた山を歩くのはなかなか、いやかなりハードルが高かった。


(ああ、どうしよう。時間がない。でもきっとまだ私のこと探してるし、獣にも気をつけなきゃだし)


 できれば、自分でイフリータを助けに行きたかった。

 別れ際に聞いたあの悲鳴が、今も頭から離れない。

 いつもふわふわと笑うイフリータから発せられたとは思えない、苦痛にまみれた悲鳴だった。

 少し前も無理をして、やっと最近小さいながらも人型に戻れたところだったのに。

 今度は前よりも酷いんじゃないかと考えると、リルレットは体の芯から這い上がる震えを止められなかった。前より酷い、のその先は考えないようにしていた。


(イフリータさん……)


 リルレットはぐっと奥歯を噛み締め、心の中で謝罪した。

 戦えない。守れない。何の力にも立てない。助けを呼びに行くことすらもままならない。涙を我慢するのが精一杯だ。

 不安でじっとしていられなくなり、そろそろと窪みから這い出る。

 視認できる範囲に人はいない。危険な獣もいなさそうだ。

 ほっとしつつ立ち上がる。

 剥き出しの肌に寒さが突き刺さる。腕を擦ろうとして、リルレットははたと気付いた。

 上着を脱いだ原因――山の夏化が止まっている。というより、元に戻ったのか。

 なぜと考えて、リルレットはやめた。魔術師でない自分が考えたところで、分かりっこないに決まっている。異常気象の原因はある意味専門家であるイフリータにも分からなかったのだから。

 とにかくと、逃げる時にも手に持っていた上着を羽織った。これで少しは耐えられる。

 しなければならないのは――助けを求めること。犯人たちの会話をクラエスに知らせること。

 そのためには山を下りなければならないが、これは不可能に近い。

 自分に唯一できるのは、助けを待つこと。クラエスと連絡を取る方法は――ない。イフリータがいれば何とかなっただろうけれど、そのイフリータが一番ピンチだ。

 家族なり何なりの助けを待つにしても、実際に動き出すのは早くて明朝だろう。夜の内に救援が来ることは、絶対にない。

 嫌なことばかり断言できてしまう。

 寒くて、怖くて、心細くて。絶望もどん底に落ちてしまえば泣く気にならない。それだけは良いことと言えるだろう。


「……はあ」


 思わずため息をついて膝を抱えた。

 そうして湧き上がるのは怒りである。矛先はもちろん例の女たち。


「あの人たち、一体何なんだろう」


 魔獣使い。

 復讐者。

 晴嵐の魔石を使って強化した魔獣を操り、王都に差し向けようとしている。王都にというよりは、クラエスにだろう。

 しかし今、クラエスは王都にいない。女たちがやろうとしていることは、全く無意味な行動だ。

 王都周辺は定期的に見回りがされているから、上手くそこに引っかかれば穏便に済ませられそうだが……被害はやはり出るだろう。それに、女たちが捕まらなければ同じことの繰り返しだ。

 最善はこの機に彼女らを捕らえること。

 復讐者である女と、その仲間の魔獣使い、そして手札の魔獣。幸か不幸か、それらが全てこの山に集まっている。

 そのことを知っているのはリルレットと、安否が分からないイフリータだけ。だから、どうにかしてこの情報をクラエスにもたらさなければならないのだ。

 早く、とにかく早く。


「どうすればいい? どうすれば……」


 復讐者の狙いはクラエス。けれど、以前狙われたのはリルレットの方だった。彼の命を奪うことだけが目的ではないのだ。むしろ、死なせるよりも生きて苦痛を味わわせることが主目的なのかもしれない。彼にとって大事な存在を奪うことで。


 ――だとしたら……今度も狙われるのは私なんじゃ?

 自分でそう考えるのは少し恥ずかしかったが、その可能性はゼロではない。

 たぶん、向こうはクラエスと自分は一緒にいるものと思っている。実際大体合ってるのだけど。クラエスが近くにいることは簡単に予想できるだろう。

 となると、魔獣を王都に向かわせる計画はナシだ。わざわざ長距離を移動する危険を冒すより、近場で済ませたいと思うのが道理。

 だったら、どうしてリルレットに向けた追手がいなくなったのだろう? 本当に見失っただけなのか? それとも、他に理由があるのか?


「理由……私の……他に……」


 頭を必死に働かせて考える。冷たい風が良い刺激となり、いつもより倍くらいの速さで脳が回転している。それが功を奏したのか、突然ぱっと閃いた。


「イフリータさん!」


 彼女もクラエスの「大事な存在」に違いない。最近雇われたりルレットのことを知っているくらいだから、当然イフリータのことだって調べているはず。なんたって十年来の相棒なのだ。繋がりはリルレットより深いと言える。


 魔人であるイフリータをどうこう出来るとは思えない。

 ――とも言えないか。

 リルレットは聞いたのだ。彼女の悲鳴を。魔人だって無敵じゃない。ダメージを与える術を持っている。

 もしイフリータが敵の手に落ちたのだとしたら、彼らは次にクラエスと接触を試みるだろう。しかしどうやって? クラエスの居場所を彼らは知らない。イフリータに聞いたって無駄だ。彼女は絶対に喋らない。


 リルレットは居ても立ってもいられず、立ち上がって岩肌に身を寄せた。

 山の西に面した、見晴らしの良い高台だ。足元から先はなだらかな傾斜が広がり、それよりも遠い場所は針葉樹の森が地形を覆い隠している。確か、登ってくる時も森の中を通ったはずだ。街道ほどではないが人の手で造られた道があり、獣よけも施されてある。そこまで行けたら村まで戻れるかもしれないが、残念ながら朝通った森であると確信するところまでは行かなかった。

 薄闇のかかった空に小さな星が煌めいている。空の下の方はまだ少し明るいが、夕闇の気配は確実に濃くなっている。


 ふと――視界の隅で何かが動いたような気がした。

 山の中だし、動物や虫は普通にいる。だから気にすることはないと思いつつも、状況が状況だし、妙に不安を感じてリルレットは辺りを注意深く見回した。


「やっぱり、別に……」


 気になることはない。そう思って、少しばかり安堵した瞬間。

 ぎくり、と全身が強張った。

 心臓を鷲掴みにされたような驚きと、考えうる限り最悪のパターンを引き当ててしまったことへの後悔。その次に恐怖が訪れた。

 鼓動がどっくんどっくんと強く波打ち、不快な耳鳴りが視界をも狭める。

 彼女の両目は一点だけを見据えて動かない。いや、動かせない。

 針葉樹が乱立する、暗い茂みの向こう。まるで悪夢の世界からやって来たかのような真っ赤な光が六つ、爛々と浮かび上がっていた。

 魔獣の目だ。


「……っ」


 悲鳴を上げようとしたが、引き攣ったような声しか出なかった。それで初めて、息を止めていたことに気がつく。連鎖して乱れそうになる呼吸を宥めるのに必死になり、ほんの少しでも恐怖が和らいだのは僥倖だった。


 魔獣は茂みに身を潜めていた。が、リルレットに気づかれたことでその必要はないと判断したのか、のそりとした余裕すら感じられる緩慢さで姿を現す。

 狼のような形をした魔獣だった。

 大きさは大人の馬ほど。毛は黒と赤が入り混じった不気味な色合いで、四肢の先に黒々とした爪を生やしている。もちろん鋭く、一突きで胸に穴が開きそうだ。

 頭が三つ。下に二つ、その隙間を埋めるように、背中から三つめの頭部が生えていた。バランスを取るためか横幅がやや広く、体格もいい。これなら、どんな獲物も確実に仕留めることができるだろう。


 リルレットは、ぺたんとその場に崩れ落ちた。

 この山にこんな強そうな魔獣が棲んでいるなんて聞いたことがない。「なんで」や「どこから」といった疑問が頭に浮かぶよりも先に、数十秒後か、あるいはもっと早く訪れるであろう死を予感し、動けなくなってしまった。

 無意識に体が震える。どんどん体温が冷たくなっていくのを感じる。

 魔物の大きさ、牙の鋭さ、威圧感……異様な姿……抗おうとする意思すらも奪ってしまうほどの恐怖。

 魔物は悠々とこちらへ向かって歩いてくる。害そうという気はないのか、悠長すぎるのが気になるが。

 しかし、リルレットの目の前まで来た時、真ん中の首がぐわっと大きく開いた。吐きそうなくらい血なまぐさい臭気。上下の牙にねらねらと光る涎。それらがゆっくりとリルレットに迫ってくる。

 ――嫌だ。

「クラエスさまっ」

 咄嗟に叫んだ名は、誰にも届かないかと思われた。

 どことも知れぬ山の中。夕闇が迫りつつある昼の終わり。空には星が瞬きはじめる。絶対的な孤独。ひとり。冷たい、怖い。

 嫌なもの全てを集約しても、その名が全部蹴散らしてくれる。

 それを見事に証明するかのように――。

「ギャアアンッ」

 目の前で、魔物が真っ赤に燃え上がった。

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