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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第五章
43/69

橋の女

 冷たい冬の朝。透き通るような水面が、空を逆さまに映している。白鳥が大きな羽音を立て、船もまばらな川面に降りてきて甲高く鳴いた。


「本当に歩いて大丈夫?」

「平気ですってば。心配しすぎですよ」


 川沿いの道を並んで歩きながら、リルレットはクラエスに安心させるような笑顔を向けた。

 今日は、第二陣の調査隊が地下水路へ降りる日だ。その扉は王城の中にしかない。ユイの待つ魔術研究局も同じ敷地内にあるため、二人は一緒に邸を出たのだった。

 当然、クラエスは足の怪我を心配した。魔術による二度の治療のお陰で完治しているのだが、彼は信用していないようだ。朝から何度同じ問いかけを受けたか知れない。


「それにクラエス様、馬車嫌いじゃないですか」

「……どうしてそれを?」

「前一緒に乗ったとき、すっごく嫌そうにしてましたよ」


 その時のことを思い出したのか、彼は眉間に皺を寄せた。


「ほら。思い出すだけで嫌なんでしょ」

「そんなことはない」

「本当かなぁ」


 クラエスは、リルレットの忍び笑いから不貞腐れたようにそっぽを向いた。それがまた笑いを誘うのだが、本人は気付いていない。彼のこういう子供っぽいところがリルレットは好きだった。なぜだか分からないが、甘いものを食べたような幸福を味わえるのだ。

 にも関わらず、彼女の胸の内は曇り空だった。親しい人が危険なところに赴くのだから、当然といえば当然だ。クラエスの力は信じているけれど、できれば危ないことはしてほしくない。

 暗くなりかけた顔を、彼が見ているのとは反対側の河へ向ける。

 朝のリジェール河は美しい。キラキラと輝く光はまるで宝石のよう。その上に鳥や橋の影が落ち、幻想的な雰囲気を作り上げている。

 ふと目を向けた橋の上には、一人女が立っていた。人が行き交う中、欄干に手を乗せ佇んでいる。

 女が目に留まったのは、一つにはその派手な色のドレスのせいだった。バラを思わせる真紅のドレス。貴族か富裕層の人間だろうか。

 顔は黒いベールに隠されていて分からない。しかし、リルレットには彼女がじっとこちらを見ているような気がしてならなかった。それが、女性に気を取られた二つ目の理由だ。

 リルレットたちが動くと、女の顔も二人を追いかける。女は常に正面からリルレットたちを見据えていた。

 なんだか、怖い。その女性を見ていると、背筋が粟立つような悪寒を覚える。こういっては彼女に失礼かもしれないが、悪魔に心臓を握られているような連想をした。

 リルレットは少しずつ顔を逸らそうと努力したが、目だけは女から離すことができなかった。そのまま、クラエスに駆け寄り彼の腕を掴む。つい力が入ってしまい、クラエスが驚いて少女を見下ろした。


「どうかした?」

「あの、あそこ――」


 と、指を指す。クラエスがそちらへ視線を向けた瞬間、女の姿は雑踏に紛れて見えなくなってしまった。

 リルレットは思わず、あ、と小さく叫んだ。自分でも意外なほど失望感に打ちひしがれて、肩を落とす。クラエスにも女の姿を見てほしかった。彼ならきっとリルレットが気付かないことも指摘してくれただろう。そして、あの女に対して感じたことを肯定してくれたに違いない。

 たまたま視線が合っただけ。きっとそうだ。リルレットはそう思い込もうとしたが、なお彼女への偏見を捨てることができないでいた。


「リルレット?」

「何でもないです。私の見間違いみたい」


 そう言って誤魔化すしか術はなかった。どうせ二度と会うことはないだろう。あんなに目立つ格好をしていたら、ひと目で分かるに決まっている。だけど、今まで一度たりともすれ違ったことすらないのだから。

 彼女のぎこちない笑みを訝しげに見つめていたクラエスは、納得できないまま頷いた。


「……そうか」

「さ、早く行きましょう。立ち止まっていたら時間に遅れちゃいますよ」

「ああ、そうだね」


 微笑み返すクラエスの影で、リルレットはほっと胸を撫で下ろした。これから危険な仕事が待っている彼に、心配をかけさせるわけにはいかない。

 王城に辿り着き、一旦別れる時も、彼女は自分が見たことを話さなかった。

 去っていく背中を見つめながら、ぼんやりと考える。


(そういえば、こんな風に見送ったことってないな)


 彼と外とを取りなしていたのは、リルレットだったりロルフだったり、とにかく常に第三者だった。貧民街で起きた火事の時も祭りの時も、二人一緒に出掛けていった。途中、リルレットが攫われるという予期せぬ出来事を経たものの、それがなければ終日二人で過ごしていたはずだ。


(なんでだろう。私、嬉しい?)


 あたかも彼女の口から零れてきたように、その思いは耳に沁み込んだ。


(これってなんか家族みたい)


 それは、錯覚や思い上がりかもしれない。しかし、故郷に似た温かさを感じていることも確かだった。ただし、帰ってくるのはリルレットではなくクラエスだ。彼女はただ待っていればいい。

 もどかしさと照れくささで体が疼く。無意識がクラエスを呼び止めていた。


「クラエス様っ」


 するとすぐに、彼は立ち止まって振り返った。

 リルレットはドキドキする胸を抑え、鼓舞するように明るい笑顔を作った。


「気を付けていってらっしゃい! 早く帰ってきてくださいね」

「――ああ。大人しく待ってるんだよ」


 それだけ言うと、クラエスは再び背中を向けた。

 リルレットはなおも高鳴っている鼓動を感じながら、その影が見えなくなるまで同じ場所に佇んでいた。頬に手を当て、うまく笑えていたかどうか思い出そうとする。けれど、簡単ではなかった。顔の筋肉が強ばってしまったらしい。少し迷ってから、ニッと歯を見せて笑ってみる。

 女のことはもうすっかり忘れていた。


「そんなところで何をしているんだね?」


 突然背後から声をかけられて、リルレットは小さく飛び上がった。

 もしかして、今の見られた?

 胸を押さえつつ、ぐるりと振り返ると、そこには思わず息を止めて見惚れるほど美しい女性が立っていた。細身で長身、波打つ銀髪、まるで吸血鬼みたいに色素の薄い肌。一瞬、リルレットは彼女が誰なのか分からなかった。屋内にいる彼女の姿しか見たことがなかったからだ。女はまさに今から会いに行こうとしていた人物、魔術研究局の局長ユイ・セイナードだった。

 そうと分かれば怖くない。


「あっ。お久しぶりです。今日はお世話に――」

「誰だ、お前は?」

「へ?」


 リルレットは目を点にしてユイを見返した。

 切れ長の青い瞳が、更に細くなってリルレットを睨みつけている。


「怪しいやつだ。来い。牢屋に案内してやる。そこで思う存分取り調べを受けるがいい」

「ええ!?」

「何をグズグズしている、侵入者め。縄で引き摺られたいか」

「きゃーっ。ちょっと待って、離して下さい、ユイさんっ」

「むっ。なぜ私の名を知っている? ますます怪しいぞ。説明してもらおうか!」

「私ですよっ。リルレットです。一度しか会ったことないけど!」


 後ろ首を掴んでいた手を力いっぱい引き剥がすと、リルレットは顔がよく見えるようにずずい、と背伸びした。

 ユイは目を眇め、口は半開きに、いかにも凶悪な面構えで少女を観察した。やがて、納得がいったのかポンッと手を打ち、


「おお、君か! これは失礼した。今日は眼鏡をどこかへやってしまってね。三歩離れると誰が誰やら分からないのだ。すまなかった」

「そ、そうなんですか。もしかして、私の他にも被害者が……?」


 凶悪な面構えは極度の近眼のせいだったらしい。

 恐怖に打ち震えながら尋ねると、ユイは朗らかな顔で言った。


「ここへ来る途中、そこら辺をうろついていた人間らしき影を三人ほど牢屋にぶち込んできた。なに、心配することはない。無実ならそのうち出てくるからな」


 そういう問題ではないと思ったが、リルレットは口に出さなかった。

 ユイとは、以前クラエスに用事を頼まれた際に言葉を交わしている。逆に言えば、彼女とはその日以来会っていない。彼女がどういう人間なのか知らなくても、全く不思議はないのだ――と、力尽くで自らを説得する。

 誤解が解けたところで、ユイは親しげにリルレットの肩に手を回した。


「さて。では私の部屋へ行こうか。前に君が来てくれたあそこだ。前よりも少々散らかっているが、寛ぐ分には問題ない」

「はいっ。お世話になります」


 愛想よく返事すると、ユイの口元にささやかな笑みが浮かぶ。


「ふふ。今日は久しぶりに話し相手ができた。良い一日になりそうだ」


 別棟へ向かう途中、リルレットは一度だけ城の方角を振り返った。白壁の建物や緑の木々の向こうに、ひときわ高い尖塔が突き出ている。その頂上には、伝説の竜を描いた旗が重々しくはためいていた。


 ***


 地下へ続く道は、大勢の人間が一度に入ることを予想した造りとは到底いえなかった。幅は大の大人が二人並んで通れる程度、階段部分は更に狭く、何箇所か急に曲がっている。中に入った者が地上のどの辺りにいるのか推測させないように設計されているのだ。

 それにしたってやり過ぎだろう、と二十人程度の集団から離れて歩くクラエスは、天井を眺め回しながら呆れた。

 彼の他にいるのは、魔道兵器開発部の魔術師がほとんどで、残りは彼らの護衛のために付いてきた兵士たちだ。戦力は魔術師の方が高いとはいえ、全員が全員戦闘向きではない。それに、普段魔獣を相手に戦うこともある兵士の能力や経験は侮れない。魔術師たちが調査に専念するためにも、護衛の存在は必要不可欠だった。

 たとえ、大人数になったせいで道が歩きにくいとしても。

 その歩きにくさも、最下層に辿り着くまでのことだ。その後はいくつかのグループに分散して調査することになっている。

 集団行動が嫌いなクラエスは、幾度と知れずため息を抑えた。


「面倒くせえ、とか言うなよ」


 クラエスは、横目で軽装備に身を包んだロルフを睨み据えた。その斜め後ろには、リルレットを救出した際に見かけた若い騎士の姿もある。そしてもう一人、こちらは初めて見る顔だが、話には聞いたことがある。リュカ・レという名の少女である。まだ子供だが、実力のある魔術師だ。

 力があれば、たとえ子供だろうが平気で危険な場所に送り出す。この国に限った話ではないが、少々うんざりする。尤も、彼自身子供だった頃は疑問にも思わなかったのだが。

 それはともかくとして、本音をズバリ指摘されたのでクラエスはむくれた。


「どうせ後でバラバラに行動するんだし、全員一斉に降りることないじゃないか」

「こうやって大人数が地下に降りること自体、異例の行為なんだ。自由行動なんて認められるわけないだろ。ちったぁ我慢しろ」

「しかしだな」

「何がしかし、だ!」


 早速キレかけているロルフを無視し、クラエスは前方の階段に差し掛かった集団を指差す。


「ああも固まっていられると、後ろから蹴り落としたくならないか?」

「その危険な考えは、今すぐ捨てろ」


 ロルフは今にも歯ぎしりしそうな表情で唸った。どうやら冗談を冗談と受け取ってもらえなかったようだ。今日の友人はやけにピリピリしている。それとも自分が異常なのだろうか。どちらとも言えず、クラエスは肩を竦めて前に向き直った。

 居心地の悪さを感じ取ったのか、少年騎士が戸惑い気味に口を開く。


「そういえば僕たちの担当部屋はまだ魔獣退治が完了してないと聞きましたけど、本当なんですか?」

「ユリアン、本当に話を聞いてたのか? まだ完了してないんじゃない、全くの手付かずだ」

「ええっ。それって一番危ないってことじゃないですかー!」


 ユリアンの声が石の壁に跳ね返り、キンキンとこだました。その五月蝿さに、本人以外の三人は思わず耳を塞ぐ。音の衝撃が過ぎ去ると、すかさずリュカが彼のつま先を踏みつけた。


「うるさいですよ! 騎士のくせにギャアギャア騒がないでくださいっ」

「ううっ、すみません先輩」

「ボクはあなたの先輩じゃありません!」


 言い争う二人の脳天に、ロルフの拳が突き刺さった。言葉はなかったが、鋭い目つきで言いたいことは通じたらしい。二人の若者は恐々として沈黙した。クラエスは一人、「仲がいいねぇ」と溜息混じりに呟いた。


「……理解していない者がいるようなので、もう一度説明する。オレたち四人が向かうのは、水路の要である《聖浄の魔石》が設置されてある石室だ。部屋の位置はオレが把握してある。そこはかなり繊細な注意が必要な場所で、それゆえに第一陣派遣の際は敢えて無視された。よって、魔獣がいた場合はオレたちで対処することになる」


 隊長の淡々とした説明に、ユリアンは首を傾げて疑問を投げかけた。


「魔術師が二人もいて、僕たち剣士が必要なんでしょうか?」

「それは――」

「監視だね。俺もリュカもこの国の人間ではないから、コイツみたいな監視役が必要なんだろう。ロルフなら俺たち二人にも対処できる……かもしれない」


 狭い階段を先に降りながら、クラエスはロルフが言うつもりのなかったことまでもを淡々と述べた。騎士隊長は何かを言おうと口を開いたが、結局苦々しい顔つきで言葉を飲み込む。その手に掲げもつ松明の明かりが、一瞬大きく揺らめいた。


「……そろそろ最下層だ。そこからオレたち四人は北へ進む」

「北ってどっちですか?」

「オレが把握してるっつったろ。リュカ、お前は調査のことだけ考えてろ」


 強い口調で言うと、少女は不服そうに頬を膨らませてロルフを睨んだ。そんな目で射抜かれたところで、彼は痛くも痒くもない。

 忠告はしたが、彼女なら如才なくこなすだろうという確信があった。男の方は言うまでもなくだ。

 自分とユリアンの仕事は、実際のところ魔獣が来ないよう見張っているだけでいい。石室は完全な密室だし、扉は特殊な鍵がなければ開かない。そんなところに魔獣が入り込んでいるはずがない。

 しかし、ロルフは言い知れない不安をずっと感じていた。有り得ないと思えば思うほど、もしかしたら有り得るかもしれないと懸念が膨らむ。根拠などないが、長年の勘がそう囁いているのだ。いつも無愛想な悪友が、軽口を叩きながらも真剣な目をしていたから。

 おそらく石室には何かある。それが魔獣なのか、別の危険なものなのかは分からないが。


「どうせ、すぐ明らかになる」

「何か言った?」


 ロルフの独白を聞き咎めたクラエスが反射的に尋ねた。軽薄を装いながらも警戒しているのが感じられる。首を振って否定しようとしたその時、明るい光が下の方から漏れてきた。

 明るいといっても、太陽のような眩しさではない。湖面に映る月のような、静かな光が満ちている。


「これは……」


 人々の口から感嘆の声が次々と漏れた。同じような呆けた顔が立ち並ぶ様子は、傍から見れば間の抜けた光景だったろう。それが分かっていてもなお開いた口が塞がらない。

 城の地下――そこが本当に城の真下なのかすら分からないが――には、巨大な空間が広がっていた。

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