母と娘
三段のステップをあがった先にある、白い扉。そのドアノブに、リルレットは震える指先をかけた。が、そこから先へ進まない。どうにも覚悟が決まらないのだ。クラエスの存在を意識すればするほど、緊張は高まった。
姉の小さな背中に向けて、カールが生意気な口を叩く。
「あのさ、自分ちなんだから緊張する必要ないじゃん。それとも何か? 姉ちゃん嫁入りでもする気?」
「おっ、お母さんただいまー!」
聞こえないふりをして、勢いよく扉を開けた。
意味のない軽口だと分かっていても、時に引き金になることもある。今はその軽口に感謝をしながら、平静を取り戻そうと努めた。
ドアの向こうは廊下が続いている。左側の壁に二つの扉、廊下の先には二階へのぼる階段がある。西向きの窓から明るい日差しが差し込んでいた。
「さ、クラエス様どうぞ」
「お邪魔するよ」
やりとりを交わす二人の横をするりとすり抜け、カールが手前の扉をくぐっていった。平坦な口調で声をかけながら。
「母さーん。姉ちゃんがお客さんつれて帰ってきたよー」
その途端、けたたましい物音が部屋の向こうから聞こえてきた。陶器がつまった箱をひっくり返したかのような激しい音だ。聞いている方も「やっちゃったなこれ」と苦笑いしたくなる。
「……何があったのかな」
「何があったんでしょうねぇ」
おおよその予想がついたリルレットは、そうやって誤魔化すしかなかった。
直後、開け放ったままの扉からカールがひょっこりと顔を出した。
「クラエスさん、ちょっと下がってた方がいいよ」
その言葉か終わるか否かというくらいに、今度は猛々しい雄叫びとともに、一陣の旋風がカールの髪をかすめて走り抜けた。
風は壁にぶつかる寸前に九十度カーブし、リルレットたちの方へ突進してくる。
「うおおお、娘よー!」
「きゃああ!?」
がっし! と太い腕でリルレットを抱きしめたのは、熊か猟師かというくらい大柄な男性だった。それが滝のような涙を流して頬ずりすれば、どんな娘も悲鳴をあげずにはいられないだろう。
「ごめん、父さんもいたみたい」
「舌出して言っても可愛くないわよ……っ」
髭が痛いのと怖いのとで、リルレットは少し涙ぐんでいた。
出立の日、「父さんたちのことは心配せず、好きにやってこい」と気持よく送り出してくれた父。娘のことはちゃんと心配してくれていたようだ。
それはとても嬉しいのだが、こんなに猛烈に愛情を注ぐ人だっただろうか……? どちらかと言えば放任主義だった父の思わぬ歓待を受け、リルレットはおおいに戸惑った。
「あの、父さん。あのね、今日は私一人じゃないんだけど……」
「ん?」
そこで初めて、父トールは腕の力を緩めた。と言っても、手を離したわけではない。娘はしっかり抱きしめたまま、玄関で興味深そうにやりとりを眺めるクラエスに目を留める。そして、愛嬌たっぷりに二、三度まばたきをした。
動きが止まった隙に、リルレットは手早く紹介を済ませようとする。
「こちら、クラエス・ハンメルト様。王都でお世話になってる人で――」
「うおおお、母さん! 婿が来たぞー!」
「いちいち叫ぶな、バカ親父っ」
トールの背中に、息子の飛び蹴りが綺麗に炸裂した。
***
数分後、小さなテーブルを挟んでクラエスとリルレット、そして彼女の母が向かい合っていた。
トールはカールが連れて行ってしまった。もともと少し遅い昼休みを自宅で取っていたらしく、席を外さなければならなかったのだ。一分だけ娘と話を、と駄々をこねる父親を、カールが首根っこ掴んで引きずっていった。
母親のシエラは、年を感じさせない不思議な感じのする女性だった。艶やかな髪を背に垂らし、空色の瞳には母性を湛えている。笑みを絶やさず、何事も卒なくこなしそうな人だ。
彼女はトールがひっくり返した皿の破片を片付けると、三人分のカップになみなみと赤茶の液体を注いだ。
「申し訳ありません、ハンメルト様。主人が失礼なことをしでかしまして」
「いえいえ、そんなことは。むしろ参考になりました」
「あらあら、それはようございました」
何の参考かも聞かず、シエラは口元に手を当ててウフフと笑った。分かっているのかいないのか、外見からでは判断がつかない。
リルレットはそわそわした様子で、二人のやりとりを見守っている。
「それにしても驚きましたねぇ。まさか娘が貴族の方を連れてくるなんて」
「どちらかというと、俺が連れてきたんですよ。ね、リルレット」
「そ、そうですね」
突然話を振られ、椅子から飛び上がりそうになりながらも答える。
いったい、クラエスはシエラと何の話をするつもりだろうか。いや、ここへ来たのはあくまでついでだろうから、ちょっと世間話でもして帰るつもりなのかもしれない。そうでもなければ、シエラに用事なんかないはずだ。
どちらかというと、母の反応が気になる。おっとりした気風の彼女は、いつも柔和な外見を保っているため、内心でどう思っているのか掴みにくい。クラエスに対して悪い印象はないようだ、ということくらいしか分からない。
かちこちに固まる娘を見て、シエラはまたもやウフフと笑った。
「こうして並んでいるのを見ると、本当にリルレットがお婿さんを連れてきたみたいねぇ」
「か、母さん!」
「あら、冗談よ。慌てることないでしょ」
「……っ。じ、冗談でも失礼でしょ!」
よりによって『お婿さん』はない。普通の貴族が相手なら、顔を真赤にして怒鳴るところだ。そもそも、普通の貴族は使用人の家に足を運ぶことがなさそうだが。
貴族としてのプライドなど欠片も持ち合わせていないクラエスは、母子の会話を面白がって聞いている。
「リルレット、あなたちょっと怒りっぽくなったんじゃない? そんなことじゃ、ジーン君に嫌われちゃうわよ」
「あいつはもう関係ないから!」
「あら、だって――」
シエラの言葉を断ち切るように、リルレットはだんっと机を叩いて立ち上がった。
「ないったらないの! いい? 金輪際あいつの話はしないで。じゃないと、もう帰ってこないんだからねっ」
「じゃ、いずれ帰ってくるつもりはあるのね」
「……!」
リルレットは急にしおらしくなって、椅子に腰を落とした。何かを堪えているような表情が辛さを物語っているが、口は固く閉ざしたまま。
思ってもみなかった切り返しがグサリと真ん中に突き刺さった感じだ。シエラの決め付けるような物言いに、リルレットは何も言えなかった。
しかし母の方はといえば、娘の気持ちなどてんで気付かない様子で、ソワソワと両手の指を絡めたりなんかしている。
「あのぅ、それで、ハンメルト様は魔術師の方だとか……」
リルレットは顔を上げて、警戒心のこもった目でシエラを見た。今度はいったい何を言い出すのか。
母の真意が分からないのはクラエスも同じらしく、少し距離をとるような色を口調に滲ませた。
「ええ、そうですが……」
「あのあの、じゃあ、何もないところから鳩とかお花とか出したりとか……!」
それは手品だ。
机の上に突っ伏したい衝動をなんとか堪え、溢れ出しそうなツッコミの数々をぶつけるべきと本能が喚く。が、それらを口にしようとした矢先、クラエスはニッコリと笑ってぽぽぽんと空中に花を咲かせた。
目をキラキラさせて歓声をあげるシエラ。呆然とクラエスの魔術――手品?――をみつめるリルレット。
さすがに鳩は出てこなかったものの、息をつく間もなく繰り出された技の数々に、シエラは子供のように手を叩いて喜んだ。
「素敵っ。こんな近くで魔術を見ることができるなんて!」
「お母さん、それって本当は――」
「紛うことなき魔術だよ」
と、リルレットに紙に包んだ飴を差し出しながらクラエスは言った。花と同じように、空中から取り出した飴だ。見れば、シエラはそれを口に頬張ってにこにこと笑っている。
「あまくておいひい」
「……もう、好きにして」
所詮魔術師でない私には、何がどうなっているのか理解できないんだ。リルレットはそう自分に言い聞かせ、一刻も早く楽になろうとした。
そんな彼女の努力は実を結ぶ。和やかだけどどこかネジの外れた二人の会話の隅っこで、適当な相槌と最低限の補足をし、そして美味しい紅茶を啜りながら時間は過ぎていくのだった。
空が赤くなりはじめた頃、リルレットはクラエスを見送りに外へ出た。村に足を踏み入れてまだ一時間しか経っていないのに、途方もなく長い時間を過ごした気がする。
言うまでもなく、二人のせいだ。リルレットの恥ずかしい過去をバラしたがるシエラを必死に叱りつけ、それを聞きたがるクラエスを牽制し、ようやく諦めてくれたかと思ったら、母はなぜか自分の恥ずかしい過去を喋り出す。お返しにとばかりにクラエスが話しはじめたのは魔術の実験と称する壮大な悪事の歴史で、やはりあの局長の部下なのだなと妙に納得してしまった。
だから、疲労の原因の半分はクラエスなのだ。その彼に「実家にいて疲れたのか、しようがないね」などと苦笑交じりに言ってもらいたくない。
思いっきり睨んでやると、彼は白々しく目をそらして言った。
「あー、そうだ。ひとつ言い忘れてたことがある」
「なんですか?」
半眼のまま、リルレットは促した。
しかし、返ってきたのは思いのほか重い言葉だった。
「明日はこっちに来られないかもしれない。いつ用事が終わるかわからないし、場合によっては手紙を書かなければならないから」
「ロルフさんにですか?」
「うん。それが一番楽だろうね」
クラエスはふと気付き、リルレットを振り返った。彼の驚いた顔を見て、ふふっと笑う。
「今度の旅。本当の目的は、例の事件に関することなんでしょう? さすがにそれくらい分かりますよ」
あんな大事件を放っておいて、ただの静養や知人の挨拶に時間を費やすはずがない。クラエスの性格を考えれば当然分かることだった。
「それに出不精のクラエス様がわざわざ旅に出るなんて、相当の理由がいるはずです。火山の噴火くらいじゃビクともしないでしょ」
「……ったく。人を岩に埋まった化石か何かみたいに」
「ふっふっふ。私もやられてばかりじゃないんですよ。日々進化してるんです」
「あっそ。じゃ、次に会う時を楽しみにしておこうかな」
そう言うと、クラエスはリルレットの額に別れの口付けをした。
西日が乾いた土の上に二人の影を落とす。風は水面を滑ってきたかのように冷たく、スカートをさらりと揺らしていった。
去っていく男の背中に向かって、彼女は小さく口を動かした。
「……い、いってらっしゃい」
声はおそらく届いただろう。こちらは振り向かなかったけれど、軽く右手を振ってくれたから。
カールの荷馬車で送って行かせればよかったと気付いたのは、クラエスの姿がすっかり見えなくなった後だった。
そして日は沈み、里帰り初日の夜が訪れた。
窓の外では虫の音、そして丸い月の光がしんしんと降り注いでいる。
懐かしさや愛着を蒸し返すといった感情の波はとうに過ぎ去り、程よい心地よさのうねりにリルレットは身を任せていた。
普通なら、夜の訪れとともに一日が終わる。トトルーナのような辺境といっていい村では、未だに太陽を時計としているのだ。
しかし、今夜のフェルミエ家は違った。最後のピースを当てはめたパズルみたいに完璧な一家団欒が――あるわけでもなかった。
「せっかくお姉ちゃんが帰ってきたっていうのに、さっさと部屋に戻っちゃうなんてさ。カールってほんと素っ気ない子供だよね。可愛くない。実に可愛くない。普通、二年会わなかったら二年分話そうってなるでしょ。ならない? ならないのかな。男の子って分かんない」
洗った食器を棚へ戻しながら、リルレットはぶつくさと文句を垂れる。その顔には怒りよりも落胆がよく表れている。腹を割って話したかったのは彼女の方だ。そのつもりでいたのに、夕食を済ませるなり彼は自室に閉じこもってしまったのだから、残念に思わないはずがなかった。
シエラは椅子で編物をしながら、リルレットの方をちらりとも見ずに言った。
「照れてるのよ、きっと。そういう年頃じゃないかしら。どうなのかしらね? あら、お母さんも分かんない」
「真似しないでよ」
「真似じゃないわ。似てるのよ。変じゃないでしょ、親子だもん」
「に……ちょっと似てるのは否定しないけど、いい年して『だもん』はないでしょうが」
「だって、お父さんが可愛いって褒めてくれるんだもん」
と、彼女は頬に手を当てて嬉しそうに笑った。まるで初恋に溺れる少女のように。
もはや打つ手なし、とリルレットはフォークをまとめて引き出しに押し込んだ。少し乱暴に扱ったせいで、ガチャガチャと食器がぶつかる音がした。
「あらあら、どうして怒ってるの?」
「怒ってない」
むすっとして答える。
いつの間にか、すぐ背後にシエラが来ていた。リルレットがそれに気付いたのは、ぽんっと両肩に掌を置かれた瞬間だ。心臓が飛び出しそうなくらい驚いたが、驚き過ぎたのか声は出なかった。
意地の悪い母の声が、黒い煙か何かのように耳元でうごめいた。
「じゃ、不貞腐れてるんだ。自分の彼氏はどっか行っちゃったのに、父さんと母さんは仲いいから」
「……!」
「ウフフっ」
息をつまらせて振り返ると、シエラは含み笑いをして椅子に戻っていくところだった。
からかっているだけなのか、本気で当てに来ているのか分からない。ただ、図星を指されたことは疑いようもなかった。
よいしょ、と外見に似合わない掛け声をかけながら腰を下ろしたシエラは、編みかけの作品を手に取り口を開いた。
「いいのよ。母さんたちのこと、無理して考えなくても」
「え?」
呆けたように立ち尽くす娘に、シエラは目元に優しい皺を作った。リルレットは覚えている。これは母が、なんでも知っていることを示す時の顔だ。
一気に気が抜けていくような気がした。まだ皿を持っていたら、つい取り落としてしまっていたかもしれない。そのことを頭のどこかで安心しながら、鼻の奥がつんとするのを感じた。
家を出た時のことを思い出していた。小さな鞄を持って、家族や友人に別れを告げた朝のことを。
感情豊かな年頃の友人の中には泣いてくれる女の子もいたけれど、リルレットは泣く必要なんてないのにと軽く考えていた。
今になってみると、二度と会えなくなる可能性もあったのだなと実感する。良いことも最悪なことも含めて、いろいろな道が彼女たちの前には開けているのだ。
そう思うと、話す勇気が湧いてきた。シエラもリルレットが口を開くのを待っているように見えた。
「あのね、母さん」
「なあに?」
「本当はいつか帰るつもりだったの。というか、そうするのが当たり前だと思ってた」
「そうねぇ。父さんも母さんも、そうだと思ってたわ。少なくとも父さんは今もそう思ってる。でなきゃ、快く送り出したりなんてしなかったわ」
「……バレてた?」
「当たり前よ。ぼんやりしてるように見えてしっかりしてるって、父さん昔褒めてくれたんだから」
そう言って頬を染める母は、やはり少女のようだった。
リルレットは跳ねるように歩いていって母の隣りに座った。胸がドキドキしている。今この場にカールや父がいないことをありがたく思った。これは母と初めての、女同士のお喋りだ。
「クラエス様ってね、意地悪なんだよ。すぐ言葉で嵌めようとするし、機嫌が悪い日は外壁の清掃とかさせられるの。でね、私が困ってるのを見て楽しむんだよ」
「あらあら、大変ねぇ」
「この前なんかね――」
クラエスとのことを隠そうとしていた昼の自分が嘘だったみたいに、リルレットは話し続けた。彼を好きだという気持ちと、シエラにも好きになってもらいたいという気持ちが洪水のように溢れてきて、時間を忘れ話し続けた。
シエラはニコニコとした顔で娘の話を聞いていた。いつも同じ表情なので実のところちゃんと聞いているのかいないのかは分からないが、とりあえず耳には入っているようだ。リルレットが話している間、時折相槌を打つ以外には話を遮ることはしなかった。
それをしたのは、溢れ出る言葉の流れがふと途切れた時だった。
「王都で暮らすのね。これからもずっと」
「……うん」
ど真ん中を射抜くような突然の問いかけにびっくりしたが、勇気を持って頷く。寂しそうな顔をした母の様子に、びっくりしたのと同じくらい胸が傷んだ。
「もうここには帰って来ないのね」
「たまには帰るよ」
「あら、簡単に帰っちゃ駄目よ。お嫁に行ったらね」
大きな声が出そうになった。
二階の弟に文句を言わせる機会を与える事態をすんでのところで回避し、見覚えのある含み笑いをする母を軽く睨みつける。
「そんな先のことは考えてないってば!」
「ちらっと頭をよぎったりはしたでしょ?」
「そ、それは……でもほら、相手はあれでも一応貴族様なんだし」
母の言うとおりだった。ずっと一緒にいたいということは、自然とそういうことになる。
だけど現実は甘くない。リネーやイクセルといった、プライドが天井を知らない人たちにどうやって許しを請えばいいのだろう。
現実を知らないシエラは簡単に言ってのけた。
「あーら、愛があれば身分なんて関係ないわよ。食堂の娘さんが女王様になっちゃう国だし」
「私お姫様じゃないしっ……」
「うふふ。将来が楽しみだわ。あ、でも父さんにはあなたから説明してね。親バカ発揮されると面倒だから」
「もう、母さん!」
冗談とも本気ともつかない母親を前に、もはや何を怒ったらいいのかも分からない。ただ、シエラは本当に楽しそうに笑っていた。