北の石室
巨大な部屋を、長大な河が東西に分けている。その北側はグラマニシエ渓谷に、南は街に通じているのだろう。向こう岸は松明の炎が届かない遠くにあり、彼らが入ってきた扉の近くには橋まで掛かっている。
リジェール河に黒い大きな箱をすっぽりと被せたようなイメージが湧いてくる。
かつて、アルヴィドが言っていたことをクラエスは思い出した。城は河の上に建てられている、と。その言葉を間近で確認することになるとは思わなかった。
「ここって、城の地下ですよね? これが本当に水路なんですか? 水路っていうより……」
ユリアンが自信の無さそうな口調で誰にともなく尋ねた。怖気づいているのか声は小さく、水音に飲み込まれてしまう。しかし、その先は言わなくても分かった。誰もが頭に思い描いていたことだからだ。
――まるで遺跡のようだ。何百年もの昔に建てられ、放置されていたのを最近発掘したと言われても信じてしまうかもしれない。
そして、一番の謎はどこからともなく溢れてくる光の正体。小さな蛍のような緑色の燐光が、腰の高さくらいまで立ち上っている。眩しいというほどではなく、見ていると心が洗われるような気分になる。冷たく薄暗い陰気な地下を少しだけ明るくしてくれる、よい友になりそうだ。
四人が不思議な光と巨大な空間に気を取られていたのは僅かな間だけで、すぐに集団と別れて北へ歩いた。他のグループの約半数は橋を渡っていった。もう半数は東側の調査だ。松明の赤い灯火がバラバラに散っていく光景はなんだか面白い。
ユリアンは何気なく足元を見下ろした。
渓谷から押し寄せてきた波に押されて、たぷん、と水が跳ねる。そのとき飛び散った飛沫が、地面から立ち上るのと同じ緑に輝いた。一体何の光なのか、彼に分かるはずもない。単に綺麗なだけの光でないことは確かだ。それ以上のことは、説明されないということは知る必要のないことなのだろう。
水面とは対照的に、底の方は目を凝らしても何も見えない。ユリアンは一度だけ身を屈めて確かめようとしたが、深淵を覗き込んでいるような戦慄を覚えて即座に断念した。
水中に魔獣がいたらどうする?
「……!」
ユリアンはぶるぶると首を振って、余計な考えを振り払った。
浄化されているとはいえ、その水を飲んでいることを考えると想像もしたくないが――突然魔獣が現れて、あっけにとられている間に水中へ引きずり込まれてしまうかもしれない。そんなのは御免だ。
その時、水底が大きく揺らいだように思えた。はっとなって目を向けるが、水面には何の変化もない。
気のせいだったのだろうか。ユリアンは首を捻った。無意識に足を止めていたので、その隙に他の三人はだいぶ先へ進んでいる。
「何やってんだ、ユリアン。早く来い」
「すみません。今行きます!」
いつもと少し違って神経質な隊長の声に、彼は反転して敬礼する。
慌てて駈け出した後、ユリアンが立っていた付近で何かがポチャンと音を立てた。しかし、微かな水音だったため誰も気付かない。暗い水底で揺らめいていた影は、ひっそりと消えていった。
「何かおかしなことでも?」
皆のもとに戻ると、クラエスが問いかけた。声をかけられたユリアンは途端に背筋をピンっと伸ばして、あーだのうーだのといった謎の呻き声を発する。ロルフとリュカは変な生き物を見るような目でユリアンを見つめた。
「拾い食いして腹でも壊したか?」
「そ、そんなことしませんよ! ただ、ちょっと緊張してるだけで」
「はあ? 緊張? なんで?」
一言一言、強調して言った。
彼ら以外の調査隊はすべて各々の持ち場へ立ち去った後なので、この四人だけやけにのんびりしているように見える。誰もいないことを気にしてか、ユリアンは申し訳なさそうに当たりを見回しながら答えた。
「だって、クラエス・バルテルスといったら九年前の英雄じゃないですか。西から攻め込んだ敵軍を一人で追っ払ったっていう」
ロルフとリュカは二人同時にクラエスを顧みた。もちろんロルフは周知だったので平然としているが、初耳のリュカは満面に驚きの表情を浮かべている。
親友の何とも言えない表情と少女の問いただすような視線に晒されたクラエスは、暫しぽかんとした後ふきだした。爽やかな笑い声が地下水路に響く。
「はは、変なこと言うなあ。俺一人にそんな大層なことできるわけないだろう」
「え、で、でも」
困惑したユリアンは何故かロルフを見た。彼はポリポリと頭を掻いていた。
「……違うんですか?」
「ま、とにかく先に進もうぜ」
その言葉で、一同は歩き出した。
歩きながら、クラエスは懐から赤い宝石を取り出した。それに閉じ込められた陽気な魔人は今なお沈黙している。そのせいなのだろうか。以前は神秘的な命の輝きを放っていたのに、クラエスの手の中にある宝石は昏い血の色を浴びせたようだ。
真っ先に反応を示したのはリュカだった。
「それ、何ですか? 微量ですが魔力を感じますよ」
魔術師である彼女には、イフリータの魔力を感じ取れた。魔人にとって魔力は生命そのものである。簡単には失わないが、失われれば死ぬ。魔力を感じるということは、彼女がまだ生きている証だ。
「魔人だよ。俺の親友。九年前も彼女に助けてもらった。いわば真の英雄だね」
「――本物?」
リュカは半ば呆然とした。器用に、足を動かしながら。魔人という言葉を初めて聞いたユリアンは、ピンと来ないといった顔で首を傾げている。
そんな対照的な二人の様子に微笑むと、クラエスはイフリータをリュカの手のひらに落とした。
幼い魔術師は瞬きもせずにそれを見つめていたが、いきなり大きく口を開けると嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねた。
「すごいっ。本物ですよ、すごいですユリアン君!」
「いやあ、それほどでも」
「わああっ! すごいすごい!」
照れ笑いするユリアンの背中をバシバシと叩き、飛び跳ねながら一回転する。バランスを崩して水中に落ちそうになった時には、慌てたロルフとユリアンによって引っ張りあげられた。それだけでは興奮を鎮める要因にはならなかったようで、クラエスに宝石を返す時もリュカの目は輝き頬は紅潮していた。
年齢に見合わず大人びた少女だが、こういったところは子供らしさを残している。
「ボク、初めて魔人に触りました。というか本当にいるなんて知らなかったです」
「一応伝説に近い存在だからね」
「でも、おかしいですね。魔人って途轍もない魔力を秘めているって聞いてたんですけど、この方から感じる魔力はごくごく微かです」
「それは……これから行くところで分かるだろう。おそらく」
慎重な物言いの前に、リュカは少しだけ落ち着きを取り戻す。彼女の隣でユリアンが、次はいつ落ちるかと気にかけていたが、その心配は無さそうと見えて安堵の息をついた。衝撃で英雄云々の話は忘れてしまったようだ。
クラエスの隣にさり気なくロルフが並び、ぼそりと呟いた。
「諦めの悪い敵兵に止めを刺したのはお前じゃなかったっけ」
「俺が作った魔石がね」
「……どっちでも同じだろ」
十分ほど歩いたところで、ようやく一直線の通路に終わりが見え始めた。それが分かったのは、前方から聞こえるゴウゴウという何かが衝突するような轟音のおかげだ。
誰かが指差し、河の水面に大きな波紋が絶えず立っているのをみつけた。行く手には部屋の端を示す壁が立ちはだかっているが、下部は開いて水を通している。轟音は壁の向こうから聞こえてくる。
しかし、四人に音の正体を確かめることは許されていない。彼らの目指す北の石室は、ここから繋がる別の通路を通って行くのだ。
ロルフが鍵を用いて扉を開き、二人の魔術師と二人の騎士はその奥へ消えた。
その直後――。
波紋立つ水面に巨大な細長い影がゆらりと現れ、音もなく壁の向こうへ泳いでいった。
「ここはさっきの場所とは随分雰囲気が違いますね」
用心深く天井、壁を見回しながらユリアンが言った。彼は彼なりに、危険をいち早く察知しようと努力しているようである。
彼の言うとおり、辺りは趣きを変えていた。さっき通ってきた最下層よりも、最初のやたらと長い通路や階段に似ている。違うのは、例の不思議な光が壁に張り付いているところだ。ヒカリゴケに見えなくもないが、触れると石の手触りがする。それが天井の一部まで侵食しているおかげで、道がどう続いているのか、松明が届かない先までもある程度見通すことができた。
「ロルフ、あとどれくらいで着く?」
「もう少しだ。目印までそれほど遠くない」
としか答える術がない。
距離を口で言い表そうとしても、正確な地図すら持っていないのでは無理というものだ。ロルフが授かったのは、ここへ来るときに使った真鍮の鍵と石室への最短の行き方とに過ぎない。それも突き当りに来たら右へ曲がる、といった簡単な説明だけだった。
それを説明した上司は、部下が地下でさ迷う可能性を考えなかったらしい。
ロルフは心のなかで上司に対する悪態をつきながら、一同の先頭を突き進んだ。
その背後で、クラエスは何事か思案しつつ悠々と足を運ぶ。無意識に右手で宝石を弄んでいる。もしイフリータに意識があったなら、文句が滝のように流れてきたことだろう。
このままの状態が続けば、そう遠くない未来に彼女は命を落とす。
イシエが消滅したのとは意味合いが異なる。彼は単なる魔力の塊で、イフリータは魔力を命の源とする生き物だ。イシエのそれは消滅であると同時に元いた自然へ還ること――死ではない。
しかし、いなくなったことを悼む気持ちには何の差もない。
イシエという親友を失ったリルレットと、イフリータという相棒を失った己と。どちらも深い喪失感を抱えなければならない。
リルレットは少し未来の自分なのだ――このまま、イフリータを救うことができなければそうなるだろう。
(そして、彼女にとっては二度目の喪失となる)
そのことが気掛かりなのだった。
もし最悪の結末が訪れたとして、どうやってリルレットを慰めればいいのか。イフリータを救う手立てを考えてはいるけれど、それが失敗に終わったら……?
薄暗い通路を黙々と進む内に、想像はどんどん嫌な方向へ膨らんでいった。目的の部屋に辿り着けば、陰鬱な空想に決着がつくであろうことだけが救いだ。
そして、その瞬間は刻一刻と近づいてきていた。
ロルフの予想通り、石室の場所を示す目印が見えてきた。壁に刻まれた矢印だ。まるで遺跡といった様相の場所に突然現れた、単純な二本の線で記された矢印は滑稽ですらある。しかし、果たして終点はあるのだろうかと不安に思い始めていた彼らにとっては安堵の象徴だった。
「これほど分かりやすい目印もないな」
ロルフは笑いながら、松明を揺らして矢印を示した。
そのときだ。ちらちらと揺れる炎によって描き出された陰影の中で、何かが蠢いた。
「た、隊長!」
「落ち着くんだ」
動揺するユリアンを宥めたのはクラエスだった。彼は落ち着き払って壁を――正確に言えば壁を這う生き物を注視した。
一見虫かと思われたそれは、よく見ればそうでないことが分かる。群れをなして動き回っていて、まるでひとつの生き物であるかのようだ。
全長は小指くらいだろうか。顔と胴体があり、二本の腕と二本の足を持ち、黒い毛がびっしりと生えている。そして、時おり立ち止まっては赤い口を裂いてケタケタと笑う。
リュカとユリアンは鋭く息を呑んだ。無理もない。何十、何百という魔獣の群れがびっしりと壁を這い、しかも笑っているのだから。気の弱い人でなくても夢に見そうな光景だ。
ロルフは魔獣に気付いた時から左手で皆を制していたが、慎重に松明を前方へ構えた。こんなに小さい生き物が一斉に飛びかかって来られたら、剣では相手にならない。かといって魔術で一気に焼き払うとなると、魔獣は殺せるだろうが建物にも損害を与えかねない。何百年も持ち堪えているのだから、そう簡単には崩れ落ちたりしないだろうけれど。
ふと、クラエスはあることに気が付いた。
魔獣は無秩序に壁を這いずりまわっているのではない。皆一様に同じ場所を目指しているのだ。他でもない、石室を。
他の三人もすぐさまそのことに気付いた。
そこにあるのだろうか。魔獣事件の犯人に繋がる、何かが。
「何にせよ、こいつらを全部片付けないことには始まらないな」
ロルフが独り言のように呟いた。緊張した面持ちでぎこちなく頷いたのはユリアンだ。戦闘経験は浅いはずのリュカの方が落ち着いている。それもそのはずで、心を平静に保たなければ魔術は操れないことを彼女はよく知っているのだ。
――しかし。
どすん、どすん、と後方から足音のようなものが聞こえてきた瞬間、彼女は小さく飛び上がった。
北の通路にいるのは彼ら四人だけ。後ろから誰かが追ってくることはない。人ではないとすると……。
「た、隊長さんっ」
「分かってる。クラエス、このちっこいのを頼む」
「ああ」
クラエスはまだ右手で宝石を弄っていた。心の中で何度も呼びかけているが、返事はない。イフリータの力を借りなくてもこの場は切り抜けられるだろうが、彼女の限界が迫っていることを感じ取っていた。
弱々しい生命の光が見えるかのように、宝石を見つめるクラエスの目が悲しげに細まる。
「もう少しの辛抱だからね」
やはり返事はなかったが、こんな時彼女が何と言うか、すぐ近くで聞こえるかのようだった。
今、クラエスとリュカ、ロルフとユリアンの二組みは背中合わせに立ち、それぞれの敵と相対している。
後方から近づいてくるのは牛のような角をもった二足歩行の魔獣だ。全身が筋肉で覆われ、手には蹄の代わりに鋭い鉤爪が備わっている。
クラエスはロルフに声をかけようか迷ったが、結局止めた。魔獣退治を定期的に行なっている騎士団では、もっと大きな敵と戦うこともあるだろう。
(そうだ……敵は魔獣だけじゃない)
どんな手を使ったのか知らないが、魔獣を利用し自分たちを殺そうとしている者がいる。その根底には、暗い意志が流れているような気がする。深い恨みや怒りを抱く人間が標的を国に――いや、おそらく自分に定めている。
恐ろしさは感じなかった。一度死の淵に立った経験が、彼から危機感を奪ったのかもしれない。
むしろ、敵の面を拝む気満々だ。
関係のないリルレットに手を出したことは絶対に許せない。噴水を壊したことや王都を騒がせている件は、いっそ二の次だ。
犯人が余計なことをしなければ、リルレットはもっと穏やかにイシエと別れることができた。それだけでも、罪にまみれた姿を公衆の面前に引きずり出す意味がある。
クラエスの苛立ちを察したのか、リュカは心配そうに見やる。冷静でないと思ったのだろう。そんな彼女にニコリと微笑みかけ、彼は言った。
「大丈夫。俺は落ち着いている」
そして――右手で炎を生み出した。小さいが、途轍もない力を秘めた炎を。