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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第六章
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馬車に乗って

 ガタゴト、ガタゴト。

 整備された街道を二頭立ての馬車が行く。温かい日差しの中、馬たちはのんびりと走っている

 ゆったりとしたリズムは心地よく体に響く。かれこれ二、三時間は揺らされているが、リルレットは大して負荷を感じなかった。上等な造りである他に、御者の腕も良いのだろう。


(それは良いんだけど……)


 同乗者――もちろんクラエス――をちらりと見て、零れそうな溜息を抑えた。

 クラエスは眠っている。きっと、昨日の今日で疲れているのだろう。

 そのせいで、リルレットは彼を質問責めできないでいる。

 どうして馬車に乗せられているのか。

 一体何をしようとしているのか。


(どうして私、こんなところにいるんだろう)


 未だ嘗て感じたことのないプレッシャーが、少女の両肩に重く伸し掛かっている。いっそ逃げ出せたら楽なのだけれど、その後が怖い。

 彼女が浮かない顔をしているのも、向かっている先に理由があった。

 モンストーロ――リルレットの故郷である。



 すべての始まりは今朝のこと。

 昨夜の経緯もあり、リルレットはいつもより支度を終えるのが遅かった。のろのろと髪を一括りにまとめながら、鏡の中の自分を見つめる。

 この唇にキスされたのだ。

 一瞬にして顔が真っ青になり、スタスタと窓近くへ歩み寄る。結んでいる途中だった髪紐が解けて床に落ちたが、そんなことを気にする余裕もない。

 大きく窓を開くと、冷たい空気を肺いっぱい吸い込んだ。


「すううう、はあああ。……よし」


 何が『よし』なのかは自分でも分からないが、とにかく前向きにならないと昨夜のことを全て思い出してしまいそうだった。

 見つめるのは過去ではない。未来。今日。そう、とりあえず、いつも通りに家事をこなして……。

 そのためには下へ降りて、クラエスと顔を合わせなければ。


「ううううっ」


 窓の桟にしがみついたまま、力無くへたり込む。

 どんな顔をして会えばいいのか、サッパリ分からない。

 笑顔で? 恥じらいつつ? それとも無愛想を演出しつつ?

 彼の方はどんな風に迎えてくれるのだろう。

 いや、考えるだけ無駄だ。大して気にしてないに決まってる。既に起きて書斎で書類とにらめっこしてて、ぎくしゃくと挨拶するリルレットを「なにしゃちほこ張ってるの? からかってほしいの?」とでも言いたげな笑顔で迎えてくれるのだ、たぶん。

 すべてリルレットの想像なのに、まるで今起きたことのように目に浮かぶ。

 ますます顔色が悪くなる。いっそ仮病を使ってベッドに篭っていたい気分だけど、それは使用人の端くれとして誇りが許さない。


「そうだ。いつも通りにすればいいんだ。何も慌てることなんてないんだわ。で、いつも通りってなんだっけ」


 腕を組んで考えていると、床に落ちた髪紐が目に入った。

 それを拾い、ささっと髪の毛を括る。次にスカートの埃をぱんぱんと払い、手際よく水瓶の水を容器に移し替えた。冷たいその水で顔を洗い、手拭いで念入りに拭きとる。

 この間、頭の中は空っぽだった。


(いける。心を無にすれば、なんだってやれる)


 閃いた。

 体が覚えた習慣で乗り切ろうという作戦だ。普段から何も考えてない彼女だからこそ可能な技。

 そんなこんなで、リルレットはようやく一歩踏み出すことができた。

 支度を整えて一階へ降りると、すぐに問題の人が現れた。彼女を待ち受けていたわけではなく、偶然玄関前を通りかかったようだ。その証拠に、彼はリルレットを見ると安心したような顔をした。


「おはよう。今日は遅かったね。馬車、もう来てるよ。ほら急いで」

「すみません。ちょっと支度に手間取って……へ、馬車?」


 思い浮かんだのはユイの顔だった。今のクラエスが訪ねるところと言えば、研究局しか思い当たらない。


「あの、馬車、どこに?」

「外」

「いえそうじゃなくて」


 どこに行くのかと聞いたつもりなのだが、混乱していて上手く言葉が繋がらない。

 戸惑っている間に、クラエスはさっさと扉を開けて行ってしまった。

 慌てて追いかける。

 門の前にこじんまりとした黒塗りの馬車。髭を蓄えた男性が、二人を見て静かに会釈する。

 今更気づいたのだが、クラエスは珍しく余所行きのコートを羽織っていた。

 本当にどこかへ行くつもりなのだ。しかも、リルレットを伴って。

 ――これは只事じゃない。

 直感がそう囁く。

 まさか仕える主人と故郷に帰ることになるとは露知らず、リルレットの胸は高ぶった。自然と足取りも声も弾みだす。


「一緒にお出掛けですね! すっごく楽しみですっ」

「ああ、俺もすごく楽しみだよ」

「クラエス様も楽しみにすることってあるんですね」

「そりゃあね、あるさ」

「他には例えばどんなことがあるんですか?」

「そうだな。例えば、キミのご家族と話をしたりだとか、キミの育った風景を見てみるだとか、キミの故郷を案内してもらうだとか。他には……」


 隣に並んで歩きながら、リルレットは物静かな微笑みに見惚れた。

 綺麗な横顔。意外にも朝日が似合う。

 半年も側にいて、知らないことはまだたくさんある。

 全て知りたいと思った。何が一番楽しみかと言ったら、それだろう。

 だけど、逆に怖くもある。全て知ってしまったら、後には何が残るのだろう……。

 好きなものに手を伸ばすことを躊躇うみたいに、リルレットは視線を落とした。

 二人分の足が、同じ方向を目指して歩いている。

 今はこれでいい――のかもしれない。

 幸せすぎて、お腹がいっぱいだ。

 が、次の瞬間、我に返った。


「え? ごめんなさい、聞いてませんでした。今なんて?」

「だろうと思った。リルは考えてることがすぐ顔に出る。今日はよろしく頼むよ」


 最後の一言は、待っていた御者に向けたものだ。品の良さそうな男性は短く答えると、開いた扉からリルレットを中へと誘った。

 彼女はステップを登りながら訊いた。


「私たち、どこに行くんですか? それくらい教えてくれてもいいじゃないですか」

「あれ、言わなかったっけ」


 とぼけた返事に、嫌な予感が背筋を這い上がる。

 この口調はあれだ、リルレットの心の動きも全て読んだ上で言っている。

 リルレットは馬車を降りようとしたが、それより早くクラエスが乗り込んできた。必然、後退る。しかし、狭い馬車の中では限界があった。

 壁を背にしたリルレットは、追い詰められているわけではないのにゴクリと唾を呑んだ。言い過ぎかもしれないが、悪魔に捉えられたような心地さえする。


「キミの故郷に行くんだよ」


 ほとんどゼロに近い距離で、翡翠の瞳が意地悪く輝いた。



 ――というようなことがあり、リルレットは軽い不安に陥っていた。

 行き先は教えてくれたものの、理由はまだ聞いていない。馬車が動き出すなり、クラエスは意外なほどあっさりと寝入ってしまったのだ。

 寝たふりをする暇があればリルレットをからかって遊ぶような人だ。

 昨夜は眠っていないのかもしれない。そう考えると、無理に起こしてまで問いただそうという気にはなれないのだった。


 聞き間違いか言い間違いか、はたまた耳の病気か。そのいずれか――できれば病気以外――であってほしいと、手を組み合わせて願ってみる。

 自然と溜息が零れた。

 窓の外を流れる長閑な景色も目に入らない。

 心に浮かぶのは心配事ばかり。


(ああ、どうしよう。まさか本当に家に来たりしないよね。父さんたちに会う予定なんてないよね。そもそも、あんな田舎に何の用があるんだろう。ユイさんに命令されたのかな。今までこんなことなかったけど、私が知らないだけかもしれないし。どうか、旅が平和に終わりますように!)


 そういえば、何日間王都を離れるのかも聞いていない。着替えは何一つ持ってきていないが、実家には当然ある。

 問題はモンストーロに着くまでだ。王都から村まではかなり遠く、馬でみっちり走るならともかく、馬車で今日中に到着できる距離ではない。なので、途中宿場町に泊まることになる。

 一方、クラエスはしっかりと自分の分の鞄を持ってきていた。用意する余裕があるのなら、予め教えてほしいものだ。


(私がもたもたしてたのが悪いんだけど。けど、それもクラエス様が原因だとは言えないかな。言えないかな……言えたとして、誰に言えばいいんだろ……うー)


 悶々として馬車に揺れていると、時間があっという間に過ぎていくような気がする。まだ昼にもなっていないはずだ。


(どうしよう。飽きた)


 一体いつまで狭い椅子の上で大人しくしていればいいのか。体も動かせないし、このままではリルレットは石になってしまう。相手になってくれそうなクラエスは、寝てばっかりで一言も喋ってくれない。眠っているのだから当たり前なのだが。

 安らかな寝顔を見ていると、見惚れるよりも悪戯をしたくなる。そうだ。いつもからかわれているお返しに何かしてやろう。

 思いついてから行動に移すまで、コンマ一秒とかからなかった。

 声を忍ばせて笑うと、そーっと身を屈めて向かいの席に手をかける。彼は背凭れと壁に体を預けたまま、起きる気配がない。最高だ。

 リルレットは胸を高鳴らせながら、クラエスの髪に手を伸ばした。絹糸のようにさらさらとした手触りは、彼女が密かに羨んでいたものだ。常日頃から触りたいと思っていたのだが、こんな風に機会が巡ってくるとは。世の中悪いことばかりではない。


 指先が震える。車輪が土を踏む音がやけに遠い。

 人差し指が前髪に届こうとしたところで、その動きがふと止まった。

 クラエスとは別の息遣いを感じる。もちろん自分ではない。

 イフリータだ。縮んだままのイフリータが、主のコートの内側ですやすやと眠っている。あまりに小さいので、膨らみに気付かなかったのだ。

 イフリータは幸せそうな顔をしていた。ぷくっと膨らんだ頬をクラエスの胸に押し付けて、短い指がシャツに皺を作っている。


「ふふっ。かわいい」


 まるで赤ん坊のよう。

 弟が生まれた時のことは、リルレット自身小さかったためよく覚えていない。

 自分や弟が今のイフリータほど愛らしかったとは思えないが、両親が姉弟の赤子時代を語る時はいつも「あの頃は可愛かった」で締めくくられるから、少なくとも彼らにとっては天使のような存在だったのだろう。

 自分もいつかそんな風に我が子を語る日が来るのだろうか。だとしたら、そのとき隣にいるのはクラエスであってほしい。

 今より少し大人びた自分。両手にお包み。そして傍らにいる彼と目で笑い合って――


(だ、だめ。そんなの、恥ずかしすぎる)


 想像するとかーっと頬が熱くなって、リルレットはやや激しく手で顔を扇いだ。

 羞恥に身を焦がしそうになる一方で、「クラエス様は子供好きかしら」などと楽しそうに妄想する自分もいる。

 これから向かう先に実家があることが、妄想に拍車をかけているのだろう。

 もしかしたら、なんて考えてしまうのだ。


(ああ、でも――)


 そんな先の未来より、初めてクラエスと旅をしている今の方がずっと大事だ。

 少なくとも、今この瞬間は。




 軽い衝撃を背中に感じて、リルレットは薄っすらと目を開いた。

 視界がぼんやりと広がる。

 丸い鏡のついた化粧台に、椅子。湖を描いた壁掛けの絵画。ベッド脇のサイドテーブルには、フルーツが載ったトレイとナイフが置かれてある。

 初めて見る光景だ。


(どこ……ここ。ベッド?)


 まだはっきりしない頭で必死に考える。

 幸せに浸りながら眠気を感じたことまでは覚えている。しかし、本当に寝てしまうとは自分でも思わなかった。

 上半身を起こそうとして、ベッドがとても柔らかいことに気が付く。邸で使っているものも十分快適だが、これはそれ以上だ。貴族であるにもかかわらず、家具の質に拘らないハンメルト邸と比べるのは間違っているかもしれないが。シーツも上質だと触っただけで分かる。改めて見てみれば、部屋の内装も上品さを感じさせる作りだった。

 明らかに、自分のような身分の人間が馴染む場所ではない。

 急に不安を覚えたリルレットは飛び起きた。


「クラエス様っ」

「どうかした?」

「ひゃっ」


 突然後ろから声をかけられ、リルレットはしゃっくりのような声を上げた。

 クラエスが振り返った先――ベッドの足元に置いた椅子に座って、本を広げている。邸から持ってきたものだ。

 彼はリルレット程ではないが、びっくりしていた。


「何か怖い夢でも見た?」

「ゆ、夢くらいで人を呼ぶような子供じゃありませんっ」


 とは言うが、不安だったことに変わりはない。理解できない状況など夢みたいなものだ。

 リルレットは乱れた髪と服をさり気なく整えながら尋ねた。


「ここ、もしかして今日の宿ですか?」

「そうだよ。一応起こしたんだけど、全然目を覚まさなかったから、勝手ながら部屋に運ばせてもらった」


 ということは、昼前からずっと寝ていたことになる。馬車のリズムが余程心地よかったのか。それとも、昨日眠れなかったせいか。

 ハッとして顔を上げる。


「あの、眠った私をここまで連れてきてくれたのは……」

「俺。もちろんお姫様抱っこで」


 爽やかな笑顔で答えてくれた。

 リルレットの顔からサーッと血の気が引いていく。

 人が見ている前で、抱く方も抱かれる方も恥ずかしいあのお姫様抱っこを?

 「もちろん」と言い切ってしまうところに畏怖する。だが、彼ならそれくらい平気でするだろうなとも思った。むしろ平気でできないことに疑問を覚えるタイプだ。


「起こしてくれても良かったじゃないですか!」

「起こしたってば。俺が優しくなかったら、馬車の中で一晩明かす羽目になってたよ」


 返す言葉もない。


「うう、ありがとうございます……」

「いやいや。どういたしまして」


 明日の朝、どんな顔で御者に会えばいいのだろう。心配で夜も眠れなかったらどうしよう。同じ失敗は繰り返したくない。


「さてと。俺ももう休もうかな」

「ここで?」


 クラエスはこちらを見て、片方の口の端を上げた。その言わんとしていることがすぐには分からず、リルレットは首を傾げる。

 部屋にはベッドが一つ。つまり……。


「じゃ、明日の朝また」


 顔を真赤にしたリルレットをそのままにし、彼は部屋を出て行った。

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