やきもち
国王夫妻を乗せた馬車が通るパレード通りは、一目見ようとやってきた人達で早くも溢れ返っていた。
グランリジェの住人だけでなく、外国からの観光客も多い。この辺りでは見かけない髪や肌色、民族衣装。まさに色の洪水だ。
道の両脇には街路樹が植えられているのだが、一番目の枝がすっかり見えなくなってしまうほどで、国王への敬愛の深さが垣間見える。
かつて圧倒的な軍事力を誇っていたサジェス軍を破ったエリュミオン王家は、国内のみならず近隣諸国からも人気が高い。特に、今なおサジェスの脅威に晒されている南東の国々では、エリュミオン王を自分たちの第二の王と考える人もいるくらいだった。さらに、今年は終戦から数えて百年目。そのためか、例年よりも盛り上がっている。
リルレットは箱に詰め込まれたお菓子みたいな人ごみに、大きな目を丸くしていた。
都会に出てきたときも人の多さに一瞬意識が遠のいたが、今日とは比較にならない。まるで街全体が市場になってしまったかのようだ。馬車道を守る警備隊はさぞかし大変だろう。
「わぁ。すっごい人出ですね! 詩を歌ってる人もいますよ」
「リルレット、あれ、あれヘンな生き物。なんかフゴフゴ言ってるー」
「ほんとだ、リボン付けてますよ!」
「可愛いわねぇ!」
「うぉん!」
大はしゃぎする女二人と一匹を余所に、クラエスは些か辟易した目を人だかりに向けた。
彼女達が喜ぶのは問題ない。ただ、この人だかり……この中を進むのかと思うと、今すぐ周り右をしたくなる。しかしそこは楽しそうなリルレットのため、帰りたい気持ちをぐっと堪えるのだった。
ちなみに、イフリータは今は人間と全く変わりない姿をしている。他の人達にも普通の人間に見えているはずだ。もちろん空など飛んでいない。
そのイフリータがやおらクラエスの背後に回り、つんつんと怪しげに肩を叩いた。
「ねぇねぇ、クラエス」
「なに」
「おなかすいた」
「嘘吐け」
ただでさえ不機嫌なクラエスは、冷たく突き放すとすたすたと歩き始めた。
「ああんっ、どこ行くのようっ」
「本番までは時間がある。それまでに移動しよう。おいで、リルレット」
「あ、はいっ」
吟遊詩人の詩に気を取られていたリルレットは慌てて彼の後を付いて行こうとした。
だが、事はそう簡単ではなかった。
最初はたかだか二、三人分だった二人の距離が、いつの間にか随分と離れている。
前後左右に立ちはだかる人の壁を、リルレットはじぐざぐに通り抜けようとした。ともすれば人ごみの波に埋もれ、窒息しそうな中を、時に足を踏まれ、時に足を踏み、どうにかこうにか掻き分けていく。僅か数十秒の間に何回謝ったか知れない。
クラエスがどこにいるのかも、もう分からない。何せ体をぶつけぶつけられの応酬なので、目など開けていられないのだ。
小柄な少女が切り抜けるには辛い状況だった。
不意に、誰かに手首を掴まれた。かと思えば、力任せに前へ前へと連れて行かれる。
驚いたけれど抵抗する余力もなく、リルレットはずるずると為されるがまま引っ張られていった。
まさか、イクセル? それとも人攫い?
いつかの恐怖が蘇り、手足がさぁっと冷たくなる。腕を振りほどこうとするけれど、周りの人にぶつかるだけだった。
どれくらい歩かされただろうか。
「っぷはぁ!」
急に視界が明るくなり、同時に真冬の人いきれから解放される。
短い距離を全力疾走したような荒い息で辺りを見回せば、そこは見慣れた噴水広場の真ん中だった。
わしゃあ、と勢いよく噴き出す水が、太陽の光を反射して宝石のようにキラキラと輝いている。
静かだった。人ごみに比べれば、であるが。
ベンチには家族や友人、恋人同士で語らう人達の姿が見える。彼らは騒ぎもせず、あくまで普段の生活と同じように過ごしているように見えた。噴水には人を落ち着ける効果があるのかもしれない。
「あの中を歩くのはきつかっただろ?」
突然背後から掛けられた声に、リルレットは心臓が飛び出そうなくらい驚いた。振り返ると、腰に手を当てて悪戯っ子のような瞳でこちらを見下ろすクラエスがいる。
――嵌められた。
「ひどいですっ。さっさと先に行っちゃうなんて!」
「ここまで引っ張ってきてあげたじゃないか」
「だけど、怖かったんですっ。本当にっ」
一瞬、後悔しかけた。我を通してお祭りにやってきたこと。
あんなにあっという間にはぐれてしまうなんて思わなかったのだ。いくら人がたくさんいると言っても、クラエスやイフリータの後姿を見失うなんてことあるわけがない――無条件にそう信じ込んでいた。
「ごめん、リルレット。怖がらせた」
「う、いえ、私の方こそ、ごめんなさい。我儘ばっかり言って」
「じゃあ、おあいこだ。本音を言えば、もう少し甘えてほしいところだけど」
ふわりと前髪を撫でる感触に視線を上げれば、思ったよりも間近にあった顔にどきっとする。
「服なんていくらでも買ってあげるのに」
「いい! いいですっ。おおお、お気遣いなくっ」
「そう。ま、いつでも遠慮なく言ってくれて構わないからね」
「う……うう?」
リルレットは混乱気味に頭を押さえた。申し出は嬉しいけど、何故そんなことになるのか分からない。というか近い、すごく近い。
救いを求めて周囲を見回せば、いくつもの視線が彼女たちに集中していることにショックを受けた。或る人はやけに熱っぽく、或る人は唖然とした様子で。そんな顔が五つか六つほどある。
よく視線を追ってみれば、どれもがクラエスを見つめているではないか。しかも熱い視線を送ってくるのは皆女性だ。
ここは不味い。具体的に理由を口にすることはできないが、確実に不味い。
「クラエス様、もっとお祭りっぽいトコ行きましょう!」
「そんなに急がなくても。静かで良いところだよ」
「いえ、ここは楽しくないですっ。早く離れるが吉です」
「何を怒ってるんだ?」
「別に、怒ってないですよ」
と言いつつも、ぷりぷりと頬を膨らませている。
怒っているのではなく嫉妬しているのだが、それを説明する心の余裕はない。
とにもかくにも他の場所へ、と広場を出ようとするリルレットの手を、追いついたクラエスが掴んだ。
「はぐれ防止」
何かを言おうとした彼女の機先を制するように、クラエスはにこりと微笑む。
リルレットはぐっと言葉を飲み込んで、動揺した顔を隠すべく俯いた。偶然広場にいただけの女性たちに嫉妬した自分が恥ずかしくなったのだ。
「ごめんなさい」
「何故謝る」
蚊の鳴くような声で呟くと、クラエスは声を立てて笑った。
彼の言う通りだ。謝る必要なんてなかった。何故謝ったりなどしたのだろう。
頭を振って些細な疑問を追い出す。
今日はお祭り。人の笑う声を聞くと、自分も楽しくなる。
リルレットに笑顔が戻った。
「そうそう。キミには笑顔が一番似合う」
「本当に?」
「本当だよ。だって……」
クラエスは珍しく口籠もり、自分の台詞に狼狽した。
「ま、まぁ、決まり文句みたいなものだ。よくあるアレ」
「特に意味はないってことですね。ふーん、クラエス様ってそうやって女性を口説くんだ」
「さいてー」
二人の女性の冷たい視線に晒されて、クラエスは天を仰ぐ。
「冗談は止してくれ……」
冬の清々しい空の下、少女たちの軽やかな笑い声が響いた。
建国祭の目玉は二つ。華やかなパレードと夜の花火だ。その他の時間は、割合穏やかで、大きなイベントはない。
けれど、各国から集まった行商人や旅芸人のパフォーマンス、旅の音楽家の演奏やそれに即興で合わせて歌う詩人など、人々の目や耳を楽しませるものには事欠かなかった。
陽気なリュード人の歌と踊りをたっぷりと堪能し、終いに踊り子がぱあっと散らした花吹雪に歓声をあげたり、芸人の空高く噴いた炎に驚いたりと、楽しみに喜びが追いつく暇のないほど忙しい。
いつの間にか、リルレットはクラエスの腕をしっかりと握っていた。絶対に離れないとでも言うように、ぴったりと寄り添っている。しかも、二人ともそのことを疑問に思わないのだった。
傍目には恋人同士にしか見えない。そうでなければ何なのだと誰もが思うだろう。
イフリータは二人の後から付いて行きながら、知らず知らずの内に頬を膨らませていた。
「よく考えたらさぁ、私」
と、イシエを抱っこしたイフリータが不満げに口を開く。
人間と変わらぬ姿の彼女は、無遠慮に吸い付く周囲の視線を物ともせず、何事かと振り返った二人にジトっとした視線を注ぐ。
「お邪魔じゃなぁい? ね、邪魔でしょ」
空いた手でびしびしと同居人達を指さすイフリータ。目つき仕草その他から鑑みて、明らかに拗ねている。
クラエスとリルレットは顔を見合わせた。と、そこでようやく密着していたことに気が付く。慌てて身を離すけれども、込みいった人通りの中で背中を押され、結局リルレットはクラエスに肩を寄せる格好になった。
「いいのよ、いいの。今日のお出掛けは二人のためなんだもの。私だって、よかれと思って計画を手伝って――」
「計画?」
「あ、あら? 私そんなこと言ったかしらぁ? うふふ」
怪訝そうに眉をひそめるクラエスから視線を逸らし、イフリータは誤魔化すように笑った。が、急に怒ったみたいに拳を握ると、
「もー! いいじゃないの、そんなことはっ。そうじゃなくてぇ、私……そう、見回りしてくるっ」
「あ、イフリータさん!」
リルレットの制止も聞かず、ふわり、と宙に浮かぶと同時、その姿を消した。彼女の腕に抱かれていたイシエは身軽に跳躍し、リルレットの足元にすり寄った。
一部始終を見ていた見物客の何人かが騒ぎ出すが、見ていなかった人達は全く意に介さない。そんな馬鹿な、人が消えるわけがないと、声高に叫ぶ者達をせせら笑っている。
暫し唖然としていたリルレットは、クラエスの呆れ顔を見上げた。
「あいつが急に怒り出すのは、今に始まったことじゃないよ。昔から、変なところで感情の起伏が激しいんだ。最近落ち着いてたと思ったらこれだ。魔人ってのはよく分からない」
「それって……」
イフリータの機嫌が悪いのはクラエスが原因なのではないかと思ったが、確信のあることではないので慌てて口を噤んだ。
彼は魔人のことは分からないと言うが、リルレットには分かる気がする。クラエスは魔術師として、魔術を操る上位者としてのイフリータを見ているのだろう。ある意味で人間扱いしていない。だけど一人の女としてのイフリータを見たとき、彼女の行動原理はこれ以上ないくらい分かりやすいのではないだろうか。
――もしかしたら一番手強いライバルかもしれない。
彼女のクラエスに対する感情が恋愛感情にしろ母性愛にしろ、ある種特殊な関係で結ばれている二人を引き剥がすのは難しそうだ。もっとも、引き剥がそうとも奪い取ろうとも思っていないけれど。
尚もイフリータの行方を気にしていると、クラエスがぽんと肩を叩いた。
「見えないだけでそこら辺にいるよ。さあ、早く行こう」
「行くって、どこへですか?」
「良いところだ」
彼は見ている方が蕩けそうな笑みを浮かべると、リルレットの手を引いて再びさっさと歩き出した。人の足に踏まれそうになったイシエが、慌ててリルレットのスカートにしがみつく。
そのとき、遠くで歓声が上がった。ぽんぽんと空砲の音も聞こえてくる。
パレードが始まったようだ。
けれど、クラエスが向かっている先は馬車が通る方向とは正反対である。人の波に逆らうようにして進む彼の背中を、少しだけ不安を込めた目で追う。
クラエスは自信たっぷりだ。長い間この街に住んでいるのだから、リルレットよりも色々なことを心得ているのは不思議ではない。
全部彼に任せることにして、リルレットは繋いだ手に力を込めた。
国王夫妻の馬車は、ゆっくりと街を一周するように進む。時間や安全の都合上、隈なく巡るわけにはいかない。
城を出た馬車はまず西側の主だった通りを行き、リジェール河に三か所架かった橋の内、真ん中のレリム橋を渡って東へと進む。
その時間が迫る中、クラエスがリルレットを連れてやってきたのは、レリム橋が一望できる高台の広場だった。小さいが、河に面していて見晴らしが良い上に、人が少ない。もっと近くで国王夫妻を見たいという人が多いのか、この穴場が知られていないせいなのか。祭りの最中でなくとも、静けさを好むクラエスが気に入りそうな場所だ。
リルレットは自分の胸くらいの高さの石壁に頬杖をついてみた。北から吹いてくる風が頬に当たり、心地よい。踏みつけられる恐怖から解放されたイシエもまた、石壁に腰を下ろして尻尾を揺らしていた。
「気持ちいい風。こんなところがあったなんて、知りませんでした」
「師匠に教えてもらった場所だよ。弟子になって間もない頃、主君の顔くらい知っておけと無理やり連れてこられた」
「ふふっ、クラエス様らしい言い方ですね」
「かもね」
ふと、クラエスは考えた。
アルヴィドの地位と国王から寄せられた信頼の厚さを思えば、そんなまどろっこしいことをしなくても直接王の前に連れていくこともできただろう。それをしなかったのは、弟子の境遇を慮ってくれたからなのかもしれない。
かつて、拠る瀬もなく不安な日々を過ごしたことがあった。知らない土地。知らない人。たまに夢に見る。たぶん、昔のこと。
「俺は」
何故、そのときそんなことを口にしようとしたのか分からない。単に彼女に聞いてほしかっただけなのか、一方的に喋りたかっただけなのか。
光る水面。人の波。いつまでも一体化しないそれらを見下ろしながら、ぽつりと呟く。
「本当は、この国の人間じゃないんだ」
「……え?」
視界の端で、リルレットが驚いた顔で振り返った。