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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第四章
36/69

アニエス・ハミリア


「クラエス様!」


 感激に満ちた高い声が、見つめ合う二人の背中に突き刺さった。

 クラエスの続く言葉を待っていたリルレットは、声のした方を振り返った瞬間我が目を疑った。


 そこに、天使がいた。

 いや、天使と見紛うくらい可憐な少女だ。背中に神秘的な翼が生えていたとしても全く驚かないくらいの。

 肌は白く、青い瞳はぱっちりとして大きい。目を縁取るまつ毛の一本一本が瑞々しく、美麗な曲線を描いているのが離れていても分かった。淡い金髪は太陽の光を溶かしたようで、ふわふわと鳥の産毛のように膨らんでいる。

 強風に煽られればポッキリと折れてしまいそうな華奢な体格と相まって、清楚で奥ゆかしい印象を受ける。

 しかし、そんな印象とは対照的に、喜びを全身で表す無邪気な少女だった。

 リルレットはすぐにそれを思い知ることになった。


「やっとお会いできた! クラエス様っ」

「!?」


 駆け寄ってくるや否や、少女は勢いそのままにクラエスに抱き着いた。

 驚いたのはリルレットだけではない。抱擁を受けた当の本人は、慣れない人との接触と許容範囲を超えた動揺とで、思考が完全に停止している。


「この四年間、私がどんなに淋しい思いでいたか、お分かりになりますか? 貴方のお兄様からお話をいただいたときは私、本当に嬉しくて嬉しくて」

「……アニエス様?」

「はい! 覚えていてくださったのですねっ」


 少女は紛れもなく、数年前にただ一度だけ会ったことのあるアニエス・ハミリアだった。

 クラエスがやっとの思いで口を開けば、アニエスはきらきらと輝く瞳で見上げてくる。その様はとても愛らしいのだが、どことなく嘘くささを感じるのはクラエスの気のせいだろうか。

 とにかく少女を引き剥がそうと肩に手を掛けると、アニエスは有無を言わさずその手を握り返した。頬を薔薇色に染め、うっとりとクラエスを見つめる。

 彼はぎょっとして後退ろうとした――が、がっちりと少女にホールドされて動けない。


「ご健勝で何より……はぁ、相変わらずお素敵ですわ。クラエス様。私、お父様に、今すぐにでも荷物をまとめてアトラティク街のお邸へ参りますと申しましたの。ですが、お父様ったら頭が固くて、お許しになりませんでした。お父様ったら、本当に、頭が固くって。きっと中まで骨が詰まっているのですわ。お魚大好きですもの。あっ、そうですわ。お魚といえば。私、どこへ行っても恥ずかしくないようにと、家事のお勉強を欠かしませんでしたのよ。ええ、もちろんお父様は反対でしたけど。お父様は私のすること為すこと、何にでも反対なさるんですわ。きっと矢印の仕組みもお分かりにならないんです。ええと、ですから申し上げたいのは、召使なんて必要なし! ってことですわね。それから――」

「ちょっと待ってください!」


 のべつ幕無しに思ったこと全てを語ろうとするアニエスに待ったをかけたのは、脇に追いやられていたリルレットだった。

 アニエスはきょとんとして彼女を見やると、クラエスの方を向いて「なにこれ」とでも問いたそうな顔をする。それを聞きたいのは自分の方だと言いたい気持ちを、リルレットはぐっと堪えた。


「クラエス様の使用人は私一人で十分なんですっ。料理もお洗濯もお掃除も庭の手入れも、全部私がやるんですっ。つまり、あなたの出る幕はないんです!」


 無理やり二人の間に割って入り、アニエスの視界からクラエスを隠そうとするが、当然小柄な彼女では無理な試みだった。そんな必死な姿もクラエスには愛らしく映り、込み上げてくる感情を抑えるように天を仰いだ。

 その間にも闘争は続く。


「あら、何を勘違いしているのかしら。私は使用人になるつもりなんて無くてよ。だってクラエス様の妻になるのですもの。見れば分かるでしょ? 私がそこらの使用人風情と同じに思えて?」

「つ……っ!」


 口をパクパクさせるリルレットを、アニエスは顎を逸らして嘲笑った。双方とも同じくらいの背丈なので、見下ろすには顎を上げるしかないのだ。

 悔しいけれど、とても様になっている。清楚な深窓令嬢も、高飛車な女も、アニエスにかかれば自由自在なのだろう。リルレットは今、最高の舞台に立つ女優を目の当たりにしているのだ。家柄なんて関係ない、彼女自身の力で望みはどうとでもなる――そう相手を納得させてしまうほど、アニエスは自信に満ちている。

 そんな彼女が本気になったら、勝ち目なんかあるはずがない。ましてや、そこらの使用人風情には。


「まあまあ、二人とも。少し冷静になって」


 宥めすかすクラエスはいつもと変わりなく、いや、心なしかいつもより表情が柔らかくて。そのことがまた、

(なんで?)

 と、リルレットの心を不安にさせる。

 彼女が可愛いから? 人は可愛いものを見ると優しくなるという――と誰かが言ったかは知らないが、可愛さと優しさとの間に深い関係があっても不思議ではない。それに、可愛い女を見れば優しくしてやろうと男が思うのはごく当たり前。ということは。


「で、でも、私だって可愛いって言われたもんっ。髪型褒めてくれたもん。髪が、た……」


 一気に血圧が下がった。

 ふらり、と体が大きくよろめく。がんがんと耳鳴りがして、自分がどこに立っているのかすら分からなくなった。

 ぐるぐると回る視界の中、一瞬だけ何事かを言い合うクラエスとアニエスを見た。内容は聞き取れず、こちらに気付かずに会話を続ける二人の姿だけが、くっきりと目に刻まれた。喧嘩しているようにも見えるけど、クラエスはそれほど怒っていないようにも見える。

 二人が並んで立っていると、まるで物語の中の王子様とお姫様みたいだ。


「何、この喜劇」


 誰が書いたか、三文芝居。良い感じだと油断していたら、狼が羊を食ってしまった。

 召使はいらない? じゃあ、私――。


 言い争いに熱中する二人は、リルレットがふらふらと生気のない足取りで歩き出したことに気付かない。その足が、広場を出る手前で止まったことも。

 そして振り返り、決然とした表情で何か言葉を発しようとしたそのとき、物陰に潜んでいた何者かが彼女の口を塞ぎ、あっという間に連れ去っていった。



「だからさっきから何度も言っている通り、邪、魔、なんです。例の件に関してははっきりきっぱりお断りしたはず――」

「まあクラエス様! それ以上はいけませんわっ。私にも恥じらいというものがありますもの。女のプライドを傷つけて良いことなど一つもありません――それはそうとクラエス様、陛下の馬車がお通りですわよ。ご覧にならなくてよろしいの?」

「興味ありませんから。そんなことより、なぜ俺がここにいることが分かったのですか? まさか、付けていたんじゃないでしょうね」

「付ける? あら一体何のことかしら」


 アニエスはどこからか取り出した扇を口元に宛がうとホホホと笑い、クラエスは無言になって睨み付けた。

 彼女のわざとらしさったらない。本人も承知の上で演じているのだろうから、尚のこと性質が悪い。こちらが何を言ってものらりくらりと躱すだけでなく、いちいち言動が気に障るのだ。最初は冷静に対処していた彼も、次第に我慢ならなくなってきた。

 このとき、先程彼自らが放った「冷静に」という台詞をお返しする者がいたなら後々の展開も違ったのだろうが、その場にいるのは、本人たちを除けば、ひたすら首を傾げる子狼と、主同様むかっ腹を立てているイフリータだけだった。

 最初に異変に気付いたのは、いつもリルレットの傍にいたイシエだった。


「うぉんっ」

『あっ、大変よクラエス! リルレットがいないわっ』


 突然現れたイフリータの一言にぎくっとし、クラエスは少女のいた場所を振り返った。

 いつの間にか、リルレットは煙のようにいなくなっていた。

 ひと気のない石畳が緩い坂道となって伸び、片側には白い民家の壁が続いている。もう片方はレリム橋と合流する階段になっていて、大きな影を作っている。

 下方から聞こえる歓声が先程よりも大きくなっていた。アニエスの言った通り、パレードが近付いてきているのだろう。そのアニエスとの諍いに気を取られている隙に、リルレットは消えてしまったのだった。

 忍び漏れる笑い声に振り返ると、アニエスが俯いて肩を震わせていた。


「アニエス?」

「くくく……。上手く行ったわ」


 顔を上げたアニエスを見たクラエスは、思わず一、二歩後退った。

 にたり、と赤い唇を歪ませて笑う令嬢がそこにいた。

 その様は不気味の一言。可憐な天使は何処へやら、まるで地獄から遣わされた悪魔のような豹変ぶりに、イフリータやイシエまでもがクラエスの背にしがみ付いて震えるのだった。




「このっ、大人しくしないか!」

「んーっ」

「あたっ。いたたた、足! 爪先踏んでる!」


 人影少ない路地裏で、数人の若い男が少女相手に悪戦苦闘していた。と言っても、実際に戦っているわけではもちろんない。

 茶髪の青年が少女を後ろから羽交い絞めにし、もう一人が手足にロープを掛けようとしている。他の一人は少し離れたところで、つまらなそうにそれを見ていた。


「いい加減にしろよ、この女っ」


 暴れるリルレットに思いっきり足を踏まれた青年が、目尻に涙を滲ませて憤る。が、そこを好機と捉えた彼女の膝が鳩尾に入り、地面を転げまわる結果となった。

 後方で見ていた一人が感心して呟く。


「やるなぁ、あんた」

「感心してる場合かっ。お前、こっち来て手伝え」

「あんまり気乗りしないんだがなぁ」

「こいつをあの坊ちゃんのとこに連れてけば、借金チャラなんだぞ。今更嫌だとか言うなよな」

「嫌だとは言ってないぞ」


 新たに指名されたのは、褐色の肌をした異国の青年だった。名はナシートと言い、東に浮かぶ小さな島から遥々やってきたリュード人だ。

 彼は明らかに嫌がっている様子を見せたが、結局、借金チャラの一言に心動かされた。


「すまんね、君。っとと、同じ手は食らわないぞ、と」


 先程と同じ要領で膝蹴りを食らわせようとしたリルレットだが、その攻撃はあっさりと止められてしまう。ナシートの動きがあまりに自然だったため、蹴りを放った本人は暫く止められたことにも気付ずきょとんとしている。

 人質が大人しくなった隙に、異国の青年はするすると手際よくロープを巻いていく。羽交い絞めにしている方も、彼の手際のよさに思わず見入った。


「さてと。出来た」


 準備が完了すると、ナシートは立ち上がって軽く手をはたいた。

 路地裏の入り口には、目立たない幌付きの荷馬車が用意してある。そこに更に見張りが二、三人立っている。何か異常があれば知らせが入るはずだが、今のところは静かなものだ。


 連れ去られて早々に猿轡を噛まされたリルレットは、殆ど何も出来ずに、為すがままにされていた。

 これからどうなるのか分からない。分からないのは怖い。でも、それ以上に悔しい。

 殴られたり監禁されたりして辛い目に遭うよりも、クラエスとアニエスを二人きりにさせてきたことの方がずっと気に掛かる。


 あの二人は今、何を話しているのだろう。リルレットがいなくなったことに気付いてくれただろうか。いや、気付いたとしても、アニエスが彼を離さないのではどうにもならない。

 一度は立ち去ろうと考えたリルレットだったけれど、感情がそれを許さなかった。

 負けたくない。その一心だった。せめて当たって砕けようと思ったのだ。神様は当たることすら許してくれなかったけれど……。


 ボロボロと大粒の涙が零れた。泣くまいと瞬き一つしない目から、次から次へと溢れてくる。

 それを見たナシートはぎょっとして、手にしたロープを落としそうになった。


「何やってんだよ、早く行けよ」

「あ、ああ。でも……」


 ふんだ。連れて行きたければ連れて行けばいいじゃない。意地でも自分では歩かないんだからね。

 ――と、精いっぱい虚勢を張って脅してくる少女に、ナシートは何とも言えず後頭部を掻く。

 そんな煮え切れない態度の仲間に、茶髪の青年がきれた。


「おいこら、分かってんのか。借金チャラの上に報酬まで出るんだぞっ」

「おっしゃ、行くぜ。すぐ行くぜ~。あ、らったった~」

「んー!!」


 ひょい、と軽い荷でも運ぶ感じでリルレットを持ち上げ、ナシートは鼻歌交じりに歩き出した。

 ちょっとこちらに同情する素振りを見せたと思ったら、恐ろしいまでの変わり身の早さだ。しかも人一人抱えても足取りに変化がないとは、只者ではない。見た目はクラエスと変わらない体格なのに。


 ナシートは狭い路地裏の手前で一旦リルレットを下ろした。念には念を入れたのか、外からは丁度壁と馬車で遮られて見えにくい位置だ。足を縛られて立てない彼女は、仕方なく座り込んで、彼たちの作業が終わるのを恨めしい目つきで睨んでいた。

 茶髪の青年が馬車の周りをぐるりと回り、御者台の辺りで訝しげに眉をひそめた。


「あれ? 見張りの連中、どこ行ったんだ? いないぞ」

「綺麗なねーさんでもいたんじゃないかい? お祭りだしなー。楽しいよなー、お祭り」

「頭空っぽのお前と一緒にするんじゃねーよ。ったく、リュード人は祭りと聞きゃ砂漠を越えてでも駆けつける、ってのは本当なんだな」

「ん? 今オレんこと馬鹿にしたか? いくら茶髪だからって許さないぞ」

「馬鹿にされたと思うんなら、そうなんだろうよ。そんなことより、見張りだ、見張り。あいつらがいないことには金貰えないんだ。一人も裏切らずに計画を完遂するってのが条件なんだから」

「なに? そいつはヤバイな!」


 金が絡むと人が変わるらしいリュード人、浮ついた顔をきりっと尖らせ、消えた見張りを探しに道へ出た。

 少女を攫った広場はここからでは見えないが、それほど離れていない。ただ、地元の人間しか使わないような道を辿って来たので、たとえ追跡者があるとしてもすぐには見つからないはずだ。そのときも、周囲に追っ手らしき姿は見られなかった。

 計画では、人質が暴れないように手足の自由を奪ってから、荷馬車で貴族街の屋敷に連れて行くことになっている。

 今のところ順調だが、少女を縛るのに少し手間取ってしまった。このタイムロスが計画に響かなければいいが、と勘の鋭いナシートは心配に思った。


「ぎゃっ」


 御者台の方で、短い悲鳴が聞こえた。茶髪の声だ。その声に反応して、少女を見張っていた仲間が見に行こうと動いた。

 ナシートは違和感を感じて首を捻る。見張りがいない――通りには人影もない――。

 はっと息を呑む。


「おい、待つんだ。人質の傍を離れるなっ」


 今や、周囲には罠の匂いがぷんぷんと満ちていた。いくら祭り当日とはいえ、ひと気が全くないことからして罠を疑うべきだったのだ。おそらく、消えた見張りは荷馬車の中だろう。しかしいちいち確かめている暇はない。

 逃げるか、戦うか。


 荷馬車の影から、仲間の一人が少しずつ後退りながら現れた。その顔は青ざめてがくがくと震え、その首には鋭い剣の切っ先が突きつけられている。彼が一歩後退するたび、同じだけ切っ先も前へ進んだ。


「…………」


 やがて、剣の握り手も姿を現した。

 皮鎧に金糸雀騎士団の証の赤い腕章。口の端を不敵に上げた横顔は、敵を追い詰めながらもどこか人懐こそうだ。

 その人は前から視線を外さずに短く号令をかけた。


「ユリアン。縄を掛けろ。それから人質を頼む」

「はいっ」


 命令に応じて、まだ少年の面立ちをした騎士が、ばたばたと忙しない足取りで駆けてきた。ナシートの見ている前で、手間取りながら震える仲間に縄を掛ける。人質の姿は、ここからは見えない。人質からも同様だ。しかし、雰囲気は感じ取っているだろう。


 形勢逆転。

 逃げるべきか。戦うべきか。

 はっきり言って、彼らを救う義理はない。仲間ではあるが、同じ人間に雇われたというだけで名前しか知らない相手だ。仮に救出に成功したとしても謝礼は払われないだろうし、報酬に目が眩んだだけの彼は計画の内容に賛同していたわけではない。

 それに、勇猛と名高い金糸雀騎士団を相手取って勝利を得る自信はさすがにない。一対一なら可能性はあるかもしれないが。

 そして、投降という選択肢は最初から頭にないのだった。


(……逃げよっと)


 あっさりとそう決断すると、コソ泥のように背を丸めてくるりと体を反転させた。

 ありがたいことに、荷馬車の陰に隠れてしまっているせいか、騎士たちはこちらに気付いていない。たぶん他に味方は来ていないのだろう。たった二人相手にやられてしまうとはなんたる情けなさ、と心の内で嘆いたが、今まさに逃げ出そうとしている彼が言えることではない。


(にっしっし、悪いなぁ、兄ちゃんたち。このままとんずらさせてもらうぜ)


 と、悪い笑みを浮かべて立ち去ろうとしたその足が、ふと止まった。

 訝しげに見やった先に、一組の男女が立ちはだかっている。お伽噺の王子様かというくらいの美男子に、お伽噺のお姫様かと思うくらい綺麗な少女。ただの通行人かとも思ったが、視線は真っ直ぐこちらを向いている。特に、男の方はかなり険しい表情だ。

 男には見覚えがないが、彼の背後に隠れるように立って、笑顔で手を振っている少女には見覚えがあった。


「あれ? あんた、イクセルとかいうお坊ちゃんが連れてきたお嬢様じゃないか。なんか問題でもあったのかい」


 一見、何も害のなさそうな二人。武器も持っていないし体格は華奢だし、油断してしまったとしても無理はない。

 まさかお嬢様が『裏切り者』で、見た目は弱そうな青年が最高峰の魔術師だとは思いも寄らない。しかも、その魔術師の逆鱗に触れてしまっただなんて、どうして想像できただろう。ナシートは計画に参加こそすれ、詳しい目的などは知らされていなかったのだ。

 が、さすがにそこら中に漂う怪しい雰囲気はちくちくと肌に感じた。


「えっと、あのぅ。お嬢さん? 何か、ご用?」

「御用だよ」


 ぎくり、と体を強張らせる。ぎこちない動作で首だけ振り返れば、馬車の傍に騎士が立っていた。仁王立ちで腕を組み、余裕の態度。

 突然、ナシートは前方から叩きつけられるような衝撃を受けて、馬車の壁に激突した。

 一瞬、息が詰まりそうになる。

 喉に何か触れているようなのだが、退けようと伸ばした手は宙を空振った。

 見えない何かが首を絞めている。にも拘らず、周囲の人たちは皆気付かないような素振りで――いや、気付いてはいるのだ。彼らにとっては、何一つ不可解はないのだ。そのことに疑問を感じるよりもまず、恐怖を感じた。


 ――勝ち目はない。

 素早く察すると、自由な右手でばしばしと馬車を叩いた。


「こっ、降参っ! 参った!」


 ふっと空気の動くような感じがして、首を絞めていた何かの力が抜けた。咳き込みながら座り込んで、ようやく力の正体に気が付く。


(なんだ、魔法使いがいたんかいな。そうと知ってりゃ抵抗なんかしなかったのに……いや。オレ、抵抗したっけ? ああでも、悪いことしたしなぁ。天罰ってヤツは、本当にあるんだなぁ)


 薄れゆく意識の中で、ナシートは故郷にいる祖母の顔を思い出した。善良な祖母は、孫が悪事に手を貸したと知れば鬼のように目を吊り上げて怒るだろう。

 目が覚めたら、どうか婆ちゃんにだけは黙っていてもらうよう交渉しよう。それから、あのお嬢さんにも謝ろう。ああ、誰か故郷までの旅費くれないかな。

 そこまで考えて、青年は完全に意識を手放した。

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