風が騒ぐ夜
「んむ……」
夜、冷たい風を感じてリルレットは目を覚ました。
部屋の中は暖かい。彼女が雇われた当初から置いてあった部屋暖めの魔石が順調に効果を発揮しているのだ。
窓の建てつけも問題ないはずだし、壁に穴が開いているわけでもない。
ふと、イシエがベッドにいないことに気が付いた。
いつもはリルレットの足元で丸くなって寝ているのに、感じ慣れた毛並みが見つからない。
急に不安を覚える。
イシエは霊滓で、いつ消えるともしれない命だ。もっとも、クラエスに拠れば霊滓は単なる魔力の塊で生命体ではないとのことだが。
だけどリルレットには、意志を持って行動する彼が生き物でないとは信じがたかった。もちろん、クラエスの言葉を疑うわけではない。
それでも生きている。そう思いたい。
最初は狼の姿に怯えたが、今では隣にいるのが当然の存在だ。彼女を慕って懐いてくるのが、リルレットには可愛くて仕方がなかった。
「イシエ、どこ?」
「ウゥ」
返事は部屋の中から聞こえてきた。
よかった。消えたわけじゃないんだ。
ホっとして声のした方を探ってみると、いた。窓枠の出っ張りに腰を落ち着け、外を見ている。
窓が少し開いていて、風はそこから流れ込んでいた。
「どうかした? 何かあるの?」
人の言葉を解しているらしい狼に尋ねてみる。普段なら鼻先を押し付けるなりして何事かを訴えてくるのだが、今夜は様子が違っていた。
相変わらず低く唸るものの、目は頑なに外に向けられたまま。まるで、そこにいる誰かを引き留めようとしているみたいに。
「ウゥゥ……」
声が切なく響く。
理由も分からないまま、リルレットは胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。
「どうしたの? なんでそんなに悲しそうなの? イシエ――」
名前を呼ぶ。イフリータが付けてくれた、《風》という意味の古い言葉。その名のように、いつかどこかへ旅立ってゆくのだろう。
その時が近いのではないかという漠然とした不安が、冷たい床を這っていた。その別離の触手に捕らわれまいとするかのように、リルレットは狼の傍へ駆け寄った。
そして、あっと声を上げた。
「月……」
青白い光を纏って、窓の外に丸い月が佇んでいる。狼はそれを見ているのだ。月がイシエを悲しませているのだろうか。それとも、古の狼のように月に恋焦がれているのだろうか。
リルレットは古いお伽噺を思い出していた。
エリュミオン王国では、月は四つの異名を持っている。
リルレット、イヴリー、サフレット。
そして、冬の月は。
「ユーリア」
ぴくりと、三角の耳が動いた。
風が吹き、木枠の窓をきぃと軋ませ押し開ける。
外側へ。
無意識に手を伸ばし、柔らかい毛並みを抱きあげる。顔を首の後ろに埋め、ぎゅっと腕に力を込めた。
広くなった隙間から、イシエが出て行ってしまうような予感がしたのだ。
「ダメだよ。行っちゃダメ」
ぐるりと回した鼻先がリルレットの手に触れる。次の瞬間、暖かい舌が親指をくすぐった。ペロペロとミルクを飲むみたいに舐め上げる仕草は、彼女を安心させようとしているよう。実際、波打っていた心が静かになっていくのをリルレットは感じた。
いつの間にか滲んでいた涙を人差し指で掬い取り、くすりと笑う。
「さあ、もう寝よ。いい加減寒いよ」
風で開いた窓を閉めると、イシエを抱いたままベッドに向かった。イシエは抵抗せず、なされるがままになっている。なのでリルレットはすっかり安心した。
(大丈夫。この子は勝手にどこかへ行ったりしない)
たとえ離れ離れになる日が来ても、きっと一緒に付いていてあげる。
狼の悲しげな鳴き声が、いつまでも耳の奥に残っていた。
『ねぇ、クラエス』
「ん?」
夜の静寂に、ばしゃばしゃと水音が跳ねる。
桶に貯めた水で手についたインクの汚れを洗い落としながら、クラエスは背後を振り返らずに応えた。インクの汚れは一度染みつくとなかなか落ちない。小まめに洗うようにしているのだが、仕事に熱中すると忘れてしまいがちだ。
イフリータは、ベンチに腰掛けて上空を見上げていた。真上は丁度、リルレットの部屋の窓がある辺りだ。
『私がいなくなったら、悲しい?』
「何、いきなり」
『答えてよう』
魔人の猫撫で声に一瞬嫌な顔をしたクラエスだが、彼女が本気なのを見て取ると一応真面目に考え始めた。
「……そうだね。悲しいというより、びっくりするかな」
『どうして?』
「なんだかんだで付き合い長いからね。悲しいとか寂しいといった感情は、多分遅れてくると思うよ」
『じゃ、悲しんではくれるわけね』
クラエスは笑って頷いた。
その顔をじっと見つめていたイフリータは、ぽつりと呟く。
『あなた、変わったわ』
「どこが?」
『よく笑うようになった』
ぴたり、と会話が止んだ。
どこからか風が吹いてくる。反射的に上を見上げると、久しく見ることのなかった星が空いっぱいに散らばっていた。
あの日もこんな空だったと、クラエスは不意に思い出す。
イフリータと初めて出会った日のことだ。
当時彼は十四歳で、魔術師としてはすでに一人前と認められていた。成長は人よりも速いペースだと人は驚いていたが、自分では当然だと思っている。師の教え方が良かったのだ。それに、ほぼ毎日、日が昇ってから落ちるまでずっと机に向かって勉強していたし、偶にロルフに誘われて外に出た際にはフィールドワークと称して様々なことをやった。その成果の殆どがガキの悪戯と見做されたことは、甚だ不本意だが。
一人前と認められたからと言って師から学ぶものが何一つなくなったわけではない。むしろ、師と同じ目線に立てたからこそ学べたことの方が多かった。
イフリータとの関係もその一つだろう。もし師がアルヴィドでなかったら、彼女のことを最初から最後まで研究対象としか思わなかったかもしれない。今夜のようなやり取りも行われなかったかもしれないことなど、想像できない。
彼女はクラエスにとって全てを知る友人だ。
『モンストーロの山奥であなたに鉢合わせしたとき、私逃げようかと思ったの。何故か分からないけど、狼に見つかった兎の心地がしたのよ。何て言うのかしらね。モルモットの気持ち?』
ぎくり。
「……それは多分、君の勘違いだと思うよ」
『ううん、絶対勘違いなんかじゃないわ』
そこまで自信たっぷりに言い切られると、押し黙るしかない。無闇な反論は自滅を招きかねない。いや、決して研究者の目で彼女を見たことを認めるわけではないが。
「イフリータは変わらないな。初めて会った日と、何一つ」
『そりゃあ魔人だもの。人間よりずっと長生きなのよ。だから、ゆーっくり変わっていくの。えっへん』
「何かにつけて威張りたがるところも相変わらずだ」
『む。何かしらぁ、その言い方? ちょっと生意気だわ。クラエスのくせにっ』
クラエスは声を立てて笑った。
なるほど自分は変わったかもしれない、と思い直す。
今までは何も聞こえない環境が心地よかった。思う存分己の魔術の世界に浸れた。
けれど今は、かつての暮らしに戻れと言われても無理だ。
友情とも家族愛とも違う。初めて人を愛しいと思った。それだけで世界が変わり、一日を一日と思うようになった。ただ消費するだけの日々ではなく、誰かの声を聞き、誰かの立てる物音を聴く毎日。
それが当たり前と言われれば、それまでだ。
けれど彼にとっては革新的で、二度と来ないであろう大きな変化だった。
『何も知らなかった可愛い坊やが、こんなに成長するなんてねぇ。人間の母親の気持ちって、こんななのかしら』
イフリータは感慨深げに呟いた。
独り言には答えずに、クラエスは手を振って水を切る。飛び散った水滴が地面に吸い込まれていくのを見つめながら、彼女の胸の内にある年月の深さを感じようと試みる。が、彼は魔人が生きてきた年月も知らなければ母親の気持ちも分からなかった。
「風が出てきた。中に戻ろう」
『えぇ。火を起こしてあげるわ。偶には本物もいいでしょ?』
「そうだね」
そう、偶には炎の魔人に炎を操らせてもいいだろう。でなければ腕が鈍ってしまうかもしれない。イフリータにとって、火は己の手足のようなもの。万が一にも操り方を忘れることなんてないだろうが。
「イフリータ」
『なぁに?』
嬉々として裏口から家へ戻ろうとしていたイフリータは、端正なかんばせに疑問符を浮かべて振り返った。
何も知らない人は、この優艶な美女に人知を超えた力が備わっているなどとは夢にも思わないだろう。
「祭りの日まで、頼むよ」
何を、とは言わなくても通じた。彼の愛する少女のことは、イフリータも気に掛けている。彼女を傷つける者は絶対に許さない。それがたとえ主の兄であろうとも。
『お任せあれ』
苛烈な性質を秘めた魔人は、臣下が主君にするように恭しく礼してみせた。
そして――時間はあっという間に過ぎていき、とうとう祭りの当日が訪れる。
「あのぅ、イフリータさん。髪、おかしくないですか?」
『あら、どうして? すっごく似合ってるわよ~』
「首の後ろがすーすーします……」
『すぐに慣れるわよ~』
そうでしょうか、と口の中をもごもごさせて、リルレットは項を掌で包むようにした。
いつもは肩の辺りで一纏めにしていた髪を今はうんと持ち上げて、涼やかな水色のリボンで結っている。イフリータにやってもらったのだ。意外なことに、彼女は手先が器用だった。ただ、癖の強い髪質が相変わらず気になるけれど。
偉そうなことを言わせてもらえば、出来上がりには概ね満足だ。が、リボンの色がちょっと派手じゃないだろうかと不安になり、鏡の中の自分を何度も見返す。服装が服装なのであまり華美なものは避けたいと言ったのだが。何せ、リボン自体身に着けたことがないのだ。それも春の空のように明るい水色なんて。
我ながら小心者だなぁと、溜め息を吐く。きっと、他の女の子は遥かに綺麗に着飾っているのだろう。
案の定、イフリータの意見は彼女とは正反対だった。
『でもねぇ。服がちょっと地味よねぇ。せっかくあの子が買ってくれるって言うんだから、ドレスの十着や二十着拵えてもらえばよかったのに』
「流石にそこまでは。今日だって、我儘言って連れて行ってもらうのに」
『あら』
鏡越しに、イフリータが大きな目を意地悪そうに輝かせた。
『目的はお祭りじゃなくてクラエスでしょ?』
「っ!!」
リルレットは一瞬にして首から額まで真っ赤に染まった。白い湯気が噴き上がってもおかしくないくらいだ。
『くすくす。そんな赤くならなくても。今更のことじゃないの』
「イフリータさんがいきなり変なこと言うのがいけないんですっ」
『別に変じゃないわよ。事実でしょ~?』
「もー! 本当だからって、不意打ちして良いときと悪いときがありますっ」
「……二人とも、何を騒いでるんだ?」
呆れたような冷静な声が入口の方から聞こえ、女たちははた、と口を噤んだ。
入り口に目を向ける前からリルレットはどぎまぎし、イフリータは彼女のそんな様子に忍び笑いを漏らした。
「入っていいかな?」
扉に背を向けたまま、抜けそうなくらいの勢いで首を縦に振る。
床を軋ませて足音が近付いてくる。リルレットはスカートを握った拳を凝視しながら、その実何も視界には入っておらず、一心にクラエスの靴音に集中した。
一歩、また一歩。窓を鳴らす風の音よりも遥かに大きな存在感。たとえ雑踏の中だろうと聞き分けられそう。
足音が止むのと、椅子のすぐ後ろに人の気配を感じるのは同時だった。
しばらくの間、クラエスは無言だった。リルレットは何を言ったらいいのか分からない。従って会話が始まらない。
イフリータは今頃天井近くでニヤニヤと笑っているのだろう。そう思うと腹立たしいやら恥ずかしいやらで、頭の中が沸騰する。一番近くにクラエスがいることを意識すると卒倒するんじゃないかという気がして、敢えて考えないようにしていた。
唐突に、イフリータが結ってくれた髪に何かが触れた。風が吹いて、髪が揺れたのではない。窓はしっかりと閉めきっている。
はっとして顔を上げると、鏡の中に見たことのない顔をしたクラエスが立っていた。
僅かに瞼を伏せた様子は、嘆いているようにも憂えているようにも見える。それとも、何かに気を取られているのか。表情の消えた顔からは、感情が殆ど読み取れなかった。
クラエスの手がリルレットの髪を一房絡めとる。日頃一回で櫛が通らないのが嘘に思えるような素直さだった。まるで、髪も彼に気に入られようとしているみたいだ。
彼から目を逸らせずにいると、不意に緑の瞳が鏡の中の少女に向けられた。
「ん?」
さも当然のごとく、何事かを尋ねてくる。何をしているのか聞きたいのはこちらの方だ。けれど想い人との接触は嫌ではなく、むしろ嬉しくもあり戸惑いもあり、ただ緊張に身を固くするばかり。
「あ、あの、髪」
「ん。ああ、そうか」
ぱっと手を離す。
そうじゃない、そうではなくて。
「あの! 髪、似合ってますか? 変じゃないですか?」
思い切って振り返ると、期待と不安がない交ぜになった眼差しでクラエスを見上げた。彼からもよく見えるように。後ろからでも鏡越しにでもなく、真正面から見てほしい。
ドキドキしながら返答を待った。固かった表情が次第に柔らかくなっていくのに安心して、自然とリルレットの頬も緩む。
「もちろん。可愛いよ」
「あ、ありがとうございます。クラエス様は」
言いつつ、下から上まで眺め見る。黒のスラックスに白のシャツ。一応外套を羽織ってはいるが、冬にもかかわらずこの薄着。エリュミオンは比較的温暖な地域だが、冬はやはり寒いし、限度というものがある。本当にこの格好で外に出るつもりだろうか。
「……いつも通りですね。恐ろしいまでに」
「自慢じゃないが、見た目を気にしたことは一度もない」
「それは確かに自慢じゃないですね」
そういう意味で言ったのではないのだけど。
でも確かに、彼の場合外見に気を遣う必要はないともいえる。むしろ、変に気合を入れられるとこちらが困る。並んで歩いたら見劣りしてしまうに違いないのだ。正装した姿というのも見てみたい気はするけど。
「リルレットは初めてなんだっけ。外に出てみれば分かるよ。誰も彼も他人の服装なんて気にしたりしない。つまり、キミのその髪型は俺――とイフリータにだけ見せればいいってこと」
「じゃあ」
リルレットはクラエスに背を向け、机の引き出しを開けた。首を傾げて見守る主従の前で何やらゴソゴソしていたが、やがてある物を後ろ手にして二人に向き直った。
片手でちょいちょいとクラエスを呼ぶ。怪訝な顔をしながらも大人しく従うと、リルレットが背中に回していた手を伸ばした。
「私――とイフリータさんのために、これ、付けてくれます?」
その手にあったのは、いろんな緑を散りばめた石が嵌められたブローチだった。シンシアと一緒に街をぶらついたとき、露店で購入したものだ。
「お誕生日、おめでとうございます。これ、外套の留め具にと思って」
「誕生日? ……ああ」
一瞬眉をひそめたクラエスだったが、数週間前に誕生日はいつかと聞かれたことを思い出し、目元を和らげる。
リルレットはなんだか急に照れ臭くなった。重大な仕事を一つ終えたから、ほっとしたのかもしれない。
「ちょっと屈んでみてください。ささっと付けちゃいますから。襟を寄せて……」
「ああ」
クラエスは微笑んで頷いた。しかし手は襟元に向かわず、少女の小さな手を包み込む。リルレットははっとして手を引っ込めようとしたが、それよりも早くクラエスの両手がしっかりと少女を捕らえていた。
顔を見上げる。
空色の目と翡翠の目がぶつかり、リルレットは息を詰めた。
「ありがとう」
短いが気持ちのこもった一言と掌の温もりが、じんと胸に沁み込む。
何とか涙を呑み込み、小さく頷く。
込み上げる喜びを隠しきれずに、リルレットは蕩けるような笑顔を見せた。