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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第四章
38/69

風の終わる場所

 己の何倍もの大きな生物に立ち向かうのは、一匹の子供の狼。

 その彼に向かって、三方向から緑の触手が放たれた。しかしイシエはリルレットを背後に庇ったまま動かず、その小さな体躯からは想像もつかないほど勇ましい雄たけびを上げた。

 と同時に、雄たけびに応じて生じた風の刃が、蔦を切り裂く。切り裂かれた蔦の断面からは、紫色の得体の知れない液体が飛び散った。

 再び狼が咆哮する。

 すると、緑の光が膨れ上がり、あっという間に彼を包み込んだ。

 その光が消え去ったとき、子狼は見事な毛並みを持つ巨狼へと変貌していた。


 狼が地を蹴り、駆け出す。それを迎え撃つ蔦は、噴水を核として巨大な魔獣と化し、複雑に絡んだ蔦の奥から赤い目を爛々と光らせている。

 槍のような攻撃が狼の身体を裂き、その傷口から緑の粒子が溢れだした。痛みに細長い面を歪ませながらも、狼は鋭い牙と爪を振るい、生き物のようにうねる植物を切り刻んでゆく。

 狼と蔦の槍が交差するたび、緑と紫が空中に飛び交った。その乱舞は妖しくもあり、また美しくもある。まるで無数の花が咲いているようでもあった。

 しかし、息もつかぬ激しい攻防は、確実に双方の体力を奪っていく。

 数分後、魔獣はその触手のほとんどを刈られ、まさに手も足も出ない格好となっていた。対する狼もまた、体中に穴が開き、立っているのもやっとといった体だ。


 最初に動きを止めたのは、狼だった。

 魔術の残滓である彼は、もとから満足に動けるだけの力が残っていない。イフリータから注がれた魔力でなんとか命を繋いでいたのが、ここに来て限界が近付いていた。

 イシエは最期の力を振り絞り、リルレットを守ろうと四肢を踏ん張った。が、その余力も尽きようとしている。

 がくりと前足を折り、彼は苦しげに息を吐いた。全身を覆う淡い光の中に、輪郭が溶けつつあった。

 イシエにとって、それは存在の終わりを意味する。

 風から生まれた彼は、再び風の中へ、アストラルへ還っていく。そうして、もう二度と形を成すことはない。


「やだ、やだよ、イシエっ」


 リルレットは嫌だと叫ぶことしか出来なかった。

 魔術が吹き荒れる戦いにどうして彼女が貢献できるだろう。出しゃばって傷ついては、イシエが戦っている意味がない。

 頭では分かっているのだ。けれど、涙が止め処なく溢れてどうしようもない。

 なぜ他に誰もいないのか。近隣の住人はどこへ行ってしまったのか。

 なぜ街の中に魔獣がいるのか。

 何もかもが悪い方向へ走っているような気がした。救いなど何一つないような、暗い絶望が目の前に横たわっている。


 そのとき、イシエが弱弱しく鳴いた。か細く、甲高い声が冴え渡る。

 リルレットははっとして、空を見上げた。

 あの夜と同じ。誰かを呼ぶような、切なく胸が詰まる声。


 魔獣が残った蔦を弓矢のように引き絞る。

 次の瞬間、その首を魔獣の攻撃が貫いた――かに思えた。

 そうではなかった。蔦の矢がイシエに届く直前、彼の身体は小さな光となって地に落ちたのだ。

 軌道の上にいるのはリルレット。

 目を見開いた彼女は、自分に向かって迫りくる矢と、その向こうに倒れた小さな狼とを呆然と見比べた。


「リルレット!」


 少女を突き刺そうとした矢が一瞬にして灰となり、はらはらと宙に舞った。

 風圧が消え去ったのと、ずっと聞きたかった声が聞こえたのとで、リルレットは混乱した。揺れる瞳を声のした方に向けてみれば、力強い腕で抱きすくめられる。

 頬が重なり、熱い安堵の息が耳にかかった。


「危なかった……。すまない、リルレット。俺が目を離したばかりに」

「クラエス様?」


 問うと、彼は腕の力を緩め、リルレットに視線を合わせた。そしてようやく、彼女にもクラエスの顔が分かった。笑んだ口元、どこまでも優しい目。

 ああ、彼が来てくれた。

 助けてくれたことよりも、会えた喜びに胸が震える。じんとした温もりが直に伝わってきて、自然と涙が零れた。


「どうした? どこか痛む?」


 クラエスの腕の中で、ふるふると首を横に振る。

 言いたいことがたくさんあって、どう伝えたらいいか分からない。彼はその意図を読んでくれたのか、何も言わずに頭を撫でてくれた。

 けれど、穏やかな時間は長くは続かない。

 クラエスの目は、広場の中央で蠢く植物の化け物を捉えていた。その手前に倒れている狼の姿も。


「何があったか聞いてる暇はなさそうだね」

「クラエス様、イシエは……」


 彼は何も答えなかった。その理由は痛いくらい理解できて、リルレットはまたもやハラハラと涙を零した。

 クラエスはその頭を抱き寄せ、


「馬鹿な子だね。だから入れ込むなと言っただろう」


 叱咤する内容とは裏腹に、労わるような声音で囁く。

 その優しさが辛くて、リルレットはますます彼の胸に縋り付いて泣いた。


 魔獣は引き千切れた蔦を寄せ集め、一本の太い鏃を作り上げていた。その目に感情らしい感情はなく、あるのは立ち向かってくる敵を殺そうとする本能だけだ。

 クラエスはそんな魔獣を冷ややかな目で見やり、再びイシエに焦点を移した。

 狼はぴくりともしない。体を動かすだけの魔力が残っていないのだろう。むしろ、今もなお姿かたちを保っていることの方がクラエスには驚きだ。霊滓の特性上、彼らの前に姿を現してから今までの間に消えたとしても全然おかしくなかったのだから。

 一体どれほど強力な魔術がこの霊滓を生んだのか、興味はある。しかしそれ以上に、クラエスはイシエに敬意を抱いた。己の存在を懸けてまで一人の人間を救った彼に。

 だけど、彼を想う人がどんなに涙を流したところで、消滅を免れることはない。だから泣くななんてことも言えない。

 クラエスにできるのは、イシエの最期のために静けさを与えてあげることくらいだ。


 蔦の化け物は特大の鏃を頭上に掲げ、狙いを小さな人間達に定めたようだった。

 もうイシエのことは意識にない。魔獣にとっては倒したつもりなのだろう。

 魔獣の“ささやかな”抵抗を見つめるクラエスの目には、一種の憐れみさえ混じっていた。だとしても、魔獣にかける慈悲など一分もあるはずがない。

 大空を滑空する鷲のような速さで、鏃が射出する。鏃と魔獣本体を繋ぐ蔦がシュルシュルと空を切る音を立てしなる。

 リルレットはクラエスにしがみ付いたまま目を瞑った。

 その耳で、ゴウッと風が激しく吹き荒れる音を聞いた。

 熱風も感じた。

 両の腕でしっかりと抱かれたまま、うっすらと瞼を開く。


「……!」


 広場が紅に染まっていた。

 天を焦がすような炎と、それに全身を包まれる巨大な化け物。ぼとぼとと体の一部を落としながら小さくなっていくその様は、リルレットにやっと終わったのだという安心と悲しみをもたらした。

 魔獣は死んだ。けれど、安全は――。

 青い空に白い石畳、紅蓮の光。

 平和だった街の姿はどこにもない。



 イシエのもとに辿り着いた頃には、炎はすっかり消えていた。というよりも用済みとなったそれをクラエスが消したのだろう。その代わりに、地下から噴き上がる水が小雨のように降り注ぎ、ぴちゃぴちゃと音を立てていた。

 足の激痛に耐え、クラエスに支えてもらいながら、黒い小さな体に手を伸ばす。狼はぐったりとして動かない。そっと背中を撫でると、緑の燐光が埃のように舞い、すぐに消えた。

 ――こんな小さな光の一つ一つがイシエの身体を形成していたのだ。クラエスやイフリータが「珍しい」と言った理由も分かる気がした。

 リルレットは詰まる胸を押さえながら、狼の耳にそっと唇を寄せた。


「ありがとうね」


 狼は少女の膝の上で、光となり消えた。

 残ったのは僅かな温もりと、ほんの短い間共に過ごした思い出だけ。彼がどこから来てどこへ行ってしまったのか、それすらも分からず仕舞いだ。

 月夜に鳴いていた彼は、誰を呼んでいたのだろう。淋しげに、恋しげに。


「……ちゃんと会えたかな」


 何とはなしに天を見上げる。

 ようやく静けさが訪れた広場には、気持ちの良い風が吹いている。

 その風を頬に感じながら、リルレットは瞼を閉じた。


 ***


「ごめん、リルレットちゃん!」

「もっと気持ちを込めて」

「申し訳ない!」

「足りない」

「申し訳ありません!」

「まだだね」

「本っ当にごめんなさい!」


 祈るように手を組み少女に謝罪を繰り返す騎士と、その横から冷たい目で見下ろしつつ駄目出しし続ける一見普通の青年の図は、周囲で作業する警備隊の面々から奇異な視線を集めていた。

 リルレットは異様な雰囲気に戸惑いつつ、苦笑いで誤魔化していた。彼女だけ、騒動のあった広場のベンチに腰掛けている。

 クラエスから足の簡単な治療を受けたが、動かそうとすると激しい痛みが走った。クラエス曰く、「壊すのと作るのは得意だが治すのは苦手」らしく、専門の魔術医を邸に呼んでもらうことになっている。誰を呼ぶかという話だがそこはロルフに任せるということで、つっけんどんな態度を取りながらも十年来の友人を信用しているのはリルレットの目にも明らかだった。

 ただ、彼の怒りはまだ収まりそうにない。


「一般市民を囮に使うなんて言語道断だ。どうしても必要なら、せめて事前に説明と同意があって然るべきだろう。何故話を持ってきたとき何も言わなかった」

「お前の怒りも尤もだ。けど、言いたくても言えなかったんだよ。オレの動きはリネーに逐一伝わってたし、あいつらはオレがお前に与しないと思い込んでた」


 リネーが企んでいたクラエス、アニエスの婚約は、彼女の父エミール・ハミリアも乗り気だった。さすがのブラント家跡継ぎも、宰相の意向には逆らえないとリネーは踏んでいたのだ。

 リルレットの誘拐にリネーは関わっていないだろう。その点ではクラエスとロルフの考えは一致する。悪知恵の働くイクセルに近しいだけあって、どこから情報が漏れるか分からない。だから彼は極力流出を抑えたかった。友の怒りを買うだろうことは承知の上で、今後イクセルに手出しさせないようにするためには必要なことだったのだ。

 が、さすがのロルフもまさか伏兵が潜んでいようとは夢にも思わなかった。


 誘拐現場から連れ去った人物について、リルレットはほとんど何も見ていない。顔は目以外を布で隠し、体つきは男だったことくらいしか分からない。一言も言葉を発しなかったというから、既に捕えているイクセルの仲間とは雰囲気を異にする。謎の人物についてはこれから調査をする予定だ。


「で、随分と駆けつけるのが早かったようだけど」


 不機嫌な表情ながらもようやく許す気になったのか、クラエスは広場に集まって瓦礫の処理を進める警備隊に目を向けた。彼らはリルレットを救出した直後にやってきた一団で、ロルフたち数名の騎士は後から合流した。


「ああ、それな。リルレットちゃんが攫われる少し前、この辺りで小火騒ぎがあったらしいんだ。それで警備隊が駆けつけたというわけだ」


 時間がかかったのは、パレードの警戒に当たっていたからだった。


「住民の話によると、若い男が率先して一人残らず非難させたらしい。が、その男はいつの間にか消えてたんだとさ。リルレットちゃんが解放された小路は、どう歩いてもこの広場に行きつくようになってる。小火騒ぎも犯人の仕業かもしれないな」


 言い終えてから、ロルフはしまったっと口を塞いだ。死にそうな目に遭ったばかりの少女に聞かせる話ではないと気付いたからだが、遅かった。

 リルレットは小刻みに震えていた。恐怖が抑えられないのか、自分で二の腕を摩っている。

 無理もない。たった数時間前、殺されかけたばかりなのだ。しかも用意周到に罠まで張り巡らせて。

 クラエスとロルフは気まずげに視線を交わし、一先ずその場を離れることにした。その際、クラエスは羽織っていた外套をリルレットの肩に掛けた。


「お前が燃やしたあの魔獣だけどな」


 辺りを憚ってか、小声になる。


「どう思うよ」

「魔獣の種が、何らかの理由で地下に入り込み発芽したのかもしれない。ここの地下には」


 同じく小声になりながら、指で地面を示す。


「あの手の魔獣が好む、水と魔力が大量にある」

「聖涼の魔石か。水の恵みを司ってるという。なんかすげーたくさんあるんだってな」


 ロルフは固いものでも噛むような顔をしながら言った。どうやら不得意分野のようだ。


「ああ。しかし本体は一つだけだ。機能を補助する小粒の魔石が五十三ある。それだけ大がかりな仕掛けなんだ、あれは。小粒と言っても、一般に使われるものよりは遥かに強力だけどね」

「その魔力があれば、魔獣が成長するのもあっという間か」

「万が一にもそうならないよう入り口で管理されている」

「…………」

「とはいえ、所詮は人のすることだ。間違いは起こり得る」


 ロルフは詰めていた息を一気に吐いた。やる方無いといった面持ちで天を仰ぐ。


「偶然だと思うか。魔獣が最悪のタイミングで地上に出てきたことは」


 その一言で、ロルフの意図は大体分かった。誰かが魔獣を操っていたのではないかと、そう考えているのだ。


「さあ。魔獣を飼い馴らしたなんて話は聞いたことがないよ」

「王都に魔獣が現れたってだけでも前代未聞だぜ。ようやく肩の荷が降りるかと思ったらこれだ。まーた仕事漬けの毎日に逆戻りだよ」

「ご苦労様、騎士殿」

「……お前にも手伝ってもらうからな」


 ぎろりと睨まれたクラエスは肩を竦める。


「労ったつもりなんだけどな」


 しかし、手伝えと言われて断るつもりはない。魔術関係の調査なら、クラエスがいた方が捗るだろう。

 それに、どう考えても今回の事件はリルレットとは関係がない。彼女はあくまで巻き込まれただけだ。とすれば、中心は自分か騎士団か。今まで買った恨みの数などいちいち覚えていないが、調べれば思い出すこともあるかもしれない。

 そんなことを考えていたところ、クラエスはベンチに座ったリルレットに一人の女性が近づいて行くのに気付いた。

 アニエス・ハミリアだった。

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