導きの手
無事馬車に乗って帰宅し、ロルフが寄越してくれた医者を見送った時分には、空はすっかり暗くなっていた。それでも通りにはまだ大勢の人が歩いている。花火を見に来た見物客だ。
楽しそうな親子連れが、門の前を笑い声を上げて通り過ぎていく。リルレットは急に故郷が恋しくなった。
(少し風に当たろうかな)
怪我した足をひょこひょこと引き摺って裏庭へ続く土を踏む。
専門の魔術医の治療を受けたことで、既に助けがなくても歩けるくらいに回復していた。しかし、それでも全治に一週間くらいはかかるらしい。
その程度で済んだのは、ひとえにイシエのおかげだろう。彼が駆けつけてくれなかったら、今頃生きてはいなかったかもしれない。そう思うと自然に足が止まり、何とも言えない複雑な感覚に陥った。
悲しいだとか寂しいだといった感情はあの広場に置き去りにしてきたようで、今は涙も出てこない。心が麻痺したみたいだ。
脳裏に思い出すのは地に倒れた姿ではなく、幻想的な光と化した姿だった。今まで見たどんなものより綺麗で、イシエを一番遠くに感じた瞬間だった。
あの後、彼はこの世から跡形もなく消え去った。だから、もうこれ以上の悲しみは襲ってこないはず――なのに、何故か不安が残る。灰の下で燻る火のように、何かがまだ消えないでいるのだ。それが何なのかは、分からない。考えようとすると、考えたくなくなる。
きっと知らない方がいいことなのだ。
リルレットは無理やり自分に言い聞かせて、再び歩を進めた。
外壁をぐるりと回ると、やがて誇張なしに淋しい庭が見えてくる。雑草の一つも生えていないのは日頃の手入れを怠らないからだが、花の一つも植えないのは怠慢だったか。来年の春には必ず何かしら育てようとこの夜心に誓った。
庭にはベンチがあり、そこからだと星空がよく見えることをリルレットは知っていた。周囲に高い建物がないおかげだ。疲れたときなど、空いた時間に腰を落ち着けて空を眺めるのがささやかな楽しみなのだ。
しかし、ベンチには先客がいた。
「あ……」
思わず目を見開いて見惚れる。
足を組み、少し前のめりになって上を向いた秀麗な顔。月に照らされた横顔はほの白く、太陽の下にいるよりも却って目立つ。
クラエスは月に透かしたイフリータの宝石を物憂げに見つめていた。
魔獣騒ぎ以来、戻ってこないのはイシエだけではない。イフリータもまた、どういうわけか人型に戻る力を失ってしまったのだ。今の彼女は呼びかけても返事をしない、ただの石ころも同然だった。
リルレットは外壁に手を添え、ゆっくりとベンチへ近付いていった。地面を擦る音にクラエスが振り向く。彼は意味ありげに微笑むと、何も言わずに立ち上がってリルレットをエスコートした。
「冷えるだろう」
隣に座らせた少女の肩に、自分の外套をかける。リルレットはその襟を寄せながら、どこかよそよそしい感じで口を開いた。
「クラエス様は?」
「平気。たぶん、ここよりもっと寒いところで育ったんだろう」
その言葉を聞いて、彼がエリュミオンの生まれではないと言っていたことを思い出した。アニエスに初めて出会った時のことだ。その後も色々なことがあったせいで、続きを聞きそびれていた。
「……たぶんって?」
「覚えてないから」
「どうして?」
クラエスは質問を重ねる少女を振り返った。その顔はなぜか面白そうに輝いていた。
「ずっと前、魔術で失敗して死にそうになったって話したことを覚えてる?」
リルレットは黙って頷いた。
「そのとき、記憶も一緒に吹き飛んだ。家族も生まれも本当の名も、何一つ覚えてない」
「でも、周りの人は……。住んでた場所は?」
自分が覚えていなくても、彼のことを知っている人はいるだろう。その人に聞けば、失った記憶のいくつかは分かるはずだ。
クラエスは三つめの問いには直接答えず、苦笑した。
「何から話せばいいのかな。……とりあえず、俺が見つかった村のことから話そうか」
ホッブ村という名のそこは、同盟国アルセルドの南端にある小さな村落だった。現在は地図上から消えている。十三年前に起きた事件が原因だ。
山間にあるホッブ村は他の町とは切り離され、交通が不便な場所にあった。嵐が来たときなど、崖崩れで道が断絶することも珍しくなかった。
そこを付け入られてしまった。
当時、サジェスはアルセルドの豊富な金鉱を狙って戦を仕掛けていた。アルセルド兵は屈強なことで有名だが、敵の圧倒的な数に押されて劣勢に立たされていた。そこで同盟国に応援を要請し、何とかサジェス軍を撃退した。そこまでは良かったのだが、敗戦と見るや否や逃げ出した脱走兵が、食料のためにホッブ村を襲ったのだ。彼らは食料を根こそぎ奪うと、追及の手から逃れるために村に火を放った。
火は村だけでなく野山までをも焼き払い、逃げ場を失った大勢の村人が命を落とした。
その中に、クラエスの両親もいたらしい。らしいというのは、生き残った村人の証言から得られた推測で、遺体は見つからなかった。正確に言えば、身元が判別できた遺体の中にはいなかった。損傷が激しく、最後まで名前が分からなかった人も多かったのだ。
クラエスたちの一家は、村の者ではなかった。どうやら旅をしてきたらしいことまでは分かっているものの、詳しい身元を知る者は一人もいなかった。
そしてそのときにはもう、彼の記憶は失われていたのである。
数人の脱走兵と一緒に気絶していた彼を助けたのが、当時魔道兵としてアルセルドへ援軍に来ていたアルヴィドだった。
「それが十四年前の今日のことだ。辺りには魔術を使った痕跡があった。敵以外には俺しかいなかったから、必然的に魔術を使って失敗したのは俺ということになる」
「どうして失敗だって分かるんですか?」
「一人前の魔術師は、自分を傷つけるようなヘマはしないものさ。何はともあれ、俺はすぐに治療を受けて別の大きな町に移された。そのおかげで命は助かったけど、目覚めてすぐの俺は九死に一生を得たことすら理解できていなかった」
クラエスにとって大変なのはそれからだった。事件に巻き込まれたと聞かされても、家族が死んでしまったかもしれないと聞かされても、何一つ実感が湧かない。体に刻まれた傷跡が出来事の凄惨さを教えてくれる唯一の証拠だが、それも時間が経つにつれて消えていった。
残ったのは、膨大な魔力と空虚な自分。
人は口々に可哀想だという。最初は聞き流していたけれど、次第に煩わしくなっていった。記憶と一緒に感情まで真っ白に塗り替えられたみたいで、何を言われても心に響かないのだ。冷血な自分を認識するのも嫌だった。歩けるようになるとこっそり宿を抜け出して、一人になれる場所を探したりもした。
「結局分かったのは、逃げられないってことだけだったけどね」
「何から……?」
「師匠」
思い出し笑いをするクラエスを、リルレットは不思議そうな面持ちで見上げた。
「今日はここにいたか」
最近覚えた声を聞き、遠くを眺めていた少年は視線を足元へやった。彼が座っているのは、大人よりも背の高い木の枝だ。どこでやり方を覚えたのか、器用に木の中ほどまで登っていた。
少年の足元では、立派な髭を生やした壮年の男が大袈裟に口角をあげた。おそらく、そうしないと笑ったように見えないからだろう。男の四角い顔は、親しみよりもまず厳つい印象を与える。
男が腰に帯びた短剣はエリュミオンの魔道兵である証だが、少年はそれが子供の玩具を直すのに使われるのを見たことがあった。男は厳つい顔立ちに似合わず、子供に人気があるようなのだ。
「さあ、降りてきなさい。もう日が暮れるぞ」
男はそう言って両腕を伸ばした。
なるほど、子供に人気というのはこういうところが理由なのだろう。黙って宿を抜け出してきたというのに、少々の悪戯では叱らない。命令調でありながら高圧的でない。あくまで友好的だ。
「そう。足をこっちに向けて。大丈夫、飛び降りていい」
少年は自力で登ったのだから一人でも降りられると思ったけれど、誘導には素直に従った。男が案外しつこいことはよく知っている。
降り立ったそこは、人家も店もない町はずれだ。昼間は彼よりも小さな子の遊び場で、意味もなく笑ったり走ったりするのを眺めていた。夕方になると、子供たちはどこかへ行ってしまった。各々の家へ帰っていったのだろう。少年は一人になり、少ししてこの男が来た。
男の名はアルヴィドという。高名な魔術師らしい。だけど少年は男が魔術を使う場面を見たことがない。見たいとも思わない。
アルヴィドは少年の手を引いて歩きながら、世間話をするように尋ねた。
「今日は何を見ていたんだ?」
「……そら」
「西の空か。西にはエリュミオンがある。私の故郷だ。首都はグランリジェといって、ここよりもっと大きな都市だ。水と風の街。北の渓谷から流れてくる河の名をリジェールといい、王都はその河に沿って造られた。こういう話は詰まらないか?」
少年は答えなかった。黙々と前だけを見て歩いている。
アルヴィドはそれを否定と解釈し、一人頷いて続けた。
「城は街の一番北にある。渓谷の河が滝となり、滝が大きな湖をつくり、その水は城の真下をくぐって街へと流れる。更にその水が――」
男の話を聞き流しながら、ゆったりと動く雲に目を移す。雲は東――エリュミオンとは反対の方角へ向かっている。
ここからだと、どれくらいの日数が掛かるのだろう。そんな取り止めのないことを考えている自分に気が付いて、少年は視線を足元に落とした。
赤茶色の土の上に、人や馬の足跡が並んで歩いている。その上を自分らが歩いていく。足跡は掠れて消され、新たに作られ、また消される。
何事も同じ繰り返しだ。彼には一日一日が無限に思えた。というより、朝も昼も夜も変わらない。変わらない、同じ日々。だけど時間は着実に過ぎていく。それだけは分かる。今まさに、終わりを感じているからだ。それを変化と呼ぶなら、変化は唐突に訪れるものなのだろう。彼のちっぽけな意志とは関係なく。それを悲しむべきか喜ぶべきか、判断の根拠を少年は持っていなかった。
「今日は随分歩いたんだな。これだけ動ければもう大丈夫だろう」
アルヴィドがその話題を持ち出したとき、遂にこのときが来た、と思った。
男が宿を引き払い、故郷へ帰るのだ。
アルヴィドの仲間は数人を残して既に帰途に着いた。孤独な少年一人を世話するために一個大隊も必要ない。そもそも、彼らにそんな義務はない。孤児院など適当な施設に任せるのが妥当だ。ホッブ村はアルセルド領内なのだから。ホッブ村やこの国のことを教えてくれたのもアルヴィドだった。
思い返せば、彼は何かにつけて色々な知識を与えてくれた。故郷の話もその一つだ。
なるべく少年が困らないように。負担が一気にやってこないように。アルヴィドたちが去って行った後も……。
驚いたことに、想像していたよりも大きな衝撃が少年を襲った。底なし沼に囚われたように、ゆっくりと言い知れない不安の中へ引きずり込まれていく。
アルヴィドの話はまだ続いていた。
「うちの魔術医は優秀だが、キミの魔力が柔軟なのも恢復が早い要因の一つだろう。魔術とは意図して使うだけではなく、そんなところにも差が現れるものなんだ。キミはきっと良い術者になるだろうな」
少年は顔を顰めた。胸の奥がざらざらして気持ちが悪い。
何故、アルヴィドの喋ることはいちいち心を揺らすのだろう。他の人から何を言われても、少しも動じたりしないのに。子供に人気だからだろうか。だとすると自分は子供だということだ。子供は一人では生きられない。大人の手を借りなければ。では、いつから大人になるのだろう。いつになったら、「まともな人間」になれるのだろう。
不安はどんどん膨らんで、それ以上堪えることができなかった。
「また……」
「ん?」
いつかまた、真っ白に戻される日が来るんじゃないか。間違って力を使って、失敗して。命を救われたことも、こうしてアルヴィドと話していることも忘れてしまう。もしかしたら、次こそ本当に死ぬかもしれない。それならそれでいいけれど、万が一再び助かるようなことがあったら、今のような空虚な日々を過ごす羽目になるのだろう。そうなったら嫌だ。
そのようなことを、時間を掛けて説明した。いつもなら胸の中に仕舞って決して吐き出さないような台詞の数々に、少年自身が困惑する。それでも話すのを止めなかったのは、今日がアルヴィドに自分の気持ちを表現する最後の機会だと思ったからかもしれない。
しかし――思い詰めた末の告白だったのに、アルヴィドは豪快に笑い飛ばしてくれた。あまりに気持ちよく笑うものだから、道行く人が振り返る。不躾な注目を浴びるたびに、少年は少し気まずい思いをした。
「少年、ん、いつまでも少年では不便だな。そうだ、宿に戻ったら名前を考えよう。こういうのは早い者勝ちだ。私がやらなくてもどうせ誰かがやるんだから。わざわざ他の者に権利をくれてやることはない。それでいいな、少年」
いくらか気圧されて頷く。するとアルヴィドも満足したように大きく首肯し、眇めた目を遠くへ向けてしみじみと言った。
「また真っ白に、か。うん。そういう不安も分からないではない。今のキミは、星のない夜の海を泳いでいるようなものだ。どの方角を目指せば陸に辿り着くのか、誰かに言ってほしいのではないか? 慰めの言葉などではなく」
そうかもしれない。
人に優しい言葉をかけてもらうのが嫌だったわけじゃない。だけど、皆いずれどこかへ行ってしまう人たちだ。そう思うと、どんどん気持ちが捻くれていった。どうせ独りなのだと。自分は置いて行かれる側なのだと。こんなに嫌な思いをするなら、言葉も忘れてしまえばよかったのに。拾われる前の、力を使った自分を呪った。
「導きがほしいか?」
頷く。救いがほしい。ちゃんと立つための地面がほしい。
「なら、私がキミの師匠になろう。一緒に王都に戻って、魔術を教える。他の色んなことも。友人もできる。私の知り合いの子にキミと同い年くらいの男の子がいる。彼ならきっといい友になってくれるよ。王都までは長い旅になるが、恢復の早いキミなら楽しめるだろう。だが、そこから先は決して楽な道のりではない。覚えることがたくさんあるからね。だが必要なことだ。もう二度と記憶を失わないために。時間は過ぎていくものではなく、積み重ねていくものなんだ。そのことをキミに知ってほしい。
どうする? 一緒に来るかい?」
アルヴィドの目は真摯に輝いていた。一時の血の迷いから出た言葉ではない。心から彼に手を差し伸べようとしている。だから、躊躇いなくその手を取った。
「行く」
「良い子だ」
ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜる大きな手をくすぐったく思いながら、少年は意識を取り戻して初めて少しだけ笑った。
全てを失い、一つ取り戻した。そのことに気付いたのは、もう少し後のことだ。けれど、この日のことはきっと一生忘れないだろう。
「ありがとう。助けてくれて」
「ハハハ。それは治療した奴に言ってやれ」
「……うん」
声をかけてくれた人たちにも。ほんの少し、素直になる気になった。
「家でも人でも何でもいい。お前を望み、待ってくれる存在があればと思うよ。それは誰かが与えてやれるものではないからな」
夕日に包まれた町を歩きながら、アルヴィドは独り言のように話した。
それは一体どんなものなんだろう。
そう思ってアルヴィドを見上げるけれど、彼はぴったりと口を閉じてもう何も言わなかった。二人を待つ宿に辿り着くまで。