路の最奥
ユイの執務室は、以前来た時よりも更に散らかっていた。
机がごちゃごちゃしているのは言わずもがな、床の上には書き損じの紙くずや何に使うのか分からない器材などが散乱し、部屋の隅には見事な本の山が出来上がっている。まるでガラクタか何かのように、粗末な木箱に色鮮やかな宝石が積み上がっているのを見てリルレットは唖然とした。しかも薄っすらと埃が溜まっている。……びっくりするやら呆れ返るやら。
ユイは足の踏み場がない中を平然と奥へ進みながら、
「ちょっと散らかっているが、会話に支障はないだろう。そこのソファが辛うじて平和だから、遠慮なく座ってくれ」
と、来客用にある二つのソファの内一つを指さした。その言葉通り、子供が一人座れるくらいのスペースがあったのでそこに腰掛ける。
そして一瞬ぎくっとした。
もう片方のソファには、綿を抜かれたぬいぐるみが横一列に並んでいた。ぬいぐるみ達は心なしか目も虚ろだ。怨念のようなものも漂っている気がする。
やにわにリルレットは緊張した。
これは何の儀式だろうか。それとも魔術に使うのだろうか。いや、もしかしたら既に使用された後なのかもしれない。
「あ、あの、ユイさん。これ……」
「すまない、ちょっと待ってくれないか。確か、予備の眼鏡がここに――お、あったあった」
予備があるならそれを掛けて外へ出ればいいのにと思いつつも、素直に待つリルレットである。
ユイが眼鏡を探し当てるまで僅か五秒。その間、真向かいからの不気味な視線に必死に耐えた。極力ぬいぐるみの方を見ないようにして。
すちゃ、と眼鏡を装着したユイがこちらに笑みを向けた時、ようやくリルレットは肩の力を抜くことができた。
「待たせたね。質問は何だ」
「えっと……いえ、なんでもないです」
「遠慮しないでいいのだよ?」
「じゃなくて、聞かない方がやっぱりいいかなって」
「む? そうか。残念だな」
と、さも悔しそうに言う。リルレットはその表情を見てなんとなく罪悪感に襲われたが、やはりぬいぐるみのことを尋ねる気にはなれなかった。これもまたなんとなくだが、ユイは聞かれるのを待っているような気がする。急いで話題を変えなければ。
「あの、今日はありがとうございます。私なんかの相手をしてくれて」
「いやいや、礼を述べるのはこちらの方だ。どうもありがとう。私の相手になってくれて。ふふ、今日は何をして遊ぼうか」
急にリルレットの脳裏に違和感が走る。けれど、その原因を突き止める間もなく――
「え、ええ。そうですね。何をしましょうか……?」
曖昧に応じた瞬間、眼鏡の奥の瞳が妖しく光った。
なんかまずい。
本能が危険を察知したが、気付くのがかなり遅かった。部屋に入った瞬間、いやユイに出くわした時にはもう手遅れだったのだ。
後悔に呑まれる中、リルレットは細い糸に縋ろうとした。しかし、糸は無情にもプツリと切れてしまうのだった。
***
最後の一体が灰となり天井に吸い込まれていったその時、クラエスは懐かしい気配を感じた気がした。意識を集中してみたが、どこからか吹いてくる風に乗ってカビ臭い臭いが漂ってくるだけだ。
「……気のせいかな」
少し首を傾げた。
まあ、そんなものだろうと考えを断ち切る。
それから、ふと後方へ視線を投げかけた。
「どうした? そんなところで蹲って」
少し離れたところでは、リュカが青い顔をして膝を抱えていた。気分が悪いのか、やけに静かだ。その上、目つきも悪い。クラエスが声を掛けると、ちらりとこちらを一瞥して、声を出すのもやっとといった調子で絞り出した。
「よく平気ですね。あんな気持ち悪いものを見た後で……うぷ」
「気持ち悪い? ……ああ、魔獣を燃やしたことかな」
「そう、それですよ!」
すると、リュカは激しい勢いで首を上下に振った。さっきまでの静けさはどこへやら、あっという間に頭の中は抗議で埋まってしまったらしい。
「あんなもの見せられて、今日は絶対夢見が最悪ですよ!」
「寝なきゃいいんじゃないかな」
「子供は寝て育つんですよ。逆に言えば、寝なきゃ大きくなれないんです」
「大きくなってどうするの?」
リュカは立ち上がり、自信たっぷりに胸を反らした。
「もちろん、偉大な魔術師になるんですよ!」
「へぇ」
予想外の答えに、クラエスは思わず感心してしまった。
「それは素晴らしい」
「……そんなこと欠片も思ってないでしょ」
「いや。俺には思い付かなかったことだよ」
「それは、クラエスさんが――」
「おーい。そっちは無事か」
リュカが頬を膨らませて何事か言おうとしたその時、抜き身の剣を片手で弄びながらロルフが歩いてきた。彼らの相手はかなりの巨体だったはずだが、傷ひとつ負っていない。それどころか、ちょっと物足りないようにも見える。
平和を守る者としての威厳を傷つけたと感じたのか、後からちょこちょこと付いてくるユリアンが苦言を呈した。
「隊長、その態度はまずいですよ。まるで騎士団が戦闘狂みたいに思われてしまいます」
「ああん? クラエスもリュカもよく知ってるヤツだし、問題はないだろ。な?」
と、最後は二人に向けて。
クラエスは少し苦笑して、リュカに視線を落とした。
「はい、問題はないですね。魔獣なんてずっばずっばと斬ってもらっちゃって結構です」
「あれ、さっきは夢見が最悪だろうとか何とか言ってなかったっけ」
「全身火だるまになって悶え苦しむ無数の影を目の当たりにすれば、普通は気分が悪くなるものなんですよ、普通は」
なぜか、ロルフが同意するようにうんうんと頷いた。
「視覚だけじゃないんですよ。断末魔は絶え間なく聞こえてくるし、肉と骨の焼けるイヤーな臭気は立ち込めるし、慌てて鼻を摘んでも奥に残った臭いが涙腺を刺激するんです。まるで自分が生きたまま焼かれてるような……ユリアンくん、想像してますか?」
「あわわ、こっちに振らないでくださいよ!」
「こら、騎士とあろうものが年下に良いようにからかわれるんじゃない」
「だって、隊長ー!」
無邪気に遊び始める三人を尻目に、クラエスは悩ましげに腕を組んだ。
「……まるで俺が悪者みたいだな」
魔獣は一体残らず灰となり、あるいは剣のサビと消え、石に覆われた一本の道に再び平穏がやってきた。
鍵がかかっていたはずの北側通路になぜ魔獣がいたのかは分からない。これだけ広い空間なら、壁のどこかに穴の一つや二つ開いていてもおかしくないだろう。心配は他の場所へ向かった調査隊のことだが――これもまた、今は考えても仕方がない。
四人はとりあえず目の前の問題に取り掛かることにした。
「そういえばあの魔獣たち、何かを目指しているみたいでしたね。何だったんだろう」
「さあな。……ほら、やっと着いたぞ。ようやく石室とご対面だ」
そう言って緊張気味の顔を向けたのは、分厚い石の両開き戸だった。
他の壁とは明らかに異なる石質で、あまりに純粋な白さのせいでぼんやりと浮き上がって見える。把手や鍵穴のようなものは見当たらない。
クラエスの手が扉に触れる。その後ろで、ロルフとユリアンがそっと剣の柄に指を掛けた。
ギシ……と年月を感じさせる音を立て、ゆっくりと扉が開く。力を込めたのは最初だけで、後は勝手に動いた。
当然のことだが、皆、扉の向こうに注目していた。普段人が近付くことのない禁断の部屋に、ついに足を踏み入れる時が来たのだ。少しずつ太くなっていく隙間を、固唾を呑んで見守っている。
皆の期待とは違った形で緊張が解けたのは、次の瞬間だった。
――カラン。
割れたガラスが地面にぶつかったような、硬い音が空気を伝わった。刹那、騎士たちは指一本分剣を抜く。
「待ってくれ、敵じゃない」
慌てて制止したクラエスの声は、いつになく揺れている。動揺を隠しきれていない。
彼はその場に屈むと、扉を開いたとき足元に転がった何かに震える手を伸ばした。
友の異常を察知したロルフが訝し気に眉をひそめる。
「それは何だ?」
「…………」
ひんやりとした空気が四人の間に満ちていた。クラエスの動揺を理解できた者は、他に一人もいない。
いるはずがない。これの存在を知っているのは、彼を含め限られた人しかいないのだから――。
「おい、クラエス。何なんだよ、その石っころは。なんか大事なものなのか?」
ロルフの急かす声に、クラエスは我に返った。もし誰かが何か言わなければ、何日でも動かなかった様子だ。その取り乱し方に彼は我ながら困惑し、今度は忘れずに心を落ち着けた。
「……これは極めて強い力を秘めた魔石だよ。もう壊れてしまっているけどね」
そう言って、拾ったそれを包んでいた手を開いた。
「これが、魔石?」
上擦った声で疑問を口にしたのはユリアンだ。クラエスが手にしている魔石は、彼が見たことのあるそれとは大きく異なっている。疑わしく思うのも無理はない。
「本当にこれが魔石なんですか? 黒く濁ってるし、なんとなく禍々しいっていうか……。それに、半分に割れちゃってますよ」
「言っただろう。壊れているんだ」
「割れているから、ですか?」
「なぜ、ここにこんなものが――」
もう聞こえていない。
ユリアンたちは不安そうに顔を見合わせた。魔石に関して一番詳しい人間が黙っている以上、話し合えることは他にない。ロルフは目でユリアンに外を見張るよう命じた。隊長の意図を理解した少年は、自分にできることを与えられた喜びを敬礼で示した後、通路の左右に視線を配った。
「クラエス、いつまでも考えたって始まらないぜ。まずは中を調べてみよう」
「いや。その必要はないと思う」
「え?」
先んじて部屋に入っていたロルフは、思わず立ち止まって振り返った。
「うふふ。やっと来てくれたのね。わたし、待ちくたびれちゃったわ」
全員の動きが固まる。誰の口も動いていないことを確認して――
「あら、びっくりさせちゃったかしら」
「誰だ!」
「ここよ」
声は石室の中から聞こえてきた。嗄れた老婆の声のようだが、明るく弾んでいる分若く聞こえる。
鋭い誰何に応じて、部屋の中がぼんやりと光に照らされる。そこは真っ暗で明かりはひとつもないところだったが、水路を光らせていたのと同じ輝きが地中から湧いてくるようだった。
石室はクラエスの書斎と同じくらいの広さがある。本棚や机など余計なものがないだけ広く感じる。中央には小さな石の台が設置されていて、その上に台よりも少し小さいくらいの器があった。器は透明の水で満たされ、溢れた水は台から地面へ伝い落ちている。そのため、部屋の真ん中はちょっとした水溜りになっていた。
「それが聖涼の魔石。この国の要の一つよ。あなたたちのお目当てでもあるのかしら」
台の向こう、薄暗い奥から白っぽい人影が現れて言う。
二十歳を過ぎた辺りの、優しさの中に少しだけ険しさを交えた顔つきの女性だった。艶やかな黒い髪を品よく纏め、背中に流している。着ている物も王族が纏うような上質のドレスだ。徒人ではない雰囲気がひしひしと伝わってくる。
白っぽいと感じたのは、全身を包むよく分からない靄のせいだった。眼や鼻や口ははっきりしているのだが、全体の輪郭はぼんやりしている。まるで幽霊のように。
その形の良い唇から流れてくるのが、先程から聞こえてくる老婆の声だった。若い女と嗄れた声とのギャップが、聞く者を不安定な気持ちにさせる。
しかし女はそんなことにはお構いなしに、軽い身のこなしで台の上に腰掛けた。そして、親しげな笑みを彼らに向けた。
「まずはお礼を言わせてもらうわね。どうもありがとう、あの邪魔者を取り除いてくれて。その壊れた物のせいで、今まで力が出せなかったのよ。だから大切な水路に魔獣なんかを蔓延らせてしまった。普段のわたしたちだったら、あんな獣に遅れは取らないんだから――ああ、そんなところにいたの。シルフィルヴィ。いい子、こっちに来なさい」
リュカを除く三人は、ぎくっと頬を強張らせた。
シルフィルヴィ――建国のお伽話に出てくる竜の名に。
だが、女の呼び声に擦り寄ってきたのは、竜とは程遠い外見の生き物だった。
女の髪と同じ真っ黒な毛並みに、四本の足。ふさふさと揺れる尻尾。
それはまさしく、大人の姿をしたイシエだった。