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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第六章
58/69

遭遇

 よいしょ、よいしょ。

 リルレットは吹き出す汗を手の甲で拭いながら、心の中で掛け声を掛け続けた。そうでもしていないと、暑さに音を上げてしまいそうだ。

 長袖は既に肘のあたりまで捲り上げた。脱ぐことの出来る防寒具は外し、鞄に入らない分は腕に引っ提げている。

 これが冬の寒さ、いや暑さだとは到底信じられない。単なる異常気象というだけで説明がつくような段階を通り越しているように思える。


『頑張って、リルレット! ほら、そこに湧き水があるわ。ちょっと休憩していきましょ』

「ふぁ、はい……」


 息も絶え絶えと言った体で返事をするリルレット。

 体力にはそこそこ自信があるものの、真冬の装備で真夏体験はかなりキツイ。

 本音を言うと早く帰りたい。しかし、イフリータはリルレットの意思を尊重してしまうだろうと思い、あえて隠した。

 イフリータは焦っている。リルレットを連れ回すことに意味などないことにも気付けないほど。

 たとえ異常の原因を見つけたとして、リルレットのような普通の娘に何ができるだろうか。むしろ危険しかないではないか。

 いつものイフリータならば、異常を察知した時点で引き返していただろう。

 そうしなかった、いやできなかったのは、ここが彼女の故郷だからだ。魔人である彼女にとって、故郷の大地は母である。心配にならないはずがない。

 それが分かっていたから、リルレットは文句も言わずイフリータの気持ちに従っていた。

 岩の隙間からこんこんと湧き出る湧水は、ひんやりとしてとても心地よかった。両手ですくった透明の水に口をつけると、失った元気がどこからともなく湧いてくる。


「ふう、おいしい」


 気のせいか、湧水の周りは涼しげな風が吹く。サラサラと揺れる木の葉の歌声を聞いていると、状況も忘れてのんびりしてしまうのだった。

 ふと、気付いた。


「そう言えば、冬に戻らないですね」

『え?』


 イフリータが頭の上で訝しむ。


「最初は春っぽかったのがすぐに真夏みたいに暑くなったから、次は秋が来るのかと思ったんですけど、なかなか来ないです。どうせなら春か秋で止まってくれれば良かったのに」


 ちょっとズレたところで不満を述べるリルレットに、イフリータは唸りながら答える。


『うーん。言われてみれば、そうね。異常の中心に近づいてるってことなのかもしれないわ』

「どうしてですか?」

『この異常を引き起こしている何かがあって、そこを中心に気候がおかしなことになっちゃってるのよ。だから、中心はある意味安定しているはずよ』

「おかしくなってる原因が、この先にあるんですか」

『そうね。わたしの感覚だとそう』


 来たのとは反対方向の、茂みに覆われた木々の合間に顔を向ける。

 リルレットに怖気づいた様子はないが、さすがに不安の色は隠せていなかった。


『――昔ね、この辺りが燃えそうになったことがあるの』

「え?」


 唐突に始まった昔語りに、リルレットは水で洗っていた顔をあげる。ポタポタと顎から滴り落ちる水滴が襟元を濡らしたが、いつになく真剣なイフリータの様子を見て呆気にとられる。


『その時いたのがクラエスだったのよ。今よりずっと小さくて、可愛らしい男の子だったわ』

「それって何年前ですか?」

『十年くらい前よ』


 やっぱり、とリルレットは視線を落とす。

 さっきは教えてくれなかったが、気が変わったのだろうか。

 十年前と言えば、北の山を越えて隣国の軍隊が攻め入ってきた時期だ。そこにクラエスがいたというのか。まだ少年だったろうに。

 軍のことはよく分からないが、優秀であれば年齢に関係なく登用する場合もあると聞いたことがある。おそらくクラエスもその類なのだろう。

 その時リルレットは、村の子供達と一緒にコールスの町に詰め込まれていた。町にも兵士はいたが、皆一様に怖い顔をしていた記憶がある。


「クラエス様はここに来たんですね。いえ、連れてこられたんでしょうか」

『命令でしょうね。あの魔術馬鹿が自分から戦線に出るはずないもの』

「そうですね」


 こんな時でも変わらないイフリータの言い様に、リルレットは思わずくすっと笑った。


『でも、そのおかげでわたしはクラエスと出会えたのよ。その時、彼が持っていたのがあの魔道具』

「魔道具?」

『晴嵐の魔石。知ってるのでしょ、リルレット』

「……ええ。少しだけ」

『あの魔石はデタラメよ。あんなもの、人が振るっていい力じゃないわ。木も土も岩も、敵の兵士ごと押し流して、ある一帯なんか地形が変わっちゃったもの。だからわたし、文句言おうと思ってクラエスの前に出て行ったのよ』

「えっ……えええ!?」


 地形が変わったなんて初耳だ。近くに――と言っても気軽に通える場所ではないが――魔道具で変えられた土地があったなんて、村の大人も話していなかった。この辺りには誰も近寄らないから、大人達も知らなかったのかもしれないけれど。

 攻めてきた敵との戦いだって、単に王国が勝ったとしか聞いていない。その勝利に関わっていたのがクラエスであり、王都で起こした晴嵐の魔石であり、しかもイフリータとの出会いにまで及んでいたなんて。もはや何から驚けばいいのか分からない。


「わっ」


 うんうんと頭を抱えて唸っていると、突然力強く引っ張られた。


「イフリータさん?」

『しっ』


 もみじのような手がリルレットの口を塞ぐ。

 イフリータは目をきっと吊り上げて、彼女らが進もうとしていた方角を睨んでいる。その緊迫した雰囲気に飲み込まれ、指一本動かせなくなった。

 二人がいるのは、抉られたような斜面の跡地だ。土砂崩れの心配さえなければ、雨風を凌げそうな場所である。その上の方角から、いくつかの足音と声が聞こえてきた。


「本当にあれで成功なの?」

「ああ、そうだ。前にも実演してやっただろう。俺たち魔獣使いの力を。ま、あのナントカって魔石の欠片のせいで何倍にも凶暴化してるが、躾は完璧だ」

「……大丈夫なのでしょうね。万が一にも魔獣が姉様の町を襲うことがあってはならないわ。もし暴走して見境なく暴れだしたら」

「心配ない。俺たち一族の力を舐めるなよ」

「そうね。そのせいで国を追われたのだったわね」

「ふん……」


 ドキドキと早鐘を打つ胸を、服の上からぎゅっと押さえる。

 知らない女と男の声。二人の他にもまだいそうだ。足音がいくつも聞こえる。

 会話はまだ続いている。


「とにかく、予定通り計画を進めるわ。明日の夜、あなたたちは育てた魔獣を連れて王都へ向かいなさい」

「一度失敗したことをもう一度やるのか。愚策だな」

「うるさいわね。これしか方法がないのよ。あいつは滅多に家を離れないから」

「ま、何だっていいさ。今度のヤツは前みたいな中途半端とは違う。お前の注文通りの完璧な仕上がりだからな」

「期待しておくわ」


 二人の会話を聞き、リルレットは震えが止まらなくなった。

 復讐、魔獣、魔石。

 嫌でもピンときてしまう。


(この人達、クラエス様の敵だ)


 どういうからくりか知らないが、魔獣使いと名乗る男は魔獣を操れるらしい。それが本当ならば、以前街に現れたのは彼らの仕業だったのか。しかもまた同じことをしようとしているらしい。


(ど、どうしよう。クラエス様に知らせないと。あの人達より先に山を降りないと!)


 ドキドキと破れそうな心臓を抑え、リルレットは体を縮こませる。少しでも動けばここにいることがバレてしまいそうで、気が気ではない。早くどこかに行ってくれないかと願う彼女は、気づいていなかった。会話が終わり、足音もしなくなっていることに。

 その瞬間、例えようのない悪寒がリルレットの全身を走った。


『いけないっ』


 イフリータが鋭く叫び、小さな体をリルレットと岩の間に挟み込む。

 それと同時に、隣の岩が轟音を立てて弾け飛んだ。砲弾でも食らったかのように、一瞬で大きな岩が砕け散る。

 リルレットはたまらず悲鳴を上げ、降りかかる岩の破片や土塊から頭を庇った。


『大丈夫? リルレット』

「う、うん」


 小さくてもやはり魔人、大方はイフリータが防いでくれたので、リルレットが被った被害は僅かなものだった。

 そろそろと頭を上げたリルレットは、崩れ落ちた岩土の向こうにいる女と目が合った。

 艶やかな美人だった。煌めくような金髪はゆったりと波打ち、切れ長の目は灰色。ドレスを着て夜会にでも出れば衆目を集めること必須だが、今は動きやすさを重視した長袖のブラウスとロングパンツという格好。

 どこかで見たような人だと思った。

 会ったことがあるのだろうか。じっくり考えたいところだが、そうもいかない。

 話の内容からして、女が魔獣事件の犯人であることは確実だ。ということは、向こうはリルレットを知っている可能性がある。もしかしなくても、この状況は非常にまずい。しかし希望はある。なぜなら、こっちにはイフリータがいるからだ。

 リルレットは恐怖に染まる思考を必死で持ち直し、考えた。


(とにかく、逃げなきゃ。聞いたことをクラエス様に知らせないと)


 向こうは女が一人、男が一人。絶対逃げられない数じゃない。

 相手が近づいてこない内にイフリータを抱えて逃げようとしたその時、突然背後から浅黒い腕が伸びてきた。


「きゃっ」


 抵抗する間もなく、手首を取られてしまう。

 強い力で押さえつけられ、身動きが取れない。

 体を捻って後ろを見ると、左目から顎にかけて大きな傷跡の残る男が、感情のない目で彼女を見下ろしていた。


「じっとしていろ」


 その響きにリルレットはぞっとした。

 脅されたからではない。男の声が、どこまでも平坦だったからだ。

 もし頭ごなしに怒鳴りつけるような口調だったら、リルレットは反抗しただろう。男を突き放すことができなくても、一言か二言は言い返した。

 けれど男の声からは相手を支配しようという感情すら読み取れず、こういう状況に慣れていることを感じさせた。

 近づいてくる気配に前方を向くと、


「お前がなぜこんなところにいる?」


 美しい容貌にどす黒い憎しみを滲ませて、女が歩み寄ってくる。その一歩一歩がゆっくりとして、まるで肉食獣に狙われる獲物の気分を味わった。


「わ、私のことを知ってるの?」

「下賤な者が私に質問をするな!」


 女がリルレットに向けて掌をかざす。そこに炎のようなちらつく赤が集まるのを見て、リルレットは恐怖した。


(これはもしかして、魔術?)


 さきほど岩土を吹き飛ばしたのは、女の魔術だったのか。

 このままでは背後の男もろとも魔術を食らってしまう。しかし、男は今にも発動しそうな魔術を見ても顔色ひとつ変えない。


(巻き添え覚悟ってこと? それとも、私だけ狙うつもり?)


 どちらにしても、女の怒りははったりではない。

 リルレットはぎゅっと目を瞑った。


『逃げなさい、リルレット!』


 不意に体のバランスが崩れた。そのおかげで、男の拘束から抜け出せた。

 何があったのかと振り返ると、イフリータが足蹴りで男を吹き飛ばすところだった。

 ぬいぐるみみたいな小ささで。

 引き締まったガタイのいい男を。


「つ、つよい」


 小さくてもさすがは魔人。体格差など問題にならない。

 ぼんやりしているとイフリータに怒られた。


『何してるの! 早く立って、逃げなさい!』


 イフリータが火炎を放った。赤い火球は、リルレットの手前で破裂した。女の魔術を消し飛ばしたのだ。あまりの熱気に一瞬息が詰まる。危険が去ったわけではないと理解したリルレットは、慄くより先に立ち上がった。


「逃げるって、どこへ?」

『山を下りるのよ! 私がこいつらを足止めするから、あなたは行って!』

「わ、分かりましたっ」


 イフリータは強い。たとえ相手が魔術師二人だろうが、人間相手に負けはしない。自分がいてはむしろ彼女の邪魔になる。

 そう思ったリルレットは、反論せず彼女の言に従った。

 最初にイフリータに蹴り飛ばされた男が、ふらふらと立ち上がるのを視界に捉える。リルレットは一瞬びくっと体を強張らせたが、火炎同士がぶつかる音で我に返ると、斜面へと足を踏み出した。




 女は逃げようとするリルレットに気づき、忌々しげに舌打ちをした。

 なぜ彼女がこの山にいるのかは知らないが、この偶然をふいにするつもりはない。

 今、女の頭にあるのは、リルレットを使って復讐を遂げることだけだ。そのためには彼女を逃してはならない。

 しかし、それを炎の魔人が阻む。この女魔人は、グランリジェの魔獣事件でも自分たちの邪魔をしてくれた。こちらは魔術師二人がかりだが、数の不利はないと見ていい。

 ――本当に忌々しい。

 こうなったら、アレを使うか。

 十年前、この地で晴嵐の魔石が使用された。公式の記録には残っていないが、確かな情報だ。何でもいいから情報を集めていた時代に、利用していた軍人から偶然聞き出すことができたのだ。

 晴嵐の魔石はこの地で力を使い、一部を破損した。強力な魔石にはよくある話だ。

 破損した部分は土砂崩れに呑まれ、回収を断念した。その断念した軍人というのが、女が利用していた男だったのだ。

 回収しそこねた魔石の欠片は、数年を経てこの地に異変をもたらしはじめた。局地的な異常気象を。

 ついている、と女は思った。

 偶然魔石の欠片の情報を手に入れ、手間は掛かったが石が力を失う前に回収でき、その力を利用することができた。そしてそれをもとに計画を立て、さあこれからという時に敵の女と出くわした。

 想定外の事態だったが、大して問題はない。この女を人質に取れば、クラエス・ハンメルトは扱いやすくなる。むしろチャンスだ。

 魔人の意識が、呆けているリルレットの方へ向いた。

 ――今だ。

 封印具を取り払った藍色の石を、魔人に向けて全力で投げる。

 魔人がこちらの動きに気づいた。だがもう遅い。

 石が魔人の胸に命中する。

 その瞬間、炎の魔人の口から、天を衝くような絶叫があがった。



 斜面を滑り降りていたリルレットは、背中によく知る魔人の悲鳴を聞いた。


「イフリータさん!?」


 咄嗟に斜面に生えた木にしがみつき、上を見上げる。

 即座にぎょっとした。

 傷のある男が頼りない足取りながらも追ってきているのだ。

 リルレットは息を呑み、慌ててその場を離れた。

 クラエスに聞いたことがある。魔人の死とは、人のそれとは大きく異なるのだと。

 魔人の死は眠りに近い。大きく力を削がれると、命を落とす前に回復のため眠りにつくのだと。その期間は失った力の大きさに比例する。

 今それを思い出したのは、ただの気休めだ。イフリータは大丈夫だと、自分を安心させたいに過ぎない。

 クラエスはこうも言っていたのだから。

 ただし、ダメージが大きければ本当に消滅することもある――と。


「……イフリータさんっ」


 泣いてはいられない。歪んだ視界では、山を下りることなんてできない。幸いというべきか、男はいまだイフリータから受けたダメージが残っているようだ。上手くやれば逃げ切れる。

 ――クラエス様を呼ぼう。

 イフリータを助けてもらおう。あの人ならきっとできる。あんな女と魔術師一人くらい、片手でやっつけてしまうに違いないんだ。

 リルレットは眦に滲んだ水滴を乱暴に払い、蛇のようにうねる木の根を飛び越えた。

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