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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第六章
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後悔の記憶


「聞いたか? ヴィンスのやつ、故郷に帰るんだってさ。有力者の一人娘に手を付けたのがバレて、ここを辞めさせられるとか」

「え、借金返済の目処が立ったって聞いたけど」

「俺は逆。借金が膨らみに膨らんで、夜逃げするんだって聞いた」

「なんだ、つまりただの噂か」

「ちぇっ、ザンネン」


 何がザンネンなんだ、と腹の中で呟き返したクラエスは、声が過ぎ去っていくのを壁一枚隔てた部屋でじっと待った。

 今出てゆけば、声の発信者たちと鉢合わせするのは間違いない。それが怖いわけではないが、無駄な衝突をして気力を消耗するのは厭だった。

 彼らの声には聞き覚えがあった。顔を合わせる度に嫌味を言ってくるので、覚えたくなくても覚えてしまう。同じアルヴィドの元で学ぶ弟子同士なのに、一度も仲間だと思ったことがないのはそのせいだ。もっとも、向こうもクラエスのことを仲間だと認めていないだろう。クラエスだけではなく、いつもつるんでいる彼らの間ですら、仲間意識などないかもしれない。

 頭の奥で何秒か数え、もういいだろうという頃合いに扉を開いた。

 冥界を練り歩く亡者のような顔をしたヴィンスが立っていた。


「うわっ」


 思わず後退り、棚に背中をぶつける。棚は彼がぶつかったくらいではびくともしなかったが、クラエスが手に抱えていた本はバサバサと重い音を立てて落ちた。クラエスは拾い上げる余裕もなく、陰気の権化のようなヴィンスをただただ見返した。

 もともと明るい性格ではないヴィンスだが、いつもより十割増しで暗い。元気のなさに加えて、この世のありとあらゆる不幸を背負っているかのような絶望感が、彼の全身から滲み出ている。

 そんなことを考えていると、亡者が口を開いた。


「……やぁ、クラエス。大丈夫?」

「き、君の方こそ。なんとなく落ちこんでいるように見えるけど」

「とんでもない、僕は元気だよ。はぁ。見れば分かるだろう。はぁ」


 一言喋るたびにため息をつくような人間が元気だとは到底思えなかったが、こういう時は否定しても無駄だ。

 冷静さを取り戻したクラエスは、何が彼をこんなに追い詰めたのか、素早く考えを巡らせた。クラエスの知る限り、どちらかと言えばヴィンスは幸せの絶頂にあるはずなのだが……。


 ヴィンスとコーデリアとの婚約が正式に決まったのは、つい一週間ほど前のことだった。それがアルヴィドの口からクラエスの耳に入ったのは三日前。さっき廊下の奴らが話していたような間違った噂が流れ始めたのも、その頃からだろう。

 コーデリアはヴィンスの婚約者を自称していたけれど、それは半分嘘だった。婚約は幼年時代の口約束に過ぎなかったのだ。周囲には、子供のままごとと捉えられていたらしい。

 とは言え、両者が本気なら問題はない。エリュミオンの伝統として、婚約は当事者以外の誰にも邪魔することのできない神聖な誓いの一つなのだ。

 だが一方で、高貴な身分になればなるほど、家格の釣り合いや損得勘定といったしがらみは増えてくる。親の期待や家の存続が、神聖な誓いと同じくらい大切にされる。

 それらを乗り越えて結ばれる男女は少なくない。

 ヴィンスとコーデリアは、二人の強い決意を見せつけることで彼女の父を説き伏せた。

 具体的にどうしたのかはクラエスも知らない。ただ、コーデリアの家出が説得に一役買ったのは間違いない。あれが後押しとなり、ヴィンスは彼女との婚約を決心したのだから。


 そんなことがあってやっと結ばれた二人なのに、どうしてヴィンスはこんなにも暗い顔をしているのか。

 理由を知りたい気持ちが一割。知りたくない気持ちが九割。圧倒的に関わりたくない気分だ。

 けれど、放心し立ち尽くすヴィンスの姿を見ていると、何とも言えない憐憫の情が胸の内から湧いてくる。

 果たして彼をこのままにしておいていいものだろうか。周りの人間は、生気の失われた彼を見てまたあれやこれやと噂するだろう。その中には、彼の精神を更に抉るような心無い中傷も含まれるかもしれない。

 クラエス自身そういった中傷とは付き合いが長いから、他人事と思えない部分もある。

 加えてヴィンスはクラエスと違って繊細な神経の持ち主だ。クラエスが聞いたら一笑に付すことでも、ヴィンスが直面したら簡単に打ちのめされてしまうかもしれない。

 そんなことを考えていると、視線を地に彷徨わせていたヴィンスがおずおずと口を開いた。


「あの、ちょっと話を聞いてもらってもいいかな」

「…………」

「いや、嫌なら全然構わないんだ。君だって色々忙しいだろうし、話しても詮無いことは僕が一番よく分かってるんだけど。ただ、誰かに吐き出したくて。そんなことができるのはコーデリアか君くらいだから」

「…………」

「……駄目かな」


 縋るような眼をしている。

 頼られているのは分かるが、いまいち納得がいかない。

 自分は果たしてコーデリアと名前を並べるような間柄だっただろうか。

 ……ま、いいか。


「話を聞くだけなら」

「あ、ありがとう! 君って案外良い人だね!」


 顔を輝かせて素直に礼を言うのは、いかにも田舎の純朴な青年といった反応だった。一語余計なのは目を瞑るとして。

 しかしいざ口を開く段階になると、ヴィンスは不安そうな目でまた床を見つめるのだった。


「僕とディリーのこと、知ってる?」

「師匠から聞いた」

「良かった。じゃあ正確だね」


 弱々しく微笑む。

 口さがない連中が流した噂は、やはり彼の耳に入っていたようだ。

 アルヴィドから直接聞いた話なら、完璧でなくともほぼ正確に違いない。ヴィンスが安心するのも当然だった。


「結婚は決まった。そのことはとても嬉しいし、ほっとしてる。ディリーは大貴族の一人娘なんだ。で、僕が彼女の家に婿として入ることになるんだけど……」


 突然、ヴィンスは両手で頭を抱えて激しく左右に振りはじめた。


「ああ、どうしようっ。僕は一体どうすればいいんだ!」

「お、落ち着け。首がもげそうだ」

「もげても構わないっ。いや、いっそのこともげてほしい!」


 ――こりゃダメだ。

 なんだかよく分からないが、相当混乱している。普段は影がないと思うくらい控えめで大人しいので、この反応にはクラエスも戸惑った。しかし、パニックを収めないことには話が進まない。

 クラエスは右手を天井に翳し、一瞬で意識を集中させた。

 一拍置いて、空中に現れた雪の塊がヴィンスの脳天を直撃する。

 ばふっ!


「…………」


 見た目通りの、頭を冷やせ、である。

 パラパラと雪の粉を散らしながら、恨めしそうな目でこちらを見るヴィンスから、クラエスは顔を逸らした。

 何はともあれ、落ち着いたようだ。

 ヴィンスは突然力を失ったように、すとんとその場に座りこんだ。


「僕は今、困っているんだ。このままディリーと結婚して良いのかどうか。……ああ、勘違いしないでくれ。ディリーと結ばれるチャンスは今しかない。そんなことは分かってる。やっとの思いでキャラハン卿の許しを得たんだから。それに、僕はディリーを愛している。結婚しない道なんて、端からないんだ。じゃあなぜ困っているのかというと……」


 そこでヴィンスは軽く頭を振った。苦々しい表情が彼の内心を表している。


「僕は、魔術師になりたいんだ。立派な魔術師になって、世間に認められたい」

「家を再興させるために?」

「ああ。最初はそうだった。魔術はそのための手段でしかなかったよ。でも、アルヴィド先生のもとで勉強して、魔術の――いや、この世界のことを深く知っていく内に、これこそ僕の為すべきことだと思ったんだ」

「為すべきこと?」


 ヴィンスの顔がパッと明るくなった。


「ああ、そうだよ。生まれて初めて、自ら『これがしたい!』って強く感じたんだ。僕は人生のほとんどを流されるまま生きてきた。家のため、親のため、子孫のため……。王都に来る時だって、僕の意思などどこにも介在していなかった。ところが、魔術が僕に新しい道を示してくれた。自分自身がやりたいこと――とても尊い夢をね」

「…………」

「だけど、現実は難しい。自分が選んだ道を歩きたくても、僕の場合そうは行かない。一生懸命資金を集めて僕を送り出してくれた人達は、僕が魔術師になることを望んでいるんじゃない、ヘヴァン家を立て直すことを期待しているんだ。ディリーと結婚してキャラハン家の援助を受けることができれば、それが叶う。僕が魔術師になる必要はなくなる」

「でも、魔術師になりたいんだろ」

「ディリーの父上がお許しにならない。条件なんだ。彼女と結婚するための」

「なんだ、それ」

「彼なりの筋の通し方なんだと思う。である以上、僕は従わなければならない。あの人を怒らせるわけにはいかないんだ。コーデリアに悲しい思いをさせられない。だから、僕は魔術師になる夢を諦めることになると思う」

「…………」


 ――どういうことだ?

 クラエスは混乱していた。

 これが魔術の原理の話なら、それほど苦労なく理解できる。彼にとって、魔術は血肉の一部に等しい。魔術の才能とは、理論を本能で理解することだ。だから複雑な魔術構文であろうと、いとも簡単に組み立てることができる。

 しかし、今ヴィンスが話した内容は、まるで別世界の出来事のように理解しがたかった。例えるなら、本を逆さまに読んでいるような感じ。しかもその本は見たことのない言語で書かれている。

 なのに、ヴィンスには読める。簡単に、スラスラと。

 自分は、何か根本的なことが分かっていない。それがヴィンスと自分との差だ。

 それは一体なんだ。


「僕に残された道は、もはやひとつしかない。魔術師を諦め、王都を去る道だ。もちろん、悪い話じゃない。ディリーを心から愛しているし、それに家だって再興できる。二つの願いが叶うんだ。だけどそのためには、三つ目の夢を諦めなければならない。僕にしてみれば、どれも等しく大事なのに。僕は贅沢なのか。うん。きっとそうなんだろう。でも、どうしても諦めきれない。心はもう決まっているのに、未練たらたらなんだ。このやり場のない思いを、いったいどうすればいいのか」


 家。夢。そして愛。

 ヴィンスは話し続けたが、上手く飲みこめない気持ちの悪さは、クラエスの胸の底に依然としてわだかまっていた。

 王都に来て間もない頃、一人で散策していて道に迷ったことを思い出す。

 見たことのない家々、会ったことのない人々。しかし、不思議と不安はなかった。たとえ自分がどこにいようと、アルヴィドが見つけてくれる――そんな根拠のない確信があったから。

 今も、クラエスは無意識にアルヴィドを頼っていた。

 おそらく、刷り込みのようなものなのだろう。

 クラエスは一度死に、生まれ変わった。アルヴィドという光によって。どんな暗闇の中にいても、彼を目指せばよかった。周りが見えなくても。名前すらなくても。だから、足元が崩れそうな不安を感じると、本能的にアルヴィド《おや》を頼る。

 けれど、今ここに彼はいない。クラエスは一人で答えを探さなくてはならない。


「こんなこと、ディリーには口が裂けたって言えない。最近は会ってもいないんだ。彼女は察しが良いから、僕の顔を見ただけで考えていることを当てられちゃうんだよ。でも、いつまでもそんなんじゃ悪いから――クラエス? どうかしたのかい?」


 名を呼ばれ、クラエスははっと身動ぎした。

 二人の顔色は、数分前とすっかり逆転している。ヴィンスは不安を吐き出したことで少しは気が楽になったのか、もはや幽鬼の影もない。対してクラエスの方は、顔色の悪さに加えて何かを怖れているような様子があった。


「どこか具合が悪いのかい? ごめん、気付かなくて――」

「いや。違う。そうじゃない」


 クラエスは心配そうに差し伸べられた手を避けるように、壁に背を預けた。そして、言葉を選ばずに、思ったそのままのことを口に出す。


「俺には分からない。君の気持ちが何一つ理解できない。愛だの家だの夢だのが大事だって言うのが。俺は、俺には魔術しかないからこれをやってる。これがあるから師匠は俺を引き取ってくれた。大事だとか大事じゃないとか、考えたこともない。それじゃ駄目なのか? 君みたいに大事なものを三つも四つも抱えて、それらを比べて苦しみながら選び取って生きるのが普通なのか? 俺はこの先何があろうと、魔術を手放すことはないし、魔術以外のものを手にすることもない。脇道に迷い込むことなんか、想像もつかない」


 途中から、独り言を言っているような気分だった。そうでなければ、親しくもない人間に向かって胸の内を吐露したりしない。

 言い終えてから後悔の念が湧いてきたが、ヴィンスがどう返すのか少し気になった。もしかしたら、聞かなかったことにしてくれるかもしれない。都合の良い話だが。

 ヴィンスは少し困ったような顔をして、ポツリと言った。


「……脇道じゃないよ。迷うことだって大切なんだ。君は才能にも養父にも恵まれているのに……」


 同情しているんだと思った。見上げたヴィンスの目は、クラエスの過去を知った人間が見せる目によく似ていたから。それが心からの正直な気持ちであれ、形ばかりのものであれ。

 ただ、なぜ彼に同情されなければならないのか分からなかった。分からないことが、不安に拍車をかけた。



 ――数年経った後で思ったのは、あの時ヴィンスは同情していたのではなく、蔑んでいたのかもしれないということだ。人並みじゃないのに、人並みのふりをしていた自分を。そのくせ、他の魔術師より遥かに恵まれた環境にあった自分を。

 ヴィンスはクラエスを羨み、憎々しく思ったに違いない。

 けれど、彼の本心を確かめることは永遠に不可能となってしまった。あの後すぐに、ヴィンスは帰らぬ人となった。


 ――魔道具の起動失敗に伴い発生した爆発に巻き込まれ、死亡。


 それが、公式に残されたヴィンスの最後の記録だった。

 その魔道具こそ、クラエスが生み出した唯一無二の気象兵器、晴嵐の魔石。

 晴嵐の魔石は、乾いた大地に洪水をもたらし、雪山を一瞬にして崩すほどの強大な力を秘めている。その分扱いは難しく、少しでも方法を間違えば大惨事を引き起こしかねないとして、厳重に保管されていた。

 魔石とは本来、魔術師でない者でも魔術を利用できるようにするための道具だが、晴嵐の魔石はそうはならなかった。内包する力があまりに強大すぎたためだ。

 幾重にも封印を施していたそれを、どういうわけかヴィンスが持ち出した。彼が補佐を務めていた実験中の出来事だったことから、その実験の担当教官が聴取されたが、真実は明らかにならなかった。

 むしろ原因を突き止めようとしたことで、却って闇の中に葬られてしまったように思える。担当教官の事情聴取直後、事故の調査が完全に打ち切られてしまったのだ。担当教官と聴取をした者との間で、何らかの取引があったのかもしれない。そんな疑いを抱いたところで、証明する手立てなどもはやないのだが。


 最期の瞬間、ヴィンスは何を思い浮かべたのだろう。夢か。家族か。それとも、最愛の婚約者か。

 大事なものを持たないクラエスには答えられない疑問だ。

 しかし、ひとつだけ明らかなことがある。クラエスの作った道具がヴィンスを殺したという事実。どんなに年月を重ねても塗り替えられない記憶として、その事実は残り続ける。

 現に、クラエスはヴィンスのことを思い出すたび、後悔と罪悪感の波に飲みこまれそうになるのだ。

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