確執
リルレットは緊張した面持ちで玄関扉前にいた。
すうっと息を吸う。
足元にお座りをしたイシエが、じっと彼女の様子を見守っている。何の言葉も発しない彼だが、人間のすることなどお見通しだと言いたげに理知的な丸い瞳が輝いていた。彼女の行動を後押しするように。
イシエに見守られている中、リルレットは肺に溜まった空気を吐き出す。そうすると、身も心も冷え切って勇気が出てくるような気がした。
思い切って扉を開いた。
慣れた重さ、慣れた音。いつもと同じタイミングで足を踏み出す。
「ただいま戻りました!」
返事はないときもあるし、あるときもある。毎回決まっているのは、何秒と待たずにイフリータが出迎えてくれることだ。
しかし、そのイフリータが今日は出てこなかった。
拍子抜けしたみたいにきょとんとするリルレットだが、そんな日もあるだろうかと大して気にも留めずに階段へ向かう。
そのとき、向かいの扉がキィと古びた音を立てて開いた。
「おかえり、リルレット」
「あ、クラエス様。ただいま戻り――」
語尾が消え、目が点になる。
現れたクラエスは、具合が悪いわけでも機嫌が悪いわけでもない。
ただ、極端に元気がなかった。まるで一週間森の中を彷徨ってきたかのような消耗っぷり。
リルレットは思わず鞄を落とし、わたわたと慌てて駆け寄った。
「どっ、どうしたんですか!?」
「何でもないよ。ただ……」
「ただ?」
「イフリータに叱られた」
そう言って、幼い子供のように項垂れる。
リルレットは点にした目をさらにすりゴマのようにして、
「…………はい?」
肩を落とす主人を無礼なまでに凝視した。
魔人に叱られたと言って、ここまで意気消沈するだろうか。普通はしないと思う。いや、もしかしたら自分が間違っているのかも。魔人に叱られた経験ほとんどの人がないだろうし、絶対におかしいとは言いきれない。
そんなことを考えていると、クラエスにじとっと睨まれた。
「言っておくけど、叱られたからいじけてるとか、そういうことじゃないから」
しっかり心の中を見抜かれていた。
「や、やだなー。そんなこと思ってないですよ。あはは」
「……ま、いいけど」
どうやら信じてはくれないようだ。しかし、誤魔化しは受け取ってもらえた。
彼はリルレットを促し、部屋の中へ入れた。手ずから椅子を引いて彼女をそこへ座らせ、自分はその傍らに膝をつく。
「クラエス様!?」
「いいから、座って」
慌てて立ち上がろうとしたリルレットの手を引き、再び座らせる。
が、リルレットは落ち着かない。いつもと違う視線の高さが、二人の立場を逆転させている。それだけならまだしも、床に膝なんかつけて汚れてしまわないのかと気掛かりでならなかった。
「彼女に言われた。もっとリルレットを大事にしろ、と」
「だ……っ!?」
平気で放たれた言葉に、ぴょんっと心臓が跳ね上がった。
――イフリータさん、何言ってるの!?
「もちろん、俺はいつでもキミを第一に考えているつもりだ。キミは家のことをよくやってくれる。こちらが頼まないようなことも。ほつれた外套を直してくれたり、花瓶に花を活けてくれたり」
「そ、それはっ」
「ああ、いや。キミにしてみたら、単に契約を履行しているに過ぎないのだと思うが」
「う……」
リルレットは出鼻を挫かれたみたいに押し黙った。
別に、仕事だからやったわけじゃない。
その一言が言えない。
ここまで恋愛に臆病だったかと、自分が情けなくなる。レイカやイフリータの手助けがなければ何もできないの? どうして心がちっちゃいの?
「けれど、一番重要なところで俺はしくじってしまったようだ。それで今日はキミに謝りたい」
「え、私、別に謝られるようなことは」
戸惑うリルレットを、クラエスの視線が優しく包む。ほんの少し上がった口角に色香を感じるのは、見る者の意識が変わったためだろうか。
どぎまぎする気持ちを隠すように、胸の前で手を組む。
「それだ。全然気にしていないように見える。俺やイクセルのこと」
「それは……あんまり聞いちゃいけないと思って」
彼にとって、自分は雇われているだけの存在。だから。
「あ……」
不意に気付いた。壁を作っていたのは、他でもない自分自身だったことに。恋愛に臆病になるあまり、リルレットの心は無意識に自分でも越えられないような壁を作っていたのだ。最初から無理だと決めつければ、いずれ諦める口実になるかもしれない。そのとき、自分があまり傷つかなくて済むように――そう考えて。
本当の壁は身分などではなく、彼女自身の幻像だった。
臆病なのが悪いんじゃない。自分にさえ嘘を吐くことが悪いのだ。
「ほ、ほんとうは」
おずおずと口を開くと、クラエスが身を乗り出して耳をそばだてるのが分かった。
少しだけ距離が近付く。
自分は恵まれている。こんなに近くに彼がいるのだから。
伝えられたらいいのに。この気持ちを。
「本当は、ずっと、気になってました。私にも弟、いるから。その、どんな理由があったら血の繋がった兄弟を憎めるんだろう、って」
「ずっと?」
「はい」
「いつから?」
「えっと、お遣いでユイさんの所へ行った日に…………あ」
あ、の形に口を開いて固まる。
――しまった。城でイクセルに会ったことは内緒だったんだ!
さあっと血の気の引いたリルレットを見て、クラエスが笑いを堪え切れずに吹き出した。
「いや、今のはですね、ちょっとした誤りでっ」
「……っとに、可愛いなぁ」
「ですからその、大したことじゃなくて――え?」
クラエスは急に立ち上がり、きょとんとするリルレットの背後を回って少し離れた席に座った。
椅子二つ分。微妙な遠さに戸惑う。
しかし、日頃のことを思えば近い方だと気付き、俯いて赤面した。
どうしよう。彼への好意は秒刻みで強くなってゆく。どんどん膨らんでいって、終いには何もかも呑み込んでしまうのではないかと思うくらい。
こんなことは初めてだ。ジーンのときにはなかった。
遠いから? 簡単に触れられないから、こんな風になるのだろうか。
でも近い。ジーンと一緒にいた頃よりも、ずっと近い気がする。
胸を切なく震わせる。
苦しい。けれど、同時に幸福でもある。
私はいったいどうしてしまったのだろう。
「エリック、イクセル、リネー。それからマルギット」
「……?」
リルレットは顔を上げた。クラエスは彼女を見ずに、正面に掛かったどこかの町の風景画を見つめていた。
いきなり何を言い出すのだろうと疑問に思っていると、彼がこちらを振り返った。クラエスは悲しそうな疲れた目をしていた。
「俺の兄弟たちの名前。ただし、血は繋がっていないけどね」
息を呑む。
心に去来したのは、何とも言えない感情だった。驚きと不安。一つまみの安堵。
クラエスはリルレットの返事を待たずに続けた。
「俺以外の兄弟は皆、バルテルス家の正統な血筋だ。バルテルス家とは、古くから続く魔術師一家のこと。魔術師というのは本来血筋に依らないんだけど、どういうわけか彼らの一族には有能な魔術師が生まれることが多かった。先の家長であるアルヴィド・バルテルス様は、俺の師匠だ。前に少し話したことがあるね」
こくんと頷いた。それ以外に返す言葉が見つからなかったし、彼もまた必要以上の言葉を望んでいるわけではなさそうだった。
「家督は基本的に長子が継ぐことになっている。だが、バルテルス家では魔術の才能が物を言うんだ。リネー以外の三人にはその素質がなかった。リネーにはあったけど、父とは比べ物にならないと周囲に失望された。努力次第では天才になれるだろうと、師匠は仰っていたけど」
しかし、幼いリネーの前にクラエスが現れた。
クラエスは生まれついての天才だった。それも並の才能ではない。アルヴィドという大魔術師がおり、今後百年は彼に匹敵する魔術師は現れないだろうと言われていたのに、それがあっさりと見つかってしまったのだ。
見つけたのはアルヴィドだ。彼は、新たな才能を自ら指南した。文句を言える者などいなかった。クラエスを指導するということは、未来のアルヴィドを教えるようなものなのだから。
「アルヴィド様は、俺が十かそこらのときに俺を養子にした。だから、本当はクラエス・バルテルスという名が正しい」
「どうして、そう名乗られないんですか?」
「負い目、かな」
クラエスは再び絵画に目を向けた。しかし、焦点はその手前で彷徨っている。目に見えないものを捉えようとしているみたいに。
「結果的に、俺は彼ら兄弟から父親を奪ってしまったんだ。俺には分からない感情だけど、悔しかっただろうね。嫌われるのも無理はないよ」
「でも、リネーさん以外に素質はなかったんでしょう? どうしてイクセルさんまで、クラエス様を憎まなきゃならないですか?」
「多分だけど、アルヴィド様は父親としても理想だったんじゃないかな。俺が現れるまでは。
エリックは単純に余所者の俺が気に入らないみたいだったし、イクセルが外遊びを覚えたのは俺が来た直後から。リネーは、未熟な俺にアルヴィド様が付きっきりになったことで支えを失った。才能のことで周囲から色々突かれてたあいつには、見捨てずに指導してくれるアルヴィド様だけが頼りだったんだ」
そこでクラエスは一息入れた。視線を横に流し、不機嫌そうな顔で先を続ける。彼にとっても、あまり面白い話ではないのだ。それを語って聞かせてくれるということは、それなりに信頼されているということでいいのだろうか。
「さっき、バルテルス家では魔術の才能が物を言うと話しただろう。アルヴィド様が亡くなった後、当然家は揉めた。十年近く付き合いがあれば、俺に味方してくれる人も少しはいてね。そういった人たちとリネーを推す派閥が毎日言い争うんだ。たかが跡目争い――と思って放っておいたら、酷いことになって後悔した。その後、さっさと権利を放棄してこっちに引きこもったというわけだ」
平民に交じって生活する変わり者を推す人はいなくなった。国の魔術師の大多数がリネー側についたこともあり、騒ぎはぴたりと止んだ。
それで良かったのだ。
クラエスは平穏を取り戻し、好きなだけ魔術の研究に没頭できるようになった。
師が彼のために建てた邸は、彼だけの城塞となった。ここには不毛な跡目争いも言い争いもない。名前も知らない人からやっかみを言われることもない。外見に反し、悪口雑言で傷つくような繊細な心は持っていない彼だけれども、煩わしいものは煩わしい。そんなものはない方がマシだ。
「イクセルたちが俺を憎む理由は、こういうこと。すまなかった」
「え?」
感傷に浸っていたリルレットは、目をぱちりと瞬かせた。
クラエスは照れ臭そうに人差し指でこめかみを押している。
「だからその、今まで黙っていたこと。意図したことじゃないんだが、話す機会を見つけられなかった。キミにとばっちりを食わせておいて、不義理な男だと思っていただろう?」
「そんなことないですっ。私はクラエス様が、好きですっ」
一瞬の空白。
言った方も言われた方も、見る見るうちに顔を朱に染める。
「あっ、いや、ちがくてっ、別に特別な意味じゃなくてっ。あぅ! や、特別じゃないこともないんですけど、どちらかというと平凡っていうか、でもまだ、か、覚悟がっ」
「分かった、分かったから。とりあえず深呼吸」
掌を下に向け、落ち着けの合図。
言われたとおり、すーはーと吸って吐いてを三回繰り返すと、頭の中が少しだけ冷静になった。
「落ち着いた?」
「……はい」
心臓はまだバクバク鳴っているけど、周りを見る余裕は戻ってきた。
(なんか、どさくさに紛れて変なこと言った気がする……!)
結局頭を抱えてしまったが。
クラエスの話を聞いていると、全部彼の責任だと感じている節があって嫌だった。何もそこまで追い詰めなくてもいいじゃないかと憤りに近い感情すら覚える。けれど、自分まで彼を責めてはいけないと思い、つい好きだなんて口走ってしまった。励ましになるかもと期待したのに、何がしたかったのか自分でも分からない。
ベッドに潜り込んで泣きたい気分だ。
「とりあえず」
「う?」
涙の滲んだ目で見上げると、即行で顔を逸らされた。軽く傷つく。そんな変な顔をしていただろうか。
「……とにかく。黙っていたことを謝りたかったんだ。イフリータに指摘されて初めて気付いたというのは、情けない話だけど」
「私は全然気にしてませんっ。クラエス様から話してくれて嬉しかったです」
レイカに怒られて、今日にでも理由を問おうとしていたところだ。リルレットもクラエスも同じような道筋を辿っていたことになる。そう思うと可笑しくて、笑みが浮かんだ。
「それに、良かった。本当の兄弟同士で憎み合ってるんじゃなくて。あっ、ごめんなさい。良いはずないのに」
本当の兄弟でなければ憎み合っていいのかと言えば、良いはずがない。
それでも「良かった」と思ってしまった。
イクセルの憎悪を間近に見たからだろうか。あれが同じ血を分けた弟に向かったものだったら、クラエスは余計に傷ついたのではないかと、急に怖くなった。
「いや。そう言ってくれたのはキミが初めてだ。兄弟喧嘩というと、すぐ仲直りしろだの兄に謝れだのと一言申したがる連中がいてね。煩いったらない」
クラエスはやれやれと肩を竦めた。誰のことかは分からない。多分自分の知らない人だろうとリルレットは推測した。
「それと、これだけは言っておきたいんだけどね。俺は別にイクセルたちを憎んでいないよ。あんな奴らと一緒にしないでくれ。くさくさするから」
「……へ?」
先程の憂いを秘めた表情から一転して、クラエスの口元には皮肉そうな笑み、口調には刺々しさが露わになった。
目を丸くするリルレットを余所に、彼は鬱憤を晴らすように捲し立てる。
「十かそこらの余所者が流れてきたくらいで崩壊する性根なんか、持って生まれた方が悪いんだよ。確かに俺が現れたことで彼らの人生は狂ったかもしれない。が、修正できずに今なお引き摺っているのは彼ら一人一人の問題だ。あっちが俺を憎むのは勝手だが、こっちが付き合ってやる義理はない。研究の足しになるというんなら話は別だが、実際はそんなこと有りもしない。
バルテルス姓は名乗っちゃいないし、向こうの家との親交も絶った。家はひとつ貰ったが、ここはもともと師匠が俺の勉学のために建ててくれた邸だから文句は言わせないさ。爵位だって自分の力でもぎ取ったものだ。それなのになんだ。三年も四年も他人以下の距離を置いていたくせに、今更婚約だの恨みだの。
ああ、一気に吐き出したら余計にむしゃくしゃしてきた。憂さ晴らしに火でも付けるか……」
「わ、私、お夕食の支度してきます!」
不穏な気配を察して、リルレットは大慌てでその場を離れた。まさか家に火を付けたりはしないと思うが、ちょっと怖くて見ていられない。
実はあの兄弟、わだかまりさえなくなれば気が合うんじゃないだろうか。
そう思ったのは、リルレットだけの秘密だ。