トトルーナ村
トトルーナ村の西隣にある町コールスに辿り着いたのは、王都を発って三日目の昼だった。
馬車から降りると、真っ先に広い青空が目に映った。珍しい景色ではないはずだが、なぜか全身が洗われるような心地がする。
冷たい空気。懐かしい土の匂い。
王都に比べたら、建物の数も人の数もはるかに少ない。その代わり、ゆったりとした雰囲気が町全体を包んでいる。
町の様子は二年前とまったく変わっていなかった。よく足を運んだ店の看板や、道路脇に止まった幌付きの荷馬車など、記憶にあるコールスと何一つ違わない。
リルレットは下から掬い上げられるような感動に浸った。
「本当に帰ってきたんだ」
生まれ育ったのはトトルーナ村だが、距離的に近いコールスは庭みたいなものだ。少し早いような気もするけれど、喜びに涙しそうになる。
胸がつかえて何も言えないリルレットの隣にクラエスがやってくる。少しして、馬車が走り去る音が聞こえた。王都へ帰るまで、どこかで待機するのだろう。
「懐かしい?」
「はい」
「街に近付いてからは、ずっと窓に張り付いていたしね」
リルレットは照れ隠しに笑った。
「だって、二年ぶりだから」
「もうすぐ三年だったかな」
「はい。時間が経つのって、本当に早いですね」
家を出た日のことが、昨日のように思い出せる。
伝も宛もなくいきなり王都で働こうなど、我ながら思い切ったものだ。それまでは、一生村で暮らすことしか考えていなかったというのに。
だけど、その決心が今に実を結んでいる。無駄なことなんて一つもなかった。素直にそう頷けることが、何よりの収穫だろう。
「さてと。ここからは歩いてトトルーナだね」
その言葉にリルレットは体を強張らせる。
旅の目的は、弱ったイフリータの保養だった。この地で生まれた彼女にとって、モンストーロが一番体質に合った土地だからだ。
いわば目的は馬車を降りた時点で半分達成されているわけで、わざわざリルレットの実家を尋ねる必要はない。
「本当に行くんですか?」
「当たり前だろ。せっかくここまで来たんだから」
「むむ……」
この三日間、なんとかして両親とクラエスが会うことを阻止できないかと頭を捻ってきた。が、彼の決意を変えることはとうとうできなかった。
「これが私の限界なんですね……」
「なぜそんなに嫌がるかな。まぁ、いきなりお邪魔して迷惑じゃないかと思わないでもないけど」
「ないけど?」
「人がびっくりするところを見るのって、楽しいだろう?」
「……いじめないでくださいよ? 私のお父さんとお母さんなんですから。弟は別に構いませんけど」
「大丈夫。からかって遊ぶのは、基本的にキミへの愛情表現だから」
「随分歪んだ愛情表現ですね」
言葉を返しながら、頬を桃色に染める。
クラエスの困った癖については、先日告白された時から薄々と気付いていた。けれど、はっきりと認めるのはこれが初めてだ。
なんでもない風を装っても、胸がドキドキと早鐘を打つ。
「諦めた方がいい。ずっと俺と一緒にいるなら」
「も、もちろん!」
答えは最初から決まっている。彼が受けれいてくれるのなら、私はずっと傍にいたい。
二人は顔を見合わせ、他の人には通じない笑みを交わした。
「あれ、リル姉じゃん。ようやく帰ってきたんだね」
振り返ると、見慣れない長身の青年がいた。クラエスより少し低いくらいで、声も雰囲気も落ち着いている。癖のついた黒髪には何となく覚えがあるものの、今ひとつピンとこない。
「うそ。もしかしてオレ忘れられてる?」
「えっと……カール?」
「なんだ、覚えてんじゃん。黙ってるから本当に忘れられたのかと思った」
目を見開いたまま、リルレットの頭は高速で回転しはじめた。
カール。一歳年下の弟。最後に会ったのは二年前。その時はまだ自分と同じくらいの背丈だったはず。それなのに……。
「どんだけデカくなってんの!」
「どれくらいだろ? もう母さんは追い越したけど。姉ちゃんは相変わらずちっさいなぁ」
「い、いいんだもん。別に羨ましくなんかないし」
「ま、姉ちゃんは小さいのが取り柄みたいなとこあるしな」
「どういう意味?」
弟はそれには答えず、視線をリルレットの背後へ動かした。物静かな目には何の驚きも映らないが、隠そうとしても隠せない好奇心が光っている。
「すみません。身内だけで勝手に話し込んじゃって」
「いや。仲が良くて羨ましいよ」
それから二人は簡単な自己紹介を交わした。クラエスのことはリルレットからの手紙で知っていたようで、名乗ると折り目正しく礼を返された。相手が貴族だと分かっても卑屈にならないカールの態度を、クラエスは好ましく思った。
「で、今日はなぜこんな田舎に? 姉が使えなさすぎて文句を言いたくなったということなら、僕が両親の代わりに謝りますが」
「ひどっ。私ちゃんとやれてるもん。馴染みのお店のおじちゃんだって、頑張ってるねっていつも誉めてくれるんだから!」
王都でのクラエスの評判は、相変わらず変わり者のままだ。そのことをすっかり忘れているリルレットは、単純に自分の仕事ぶりが評価されているのだとばかり思っている。
カールは疑わしげにクラエスに尋ねた。
「本当ですか?」
「ああ。よく働いてくれているよ。俺は家事がさっぱりだからね」
「そりゃ当然だと思いますけど」
と言って、打ち解けた様子で笑った。
懐かしさとは違う感慨が、リルレットの胸に込み上げる。
今までも里帰りを考えなかったわけではないが、これほど強く帰りたいと思ったのは初めてだった。もう帰ってきているのに、ヘンだ。
「どうしたの、姉ちゃん。ニヤニヤしてさ」
「別に」
「気持ちわる」
「へへっ」
前と変わらないカールの態度が嬉しい。
いきなり故郷へ連れて行かれて最初は困ったけれど、やっぱり帰ってきて良かった。両親に会うのも楽しみだ。
「あ」
低い呟きを聞き漏らさず、前を歩いていた二人が振り返った。
――忘れていた。これからの予定を全然聞いていない。
イフリータを休ませて、他には?
クラエスはどこに泊まるつもりなのだろう。まさか……。
「ご心配なく。さっきの御者に、コールスの宿を取ってもらっているから」
リルレットの心を読んだかのような先制の一言が突き刺さった。彼女はぎくりと強張った体をごまかすように、ぎこちない笑みを浮かべた。
「え、えーそうなんですか? せっかくだから家に泊まってもらいたかったのに」
「そうか。そこまで言うならお世話になろうかな」
「ええ!?」
「冗談だよ」
思わず、しまったと言いかける。けれど、言っても言わなくても同じだったのだ。表情で思っていることが筒抜けなのだから。
簡単な罠も見抜けなかった姉を、弟が呆れた目で見ていた。
カールの操る荷馬車は、ガタゴトと車輪を揺らしながら田舎道をゆっくり走っていった。
荷台には町で売るための作物を載せる。なので今は空っぽだ。その荷台の端に、御者台とは背を向ける形でクラエスとリルレットは座っていた。
カールに聞かれないよう、声を小さくして話している。
「別に家に来てほしくないわけじゃないんですよ。だけど準備期間というか、心の準備というか、親に変な勘ぐりされたくないというか」
「なぜ?」
「だって……」
リルレットはもごもごと口を動かし、両の掌で不審な動きをした。クラエスは面白そうに目を光らせて、
「なにそれ。この地特有の風習?」
「違います。緊張が極まってるんです」
「俺が両親に会うから?」
「です」
キッパリ言い切った直後に、でも、と慌てて打ち消す。
「イヤじゃないですよ? ダメでもないです。ただ、母さんたちの前では誤魔化せないだろうなって思って……」
情けなく語尾が萎んでいく。
言いたいことも上手く伝えられない。これじゃあ、まるでクラエスを好きになってはいけないみたいだ。
何をやってるんだ、私は。
ちらりと隣を見上げる。彼は口元で微かに笑っていた。全部分かっている、と言いたげに。そして唐突に懐からイフリータを取り出しと、躊躇わずリルレットに差し出した。
イフリータは未だに妖精サイズのまま眠っている。モンストーロに戻ってきたからといって、すぐに万全の状態になれるわけではないらしい。
「俺がいない間の護衛」
「いない間……って?」
黒い不安が胸をよぎる。クラエスはこちらを見なかった。
「人と会う予定がある。俺一人で」
「誰と?」
「コールスに住んでいる女性だよ」
女性と聞いて、反射的に拒否感が湧いた。それをぐっと飲み込む。
いやいや、落ち着け。この世には男と女しかいないんだから。クラエスが言ったのは、女という記号以上でも以下でもないはずだ。
こめかみに汗を感じながら、何も気付いていない彼の声を聞く。
「コーデリア・キャラハン――いや、違うな。今はなんて言うんだっけ。ああ、そうそう。ウェスターだ。コーデリア・ウェスター」
「ウェスターって……」
問い返すリルレットの顔には、驚きの表情が浮かんでいた。
モンストーロに住んでいて、ウェスターの名を知らない者はいない。
この地を治めている領主がヒューバート・ウェスターなのだ。コーデリアはその妻。数年前に嫁いできた、若き伯爵夫人だ。
リルレットは彼女についてあまりよく知らない。こんな田舎では有名人のはずだからちょっとしたことでも噂になりやすいのだが、コーデリアが嫁いできて程なくしてリルレットは故郷を後にした。だから、名前を聞いてもいまいちピンと来ない。
「お知り合いなんですか?」
「前にちょっとね。共通の知人がいたと言った方が正しいけど」
なんだか複雑そうだ。
何気ない風を装ってはいるけれど、様子がおかしい。リルレットの方を見ようとしない。
「もしかして、前に言っていた事故と関係があるんですか」
――そう聞こうとして、聞けなかった。根拠もないし、ロルフとの会話を盗み聞きしたことがバレてしまう。
本当は、盗み聞きした日からずっと聞きたいと思っていた。それをしなかったのは、怒られるのが怖かったからではない。いつかクラエスから話してくれるのではないかと期待したからだ。
結局、その時は未だ訪れない。皮肉の一ダースや二ダースは我慢して、こちらから尋ねてみるべきだろうか。
「姉ちゃん。クラエスさん。もうすぐ到着だよ」
御者台から頭だけ振り返り、カールが叫んだ。
リルレットは弾かれたように身を翻し、四つん這いになって弟の側に寄った。
黒い頭越しにだだっ広い畑が映る。その先に木造の小さな家がぽつんぽつんと建っていて、細い煙が空へのぼっている。
何も変わっていない。
真っ先に自分の家を探した。まだ見えないことは知っていたけれど、家のある方角の空をみつけると、リルレットの顔にほっとした笑みが広がった。
「クラエス様。あっちですよ、私の家!」
トトルーナ村は初めてのクラエスを馬車上から案内しようと、リルレットは意気込んで指さした。
しかし、返ってきた反応は予想とぜんぜん違うものだった。
彼はだだっ広く簡素な村の様子に眩しそうに目を細め、呟いた。
「ああ。懐かしいな。あれからもう十年になるのか」