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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第三章
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噂の否定

「ハミリア宰相が、目に入れても痛くないほど溺愛なさっているとか。彼女に求婚なさる方も多いと聞きますが、何でもアニエス様ご自身が首を縦に振らなかったそうですよ。そんな方のお心を射止めるとは、流石アルヴィド殿が認めなさった方だ」

「……ちょっと待ってください」


 思考が追いつかない。嫌な予感を膨らませながら、クラエスは低い声で尋ねる。


「……誰と、誰の話ですか?」

「ですから、あなたとアニエス様の」

「分かりました。結構」


 自分で聞いておきながら手を振って制した。

 動揺している。

 ロルフが持ってきた手紙を読む暇がなかったとはいえ放置してきたことを後悔する。

 クラエスの記憶が確かなら、アニエス・ハミリアはロルフの従妹だ。彼女に近しく、クラエスの友人でもあるロルフは仲介人にうってつけだろう。

 こちらにとって幸いなのは、ロルフが全ての事情を知った上で友人の婚約に否定的ということだ。采配したリネーとしては、ハミリア家とブラント家の両方を味方につけ、クラエスを追い込みたかったのかもしれないが。

 そこまでして彼が望むものは何なのだろう。クラエスにはわけが分からない。


 ふと振り返ってリルレットを見た。彼女は丸い目を大きく見開いて、両手で口元を押さえていた。

 目が合う。お互い瞳の中に感情が読めないかと探るが、戸惑いしか見て取ることができなかった。


「クラエス殿、いかが致しました?」

「ああ……いや。その話ですが、根も葉もないただの噂です。俺は誰とも婚約などしていませんし、その予定もありません」


 丁寧だが、きっぱりと否定した。一度否定したくらいで噂そのものが消えるとは思えないが、目の前にある芽を放置しておくのは精神衛生によくない。

 デズモンドはびっくりしていたが、クラエスの落ち着いた物腰のおかげで真実だと信じてくれたようだ。

 丁度街の奥が騒がしくなり、怪我人が運ばれてくる気配があった。デズモンドはクラエスたちに短く挨拶をすると、仲間の方へ戻っていった。


 クラエスは肺に溜まった息を大きく吐き出した。デズモンドの誤解は解くことができたが、彼のような艶聞に疎そうな人にも知られているとなると、噂はかなり広まっていそうだ。

 誰が噂を広めたのかは明白だ。こんな回りくどいことをするのはリネーしかいない。

 当然、今朝やってきたロルフも知っていただろう。本人に聞かせるまでもないと思ったのだろうが、今回はそれが裏目に出たようだ。よりによって、リルレットの前で聞かされることになるとは。



 一方リルレットは、クラエスの婚約が嘘だと分かり、複雑な気分に陥っていた。


(えっと……。つまり、どうなるんだっけ)


 宰相といえば時の権力者だ。その娘と結婚すれば、その恩恵は計り知れない。

 使用人としては、今のままが望ましい。相手の女性はたくさんの侍女を連れてくるだろうし、そうなると家事しかできないリルレットは追い出されるしかない。やっと見つけた安定して働ける場所を手放したくないし、ハンメルト邸にたくさんの人が出入りする光景は想像できない。いや、そもそもクラエスが今の邸に住み続けるかどうかも怪しい。真っ当な貴族の娘なら、平民街で暮らしたくないと考えるに違いないからだ。


(って、全部いらない心配だよね。だってあんなにハッキリ否定したんだし。きっと何かの間違いだったんだわ。焦っちゃって馬鹿みたいじゃないの)


 安心。なのに、胸の奥にちくりとした痛みが残る。喜ばしいのに、素直に喜べない。

 こんな気持ちを前にも感じたことがあった。

 珍しく邸に来客のあった日だ。なぜ自分を客と会わせたくないのかと考えて、相手は女性なのではないかと疑った。疑いは不安を伴い、どんどん膨れ上がっていった。

 今回もあのときと同じだ。クラエスの周囲にちらつく女性の影に怯えてしまう。

 彼がどこかへ行ってしまうのではないかと。他の誰かに奪われてしまうんじゃないかと。

 想像するだけで気持ちに澱が溜まる。

 クラエスは否定したけれど、未だにアニエスという女性のことは気掛かりだし、二人の婚約を喜んでいる人がいると思うと胸がざわつく。


(嫌だ……。絶対嫌だ)


 彼の優しさが他の人に向けられる。

 そんなこと考えたくない。

 狭量だと言われようとも、平民風情がと罵られようとも。

 彼が好きだ。誰にも渡したくない。

 そうだ。

 どうしようもないくらいに、彼が好きだ。

 いつから?

 分からない。頬が熱く火照って、熱に浮かされたみたいに頭がぼんやりする。

 ほんの数歩離れた場所にクラエスがいると思うと、狂ってしまいそうな程心臓が早鐘を打つ。今まで彼に掛けられた言葉や優しさの一つ一つが記憶の水面に浮かんできて、いくつものさざなみを立てた。

 同時に、釦の掛け違えを直したりだとか髪を耳に掛けてあげたりだとか、自分の距離を無視した行為を思い出して、リルレットは耳まで真っ赤になった。


「リルレット」

「はい!」


 自分でもびっくりするくらい大きな声が出たが、呼びかけた方はもっと驚いた。

 翡翠の瞳がきょとんとしている。

 なんだこいつと思われたに違いない。

 リルレットは情けないほど項垂れた。


「……帰ろうか」

「……はい」


 微妙な距離を開けて歩く二人の後ろを、これもまた気まずそうな雰囲気のイフリータとイシエが付いてゆく。

 河は荷を積んだ舟が占拠して通れないため、歩いて帰る他ない。

 辺りはすっかり暗くなり、騎士団の灯した灯火を過ぎると、城門の篝火までは足元すら危うい状況だった。野次馬の数はだいぶ少なくなっていたが、それでもまだ大勢が残っている。

 クラエスはリルレットとはぐれてしまわないように手を差し出そうとしたが、彼女の両手がぎゅっと胸の前で合わさっているのを見ると、諦めて前を向いた。

 冷たい北風に吹かれながら、二人は喉の奥に言い出せないものを抱えていた。




 街灯があるとはいえ薄暗い石畳の道を、二人は無言で歩き続ける。

 とめどなく流れる水路の水音が、沈黙を埋めるように聞こえてくる。寒いせいか、通りはいつもより人が少ない。太陽が沈んだ後であっても、仕事帰りや早くも酔っ払った人たちの姿が見られるものなのに。

 けれど、酒場の前を通りかかったときには陽気な笑い声や歌声が通りに漏れ聞こえた。

 人は、いるところにはいるのだ。


 クラエスは喉の渇きを感じた。が、水分を欲しているわけではない。

 緊張のせいだ。

 リルレットは少し遅れて付いてくる。軽い足音が一定の速度で石畳を鳴らし、時折開いた距離を埋めるために小走りになる。クラエスは歩くスピードを落とした。するとリルレットは、横並びにならないよう気をつけて足を運ぶ。

 道は広いのだし隣に並んでもいいじゃないかと内心歯痒く思いつつ、口に出せない自分の臆病さに二重にもどかしさが募る。


『あなたって意外と奥手だったのねぇ』

「うるさい、放っといてくれ」


 自信なさげに反抗すると、イフリータはくすくすと笑いながら宙に消えた。

 彼女といいロルフといい、人が恋に悩む姿を見て楽しんでいるような節がある。もしレイカにまで知られたらどうなることやら。三人で大連立を組まれたら、こちらは立ち向かう手段がない。

 いっそのこと、思い切ってリルレットに想いを伝えてみるか。駄目だとしても、彼女なら邸を去っていくことはないだろう。多少は、ぎこちなくなるかもしれないが。

 けれど、断られて自分は耐えられるのだろうか?

 ふと足を止めてみる。釣られて立ち止まったリルレットが、不思議そうにクラエスを見やった。


「どうかしました?」


 それには答えず、闇の向こうの彼女をじっと見つめる。


 睨むんじゃないぞ。暗けりゃいいんじゃないか?

 顔真っ赤にして見つめ返してくるから。


 悪友の声が耳の奥に木霊する。

 彼の助言に反して、リルレットは俯いてしまった。

 失敗だ。


「なんでもない……」


 クラエスは肩を落として、再び歩き出した。口の中で友人への呪詛を呟きながら。



 今のは何だったんだろう。

 無言での直視に耐えられず、羞恥心からつい顔を伏せてしまった。

 暗がりだから、真っ赤に茹で上がった顔には気付かれなかったと思う。酒場の手前や真ん前だったら、中から漏れる光でバレてしまったことだろう。リルレットは自分の幸運に感謝した。

 どきどきしっ放しの胸を押さえながら、前を行く男の背中を見つめる。そうしている間にも、網膜に焼き付いた顔の造詣や目の色、何もかもが脳裏に蘇る。


(なんて綺麗な人なんだろう)


 男性に綺麗と言っていいのかは分からないが、他に形容のしようがない。世の中には女性のような顔の男性もいると聞くが、そういうのとも違う。例えるなら芸術品のような、約束された美しさだ。

 一つ一つの動作に軽やかさと重みが調和していて、堂々とした気風を感じる。本人は意識していないらしく、全てが自然だ。見ている方は圧倒される。見惚れないようにするのが困難なほどに。


 彼への気持ちに気付かない振りをしていたのは、再び恋に破れて傷つくことを恐れたからだろうか。自分のことで精一杯の田舎娘が、貴族の彼と釣り合うとは到底思えない。それこそ宰相の娘の方が相応しい。そう思うと、リルレットは胸が張り裂けそうになった。

 だけど、これ以上気持ちに蓋をし続けるのは、彼に見惚れないようにするよりもずっと難しい。

 リルレットはクラエスの背中を見つめながら、苦しい思いを噛み締めた。

 苦しくて息が詰まりそうだけど、二人の間を阻むもののない今は幸せだ。北風が吹いて寒いはずなのに、むしろ身体は火照っている。


 彼は私の何だろう。

 私は彼の何だろう。

 何かでありたい。

 でも単なる雇用主と使用人じゃ嫌だ。

 ――なんて我儘なんだ。我ながら呆れてしまう。想いに気付いたばかりだというのに。

 今はただの始まり。これからだ。これから。


 夜の暗さが、彼女の背中を後押しした。

 思い切って距離をつめると、クラエスの隣にぴたりと並ぶ。

 驚く彼に視線を合わせて、リルレットはにこりとはにかんだ。どういうわけか口に手を当てて顔を逸らされてしまったが、緊張のせいか気にならない。

 すぅっと深く息を吸う。

 冷たくい指先をぎゅっと握り、口を開く。


「この前、プロポーズされたんです」


 言葉は案外するりと出た。相変わらず胸はドキドキして、今にも飛び出そうだったが、迷いはない。

 隣のクラエスが大きく身動ぎするのが分かった。反応があって少し嬉しくなる。何もないよりはマシだ。たとえ、純粋な驚きであっても。


「幼馴染なんですけど、彼には一回振られてて……そのくせ何なんだって腹立ったり、悩んだりもして、クラエス様にも迷惑かけてしまいました。ごめんなさい」

「…………」


 返答がないので、そろりとクラエスの顔を窺うと、なんとなく落ち着きがないように感じられた。彼はリルレットの視線に気付くと、気まずそうな顔をした。


「……結論は?」

「断ります。さっき、決めました」

「そう」


 ほっと息を吐く。


「クラエス様には、もっと早く相談しようと思ってたんです。レイカさんも話した方がいいって言うし」

「レイカが?」

「はい。自分より適任だって。その意味がよく分かりました。さすがですね、レイカさんは」


 彼女が、リルレットに芽生えた想いに気付いていたのかは分からない。けれど、結果的に彼女の言葉は正しかったと思う。

 レイカの名に眉をひそめていたクラエスは、ますます首を傾げた。それを見たリルレットはくすくすと笑う。クラエスは理由を目で問うたが、意地悪そうな光を目に潜ませた少女は軽やかに首を横に振った。


「駄目、秘密です」

「なぜ?」

「今は言えません」

「じゃあ、いつか聞かせてもらえるのかな」

「ええ、いつか」

「約束だ」


 リルレットは少し驚いたように目を瞠った。胸の中に、じわりと喜びが広がっていく。

 単なる邸の主と使用人の関係に、横の繋がりが増えたことが嬉しかった。クラエスと心が通っているような気がした。

 それを直に確かめようとするかのように、リルレットは自分の胸に手を置いた。

 水の街の夜は、少しだけ暖かかった。

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