異国の少年
クラエスは人を待っていた。
フェルミエ家を辞して宿に戻ってきた後のことだ。
結局、リルレットにはコーデリア・ウェスターに会うとしか告げなかった。魔獣事件に関する調査だと勘づいていたようだが、彼女こそが事件の中心人物なのではないかと疑われていることは黙ったままだ。
隠し事をしていることが小さな棘となって良心に突き刺さっている。けれど、今となっては取り除く手段もない。全てが終わった後か一段落ついた後に自分の口から話すことでしか、痛みを和らげる術はないように思えた。
いつになく渋い顔をしている理由はそれが一つ。
もう一つは、気に食わない人物にこれから会わなければならないことだ。
名前は……忘れた。まさかもう一度会うことになるとは思わなかったし、できるならもう二度と会いたくなかった。
しかし、ユイの紹介となれば避けるわけにはいかない。どこから情報を仕入れたのか――誰にも言わなかったはずなのに――クラエスがコーデリアを訪ねると知ったユイは、旅の二日目を迎える宿に手紙を送り付けてきたのだ。王都からモンストーロの間にある宿全てに同じ手紙を書いたのでなければ、大した千里眼だ。
ユイは彼がクラエスの助けになるかもしれないと綴っている。具体的なことは何ひとつ書いていないのも、これが危険な訪問であると彼女も分かっているからなのだろう。せっかくの好意を受け取らないわけにはいかない。嫌だけど。とても嫌だけど。
クラエスは疲れの溜まった体を椅子に沈めながら、今や数分おきに頭にちらついて離れない、赤いドレスの女のことを思い浮かべた。
彼女が犯人の一人であることは間違いない。
(でも、どう考えても――)
その時、部屋のドアがノックされた。回想から現実に戻ったクラエスは、ドアを開けて入るように来訪者に告げる。
ガチャリと開けて入ってきたのは一人の青年。褐色の肌に白い歯。一目で異国の人間と分かる風貌で、首や腕に青や白の石で作った飾りを身に付けている。
建国祭の日、イクセルに雇われてリルレットを攫った男だった。
彼は誘拐犯とは思えないほど快活に笑って、
「よっ。久しぶり。つっても、ほぼ知らない人だけどー」
ズカズカと入ってきて物珍しそうに室内を見回した。
「おおー。宿ってのはこんな風になってるんだな。野宿しかしたことないから見るのも入るのも初めてだぜ。わっ、高そうなランプだな。壊したらやっぱ弁償とかするのかな。ううう、なんか寒気がしてきた。真ん中に寄っとこっと……。あっ、そういや自己紹介まだだったな。オレはナシートっていうんだ。よろしく、はぁ!?」
何の前触れもなく、悲鳴とともにずっこけた。見事に鼻の頭から絨毯に突っ込む。幸いというべきか生憎というべきか、絨毯が柔らかすぎたため怪我一つない。
「なんだ、一体……はうあ!?」
上体を捻って足元を見やったナシートは、そこが文字通り凍りついているのを見てガクガクと震えだした。
磨かれたガラスのように滑らかで、キラキラと輝いている。
膝から下だけを見れば、絨毯の上に置かれた氷のオブジェのようだ。何とも気味の悪いオブジェではあるが。
クラエスは何事もなかったかのように優雅に足を組み、ナシートを見下ろした。
「ははは、愉快な絵だなぁ。この部屋には何か足りないと思ってたんだけど、これで完璧だね」
「笑ってないでコレ何とかしてくれよっ。あんたの仕業だろっ」
「まあまあ。もう少し楽しませてくれてもいいじゃないか」
「嫌だっ。頼むよ、オレ寒いの苦手なんだ。ほら、鳥肌立ってる!」
そう言ってナシートは腕を剥き出しにしてみせた。
だから何だというのだ。そんなものは見たくもない。
が、このままでは延々と喚いていそうで、それはそれで迷惑だ。憂さ晴らしは済んだということにしておいて氷の束縛を解いてやった。
するとナシートは即座に起き上がり、床に手と額をついた。
「すまなかった! オレが悪かったよ。ユイさんに手紙を貰ってから、ずっと悩んでたんだ。どうやって謝ろうかって。だって、昨日の今日じゃ猪も熊もみつからなくってさ」
「猪? 鹿?」
「オレの村の風習なんだ。相手に誠意を見せるには、身一つで猪か熊を倒してこなきゃならない。応援は二人までで、武器や罠の使用はなし」
「……で?」
呆れていたのだがナシートには怒っているように見えたらしく、一層バツの悪そうな顔をした。
「んで、ここに来てから気付いたんだけど、こんな綺麗なところに猪だの熊だのを持ち込んだら迷惑だったかなって思って」
「だろうね」
「そしたら頭ん中しっちゃかめっちゃかになって、とりあえず思いついたこと適当に話してみた。でもやっぱ失敗だったみたいだ」
語尾は萎み、首はしゅんと項垂れた。
心の底から落ち込んでいる。演技とも思えず、誘拐の片棒を担いだことも何かの間違いだったのではないかとさえ思えてくる。
判断がつかずに迷っていると、ナシートは勝手に喋りはじめた。
「はぁ、オレってほんとダメな奴。村の同い年の中では、オレは猪を狩った数が一番多いんだ。五回を超えたあたりから狩りに付きあってくれる友達もいなくなって、毎日毎日猪を探す生活だよ。おまけに一番近くの山から猪がいなくなっちまって、遠くまで出掛けなくちゃいけなくなるし。婆ちゃんなんか、オレを見るたびに言うんだ。『猪の嫁さんはできたかい?』だってさ。ほんっと馬鹿にしてるよな。頭にきて家を飛び出したはいいけど、旅費が尽きちまって……」
喋る、喋る。こちらが聞いていようが聞いていまいがお構いなしによく喋る。かしましい娘の霊が二人か三人、憑いているとしか思えない。
それとも、こちらを混乱させようとする策なのか――と思いかけたところで、クラエスは我に返った。
「そんで子供の頃からずっと、婆ちゃんは邪神か悪魔の化身なんだって信じててさ」
「もういい。反省してるのは十分分かったから、こちらも許そう。だからそのよく動く口を閉じてくれ」
「本当か!」
口を尖らせて不満のようなものをぶちまけていた青年は、クラエスの言葉にぱあっと顔を輝かせた。
「ありがたい。この国って良い人多いなぁ。オレ好きだなぁ。ユイさんは良い人の筆頭だ。騎士団長って怖いおっさんから助けてくれたんだぜ。しかも、言うことなんでも聞いたら故郷に帰るための旅費も出してくれるってさ。まるで女神様だ」
「……あ、そう」
自分ならこのままどこかへ逃げるだろうとクラエスは思ったが、当然口には出さなかった。ユイのお仕置きと騎士団長直々のお仕置き、どちらがより過酷かは誰にも分からない。
改めて見てみると、ナシートは青年というより少年といった方が正しいような気がしてきた。二十歳は超えていないだろう。見慣れない異国の風貌のせいか、実際の年がいくつなのか分かりにくい。
「なあ、冬ってヤツはめちゃくちゃ寒いんだな」
突然、そんなことを言い出した。氷の冷たさを思い出したのか、ぶるりと体を震わせている。部屋は魔石のおかげで温まっているはずだが、南国育ちの彼にはこれでも足りないくらいなのかもしれない。
「君の国よりは寒いだろうね。さ、世間話はここまでだ。君がどう役立ってくれるのか、示してもらう時が来たよ」
「役に立つかどうか、自信はないけど……」
ナシートは弱気な声を出しながら、頭を掻いた。そして、ポツリポツリと話しはじめるのだった。
***
『朝よ。リルレット!』
……だれ?
リルレットはそう問い返したつもりだった。だけど、実際には唸りながら寝返りを打っただけだ。彼女を起こそうとしている何者かも、はっきりと聞き取れなかったことをありありと示した。
『唸ってたんじゃ分からないわ。とにかく朝なの。起きて、起きてったら!』
わっさわっさと肩を激しく揺すられる。
そこで初めて、リルレットは薄く目を開いた。
朝の光が窓の細い隙間から差し込み、天井や床の木目に幾筋かの線を作っている。
少し顔を動かすと、小さくなったままのイフリータがリルレットを起こそうとしているのが見えた。さっきから体を揺すっていたのは、彼女だったらしい。必死になっているせいで、リルレットが目を開けていることに気付いていない。
(可愛いなぁ)
丸く膨らんだ頬につぶらな瞳。口調は以前のイフリータと変わらないのに、体の縮小にともなって少し舌足らずになっている点がツボに入った。
できることなら、いつまでも頑張るイフリータを見ていたい。けれど、そこまで非情にはなれない。
リルレットはくすくすと笑いながら、少女の真っ赤な髪を撫でた。
『あ、起きた!』
「おはようございます、イフリータさん」
『おはようっ』
「今日は早いですねぇ。何か良いことでもあるんですか?」
『うん。ある予定っ』
「良かったですねぇ」
ボールのように軽い体を持ち上げ、自分の膝の上に乗せる。今のイフリータは、普通の人間と比べても小さい。傍目には大きな人形に話しかけているように見える。なので、外に出る時は変な人だと思われないように気をつけなければ。知り合いの多い村で変人扱いは辛い。
「……あ。そういえば、帰ってきてたんだっけ」
リルレットはしばらくベッドの上で考えた。自分は今、実家にいる。そしてイフリータに起こされていた。
素早くシーツから足を抜くと、イフリータを残して窓に走る。
跳ね上げ式の戸を開くと、眩い朝日が眼孔を刺激した。
すっかり朝だ。
「わ、忘れてたっ」
悲鳴に近い声を発した後、寝着のまま一階へ下りていくのだった。
ドタドタと騒々しい音を立てて、キッチンに駆け込む。そこにはエプロン姿の母がいた。
「母さん!」
「あら、おはよ。あなたの分のパン、机の上に置いてあるわよ」
シエラは包丁を手にしたまま振り返った。今作っているのは、トールとカールの昼食。正午にはまだ早い。けれども、昼の準備を始めているということは、朝の仕事はあらかた済んだのだろうと察しがつく。たちまち、すまない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさいっ。すっかり寝坊しちゃった」
「いいのよ。馬車の旅で疲れてたんでしょ」
「よくないよ。私長女なのに。後は私がやるから」
母を押しのけるようにしてキッチンに立とうとするが、シエラが、
「いいの。母さんがやるのっ」
と息巻いて包丁を振りかざしたので、リルレットは息を呑んで後退った。
一瞬後、振り上げた手にあるものを見て、シエラはぎこちなく笑った。
「あ、はは。ほら、早く朝ご飯食べて。それから自分のしたいことをしなさい。せっかくの休暇なんだから」
「う、うん。分かった」
迫力に負けて引き下がってしまった。
隣の部屋に引っ込みながら、小さく嘆息する。
昔からこうだ。母は人一倍おっとりしていて、人一倍そそっかしい。誰もが彼女に対して主導権を握れると思ってしまう。けれど結果はその逆だ。最後にはなぜかあちらのペースに乗せられているのである。
天然なのか計算の上なのか。どちらにしても勝てない。
(うーん。じゃあ今日はイフリータさんをつれてお出掛けでもしよう)
リルレットは冷めたパンにぱくりと食いつき、外出先の候補を頭の中に並べ立てた。
「と言っても、別に見るところもないしなぁ」
自分のしたいことと言ったら、友達に挨拶するくらいだ。それだけなら午前中だけで終わってしまう。
――やっぱり母さんの手伝いをしよう。
長女としての義務だし、それにまだ話したいこともある。
そうと決まれば、さっさと朝食を終わらせてしまおう。
寝起きのせいか、頭がぼんやりとしていて彼女は気付かなかった。目の前にイフリータの顔があることに。
二人はしばらく見つめ合った。イフリータはまるで石像か何かのようにピクリともせず、そのくせ期待に満ちた目でこちらを見つめてくる。そしてリルレットは、机の上に座っていることを咎めるべきだろうかなどと、やはりぼんやりした頭で考えるのだった。
『ねぇ、暇なの?』
「わあっ」
突然石像が口を開いたので、リルレットは椅子ごと後退った。ひっくり返らなかったのが奇跡と思えるくらいだ。そんな彼女を、イフリータは机に寝そべり頬杖をついた格好で見上げてくる。
『ね、暇?』
魔人は無邪気に同じ質問を投げかけた。
リルレットがバクバクと早鐘を打つ心臓を抑えつつ頷くと――暇だったわけではないけれど、反射的に肯定してしまった――我が意を得たりとばかりににんまりと笑った。
『じゃあね、行きたいところがあるの。お願い、連れてって』
行きたいところ。なんとなく不穏な響きがある。
けれど、よく考えてみたらモンストーロはイフリータの故郷でもあるのだ。懐かしい場所の一つや二つあるだろう。もし彼女の立場なら、同じようにねだるに違いない。
「分かりました。行きましょう。どこでも言ってください!」
『わーい、ありがとっ』
どんっと胸を叩いて請け負うと、イフリータは短い腕をふりふり喜んだ。もう願いが叶った気でいるようで微笑ましい。力を取り戻してほしくないわけではないけれど、ずっと小さな姿のままでいてほしいと思うのも事実。なんとかして交渉できないものか。
「それで、イフリータさんはどこへ行きたいんですか?」
邪な思いを隠しつつ、義務半分興味半分で尋ねる。
イフリータの返答は簡潔だった。
『温泉っ』