水と風
「本人?」
いや、本狼か。斑点があるとか体毛が違うとか、はっきりとした違いがあるならイシエではないと言い切ることができるのだろうが、そういった差異がない以上、確実に見分けを付けるのは至難の業だ。
しかし、魔術師には魔力を感知するという便利な能力がある。狼から溢れる溢れる力は、確かにイシエのものと同じだ。決定的に異なるのは、イシエの魔力が限りなく微力だったのに対して、目の前の狼からは無限の力を感じるという点だった。そのせいで「ぴったり一致」といって良いのかどうか迷う。
黒髪の女性は、複雑な表情を見せるクラエスに悪戯っぽく笑いかけた。
「ふふ。びっくりした、クラエス? でも、残念だけどこの子はあの子の狼じゃないわ。あの子の狼はこの子の一部ではあるけれど、全てではないの。言いたいこと、分かるかな?」
「つまり……彼が魔術を使い、イシエが生まれたと」
姿が似ているのはそのせいなのだろう。少し違うが、親と子のような関係だ。
「そう。魔力の残滓だなんて、アレが起きた後で初めて知ったわ。わたしはこの子たちに命令できるけど、魔術はからっきしだったから、そういう知識に疎かったの」
クラエスは無言で混乱気味の頭を振った。アレだの命令だの、何を言っているのか分からない。どうやら彼女は自分たち以上に事情を知っているようだが……。
そもそも彼女は何者だ?
その疑問を読み取ったかのように、女性は次なる言葉を発した。
「あら、ごめんなさい。立て続けに分からないこと見せられたら、余計頭がこんがらがっちゃうわよね。いいわ。順を追って話しましょう」
「是非ともそうしてくれ。さっきから耳を塞ぎたいのを我慢してるんだ」
堪え性のないロルフが呻いた。
瞬間、クラエスは彼を睨んだ。
気持ちは分かるが、もう少し言い方を選べないのだろうか。器が大きいのか、謎の女性は余裕の体で構えている。だからいいようなものの、もし気の短いのが相手だったら狼をけしかけられているかもしれない。
一応視線で注意はしてみたが、こちらの意図が伝わったかは怪しい。
「ちょっと待ってね。あ、あー、あー……ん。これでいいわ」
何度か喉を震わせると、老婆のような嗄れ声が年相応の張りを取り戻した。心なしか、輪郭も先程よりはっきりしている。何が起きたのかクラエスたちには理解できぬまま、見た目ともに若くなった女は嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「驚かないで聞いてよね。わたしの名前はユーリア。ユーリア・コルスタート。百年くらい前にこの国を治めていた王よ――って、何よあなたたち、その顔は?」
ユーリアが半眼で睨むその先には、四つの顔が並んでいた。顔色一つ変えない者、口をぽかんと開けた者、不審者を見る眼差しの者、理解できずにキョロキョロと辺りを見回す者。
まず、ロルフが疑り深さ、もとい慎重さを披露した。
「そんなこと言われてもなあ。証拠がないと信じないぜ、オレは」
「むぅ。相変わらず生意気な態度ね、ブラント家の人間は」
「な、なんでオレの家名を知ってるんだよ?」
「ご先祖様の肖像画を見たことないの? ひいお祖父様にそっくりなのよ、キミ。ワルガキっぽいとことかー。頭悪そうなとことかー」
「そんなの覚えてねーよ。つか、初対面の相手に失礼だろうがっ」
息巻くロルフ。ユーリアは勝ち誇るように胸を反らした。
「とにかく、わたしは女王だったの。そのことはこの子たちがよく知ってるわ」
狼がウオンと答えた。座った状態で、背丈がユーリアの胸の高さに達している。
大きくなったことと声が低いこと以外は、光となって消えてしまった《彼》に本当によく似ている。クラエスはリルレットのことを思い出さないわけにいかなかった。
だが、彼はもうイシエではない。霊滓は完全に消えてしまったのだ。いや、元の体に還ったというべきか。
――あの子の狼はこの子の一部ではあるけれど、全てではないの。
最初は疑わしかったが、じわじわとユーリアの正しさが沁みてくる。
だとすると、彼女は真実を語っているのか。本当に百年前の女王なのか。既に死んでしまったはずの……。
「先程も『この子たち』と言っていたけど?」
敬語を使うべきか迷った末、普段通りの言葉遣いで行くことにした。目の前にいるのは、王というよりただの親しみやすい女性にしか見えない。それに、どんな言葉遣いをしようとも彼女は気にしないだろう。実際ユーリアは言葉の問題には触れず、嬉しそうに顔を綻ばせた。人と話すことが楽しくて仕方ないといった感じだ。
「ふふ、やっぱり気が付いたわね。そう、わたしの友達のことよ。この子がシルフィルヴィ。建国の竜なんて呼ばれてるけど、本当は竜じゃないわ。だってあれは想像上の生き物だものね」
などと言われても返す言葉が見つからない。架空の生き物だろうがなかろうが、普通でないことに変わりはない。少なくとも一般人から見れば。
とにかく、信じるしかないのだ。その場にいた全員がそう思ったかは定かではないが。
「そしてもう一人が――おいで」
囁くようにユーリアが唱えると、大気がうねるような衝撃を背中に感じた。咄嗟にぎゅっと目を瞑る。背後からやってきたそれは吹きつける風の様に一瞬でクラエスたちをすり抜け、中央にある台座に勢いよくぶつかった。
そして再び瞼を開けた時、台座の上には何かがちょこんと乗っていた。いや、何かと呼ぶには姿形がはっきりとし過ぎていた。
それは、見た目だけを言うならば、まさに竜という他ない。硬い鱗に覆われた皮膚、四肢の先についた鋭爪、薄いが丈夫そうな翼。
ただ、びっくりするくらい小さい。どこか愛嬌がある。「手乗り竜」と名札をつけて店頭に並べれば飛ぶように売れそうだ。
室内はしんと静まり返っていた。まるで嵐が通り過ぎた後みたいに静かだ。誰も、今起きたことについて何も口を開かない。何が起きたのか、理解できなかった。
唖然とする一同を前に、ユーリアだけが泰然としている。明らかに、彼女がこの場の支配者だった。だが彼女はその揺るぎない地位に傲るでもなく、新しい知人に古い友人を紹介するような軽い調子でスラスラと言葉を紡ぐ。
「エリューよ。エリュミオン王国、影の双璧の片翼にして礎。父にして母。すべての始まり。して、その正体は」
『お前は前置きが長過ぎる。さっさとこいつらに要件を伝えてやったらどうだ』
手乗り竜が人間の言葉で文句を言った。口を開くと、小さくても鋭い牙が覗く。
きょとんとする女王に、彼――声は男のものだった――は、後ろ足でふんばって立ち、前足で腕組みという偉そうな態度で言い放った。
『久しぶりに生身の人間と会話するのが嬉しいのは分かるが、がっつき過ぎるのはどうなんだ、元女王として。少しは恥ずかしいと思わんのか、え? 時間は無限ではないのだぞ。わざわざ若い頃の姿を選んでいるお前なら分かるだろう。人生というのは一瞬で通り過ぎる点の……』
「あなたは説教が長過ぎるわよ、エリュー。ねぇ、あなたたち信じられる? この可愛らしい名前のイキモノがエリュミオン王国の名の元なのよ。エリューは水の魔人。シルフィルヴィは風の魔人。二人合わせて都の守り手というわけ」
『実はさっきお前たちの後をつけていたのだが、気付かなかったようだな』
突然、リュカが大きな声を出した。
「ああ、そうか! だから『水と風』の都だったんですね。初めて聞いた時、不思議に思ったんです。水はともかく、なんで風なんだろうって。そっか、そうだったんだ」
伝説ではシルフィルヴィが風の魔人だということは語られていない。真実は形を変えて語り継がれていくものなのかもしれない。
魔術師で、しかも他国の出身者である彼女はすんなりと事態を呑み込んだようだった。対照的に、グランリジェで生まれ育ってきたロルフとユリアンは複雑そうな顔をしている。特にユリアンは、魔人という存在を知ったのも今日が初めてなのに、その魔人が二人も都を守護してきた事実をどう受け止めたらいいのか分からない様子だった。
「あのー、リュカ先輩。後ででいいので分かりやすく教えてくれません?」
「説明できる範囲でなら、お安い御用ですよ。でもボクはあなたの先輩ではありません」
いつものやり取りを後ろで聞き、クラエスは苦笑いした。これで暫く二人は静かになるだろう。
「それで、俺達に伝えたいこととは?」
「そうそう、それよ。本題は。壊れた物を取ってくれてありがとうってだけじゃないのよ。ま、それだけなら良かったんだけどね」
何か大事な話があるようだ。
ユーリアの表情が僅かに曇り、ちらりとクラエスの手を見やった。彼は未だにユーリア曰く『壊れた物』を握り締めている。彼は右手を固く握ったまま持ち上げた。
「これが何か?」
『それが我々の力を封じ、更には水を汚していたのだ』
竜の口から予想通りの答えが返ってきた。
先んじて尋ねてみたが、何となくそんな気はしていた。つまり、要件とはこの魔石と街に起きた異常事態に関することなのだと。それ以外に考えられなかった。
「どういうことだ?」
横手からロルフが口を挟んだ。彼にしてみれば、単純に疑問を述べたに過ぎない。しかし、その問いは思いがけずクラエスの精神に衝撃を与えた。
無言で圧迫に耐える彼に、ユーリアはこっそり視線を寄越した。クラエスは彼女の優しさに気付かぬまま、己の考えに耽っていた。
『その魔石は本来の機能を失っているが、未だ強大な魔力を宿している。とても危険な状態なのだ。制御の出来ぬ魔力というのは、何にどう影響するか誰にも分からんからな』
「けどよ、お前ら魔人だの魔術師だのが操ってるのは魔力だろ? だったら、その魔石に残った魔力も何とかできるんじゃないのか」
『無理だ。魔術とは《万物の源》を魔力に変換する術。その変換の際、術者ごとに様々な波形が現れる。あまりに特徴的なため、別の術者の魔力を操ることは出来ん。それを可能にするのが魔石の特性なのだが、今回の場合肝心の機能が壊れている』
「波形?」
『要は同じ魔力は二つとないということだ。おかげで、見る者が見れば残された魔力が誰の者なのか立ちどころに分かる。この魔石に残った魔力は――お前のものだな? アルヴィドの弟子よ』
鋭い視線をクラエスは真っ向から受け止めた。
エリューはなぜアルヴィドや自分のことを知っているのか。彼は全てを知っているのだろうか。ユーリアも? そしてイシエ、いや、シルフィルヴィも?
竜は、唇をめくって笑みのような表情を作った。
『答えんということは肯定か。まあ、責めるつもりはないのだ。むしろ、人の身でそんなものを作り上げたことは賞賛に値する。お前のような者を主にしてみるのも楽しかったかもしれんな』
「ちょっと、それどういう意味?」
『どうもこうもない。あったかもしれぬ可能性について述べただけだ』
「むぅ。可愛くない返答。せっかく私っていう可愛い女王様がいるのにさ。そう思わない、シルフィ?」
『うおん?』
「もう! あんたはあっちの味方ってわけ?」
クラエスは少し大袈裟に溜息を吐いた。仲間の視線が気になる。
「お喋りも楽しいが、そろそろ本題を続けてくれないか」
「あ、忘れてた」
ぺろっと舌を出すユーリアの姿に、本気で溜息を吐きたくなった。
「つまり、その魔石が引き起こした悪い影響のお陰で、私やこの子たちは力を出せなかったの。だから魔獣が蔓延ってしまったんだけど……。そもそも、なぜそんなことになってしまったのか、ってことよね」
「それを話せるのか?」
「話せるわよ」
クラエスとロルフは顔を見合わせた。
彼女が話そうとしているのは、まさに求めていた情報だ。これがあれば、長い距離を歩いてきた苦労が報われる。それどころか一気に犯人に近付けるかもしれない。
「耳の穴かっぽじってよく聞いてね。その魔石をここへ持ち込んだのは」
「一体誰なんだ!」
「だからそれを今言おうとしてるんじゃない。ああ、やっぱり血筋だわ」
ずばり指摘され、ロルフは押し黙った。さすがに勢いが過ぎたと感じているようだ。
「それを持って、あなたたちの前にやってきたのわね――あら? 今何か聞こえなかった?」
「いや、何も」
「そう? まいっか。コホン。それじゃあ、気を取り直して」
ユーリアの厳かな物言いに耳を傾けながら、クラエスは懐に違和感を覚えた。
なんか、もぞもぞする。気になって仕方がない。けれど、再度邪魔をすればユーリアに何と言われるか分からない。悪友の家系と同じだと思われては心外である。
クラエスは違和感をやり過ごすことに決めた。どうせ緊張して汗を掻いたとかそんなことだろう。気にするようなことではない。今はユーリアの話の方がずっと大事だ。
そんな風に無視した結果。
『ふあぁ。なぁに、ここ? なんか寒ーい』
クラエス以外の全員が一斉に彼を振り返った。皆、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。突然舌足らずな女の声が聞こえてきたのだ。しかもクラエスが立っているところから。
見る方も見られる方も気まずい沈黙が数秒間流れた。
「ハ、ハハ。気持ち悪いぞクラエス。女声なんか出して」
「本気で言ってるなら殴るよ」
頬を引き攣らせて笑うロルフに明らかに苛ついた調子で返すと、クラエスは急いで心当たりを探った。
声の発生源はすぐに判った。
裏返した外套にそれは張り付いていた。
小さな人型の生き物。ほんのりと紅く輝く全身に古式ゆかしいドレスを纏い、紅蓮の髪を腰まで伸ばした愛らしい幼児。子猫サイズの人間を幼児と呼べるならの話だが。
その首根っこを持ち上げたクラエスは、思わずまじまじと見入ってしまった。すると、向こうも丸い瞳で見つめ返してくる。
顔立ちはイフリータにそっくり。むしろ状況から考えて本人以外にないと確信した上で、こう言わずにはいられなかった。
「……何だこれ」