懐かしき姿
「ふあ~、疲れたぁ」
イフリータに戻してもらったベッドに洗い立てのシーツを被せると、皺を直す前にばふんっと体を放り込む。程ほどにスプリングの利いたベッドは田舎はもちろん宿屋のそれより寝心地がよく、つい目を閉じて眠気に身を委ねてしまう。
一日目が――本格的な仕事始めが明日であることを考えると、正確ではないかもしれないが――とりあえず、無事に終わった。
部屋の掃除とシーツの洗濯を終わらせて、イフリータの案内で簡単に間取りを把握した。その後買い物に行き、食材を買って大急ぎで夕食を作った。クラエスは万事につけて適当であるらしく、食事を取らない日もあるらしいと聞いて愕然とした。リルレットなどは、たとえ吐きそうなくらい緊張していてもご飯だけは食べなければ体が動かないのに。時には一食じゃ足りないくらいだ。
それは置いておいて、最初の料理は完璧だった――少なくとも、不味いとは言われなかった。クラエスは「一人で食べるのも味気ないから」と使用人に同席することを強要し(拒否すると椅子に縛り付けると脅された)、使用人としては恐れ多いくらいの栄誉を受けた。
リルレットは、彼女にある一大決心をさせた食事の席での出来事を思い出していた……。
「今日は部屋を掃除してたんだって? ごめんね、気が利かなくて」
「いえ! 私、掃除好きですからっ。それにイフリータさんも手伝ってくれましたし」
謝られたことに動揺して、あたふたとナイフを持った手を振る。上流家庭のテーブルマナーなど何一つ知らないリルレットは、指の動き一つにも神経質になっていたが、クラエスは全く気にしていないようだった。
「掃除が好きなんて珍しいね。俺が知ってる女性は、埃が落ちてる床なんて見たことないって人ばかりだったよ。掃除って習慣があることも知らないんじゃないかな」
「クラエス様は、お掃除はしないのですか?」
聞いてから、しまったと思った。目の前の青年は爵位を持つ貴族だ。箒や雑巾を持つような地位にある人ではない。
機嫌を損ねるのではないか。心配に思ってそろーりと主人を見やる。だがクラエスの態度は至って普通で、返答は予想の斜め上を行った。
「しようとしたことはあるよ。使用人雇ったり業者入れたりするのが面倒で、自分でやろうと決めたんだ、一度は。だけど俺には向かなかった。部屋を掃除すると、なぜか家具や重要書類含めて綺麗サッパリ物がなくなるんだよね。上司はキレるし知り合いは泣き出すしで、大変だったよ。それ以来自分で片付けるのは禁止されてる。ちょっと神経質だと思うんだけどね」
絶句するリルレットに、イフリータが追い討ちをかける。
『この子はね、魔術以外はからっきしダメなのよ~。その魔術もね、薬の開発に使うからって植物を育ててたんだけど、こればかりは庭師には任せられないって言ってね、自分で世話することにしたの。でもね、翌朝見てみたら全部枯れちゃってて』
「さすがに焦ったね、あのときは。あっはっは」
『でねでね、荒れた庭にもぐらが棲みついちゃって、駆除しようってクラエスが』
「魔術で焼き殺そうとしたら、隣の家も巻き込んで吹き飛ばしちゃったんだよね。幸い空き家だったから怪我人は出なかったけど」
『そうそう、そうなのよ~。知ってる、リルレット? もう一方のお隣さんも、それ以来ずっと空き家なの』
「どうせなら買い取っちゃおうか、隣の敷地。で、イフリータの家を建てちゃおう」
『本当に!? なら温泉っ。温泉ほしいわっ』
「それはちょっと無理かなー」
全く悪気を感じていない二人の笑顔。
リルレットは思った。
(ダメだ、この人たち……っ。誰かが、いや、私がしっかりしないとっ!)
――そんな熱い決意を瞳に宿し、リルレットは拳を固く握るのだった。
「だめ……私が、私がやらなきゃ……ん……」
少しだけ体を休めるつもりだったのに、脳までもが本格的に休息に入ろうとしている。いつもなら仕事始めの夜は後悔と反省の大波小波に揉まれて、つい夜更かししてしまうのが、今日は疲れているせいもあってか、あっという間に寝息を立てていた。
夢の中で、ジーンと自分を見た。
トトルーナ村の草叢に一緒に寝転がって、満天の星空を見上げている。二人、仲良く手を繋いで。
ジーンは十七歳の、最後に見た姿そのままだった。夢の中のリルレットは、十二歳のリルレットではない。四年分成長した、十六歳の《リルレット》だ。けれどそれは偽者だ。なぜなら、本物の彼女はどこか高いところから二人を見下ろしていて、静かに様子を見守っているからだ。
暗くなってから家を出ることは許されていなかったから、こんな光景はありえない。そう知りつつも、彼女の中の何かは今見ているものが現実であると思いたがっている。いや、現実だと信じている。これが夢などとは、まさに夢にも思っていない。
今にも落ちてきそうな星々に、どちらからともなく溜息を零し、懐かしい彼の声が聞こえてくる。声はなぜかすぐ傍でした。
『俺、リルが好きだ。太陽みたいな匂いがするから』
その告白に、《リルレット》はなんと答えたのか。草叢に横たわる自分はただ微笑んで夜空を見ているだけ。あれは偽者だ、答えられるわけがない。見下ろすリルレットは思わず叫んでいた。
――私も好きだよ! ジーンが好き!
しかし、必死の叫びは届かない。喉が痛いくらい声を張り上げているつもりなのに、音として聞こえてくるものは何一つないのだ。反応のないリルレットに寂しそうな顔を向け、ジーンは立ち上がる。
――待って、行かないでっ。私はもうあの頃の私じゃないのっ。私だって、もう大人なんだから!
ジーンは去っていった。いつの間にか《リルレット》は四年前の姿になっていて、空ろな目でリルレットを見つめていた。
少女の閉じられた目から一筋の涙が伝い落ちた。シーツを濡らす前に細い指が素早くそれを拭い、頬にかかる髪を払ってやる。
イフリータだった。慈愛に満ちた母のような眼差しで眠るリルレットを見守る彼女の姿には、苛烈な炎の魔人としての一面はない。しなやかな手で癖の強い飴色の髪を撫でながら、彼女は小声で言った。
『可哀想に。怖い夢でも見ているのかしら』
魔人の中でも特に力の強いイフリータは、恐怖と呼ばれる感情を長い間知らなかった。意思を持ちながら、個としての意思よりも生物としての存続を優先する傾向の強い魔人の中には、感情自体を拒む者もいる。イフリータは、どちらかといえば大切にする方だ。だがそれは今現在の話で、クラエスに出会う前は淡々と日々の生を送っていた。
リルレットの故郷を知ったとき、かつて暮らしていた地での出来事がぱぁっと目の前に広がって見えた。
正直に言って、楽しいことばかりではなかった。縄張りを侵す人間を鬱陶しく感じることもあったし、当時の自分はそんな感情を持て余して、余計に苛立っていたように思う。
だけど、《モンストーロ》という地名を目にしたとき、彼女の中で一つの記憶が弾けた。今となっては、どうして今まで忘れていたのかも分からない。いや、その時の自分は《楽しい》という感情すら知らなかったのだ。だから、事実として記憶はしていても《楽しい》記憶とはならなかったのだろう。
温泉。
リルレットがそれを口にしたとき、すっかり忘れていた分を取り戻すみたいに、言いようのない嬉しさがこみ上げてきた。少女の思い出にあるそこがイフリータの覚えているそこと同じかどうかは分からないが、そんなことはどうでもよかった。イフリータにとっては、同郷の人がいるというだけでも浮き立つような気分になれた。
山の中に湧き出る温泉を見つけたのは、本当に偶然だった。近くには人が建てたと思しき小屋があって、じっと見ていると何人かの出入りがあるのが分かった。彼らは裸になって温泉に浸かり、皆一様に笑顔で帰っていった。だから興味が湧いたのかもしれない。
イフリータは夜中の人がいない時間を見計らって、そっと足を温泉につけてみた。炎に属する魔人だが、水が苦手というわけでもない。ましてや彼女を産んだ火山が育んだ自然の恵みだ、怖いはずがない。
じんじんと痺れるような感覚が爪先から伝わってきた。ゆっくりと湯に浸す部分を増やしていくと、背筋を寒気が走った。イフリータにとって誤算だったのは、背筋を伝う感覚に吃驚した拍子に足を滑らせて頭から温泉に落ちてしまったことだ。
水が嫌いな猫みたいに慌てて飛び出して逃げた後、ぶるぶると水気を飛ばしているときに不思議な衝動を覚えたのだが――今思い返してみると、あれは笑いの衝動だったように思う。もし同じことを繰り返したら、イフリータは腹を抱えて笑い出すに違いない。
だけど、初めて温泉に落ちて吃驚したのはあの一度だけ。もう二度と《初めて》はない。そう思うと、少しだけ寂しいような気がした。
イフリータの手の下で、リルレットが小さく身動ぎをした。肩が微かに震えている。窓を開けたままで布団も被らずに寝たのだから、寒さを感じて当たり前だ。実体化して、リルレットを起こさないように静かに窓を閉める。ベッドの上で丸く縮こまった彼女に布団をかけてやると、イフリータは音もなくその場を立ち去った。
イフリータも夜は人と同じように眠る。眠るときは彼女の姿の一つである赤いスピネルに変化して眠る。この形になると、契約主の呼び声以外は一切聞こえなくなる。本来は睡眠をとらなくても平気なのだが、契約を交わしてからは人の生活リズムに則って生活している。もっとも、契約主であるクラエスは昼夜が逆転する日もままあった。
書斎と名付けられた本棚で区切られた一画に戻ると、主が資料を漁っていた。彼はイフリータに気付くと肩を竦めてみせ、
「笑顔は結構疲れるね」
と皮肉るように言った。その言葉の意味を知るイフリータは余裕を見せ、ふよふよとお気に入りの場所にごろんと横になってクラエスを見下ろした。そこは天井に程近い本棚の上だった。彼女は高いところが好きだ。
『わたしには、まんざらでもなさそうに見えるわ』
「そう見えるのは、キミがそう思いたいからだろう」
『じゃあ笑わなければいいのに。いつもの仏頂面をしていれば?』
「それがもとで彼女に辞められたら面倒だからね」
本の背表紙をなぞるクラエスに、イフリータはくすりと笑って返す。
『その程度には気に入ったのね、あの子のこと』
「不満はないよ」
『懐かしいわ、懐かしいことをたくさん思い出して、わたし嬉しいの。でも一番嬉しいのはね……』
最後に独り言を呟くように言い残し、人ならざる者は眠りについた。クラエスは暫く頭上を見つめていたが、何の物音もしないことを確認すると、それまでのやり取りを一切忘れたような顔で背表紙を確かめる作業に戻る。けれど、その視点は長い間一点から動かなかった。
頭の中に、礼を言って走り去る少女の姿が焼きついていた。穢れのない、この世に悪意があることなど知らないような笑顔に、最初は何とも思わなかった。自分には関係のないものだという風に内心で切り捨てて。でも実際は何とも思わなかったのではなく、見て見ぬ振りをしていただけだ。
それを気付かせたのは、リルレットに対するイフリータの態度だった。
なぜあそこまで彼女に入れ込むのか、クラエスには分からない。モンストーロが如何にイフリータにとって特別な地であろうと、それだけが入れ込む理由になるとは思えない。それに、魔人は簡単に人に気を許すような生き物ではない。イフリータの関心以上の好意を持たせる何かを、リルレットが有している証だ。
イフリータは最後に何を言いかけたのだろう? 彼女が自分の感情を口にするのは、大抵においてクラエスに関連する事柄だ。しかし、今回に限ってはそうとも言えない気がする。彼女の中で、リルレットという存在は既に大きなものとなっている。
そこまで考えて、まるで嫉妬しているみたいだ、とクラエスは苦笑した。
いずれにしても、リルレットのやる気はこの半日余りで十分分かった。彼女自身の持つ性質も好ましいものだと思う。いくつもの店を辞めさせられたとは思えないくらいだ。当分使用人に困ることはないだろう。