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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第四章
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抱擁

 不意に、リルレットは身を切るような寒さに包まれた。空は気持ちが良いくらいの快晴だが、心情的には今にも雨か雪が降ってきそうだ。

 寒さは恐怖のせいだった。本能的に避けようとしている何かがすぐ近くにあるのだ。まるで暗闇の向こうにいる化け物が、彼女が恐怖に負けて飛び出していくのを待ち受けているような錯覚まで覚える。

 きっと気のせいだ。恐ろしい体験を一日に何度もしたことで、神経が過敏になっているに違いない。リルレットはそう思い込もうとしたが、体の芯から沸き立つ震えを抑えることはどうしてもできなかった。


「どうした? 寒い?」


 異変に気付いたクラエスが、心配そうに声をかけてくる。

 リルレットは首をぶんぶんと振って否定した。


「怖いんです」

「どうして?」

「どうしてって?」


 それが分かったなら、きっとこの震えも止まるだろう。いつまでも震え続けてはいられないから。理由の解明はきっかけになる。

 リルレットは、以前のように――ジーンのことで悩んでいた時のように――気持ちを自分の中だけに留めようとした。未熟な自分を自覚しているせいか、なるべく他人の手を煩わせないようにする癖がついていた。

 そんな彼女の性格にとうの昔に気付いていたクラエスは、何も言わずにただ彼女を抱き締めた。

 目を固く瞑っていたリルレットは、自分を包む温かいものに触れて瞼を上げた。頬や肩、腕、背中。暖炉の炎に似た温もりが伝わってくる。それは実際の温度ではなかったかもしれない。しかし、少なくともリルレットには区別がつかないほど、あるいは実際の温もりよりも遥かにほっとする感覚――愛情だった。

 それに気付いた瞬間、体の震えは収まった。いや、クラエスに抱き締められたその時から、既に恐怖は消え去っていたのだ。気付くのが少し遅かっただけで。


「安心した?」


 彼のシャツに頬をくっつけたまま、リルレットは無言で頷いた。


「……昔に戻ったみたいです。春の陽気の中、草むらに寝転んでた子供の頃に」

「俺の場合で言う、悪戯して怒鳴られるのを躱すために屋根の上で昼寝してた頃のことかな」

「きっとそうです」


 リルレットはくすっと微かな笑い声を漏らして言った。

 目を閉じると見えてくるようだった。ジーンや他の友人たちと一緒に、山で兎を追いかけ回したりしていた頃の光景が。当時に戻りたいとは思わないが、時折懐かしむくらいのことはこの先もするのだろう。

 しかし、クラエスの少年時代の記憶は遠い彼方に消えてしまったのだと思うと、深い憐れみの情が胸を満たし、リルレットは再び悲しくなった。


「……淋しくないんですか? 家族や故郷のこと」

「初めからないと思えば何ともないよ」

「そんなの、悲しいです」

「実際、何も悲しくないんだ」


 クラエスはリルレットの後頭部をぽんぽんと撫でた。


「俺にとっては師匠が家族で、グランリジェが故郷だから。それにこの家も気に入ってるし。家の方も俺のことを気に入ってくれてるんじゃないかな」


 しかし、そう言いながらも彼は、少しだけ淋しそうに付け加えた。


「忘れてしまった俺よりも、忘れられた実の両親の方が辛いと思うよ。だから泣き言漏らすのは、ちょっとね」

「そう……ですよね」

「それにどんなに辛いことだって、いつかは笑って話せる日が来るものさ。生きていればね」

「クラエス様が外に出てきたみたいに?」


 クラエスは思わずリルレットを見つめた。少女の目は、躊躇いがちではあるけれども悪戯っぽく輝いている。

 突然、クラエスが笑い出した。肩を震わせて笑う姿は、少年に戻ったかのようだった。もちろん、リルレットは彼の少年時代など知らない。もしかしたら、こんな風には笑っていなかったのかもしれない。そう思うと、なんだか胸がどきどきした。新しい彼の一面を見ているような気がして。


「今の切り返しはなかなかだった」


 一頻り笑い終えたクラエスが、なおも堪え切れない様子で言った。

 リルレットはそっと目を閉じ、クラエスの腕に身を任した。髪を撫でる手の感触が地肌に伝わってくる。このまま眠ってしまいたいと思えるほど心地よい。

 麻酔にかかったみたいに頭がぼんやりとしてきた。遠くに聞こえるはずの喧噪は、胸の鼓動に掻き消されてあるかないかも分からない。

 どちらかが深く息を吐いた。

 リルレットは薄っすらと瞼をあげ、瞬く星空を見た。

 藍の絵の具を塗りたくった上に無数の点を散らしたような夜空は、息を呑むに相応しい光景だ。

 こういった景色を今まで見たことないがわけではない。何も考えずに外を眺めるのは好きだ。しかし、この日の夜は、記憶にあるどの夜よりも美しく映えて見える。

 不意に、ぽつん、と天空から沁み出した藍色の滴がリルレットの胸に入った。広大な空の一粒。そのちっぽけな存在が、彼女を恐れさせていたものの影を克明に映し出す。

 それは、孤独という名の魔物だった。いつの間にか彼女と大切な人との間に滑り込み、一切を奪っていく――そんなイメージが眼前に広がり、ひっと小さく息を呑んだ。


「今度はどうした?」


 静かな声により、イメージは一瞬で掻き消えた。クラエスが顔を覗きこんでいる。彼はその緑の瞳で、リルレットの胸の内を見通しているかのようだった。だけど、今の錯覚は彼にも見えなかっただろう。昼間の体験ののせいで弱っているのか元から弱いのか、リルレット本人も分からない。

 ひどく人恋しかった。誰も彼もが遠い存在に思えていたが、自分こそが皆から離れてしまっているのではないかとさえ思えてくる。


「クラエス様はどこにも行きませんよね? イシエみたいに……。もし記憶が戻っても、ここにずっと居てくれますよね?」

「当然だろ。ここは俺の家なんだから」


 彼は笑いながら言ったが、それでもなお不安が拭えない。

 さっきのはただの妄想だ。だけど、もし現実になったら?

 有り得ないことではない。出会いがある限り、別れは必ずやってくるのだから。それは明日かもしれないし明後日かもしれない。

 クラエスはやはり見透かしていた。


「その目は、考えても仕方のないことを考えてるな?」

「だって、どうしても……。って、なんで私の心が読めるんですか?」

「分かるさ。リルは単純だからね」


 どきん、と一瞬、心臓が飛び出るかと思うくらい跳ね上がった。何気なく放った一言が、少女に多大な困惑をもたらしたとはつゆ知らず、クラエスは呑気にベンチに背を凭れている。まるで星の数でも数えているかのような、ぼんやりとした眼差し。

 熱湯を浴びせられたみたいに、首から耳まで真っ赤に染まる。気付いたら、不安など吹き飛んでいた。


「今、リルって。リルって呼んだっ」

「それがどうかした?」

「どうかしたって!」

「構わないだろ。キミが来てからもう少しで半年経つんだし」

「あと一か月以上あります!」

「ああ、そう。一か月ね。ところで、なぜそんなに怒ってるのかな?」

「べ、別に怒ってなんか」

「そう?」


 クラエスはぐいっと上半身を捻って、リルレットの顔を覗きこんだ。目の前に翡翠の目が来る。


「顔が真っ赤になるくらい怒ってるんだと思ったんだけど」

「う……!?」


 リルレットは反射的に頬を両手で挟んで隠そうとした。しかし、いくら夜といえど、月が出ている上にこの近さでは全く意味がない。

 クラエスは意地悪そうにニヤニヤしている。

 ……からかわれた!

 本気で怒ろうとかと思ったその時、一つの事柄がリルレットの頭に浮上した。

(そうだった。今日から二人っきりなんだ……!)

 なぜそのことに思い当たらなかったのか。イフリータが再び人の姿を取り戻すまで、クラエスの話し相手は自分だけなのだ――ロルフかレイカが訪ねでもしない限り。

 どこにも行かないどころか、いつも一緒ということだ。

 自分の発言が今更恥ずかしくなり、リルレットは変な悲鳴を上げた。

 しかし、彼女の小さな叫び声は、遠い空に打ちあがった轟音と閃光に紛れて誰の耳にも入らなかった。

 驚いた二人が北の空を見上げると、重なり合う屋根の向こうに大輪の炎の花が咲いている。大から小へ、華々しく夜空を飾る花の連なりは、地上にいる人々の目と足を釘付けにした。

 リルレットは初めて見る花火に圧倒されて、言葉を失った。綺麗、の一言すら出てこない。花火というものがあることは知っていたが、実際に見たことはなかった。何せ、去年も一昨年も、屋内での仕事に追われていたから。

 火薬が弾ける音が空気を震わせるたび、リルレットはびくりと体を震わせた。少し恐ろしそうに。しかし、美しいものから目が離せない。

 クラエスは、無言で空を見つめている彼女の横顔をひっそりと見守った。その口元には、自然と笑みが刻まれている。彼にとっては、花火よりずっと価値のある横顔だ。花火は見物客全てのために打ち上げられる。しかし、この夜のリルレットは彼だけのためにここにいる。そのように思えてならなかった。

 リルレットが正気を取り戻すまで、黙っているつもりだった。だが、次第に生来の性格が疼きはじめる。彼の中の苛めっ子が、むくむくと顔を出したのだ。

 クラエスは、放心状態のリルレットの耳元に口を寄せた。


「そういえば、アレを恋人同士で見ると幸せになれるんだってさ。知ってた?」

「……っ」


 すると、少女は面白いくらい真っ赤になった。空色の瞳いっぱいに、羞恥の涙を浮かべて。

 ――そうそう、この反応。これだから面白い。

 彼は頬が緩みそうになるのを我慢し、わざとらしく肩を竦めた。


「また怒った」

「怒ってないですー!」


 拳を振り上げて否定する様は、怒っているようにしか見えない。

 その直後、堪らず笑い出したクラエスと、そんな彼をぽかぽかと叩くリルレットの仲睦まじい姿があった。


 ***


 事件から一週間後、イクセルの処分が決定した。一族の名声を振りかざして非難を躱してきたリネーも、今回ばかりは弁護できず、バルテルス家の次男は厳しい冬を迎えることになった。

 イクセルが送られたのは監獄ではない。が、彼にとっては、ある意味で監獄よりも寒々しく味気ない場所である。

 学術都市レッケルン。考えられる限りの娯楽が排除された、イクセルには生きにくい天国だ。彼はそこで三年間の留学を言い渡された。

 家長であるリネーは、表向き不服そうにしていた。しかし、今回の決定で一番嬉しかったのは他でもない彼かもしれない。何せ、一族の鼻つまみ者を公的に追い出すことができたのだから。

 一方で、アニエスからの厳しい抗議により、娘の婚約をネタに宰相に取り入る作戦は諦めざるを得なくなった。欲しい位を勝ち取るには実力で立ち向かうしかない事実を、溜め息を吐きながらも受け入れることにしたようだ。

 こうして、クラエスは義弟の鬱陶しい要求から解放されたのだった。

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