一先ずの終結
クラエスたちがどこかへ行ってしまった後も、リルレットは一人ベンチに佇んでいた。
涙はもうすっかり乾いていた。これ以上出ないというところまで体中の水分を絞り出したのだ。少なくとも彼女はそう信じている。
たった半日の間に状況はめまぐるしく変化したようにも思えるし、出来事を順に並べると至極単純だったようにも思える。
今朝は楽しみな気持ちで胸がいっぱいだった――少しだけ不安もあった。数時間後には魔獣にでくわすことを知っていたら、あんな明るい気分にはなれなかっただろう。
魔獣。その言葉を思い浮かべただけで、長い、いくつもの蔦を従える異様な姿が目に浮かぶ。それは彼女の体に巻き付き、殺そうときつく締め付ける。手に、足に、腰に、首に。息ができないと思った瞬間、リルレットは呼吸を止めていたことに気付いた。
「……っ」
思わず肺の中の空気を全て吐き出して、肩が大きく上下するに任せた。
休息が必要だということは分かっている。しかし、体が休んでくれない。ちょっとしたことを思い浮かべるたびに、うつ伏せに倒れる騎士の姿や襲い掛かってくる魔獣の影がちらついて、ここがどこかということも忘れて震えた。
周囲では大勢の人が働いている――そちらに目を向ける勇気はないが――魔獣が街の中に現れた証拠を、黙々と片づけている。
助かったのだという気にはなれなかった。イシエやクラエスが助けてくれたときの安心感は忘れることもできないけれど、再び現実を見つめる段階になると、逃れられない恐怖が再び襲ってくるのだった。
逃れられないのは恐怖だけではない。
喪失感も。
イシエは本当に消えてしまったのだ。決して手の届かないところへ。
来るべき時が来ただけ。何度もそう言い聞かせたけど、淋しさを紛らわすことはできなかった。
クラエスが残してくれた外套を胸の前で引き寄せ、背中を小さく丸める。
途方もない郷愁の念が、なぜか風を吹かせている。
(早く帰りたい。お話、まだ終わらないのかな)
顔をあげて色々なものを目に入れるのが嫌で、リルレットはずっと下を向いていた。
溢れていた噴水の水はもうすっかり引いている。クラエスが何かしたらしい。しかし、石畳はいまだにぬるぬると光っている。
ここにも現実があった。
石の隙間に暗緑色の物体が挟まっているのに気付き、リルレットは慌てて目を瞑った。魔獣の残骸がこんなところにまで飛んできたのだ。思うように動いてくれない足を懸命に動かして、少しずつベンチの端に寄った。
街はどのくらい騒ぎになっているのだろう。街に魔獣が出たなんて知ったら、みんなパニックになるだろう。お祭りどころじゃなくなってしまう。
外の国からもたくさん人が来てくれたのに勿体ない。エリュミオンのいいところをたくさん見てもらうチャンスだったのに、真実を知ったら皆怖がって来年は来てくれなくなってしまうんじゃないだろうか。
そんなことを心配する義務はないのだが、考えずにはいられなかった。いや、関係のないことで自分の注意を逸らそうとしていた。
噴水広場の出来事に関してはロルフに口止めされている。公表するにも時機というものがあるらしい。リルレットは彼に向かって、もう手遅れなのではないかと言ってしまうところだった。
密閉された空間ならともかく、大空の下で起きた事件だ。視界には入らなくても、音は空を伝って響き渡る。狼の咆哮は何百人もの見物客の耳を驚かせただろう。
噂は真実でなくても、それ自体が面白ければどんどん広がっていく。この場合は、闇雲に人を不安がらせるような誇張だ。たとえ混乱を呼ぶと分かっていても、思い切って真相を明かした方が良い場合もある。
でも、そんなことはロルフにだって分かっているだろう。分かっていても時間が掛かることなのだ。
(これから、どうなるんだろう)
いずれ王都中の人が直面するだろう懸念を一足先に味わえたとして、ちっとも嬉しくなんかなかった。しかも、事は彼女自身に関係している。ロルフが口を滑らせたように、リルレットを狙って罠が仕掛けられたのだとしたら――そう思うと、止まったはずの震えがまた襲ってきた。
今日は運よく助かったけれど、もし次に危険な目に遭ったらと思うと、怖くて怖くてたまらない。
本当の犯人が捕まるまで、ずっとこうして怯えて過ごさなければならないのだろうか。
何かを抱き締めるみたいに腕を引き寄せて、リルレットは初めて気付いた。不安を感じたとき、イシエを抱き締めて気を落ち着かせていたことに。そのときの仕草が、無意識の内に癖になっていたのだ。
「……っ」
途端に大きな悲しみが押し寄せてきて、彼女は両手で顔を覆った。
分かっていたことなのに。遅かれ早かれ、別れが訪れることは。最初から知っていた。クラエスやイフリータが忠告してくれたから。でも、本当に理解したのは今日が初めてだった。愛しいものが永久にいなくなることの恐ろしさは、魔獣に襲われることより何倍も大きい。
知らなかった。こんなに悲しいなんて、想像もしていなかった!
このまま時間が経てばいいのに。悲しみや淋しさが癒えるまで、小さく縮こまっていたい――。
「あらあら、あの人たちは女の子を放っておいて何を話しているのかしら。ほんと、殿方は内緒話が好きねぇ」
びっくりして顔を上げると、アニエスが腰に手を当て、呆れた様子でクラエスたちのいる方角を見ていた。
「アニエス……様?」
「そうよ。他の誰かに見えて?」
「えっと」
口籠るリルレットに、アニエスはくすりと笑った。
その瞬間、取っつき難そうな雰囲気がほんの少しだけ晴れた気がした。よく見れば、昼間会ったときの高飛車な印象は薄れ、落ち着いた年上の女性といった佇まいを纏っている。見た目はリルレットと変わらない年頃なのに、随分引き離されているように感じるのは昼間と同じだ。
どちらも演技なのだろうか。あまりに見え透いた変化に不審を覚えるのは当然で、リルレットは戸惑った。
「今いいかしら。少し話したいことがあるの」
「は、はい。どうぞ」
「しゃちほこばらないでいいわよ。私も口の悪さにはちょっと自信があるの。ロルフの従妹だから。分かるでしょ」
何となく分かるような気がした。彼の場合は口調も態度も砕けているので、時々貴族だということを本気で忘れてしまう。彼と同じように接して構わないということだろう。けれど、簡単に承知していいものだろうか。
返答に窮していると、アニエスは勝手に隣に腰掛けた。その何気ない動作にも洗練された品の良さが窺え、知らず知らずの内に緊張していた。
「今更何なんだけど、話して大丈夫? 気分が悪いようだったら止めるけど」
「平気です。話って何でしょう」
こうなったら、なるべく早く終わらせてしまうに限る。
昼間のアニエスの態度については完全に演技だったと聞いているけれど、一抹の不安はまだ拭い去れないでいるのだった。
彼女は横目でちらりとリルレットの顔を見た。
――そういえば、さっきまで泣いていたんだった。
急に恥ずかしくなって顔を赤らめるけれど、アニエスは何も言わなかった。苦手意識は依然として残ったままだが、気遣いはありがたい。
「例の……あの、私と彼の婚約に関する話なんだけど。ああいうのって、輪の外に置かれると腹が立つものよね。自分抜きで勝手に話が進められていく感じがして。関心のある人のことだと尚更」
リルレットはどきっとして体を強張らせた。アニエス自身のことを言っているのだと思ったが、どうやら違うようだ。彼女はリルレットのクラエスに対する好意に気付いている。昼間の顛末を見ていれば不思議ではないのだが、そうと分からないリルレットは混乱を極める頭を整理するのに必死になって、危うく続きを聞き逃すところだった。
「クラエス様のお義父上、アルヴィド様が近衛魔道士長だったことは知っているかしら。近衛魔道士というのは、この国の優秀な魔術師の中から選ばれる魔術師最高の位よ。その長にアルヴィド様が就任するのは、あの方の実力を考えれば当然のことだった。それは問題ではないの」
話は唐突に跳び、リルレットは一瞬ついていけずに戸惑った。
しかし、アニエスは周囲の様子を気にせず話し続ける。聞けば分かる――そんな具合に。
「けれど、あるとき突然アルヴィド様が倒れられた。そのときの様子について私はよく知らないけれど、お父様が大層な慌てようだったのは覚えているわ。お父様も陛下同様、個人的な交遊を結ぶほど、アルヴィド様のことを厚く信頼なさっていたから。それに現実問題もあった。言うまでもなく、アルヴィド様の跡を誰が引き継ぐか、よ」
近衛は人員の入れ替わりが少ない。入隊が許されるのは年に一人か二人、ゼロの年もある。逆に、希望して脱退する者はほとんどいない。
本来なら、新たに長に就くのは副士長だ。しかし彼は高齢で、アルヴィドが死なずとも引退する予定だった。
国王は、この際若い魔術師に命運を託そうとした。魔術師の力量は年齢で決まるものではない。しかし、重役に就くのは名家出身の年長者からという暗黙の了解が、長年続いていた。己や己の子孫を守る者を、本当に力ある者の中から選びたかったのだ。
しかし、国王といえども名家が束になって反対すると否とは言えなかった。
結局、新しい近衛魔道士長に選ばれたのは、反対貴族たちの中心人物だった。
「新しい近衛長は雑魚で無能で鈍才でおまけに見るに堪えない脂ぎった体のおじ様。陛下やお父様がどれだけ落胆なさったか分かるわね? なんとか些細なミスでも見つけて引きずり落とせないかと、一、二年はそればかり話し合ってたんじゃないかと思うわ。もちろん私の想像よ。でも、それほど現実とかけ離れてないはず――」
と、よく回り出した口を軌道修正するように一旦休んで、
「ごめんなさいね。退屈な話ももうすぐ終わるわ。一番身近なところにはせめて信頼のできる人間を置きたいと思うのが人情ってものでしょ。お父様が頭を悩ませている最中に飛び込んできたのが、リネーからの申し出。彼は自分自身を売り込みに来たの」
リネーもまた魔術師で、実力は義兄に劣るものの近年は安定した才能を発揮している。安定性も能力を測る指針の一つだ。彼はかつての嘲笑を跳ね返し、こつこつと積み重ねてきた努力で周囲を見返しつつあった。ただし、近衛として認められるにはまだ足りない。あともう何年かの修業が必要だった。
魔術師同士の込み入った事情を知らないリルレットは、単にリネーが魔術師であるという事実だけを思い出して納得した。
しかし同時に、首を傾げる。
「あの……お話がよく見えないんですが」
リネーの昇進を懸けた売り込みとアニエスの結婚がどうやって結びつくのか、さっぱり分からないのだった。確か、語り始めはそのことについてだったはずだ。
すると、不自然なほど簡潔な答えが返ってくる。
「彼はお父様の取引材料に、私とクラエス様の婚約を持って来たのよ」
「えっと、それで?」
「だからっ」
アニエスはさっと頬に朱を走らせ、怒ったように目を吊り上げた。
「リネーは知っていたのよ。私がクラエス様を好きだってことっ。彼だけじゃないわ。お父様やイクセルごときにまで……! なんで、なんで私があんな公開処刑みたいな仕打ちを受けなきゃいけないのよ? ミーハーだと思われたくなくて一生懸命隠してたのにっ」
その後、リネーやイクセルを罵る言葉がいくつも飛び出してきて、リルレットはしばし唖然となった。名家のご令嬢がどこでそんな言葉を覚えてきたんだと、赤くなったり青くなったり。一通りの罵詈雑言を遠くの相手に浴びせた後、ぜぇはぁと荒い息をするお嬢様の隣には同じくらい憔悴しきったリルレットがいた。
何か一言フォローするべきかと口を開きかけたのを、アニエスの鋭い一睨みが制止した。
「いいのよ。慰めなんていらないわ。私って気に入らない相手に対しては容赦しない性格だから、お父様やお母様からは結婚相手が来ないんじゃないか、来てもすぐ逃げられるんじゃないかって心配されてて。そこへリネーが例の話を持ってきて、いい機会って思ったんでしょう。それに……どちらも娘思いだから。好きな人と一緒にさせてやりたいって思ったに違いないわ。ほんと、余計なお節介」
そう言いつつも、アニエスの頬には柔らかい微笑が浮かんでいる。
リルレットはふとクラエスたちの方へ視線を遣った。彼はまだロルフと何か話している。この距離では聞き取ることができず、こちらの会話も向こうには分からないだろう。
ぼうっと眺めていると、不意にクラエスと目が合った。青年はふわりと微笑みを返し、アニエスには会釈した。その瞬間、後ろめたさが胸を占拠した。ただ何となく見ていただけのつもりだったのに、彼がこちらに気付くことを心のどこかで期待していた自分に気付いたのだ。
アニエスはどうだろうかと思い、隣を盗み見る。彼女の青い視線は、まっすぐクラエスに向けられていた。
なぜか、リルレットは胸をぎゅうっと締め付けられるような痛みを感じた。
「……だけど私、人の言いなりになるって嫌なの。ましてや誰かの欲望を叶えるための手段に使われるなんて、腹立たしくて仕方がない。だから、クラエス様がお断りにならなくても私から言うつもりだったわ。……あの方が望まないことくらい、最初から分かっていたし」
無理やり押し出すような低い声が、全身に突き刺さるようだった。
どんなに好きでも、相手に振り向いてもらえない。それを知りながら意中の人に抱き着く演技を、どんな風にやり遂げたのだろう。
いや、演技ではなかったのかもしれない。きっと、あの瞬間だけは本当の気持ちを表すことができたのだ。
リルレットは何も言えずに俯いていたが、鳥の声に空を見上げた。夕焼けの中、一羽の鳥が誰かを呼ぶように鳴いている。その時初めて、いつものグランリジェが戻ってきたと感じることができた。
何はともあれ、終わったのだ。過去はもう取り戻せない。ようやくそれを認めるつもりになった。
「アニエス様。ありがとうございました」
「え?」
わけが分からないといった風に目を瞬かせるアニエス。不意を打たれたその顔は、年相応の少女そのものだ。
「アニエス様のおかげで、問題が一つ片付いたみたいです。ですからお礼を」
「違うの!」
手をぱたぱたと振りながら、彼女は急に立ち上がった。
「そうじゃないの。後回しになってしまったけど、私、本当はあなたに謝りに来たのよ。だってそうじゃない。私のせいで危険な目に遭ったんだもの。怪我までさせたし」
「これはアニエス様のせいじゃないですよ」
「かもしれないけど、本当に申し訳ないと思っているのよ。お礼を言われるようなことはしてないわ」
「いえいえ、そんなことはないですよ」
「そんなことあるのよ」
二人は向かい合い、一方はにこにこと、もう一方は差し迫った表情で礼と謝罪の押し付け合いを始めた。どちらも妙なところで頑固なのか、主張を一歩も譲らない。アニエスは次第に口論に発展しそうな剣幕になっていったが、相手が全く意に介していないせいか、取っ掛かりが見えずに狼狽しているようだった。
そこへ、話し終えたロルフとクラエスが戻ってくる。
「お前ら、何やってんだ?」
瞬間、アニエスは変な悲鳴をあげて背筋を凍らせた。背後から突然声を掛けられてびっくりしたらしい。
「ロ、ロルフ! 背後に立たないでっていつも言ってるでしょう!」
「いつもじゃないだろ。せいぜい五回会って一回くらいだ」
「十分過ぎよ!」
いきりたつ従妹を無視して、ロルフはリルレットに耳打ちする。
「こいつな、昔背中に毛虫を入れられたことがあるんだよ。それ以来、誰かが後ろに立つと異常に怯えるんだ」
「あ、ん、た、が、やったんでしょうっ」
「いてっ。耳引っ張るな!」
子供のようなやり取りを交わす二人に、リルレットは思わず笑ってしまった。小さい頃からずっとこんな風なのかなと想像すると、彼らが少しだけ羨ましいような気もした。仲の良かった友達も弟も、今は遠く離れた場所にいる。
「少しは元気出た?」
「はい。おかげさまで」
「良かった」
そう言って息をつくクラエスの肩に目を遣って、彼の外套を借りたままだったことを思い出す。慌てて返そうとすると、彼は緩やかに首を振って押しとどめた。
「迎えの馬車が来るまで、まだ少し時間が掛かる。そのままでいいよ」
道が混雑しているのだ。馬車もゆっくり走らざるを得ない。
リルレットは小さく返事をして、揃えた靴の爪先を見つめた。
さっきは早く帰りたくてたまらなかったが、既にその気持ちは霧散している。冷たい風に当たったことで、却って落ち着いたようだ。
視線を感じる。誰のものかはすぐに分かったけれど、顔をあげる勇気がなかった。
自分の爪先の少し先で、別の爪先がこちらを向いている。せっかく平穏が戻りつつあった気持ちが、ざわざわと揺れる。
丁度その時だ。アニエスの容赦のない報復が終わった。
「私、もう帰らなければ。父には内緒で出てきてしまったものですから」
ではごきげんよう、とレディらしくお辞儀をして立ち去ろうとする彼女をロルフが引き留める。あっという間だった。
「待て。部下に送らせる」
「必要ないわよ。出てくるのだって一人だったんだから」
「そんなわけにいくかっつーの。ちょっと待ってろよ」
一人で決めてあの若い騎士のところへ駆けていく従兄を、アニエスは少し呆れたように見送った。しばらくぶつぶつと文句を言っていたが、諦めたようだ。
何の前触れもなく二人の方を振り返ると、挑戦的な視線をクラエスに向けて言った。
「いいですか? 一度追いかけたものを、後になって止めたりしたらダメですよ? 絶対後悔するんですから」
「そのチャンスが巡ってきたら、あなたにお知らせするよ」
アニエスはびっくりした顔をして、それから声を立てて笑った。
リルレットには意味がよく分からず、背中を向けて去っていく令嬢と雇主の横顔を見比べて、首を傾げた。もう一度アニエスの去っていった方を見やると、一目で騎士と分かる装備の青年が慌てて彼女を追いかけていくところだった。