満天の星空よりも
クラエスは用心深く扉を閉めた。盗み聞きはおろか廊下を通る者もいないとは思うが、一応秘密を守るためだ。
リルレットが未だに硬直しているのを見て苦笑した。この分だと、これからなされる会話も聞こえないだろう。別段聞いても問題ない内容だが、彼女には分からない事情も多い。そっちは改めて説明すればいい。
顔を戻すと、ユイはどこからか椅子を引っ張ってきて座っていた。
粗末な椅子でも、彼女が足を組んで不敵に笑っているとそれなりの代物に見える。というよりも、座っている人間に気を取られて椅子など霞んで見える。こんな美女が変人集団を束ねる超変人だというのだから、世の中は分からないものだ。
クラエスは心中の嘆きを顔には出さず、
「例の事件に進展がありました。局長も一刻も早く知りたいかと思いまして」
「んー。どうしようかなぁ。面白い内容なら聞きたいが」
「きっと面白いですよ。どうやら犯人は、どこからかコレを持ちだしたらしい」
と、右手を開いた。そこにあったのは、晴嵐の魔石の一部。彼の上司ならば、一目見ただけで分かるだろう。
案の定、ユイの眉が曇る。
「晴嵐か。あれのコアは失われたのだったな。これは補助の方か」
「ユイさんもこれと同じ物を持っていますよね。俺も持っていますが、このように欠けてはいない」
「こらこら、呼び方が昔に戻っているぞ」
「……失礼」
ユイは苦笑し、クラエスは照れ隠しに咳払いした。
何か言われる前に話を進める。
「犯人は城の地下にこれを仕掛け、都中の魔力を乱して、いや狂わせていたんです。そのせいでイフリータは死にかけた」
「城の地下。というと河の上流か。網の目のように張り巡らせた水路を利用したというわけだな」
「ええ」
続けて、調査で分かったことを簡潔に説明した。ユーリアたちのことは面倒だったので省く。
どうせ後で詳しい報告書を手に入れて読むだろう。普通の事件ならクラエスが部屋を出た途端に忘れてしまってもおかしくないが、晴嵐の魔石が関わっているとなる話は別だ。彼女は彼女なりの方法で調べはじめるに違いない。
それから、赤いドレスの女のことを話した。話が進むにつれ、ユイの眉間の皺が取れていく。
あらかた説明し終えた時、彼女はまるで自分の部屋のように寛いでいた。
「赤いドレスなぁ。目立ちたがり屋さんかね。しかし、犯人がイフリータくんを狙っていたとは言えないな」
ぴくり、とクラエスの眉が動く。
面白がるようなユイの口調が癇に障ったわけではない。身内の危険と好奇心を隔てて考えられるのは、彼女の長所でもある。
そうではなく、長い付き合いによる勘が、彼女の発言の空洞を感じ取ったのだった。
「そうですね。犯人の狙いはイフリータじゃない。この魔石を仕掛けてどうなるかは、犯人自身にも分からなかったのだから」
「では、本当の狙いは何だったのかな」
「分かっているくせに」
諦め混じりに嘆息する。
「俺に近い人間を傷つけ、俺が作った魔石を置いていけば、嫌でも俺が対象であると分かる。今までのは姿を見せない自己紹介。これから本格的に攻撃が始まるってことでしょう」
「あっはっは!」
ユイは腹が立つくらい快活に手を叩いて笑った。
「他人事だと思って……。嫌われるのは慣れているが、笑い事にされる方が余程酷い」
「ふふ、そう不貞腐れるな」
「不貞腐れてなどいません」
犯人は事故と関係のある人間。そんなに多くはない。
更に、赤いドレスを着た女という何とも派手な手掛かりもある。まさか幽霊に目撃されていたとは思わないだろうから、目眩ましではなさそうだ。
脳裏に、暑い夏の日の出来事が蘇った。普段は記憶の物陰に隠れて、思い出しもしないようなこと。
その日、クラエスは初めて彼女に出会った。
彼女は白い襟が印象的な、真紅のワンピースを着こなしていた。そして、見たこともないような眩しい笑顔で彼に声をかけた。
楽しそうに。幸せそうに。愛する人を探していた。
「私だって、笑い事でないことくらいは分かっているさ。ただ……」
一頻り笑って満足したらしいユイは、シニカルに口の端を上げて指摘する。
「“嫌い”で済めばいいけどな、どう考えても“憎い”だよ。お前に向けられた感情は。これが笑わずにいられるか」
「すみませんが、局長の感覚は全く理解できません。が、犯人に憎まれているのは確かですね」
憎まれるのはあまりいい気分ではない。
他人からどう思われようと構わない。そんな風に生きてきたクラエスでさえ、ともすれば落ち込みそうになる。しかし、弱音など吐く柄ではないので、自分で自分の首根っこを掴んで引っ張り上げるのだ。一人の時ならともかく好きな子や親友の前で格好悪い姿を見せたくない。
意地を張っているのが分かるのか、ユイはほんの少しだけ頬を緩めた。
「まったく、仕方のない奴だ。そういえば、お前は昔から人の恨みを買いやすい奴だったなぁ」
「ええ、なぜでしょうね」
「分からないのか?」
「分かるんですか?」
「まったく、仕方のない」
「どういうことです」
「あーもう。いい、いい。とにかくだ」
ユイは組んだ足に頬杖を突き、いつもより二割増しの自信を含めて言った。
「一つ言えるのは、地下でお前たちがみつけたのは、私が持ってる欠片とは違うということだな。結局、それを聞きたかったんだろう?」
「そうですが……確かめもせずによくハッキリと言えますね」
「今朝見たからな。日課なんだ。日光に掲げてニヤニヤと眺めるのが」
「危ないな。どうなっても知りませんよ」
「大丈夫だ、ヘマはしない。素人じゃないんだから」
などと自信満々に言う奴ほど怪しいのだ。事件か事故が起きるまで研究局には近付かないようにしようかと、半ば本気で考える。
「……分かりました。ではまた進展があればお知らせします」
「うむ。朗報を期待しているぞ」
ユイにとっての朗報とはどんなものを指すのだろうかと、数十分前に起きた出来事を振り返って辟易する。しばらくはリルレットをここへ近づけさせない方がいいだろう。
そのリルレットは、未だに茫然自失の体だった。目の前で掌をひらひらさせても反応がない。仕方なく、倒れない程度に肩を揺する。
「リル、帰るよ」
「はっ。私はいったい何を!?」
「ショックで意識が飛んでたみたいだね」
「ショックで……?」
呑気にそう呟いて、リルレットはぼけらっとクラエスを見上げた。
意識と一緒に記憶まで飛んでいってしまったのだろうか。
心配になって見つめていると、何を思ったか、彼女はばしぃっと自分の頬を両手で叩いた。
その頬がみるみる赤く染まっていく。叩いたから、ではない。どうやら思い出してくれたようだ。
満足感が湧いてくる。好きな子を苛めて楽しむ、子供染みた満足感が。
「じゃあ局長。今日はこれで」
「ああ。気をつけて帰るのだぞ」
「はいはい」
別れ際の注意は、クラエスが子供の時から変わらない。まったく、こっちは何歳になったと思っているのやら。
クラエスは適当な返事をして扉を閉めた。
外に出ると、日は完全に落ちていた。この時期、夕暮れから夜まではこんなに短かっただろうかと驚いてみる。上司が騒ぎを起こしてくれたおかげで余計な時間を食ってしまったせいだ。
クラエスが止めに入らなければ、本当にどうなっていたことか。まさか人間の体を切り刻んだりはしないだろうが、精神に異常をきたしていた可能性は大いに有り得る。
――やっぱり間に合って良かった。
もし心が壊れてしまったとしても愛せる自信は十分あるが、その代わりにユイを害してしまいそうだ。そうならなくて本当に良かった。
門番は交代したばかりなのか、どことなく張り切っている様子だった。
二人並んで門をくぐる。すると、道が途切れて石の手すりがある。その向こうは空中だ。城は巨大な橋の上に建っているのだ。
眼下に広がる街の景色が、否応なしに目に飛び込んでくる。
まだ宵の口。民家の窓はぼんやりと明るい。河の上に揺れる光は、観覧船の灯火だろう。貧民街にまだ人はいるのだろうか。火事といい魔獣騒ぎといい、今年の王都は災難続きだ。
「綺麗ですね」
リルレットが呟いた。何のことかと思い振り返ってみると、軽く空を見上げている。
標高が高いせいか、空は街から眺めるよりずっと近くに感じられた。流れる雲の合間に、ちらちらと星が瞬いている。綺麗とは、あれのことを指しているのだろう。
「夜が更ければ、もっとたくさん見えるよ」
「……そういうコトじゃないです」
リルレットは小さく頬を膨らませた。
気に触るようなことを言ったかと、クラエスはちょっと戸惑った。しかし彼女はそっぽを向いてしまい、もはや教えてもらえる空気ではない。
難しい年頃だ。箸が転んでも可笑しい年頃とはよく言うが、その逆もあるのだと思う。
頭を悩ませていると、唐突に隣から溜息が漏れた。
「どうかした?」
「いえ。まさかユイさんが既婚者だったとは思わなくて」
「ああ、そのことか」
彼女にとってはかなり衝撃的な事実だったようだ。確かに、ユイの話し方や態度からは気付きにくいかもしれない。結婚した貴族女性が外で働いているというのも、異例中の異例である。
「相手は一歳年上の従兄で、幼い頃からの許嫁だったんだよ。前に話さなかったかな」
「話さなかったですよ」
リルレットは不服そうに、ふいっと視線をずらした。その動きがどことなく変で、クラエスは首を傾げる。そういえば、さっきも不自然に顔を逸らした。
「リルレット?」
無理やり目を合わせようとすると、彼女は体ごと明後日の方向を向く。更に追うと、あからさまに逃げた。どうあってもこちらを見ないつもりだ。
何か気に障るようなことをしただろうか。
(ああ……したな)
まず間違いなく、大人しくさせるためにやった悪戯が原因だろう。もちろん悪気はなかったし、あれほど効果覿面だとも思わなかった。考えてみれば、ちょっと不味かったかもしれない。
「もしかして、さっきのこと怒ってるのかな」
「さっきのことなんて知りません!」
振り返ったリルレットは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
クラエスは覚えず息を詰まらせた。
――本当に怒らせた?
からかうにも限度というものがある。後のことを考えていなかったわけではないが、リルレット相手だと何かが狂う。しかし、それも言い訳に過ぎないのかもしれない。
罪悪感が胸を焦がすようだ。
何が罪か。リルレットの泣き顔を、もっと見たいと思っている彼自身だ。
泣き顔だけじゃない。喜ぶ顔や悲しむ顔も、あらゆる姿を見せてほしい。
彼女の全てが知りたい。身も心も全部自分のものにしたい。そう思ったことは今までにもあるけれど、これほど強く望んだのは初めてだった。
(歪んでるな)
とはいえ、普通ならどう思うかなんて知りようがない。クラエスはクラエスだし、たぶん一生リルレットを離さない。彼自身が歪んでいると思っているこの感情とも、ずっと付き合っていく。
ならば、好きなようにするだけだ。
「ごめん、リル」
「う……もういいです。別に、それほど怒ってなんかないですし」
「そっちじゃなくて。これからすること。ごめん」
「え?」
言うが早いかクラエスは距離を詰め、リルレットの両肩を抱いた。
突然のことに少女は抗う暇もない。あっという間に二人の距離はゼロに近くなる。
唇が触れる寸前、彼はぴたりと動きを止めた。
「キスしていい?」
空色の瞳が、沈黙の中揺れている。
拒絶される不安を頭の片隅で感じながら、リルレットの瞳をみつめる。
なんて綺麗な目をしているんだろう、と思いながら。
その明るさは、まるで本当の空みたいだ。一人ぼっちだった頃、木に登って見ていたエリュミオンの空の色。あの空が好きだったから、一日中飽きずに眺めていられた。
彼女がいると穏やかな気持になれるのも同じで、彼女が好きだからなのだろうか。それとも逆で、穏やかになれるから彼女が好きなのか。
しばらくして、リルレットはぎこちなく頷いた。小さくだけれど、確かに受け入れた。
既に息がかかる距離。
慌ててぎゅっと目を瞑る彼女に、唇を重ねる。その瞬間だけは何も聞こえず、ただ小さな温もりだけを感じていた。
風が二人の脇を吹き抜けていった。
静まり返った夜の通りに、落ち葉が掠れた音を立てながら飛んでいく。寒々しい光景も、今ばかりは何か意味が込められているな気がする。本当はそんなことあるわけないのに。
それでもいい。思うのは勝手だ。
「そろそろ、帰ろうか」
「…………」
恥ずかしさからか、リルレットは手頃なもの――クラエスの胸に顔を押し付けていた。その頭を撫でながら、なんとなく夜空を見上げる。
星が綺麗だ。だけど、真昼の明るさには遠く及ばない。
たとえ満天の星空が、何にも勝り美しいとしても。
「どっ、どうして?」
腕の中で少女がもがいた。髪の毛の合間から覗く耳が、暗がりでも分かるくらい真っ赤になっている。
リルレットのことだから、恋人でもない男となんてことを、とでも考えているのだろう。分り易すぎて微笑まずにはいられない。
「好きでもない子にこんなことしない」
「嘘!」
「どうして?」
「だって、わわ私はただの使用人ですし、そりゃあクラエス様が誰かれ構わずキスするような分別のない大人だとは微塵も思ってませんがっ、意地悪ですし! そりゃもう意地悪ですし!」
「だから、今回もからかってるだけだと?」
クラエスの紛うことなき本音を一生懸命否定していたリルレットは、真摯な眼差しに言葉を失った。
「好きだよ。リルレット。キミは俺のこと好き? 嫌い? それとも興味ない?」
「す、好きです」
即答だ。
クラエスはいきなり吹き出した。
もう少し迷うと思っていたのに。あれだけ動揺し、必死に否定しておいて、なぜ最後の最後で素直なのか。
「あの……?」
リルレットにしてみれば、いったい何が可笑しいのやら、といったところだろう。もしかして壊れてしまったのではないかと、ユイの本性を知った直後なだけに心配になる。
「ひ、ひどいです」
「言っとくけど、最初に謝ったから」
「急すぎますよ!」
叫んだ次の瞬間、リルレットはへなへなと座り込んだ。咄嗟に受け止めたクラエスの腕の中で、落ち着かない呼吸を整えようとする。
「大丈夫?」
「へ、平気です。一日分の疲れが、どっと。あ、大丈夫です。立てます」
と、覚束ない足取りで立ち上がる。とてもではないが大丈夫そうには見えない。縦に大きい邸を走り回っている彼女にしては随分消耗している。
まさかとは思うが……。
「もしかして、朝から逃げ回ってた?」
「はい。なんとかユイさんのお部屋を抜けだしてからクラエス様が来てくれるまで、ずっと」
「……よく無事だったね」
「えへへ、頑張りました」
自分がいなくても平気だったかもしれない。ちょっとだけ気落ちするクラエスである。
目が合うと、リルレットは慌てて下を向いた。
照れなくてもいいのに。内心ではそう思っているクラエスは、リルレットの照れが伝染していることに気付いていない。
急に熱くなった首筋を、訝しむみたいに撫でて彼は言った。
「と、とりあえず帰ろうか。家に」
「家……」
「ん? なに?」
リルレットが何かを呟いた気がして、クラエスは首を傾げた。
「いえ、なんでもないですっ」
「そ。俺も久しぶりに歩き回って疲れたよ。ま、それだけの価値はあったけどね。イフリータも人型に戻れたし、他にも話したいことがたくさんあるし」
たとえば、シルフィルヴィのこと。話してはならないと口止めされたわけではないし、別に祟られたりはしないだろう。
「あっ。そういえば、イフリータさん小さくなってませんでした?」
「ああ。ほら、これ」
「見せて見せて!」
子猫を摘むような仕草で取り出されたイフリータに、リルレットは興奮の色を隠さず手を伸ばした。たちまち蕩けるような笑顔になる。
寝ぼけ眼できょとんとするイフリータを優しく抱きかかえながらも、頬をつついたり髪を撫でたりと忙しい。魔人は早速、小さくて可愛いものが大好きな少女の餌食となったようだ。
好き放題に触りまくるリルレットと目を丸くして逃げようとするイフリータ。そんな二人を、「いい土産ができた」と歩きながら見守るクラエス。
せっかくお互い気持ちを伝えることができたというのに、進展したという気がしないのはなぜだろう。でも、焦る必要はない。一生離すつもりはないのだから。
突然、リルレットが大きな声を上げた。
「あっ」
「今度はなんだ?」
今日はやけに忙しない。
リルレットはわざわざクラエスの前に駆け寄り、その手にイフリータを押し付けた。
「クラエス様、イフリータさん、おかえりなさい!」
「――ああ、ただいま」
一瞬呆気にとられたクラエスの口元に、ほのかな微笑が灯る。
いってらっしゃいと、おかえりなさい。
何の変哲もない数文字が、なぜかこんなにも温かい。それが言葉のもつ魔力なのだろうか。
それとも、今日一番の笑顔で迎えてくれるリルレットがいるからか。
そんな温もりをくれる彼女を、とても愛しいと思った。