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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第三章
26/69

水の竜

 その日は風が強かった。強風に煽られた火の手は竜の吐く炎のように燃え広がり、粗末な家々を飲み込んでいった。その勢いを止められる者などなく、炎に気付いた王都の住人はただ見ていることしかできない。


「ねぇ、おかあさん。かべのむこうは、どうなってるの?」

「駄目よ、あっちへ行っては駄目」


 炎上しているのは、城壁の外の貧民街だった。高い壁に守られた人々は、実際に炎を見たのではなく、そこから立ちのぼる不吉な黒煙を見上げていただけだ。


 川下へ向かう舟の上で、リルレットは自分の手をぎゅっと握り締めた。目の前をはらはらと煤が舞う。イシエの鼻の上に一片が落ち、彼はくしゅんと小さなくしゃみをした。

 城門の上から兵士が何か叫んでいるが、騒ぎが大きすぎるせいか、兵士全体の動きは鈍い。ロルフの予想したとおり、消火活動は未だ始まっていないようだ。

 リルレットは不安を隠せず、隣に座るクラエスを見上げた。


「大丈夫でしょうか……」

「何を以って大丈夫とするかだ」


 正直な回答に、リルレットは俯いた。

 冬を前にして家に失うことは、死に等しい問題だ。しかも、火事に遭っている人たちには他に頼れる場所がない。家が焼けたからといって、誰かが補償してくれるわけでもない。


 やがて、船着場とスラム街が見えてきた。二つは河を挟んだ両側にある。

 街の向こう岸では、荷の積み上げが慌しく行われていた。あまりの勢いの強さに、荷に火が燃え移ることを恐れたのだ。火事の勢いたるや、岸にも上がれないほどだ。


「あの人たちは何をしているんですか?」

「荷を守ろうとしているのさ。彼らにとっては、あれが命綱だからね」

「でも、街の人たちが……」


 リルレットは言葉を飲み込んだ。何人もの人たちが、粗末な服を纏ったまま冷たい河に飛び込んでいるのを見たのだ。中には荷揚げ中の舟に取り付く者もいて、邪魔をするなと怒鳴られていた。

 皆必死だった。

 スラム街の反対側は城門河岸と呼ばれ、各地から舟で運ばれてきた荷や人の休憩場にもなっている。そこで働く者にとっては、火を消すことよりも荷を守ることの方が重要なのだ。救難や消火活動は別の組織に任せていた。しかし、スラム街は一応王都の外ということで街の警備隊は動きたがらない。まともな活動は期待できないのだった。

 水の街というだけあり水は豊富なグランリジェだが、運ぶ者がいなければ窪みを流れているだけ。そしてその運び手は、今は自分の命を守ることで精一杯だった。

 二人を乗せた舟は城門から先へは進めずに止まった。そこへ、赤い光を帯びたイフリータが現れて主に報告する。


『クラエス、火の元は街の真ん中辺りよ』

「分かった」


 水面に手を翳せば、船頭が何事かと聞きたげな表情で窺う。リルレットは固唾を呑んで見守った。


『水の中の人を巻き込まないようにね』

「分かっているよ」


 夕闇が漂い始める中、クラエスは静かに呼吸を整える。

 唐突に、川面がちゃぷんと音を立てて水の粒を飛ばした。魚が跳ねたと勘違いする程度の音だ。

 しかし次の瞬間、巨大な水球が水の中から飛び出し、空中で歪な様相を露わにした。

 周囲にどよめきが広がる。見物人の中には、魔物が現れたと勘違いする者たちも出た。

 リルレットは激しく揺れる舟のへりに捕まって空を見上げ、目を瞠った。


 ――竜だ。


「竜だな……」


 心の声に被さるようにして聞こえた声に振り返れば、クラエスも同じように驚いて空を見上げている。


「クラエス様がやったんじゃないんですか?」

「あんな形になるとは思わなかった。なぜだろう」


 と、早速思案顔。水竜が研究者魂に火をつけたらしい。もう何も聞こえていないだろう。

 リルレットは小さくため息を吐くと、もう一度顔を上に向けた。


 竜、水の竜。伝説や御伽噺の中でしかお目にかかれない代物。

 ジェール河から生まれたに相応しい長く雄々しい肢体を持ったそれは、瞬く間に天へ登ったかと思うと、大量の水滴となって地上に降り注いだ。

 街全体に広がりつつあった炎を、激しい水の礫が打ち据える。しかもそれらはスラムだけを狙い撃ちし、対岸の火の手が及んでいない城門河岸や城壁の中へは一切及ばなかった。

 いつしか空は雨雲を呼び、水滴は雨粒へと変わっていった。


 大勢の人が、火事が小さくなっていく様を呆気にとられて見つめていた。火の粉から積荷を守ろうとしていた船頭たちも、住む家を失って逃げてきた人たちも、大事件に集まった野次馬も、これほど早く事が片付くとは思ってもいなかった。

 リルレットもその一人だ。

 火事の一報を聞いたロルフは、すぐさま行動に移した。現場がスラムで、警備隊の腰が重いだろうことを考慮し、代わりに最も使えそうな魔術師の友人を半ば命じるようにして動かし、自分は救難に必要な資材や人材を集めに騎士団へ戻った。

 まず火を消さなくてはならないのではないか――リルレットが感じた疑問は、今解けた。ロルフは魔術師一人で何とかなることを知っていたのだ。


(魔術ってこんなにすごいんだ)


 クラエスに会うまで本物の魔術を見たことがなかったリルレットだが、それは単に自分が田舎から来たからだと思っていた。よく考えてみれば、王都に住み着いてからの二年間で出会った魔術師はクラエスとユイの二人だけ。しかも一方は雇い主でもう一方はその上司とくれば、魔術師の希少さが分かるというものだ。

 なのでリルレットは、「すごいのは魔術」だと勘違いをした。天候を変えるほどの魔術師など、国全体を見ても一人か二人くらいしかいないとは露にも思わなかった。


 呆気にとられる人々を余所に、煤で汚れた水がどんどん河へ流れ込んでいく。

 家は、半数近くが焼け落ちてしまった。残りの半数も全くの無傷は二、三十軒程度だ。最初から火の勢いが強かったために、民家に取り残された者も大勢いるだろう。建物は無計画に建てられ、粗末な造りで崩れやすい。更に袋小路があちこちにあるので、避難が順調だとは到底思えない悲惨な有様だった。


「上がろうか、リルレット」


 クラエスはそう言って、一人で陸に飛び移った。

 河は上流も下流も舟だらけで、身動きが取れない。しばらくは混乱が続きそうだ。


「ほら。手」


 リルレットは差し出された手をおずおずと取り、舟底を蹴った。

 何とはなしに城門の方を眺めると、人ごみがさっと割れた。その奥から、銀色の甲冑に身を包んだ騎士や大きな荷を積んだ馬、赤茶の外套を羽織った数人の男女が現れた。その中にはロルフの姿もある。

 彼は目敏く二人の姿を見つけると、表情を和らげて一つ頷いてみせた。後はオレたちに任せろ、の意味だ。

 友の好意をありがたく受け取ることにして、クラエスはまだぼうっとしているリルレットの肩をぽん、と叩いた。

 正直、助かった。普段行うような小さな魔術と違い、天候を狂わせる大魔術は体力の消耗が激しい。


「帰ろうか。邪魔にならないように」


 新たに現れた一団の先頭に立っていた大男が、何かを叫んだ。それに応えるようにして、騎士たちは焼け落ちた街へ迷うことなく走り出す。同時に、外套を着た集団は颯爽と荷を広げ始めた。統率の取れた、素早くも無駄のない動きだ。


「あのときと同じ」

「あのとき?」


 リルレットの呟きを聞き咎めたクラエスが問い返す。少女の瞳は、きらきらと輝いていた。小さな頬が、ほんのり赤く色づいている。


「昔、村が敗走兵に燃やされたことがあったんです。そのとき、騎士団が助けてくれて。とってもかっこよかったんです。ジーンが騎士に憧れるのも無理はないなあ」

「ジーン?」

「あっ」


 リルレットは、しまったというように口元を押さえて俯いた。視線が地面の上を彷徨っている。明らかに挙動不審だ。

 クラエスの胸がざわりと波立つ。


(騎士? ジーン?)


 今すぐ問い詰めたい衝動に駆られる。彼女が喉の奥に隠してしまったものを、意地でも引き摺りだしたくなる。

 反対に、なかったことにして帰ってしまいたくもあった。その方がいい。何も聞かなかった。何も見なかった。このまま邸に戻って、昨日までと同じ日々を取り戻すのだ。


 そう思うのに、目の前の少女が許してくれない。

 リルレットは何度か口を開きかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。

 何かを言おうとしているのだ。もしかするとそれは、この数日間彼女を悩ませていたことではないか。辛そうな顔は、階段の下で膝を抱えていた時と全く同じ表情だ。


「リル――」

「失礼しますが、もしやクラエス殿では?」


 クラエスは突然声のした方に顔を向けた。そこには上品な髭を生やした初老の男が立っていた。赤茶の外套は魔道士兵の証。騎士団と共に現れたうちの一人だ。


「そうですが」


 と、男性の顔に見覚えのないクラエスが怪訝げに答える。男性は口元を綻ばせ、親しげに両腕を広げた。


「ああ、やっぱり。失礼しました。私はデズモンド・リベトと申します。アルヴィド殿の兄弟弟子で、あなたのことは彼からよく聞いていました」

「アルヴィド様の」


 思わぬところから出た名前に驚き、思わず呟く。その名を他人の口から聞いたのは四年ぶりだ。ロルフもレイカも、彼の前では決して話題にしなかったから。


「ええ。新しい弟子を得たと大変な入れ込みようでしたから、いずれお会いしたいと思っていたのですが、故郷の妹が重病を患ってしまい、長らく王都を離れることになりましてねぇ」

「ああ、それは大変でしたね」

「ええ、ええ。ですが私は医療が専門でして、何とか妹を助けることができました。その後、王都に戻り軍隊入りしたのです」

「それはよかった」


 無難に受け答えしながら、クラエスは横目でリルレットを窺った。彼女は戸惑ったみたいに、クラエスとデズモンドの顔を見比べている。

 クラエスは彼女に、師の名前すら教えていないことを思い出した。知らないのは自分だけではない。お互い、まだ何も知らないに等しい。そう、彼女には何一つ話していない――。


「――んでしょうね。つい先日耳に入れたのですが」

「え?」


 考えに耽っていたクラエスは、思わず聞き返した。適当に相槌を打っていればよかったかと、一瞬後悔する。だがデズモンドは気にしていないようだ。彼は異様なくらいニコニコとして爆弾を落とした。


「ご婚約のことですよ。アニエス嬢との。大層お可愛らしい方だそうですから、きっとお似合いのご夫婦となられるでしょう」

「……は?」


 道を歩いていたら不敬罪で訴えられたような顔になった。

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