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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第四章
37/69

噴水広場

「よし、こいつで最後だな」


 自らリュード人の青年を縛ったロルフは、案外幸せそうに気を失っている青年を見下ろしながら、悪い顔でほくそ笑んだ。


「これだけの生きた証拠……もとい証人を連れて行けば、いくらバルテルス家の人間でも言い逃れはできないだろ。ふっふっふ。積年の恨みを晴らす日がついに来た」

「あらロルフ、イクセルたちに何かされたの?」

「いや、別に。言ってみたかっただけ」


 あっけらかんとした調子でアニエスに応える。

 最初から彼女はロルフと手を組んでいたのだ。普通のやり方では罰せられないイクセルを懲らしめるために。


「お前のおかげだぜ、アニエス。よくやってくれた」


 アニエスはくすりと笑い、


「どうも。でも別に、あなたのために手を貸したわけじゃないわ。個人的にムカついたのよ。あの甘ったれた意気地なしにね」

「お前な……その口の悪さを何とかしろって」

「ブラントの血よ。仕方がないわ」


 と、肩を竦めてみせた。

 ロルフが今回の作戦を思いついたのは偶然だった。彼の従妹であるアニエスに、イクセルの計画に誘われたことを打ち明けられたのだ。

 その中でアニエスは、クラエスの注意を引く役目を言い渡されていた。その隙に他の仲間がリルレットを攫う。男だと警戒されるし、華奢な女であるアニエスは適役だ。それに彼女はかつてクラエスに熱を上げる一人だった。恋のライバルを痛い目に遭わせてやれると言って誘えば、一も二もなく乗ってくると思ったのだろう。

 だが、


「私も安く見られたものね。あんなバカみたいな考えに本気で同意すると思ったのかしら。得意げに語るあいつの顔、思い出しただけで腸が煮えくり返るわ。いっそのこと、河に浮かべて観光名物にするといいわよ。喜ぶ人はたくさんいるでしょうね。すぐに引き上げないとお魚がお腹壊してしまうけど」


 と吐き捨てるアニエスを見れば、イクセルも考えを百八十度変えるだろう。上品で慎み深いと評判の宰相令嬢が、実は毒舌の跳ね返り娘だったなんて誤算もいいところだ。怒り狂って、逆恨みの矛先が彼女に向いてしまうかもしれない。

 しかしそんな彼女だからこそ、イクセルの裏をかくことが出来たともいえる。軽い言葉に乗せられた振りをして相手を騙す役など、アニエス以外には任せられない。

 だが今のクラエスにはそんなことより重大な懸念があった。馬車の周囲をぐるりと回り、中も確認してみたがリルレットの姿がない。


「ロルフ、リルレットはどこだ?」

「おうおう。慌てんなって。ちゃんとそこにいるから。な、ユリアン。……」


 返事がない。

 クラエスとロルフは顔を見合わせ、急いで路地裏の入口へと走る。

 そこには、後頭部を殴られたかどうかして昏倒したユリアンがいた。ロルフは目を回している部下の傍らに膝をつき、胸に耳を近付けた。


「気絶してるだけだな。これはリルレットちゃんを拘束していた道具だ」


 傍にはロープと猿轡が残されていた。おそらく、ユリアンが人質を解放したところを何者かに襲われたのだろう。声を出す暇もなかったと見える。


「くそっ。イクセルの野郎にしてやられたか!」


 ロルフは力任せに壁を殴った。

 ぱらぱらと小石が落ちたけれど、それだけだ。リルレットの行方が分かったわけではない。

 クラエスは失意と後悔のあまり、声も出なかった。

 リルレットがどんな目に遭わされているのかと思うと、胸を焦がしそうな焦燥に駆られた。すぐ傍にいたのに、気付いてあげられなかった。真っ先に彼女に駆け寄るべきだったのに。

 自分は何をしていた? 魔術を苛立ちの捌け口に使っただけではないか。

 不安定に陥るクラエスにアニエスの叱咤が飛ぶ。


「何をぼさっとしているのです。彼女を探すのですよ!」

「しかし――」


 魔力を持たない相手に対しては、魔術でその気配を感知することはできない。

 無力なのだ。

 こんなときに、役に立たない。


「敵は足で逃げたのです。だったら足で追いつけるはずです」

「無茶言うなよ、アニエス。グランリジェは広いんだぞ? 道は四方八方に伸びて繋がってる。隠れるところもごまんとある。しかもこの人出の中、宛てもなく人探しなんて出来るわけないだろ」


 出来るわけがない?

 じゃあ、何もせずにいるのか。いられるのか、自分は?

 クラエスのことが好きだと言ったリルレット。すぐに誤魔化していたけれど、本当の意味は明らかだった。顔を真っ赤にして、目は今にも泣きだしそうに涙ぐんで、取り繕う姿が可愛かったから気付かない振りをしただけだ。

 もし彼女に何かあったら――。


「おい、クラエスっ」


 友の制止も聞かず、クラエスは路地を走り出した。

 闇雲に探し回っても仕方のないことは分かっている。通りに面した場所にはロルフがいた。敵が背後からユリアンを襲ったのは、ロルフに気付かれないようにするため。敵は路地から来て路地を戻っていったのだ。

 しかしすぐに壁に突き当たることになった。

 分かれ道だ。

 彼の行く手には二股に分かれた道が続いていて、片方は住宅街の更に奥へ、反対側は噴水広場へ続く道だった。賑やかな声と音楽が、どこからともなく聞こえてくる。


『クラエス!』

「イフリータ」


 道行く人が、空に浮かぶ赤毛の女に驚いて足を止めた。しかし今は、クラエスもイフリータも周囲の目を気にしている余裕がない。

 イフリータはよく通る声で言った。


『イシエがいないの! きっとリルレットを追っていったんだわ』

「イシエか……よし」


 あの小さな体とすばしっこさなら、たとえ人ごみの中を逃げられても追うことが出来るだろう。

 それだけではない。霊滓であるイシエの魔力を辿って、クラエスたちはリルレットを探すことが出来る。

 クラエスは前途に芽生えた微かな希望に、惜しげもなく期待を注いだ。

 一瞬で気持ちを静めると、いつもの冷静な魔術師に戻る。周囲の視線や声も、怒りも焦りも何もかも打ち消し、全ての集中力を街中の空へと投げ打つ。知りたいのはただ一つ、あの子の居場所だけ。

 しかし。


「……っ」

『なにこれ!』


 感知の網を広げた瞬間、クラエスの背筋をぞっと冷たいものが這った。

 魔力は魔術師がアストラルを操って初めて生じる。つまり、石ころのように転がっている代物ではない。

 なのに今、街中に魔力の波が走っている。それこそ網の目のように。かつて経験したことのない、いや、考えられない事態だ。その異常さは、人よりも遥かに長い時を生きるイフリータが驚いていることからも察せられる。


『何が起きてるの? クラエス、なんか気持ち悪い……っ』


 同じことを彼もまた感じている。全身の神経が逆立っているような不快感。それでいて全ての感覚が冴えている。ごくりと唾を呑む音まではっきり聞こえた。


「……問題ない。街に流れている魔力は微弱だ。イシエの痕跡を辿るのに支障はない」

『でもぉ』

「少しだけ我慢してくれ、イフリータ」

『う、うん』


 主に懇願され、イフリータは渋々頷いた。その顔は心なしか青ざめている。どうやら、この状況は彼女の体にとって悪影響を及ぼすものらしい。

 イシエの魔力自体は、あっさりと見つかった。毎日接していたおかげで、彼の魔力の特徴は掴んでいたのだ。

 目的の場所に向かいながら、クラエスは心の中で少女の無事を祈った。


 ***


 助かった、と思った。目の前で若い騎士があっけなく倒され、再び囚われの身となってしまうまでは。

 あの騎士は大丈夫だろうか。もう大丈夫ですよ、とあどけない顔で笑いかけてくれたのに、その直後に殴られて気絶してしまった。


「大丈夫よね、きっと。ロルフさんだって付いてるんだし……」


 それよりも今は自分の身を心配するべきなのだろうか。しかし彼女をここまで連れてきた人物はどこかへ行ってしまった。危険が目の前にあるわけでもない。だから、どうにも緊張感が湧かないのだ。


 そこはどこかの中といった閉鎖的な空間ではなく、ごく普通の通りだった。逃げようと思えば逃げられる。そう思って先程からずっと歩いているのだが、迷路のように入り組んだ道を進めば進むほど、ここがどこだか分からなくなる。

 ひと気はない。人どころか、猫一匹すれ違わない。

 本当にここはグランリジェなのだろうか。疑いのあまり、無人の廃墟に迷い込んでしまったみたいな錯覚を覚える。


 その内、リルレットは広場のような場所に出た。グランリジェには似たような景色の広場がいくつもある。ここもその一つなのだろう。

 やはり人は一人もいない。

 しゃあしゃあと音を立て、機械的に水が噴き上がっている。排水口が塞がっているのか、水は溢れて石畳を濡らしている。その不気味さに顔をしかめながら、何となく噴水に何かあるような気がして、足を踏み出すのを躊躇ってしまった。


 足元――いや、もっと下で物音がした。空洞を大きなものが移動するような音。

 その直後、ゆるやかなうねりと共に水嵩が増した。あっという間にリルレットの足元まで浸かる。


「やだ、どうして?」


 何てことはない、ただの水だ。それなのに、強い嫌悪感に全身の毛が逆立つ。

 水は異常なスピードで嵩を増していった。ものの数十秒で足首まで浸かり、逃れようと後退るたびにバシャバシャと飛沫が飛ぶ。

 リルレットは広場から出ようと踵を返した。


「いたっ!」


 しかし、数歩も歩かない内に何かに足を取られて膝をつく。

 肩越しに振り返って見てみると、足首に蔦のようなものが絡まっている。蔦に沿って視線を這わせたリルレットは目を瞠った。


 噴水が、緑色の蔦でびっしりと覆われているのだ。

 呆然と見ている間にも蔦は成長を続ける。地面を、ベンチを、近隣の建物の壁を這って、どこまでも伸びて行こうとする。

 まるで貪欲に獲物を追う、獣のような生々しさ。


 足をぎっちりと締め付ける蔦は、どんどん体の方へ上ってくる。もがけばもがくほど強く食い込む。痛みを堪えるのに必死で、息も満足に出来ない。

 引き千切られそうな恐怖と戦いながら、空気を求めて喘いだ。

 だけどそこには無人の広場があるだけ。

 他に見えるのは水と蔦、それから空の青さ。


(空……?)


 違う。これはリボンの色だ。蔦が触ったかどうかして解けてしまったのだろう。朦朧とする意識の中、リルレットは痺れる指を動かして、何とか水色の布を掴んだ。つるりとした手触りが、生きている実感を与えてくれる。死ぬかも、なんて大袈裟かもしれない。けれど、このまま誰も助けが来なければ、そういうことも有り得る。今は二本の腕で上半身を支えているけれど、意識を失って倒れてしまえば一巻の終わりだ。急にできた池には彼女を殺すのに十分な深さがある。


 ――どうしてこんなことになったんだろう。今朝はあんなに幸せだったのに。

 蔦が成長する音に絶望しながら、手の中のリボンを見つめる。

 空色。リルレットの目の色と同じだ。イフリータがだからこれを選んでくれたのだろうか。


「……ふふっ」


 笑った拍子に涙が零れ、池の水と混じり合った。


「お揃いだ。クラエス様と」


 ブローチを選ぶとき、彼の目の色に似ているという理由で選んだことを思い出す。その話はイフリータにはしていないから、彼女がこの色を選んだのは偶然だ。

 そんな些細な一致が嬉しい。それだけで満足してしまいそうになる自分が悲しい。ここで終わりだと認めているようなものだ。


 リルレットは力を振り絞り、足を絡めとる蔦を掴んだ。引き千切ろうと力を込めると、比較的細い何本かはみしみしと軋んだが、最も太い一本はやはりビクともしない。

 何か切る物はないか。辺りを見回してみる。しかし、水の底に平べったい小石が沈んでいるだけだった。リルレットはその小石を取り上げると、何度も太い蔦に打ち付けた。何度も、何度も。

 しかし濡れた手が滑り、明後日の方向に飛んで行ってしまう。リルレットは小石が消えた方向を恨めしそうに睨み、他にもっといい石はないか探した。

 視界は霞がかかり、肩でしていた息も途絶えがちになった。


「も……だめ、かも」


 足はおろか、指先の感覚ももうない。冷たい地下水に濡れた体は、冬の冷気に晒されて更に体温が奪われていた。蔦に囚われてから何分経ったのかも覚えていない。

 最後の糸を断ち切るみたいに、ふっと体が軽くなる。

 終わりはこんなにもあっけないものなのか。


 そのとき。


「――――――!」


 甲高く鋭い獣の咆哮が轟いた。

 次の瞬間、リルレットの足を縛っていた蔦が怯えるように後退した。リルレットはしばらくの間、解放されたことにも気付かなかった。が、頭の横に見慣れた小さな体が堂々と立っているのを見て、薄れかけていた意識が一瞬だけはっきりする。


「イシエ?」


 子狼は少女の声に反応し、ちらりと振り返った。そして、人間が声を掛けるみたいに小さく吠えた。


「……助けに来てくれたんだね」


 狼の身体は淡い緑色の光を伴っている。その足元からさざ波が立つと、広場を覆っていた多数の蔦は、彼の光を恐れるように噴水の周りに後退した。

 イシエが一歩前へ進む。大きな波紋が生まれる。その波紋が噴水に辿り着くと、蔦は一気にざわめいた。

 戦いは唐突に始まった。

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