相談
「そうですね。体力に自信がおありなら、職人街でも十分やっていけると思いますわ。ですが、彼らの中には気難しい方が多いですよ。大丈夫ですか? アトキンズさん」
細面のすらりとした美人は、向かいに座る中年の男に微笑みかけた。男はだらりと目尻を下げて、情けない顔になっている。
「ええ、ええ。もう大丈夫! 心配イラナイ! 私こう見えても誰とでも仲良くなれちゃう性質でして、ええ」
調子の良い返答にレイカは苦笑するしかない。しかし嘘や見栄は感じなかったので、紹介状を発行することにしてその場は終わった。
四日振りの晴れの日。レイカが勤務する仕事斡旋所はいつもより人が多い。今日は朝からひっきりなしに人が押し寄せた。ただ仕事を紹介するだけでなく、中には人生相談や家庭の愚痴などを喋りたいだけ喋っていく人もいるので大変だ。もちろん仕事に関係のない愚痴は丁重にお断りするのだが、その分の時間を他の人に充てることはできなくなる。とはいえ、わざわざ斡旋所を使って仕事を探す中には様々な事情を抱える人がいるので、無視できないことも多い。先程の男性は外国からの旅人で、旅費を稼ぎたいとのことだった。
最後の客を送り返した後、レイカは大きく伸びをして、痺れの残る肩や指を揉み解した。周りを見回せば、他の職員も似たり寄ったりだ。
レイカと同年代くらいの青年がにこにこと声をかけてきた。
「レイカさん、帰り一杯どうですか?」
「遠慮しておくわ。下心が透けて見えるもの」
「ちぇー。ばれちゃったか」
話しかけたのと同じくらいの淡白さで、青年は他の女性職員に同じ誘いをしに行った。その女性職員と視線を交わして笑う。いつもの光景だ。
帰り支度を済ませて席を立ったと同時に、先に帰ったはずの職員が声をかけてきた。用があって戻ってきたようだ。
「レイカさん。お知り合いだっていう子が外に来てますよ」
レイカは眉をひそめた。脳裏を掠めたのは、一、二ヶ月ほど前まで頻繁に顔を見せていた少女だ。
まさか、また解雇されたのだろうかと不安が過ぎる。しかし、それなら業務中に入ってくるはずだ。外で待つということは個人的に会いに来たのだろう。
少しだけ安堵すると、レイカは教えてくれた同僚に礼を告げて外に出た。
街の白い壁が、夕日に照らされて燃えるような色に染まっている。いつもならこの光景を見て一日の終わりを実感するところだが、レイカはまず待ち人の姿を見つけた。探すというほどではない。彼女は入り口のすぐ横にいたからだ。心持ち俯くようにして立っている彼女を見たとき、喉まで出かかっていた声がつっかえた。
すぐ傍にいるのに、リルレットはレイカに気付いていない。俯いて地面を見つめているその姿は、彼女に似つかわしくなかった。
レイカは小さく息を吸い、つとめて明るい声を出した。
「久しぶり、リルレット。終わるまでわざわざ待っていてくれたの?」
「レイカさん」
顔を上げたリルレットは、不安気な表情を少し和らげた。思いつめているわけではなさそうだ、とレイカは一先ず安心する。
「時間ある? あたしお腹ぺこぺこなの。一緒にご飯食べましょ」
リルレットは微笑んで頷いた。
レイカの馴染みの食堂は、夕方になると毎日人で満席になる。二人分の席を何とか確保したレイカは、年若い店員に適当な料理を注文すると、活気に溢れた店内を見て目をまん丸にするリルレットに笑いかけた。
「この店はいつもこんな感じよ。誰も隣の席の話なんて聞いてないし聞こえないから、思う存分楽しみましょ」
レイカの言うとおり、客は皆自分たちの会話と手元に全力を注いでいて、他のことにはまるで頓着していない様子だった。うるさいのは店員も客も慣れっこだ。自分と同い年くらいの給仕がテーブルの合間を器用に縫って進むのを見て、リルレットは尊敬の眼差しを送った。
料理はすぐに運ばれてきた。注文が入ってから作るのではなく、並行していくつかの料理を大量に作りながら注文を待つというアバウトな方法だ。だが、この店にとっては無駄のないやり方に思えた。
「ほら、早く食べないと次が来ちゃうわよ」
「ほ、ほれ、あふいでふっ」
「何言ってるのかちょっと分からない」
相手が抵抗できないのを良いことに、口の中をはふはふさせるリルレットの皿に次々と料理を載せていく。
他愛ない会話をしたり、合間にリルレットをからかったり、出てきた料理にこっそり点数をつけたりして、二人は屈託なく笑った。こんな風に友人と時を過ごすことは最近は滅多にないため、どちらかというとレイカの方が楽しんでいた。
酒が入ると、更に席は盛り上がった。といっても、盛り上がっているのは一名のみ。リルレットが酒を飲めない年齢であることを考えるとレイカしかいない。
目元を赤く染め、ごきゅごきゅと音を立てて豪快に流し込んでいる。オロオロするリルレットを余所に、四方八方から野次まで飛んでくる始末だ。
「おお、美人の姉ちゃん。いい飲みっぷりだねぇ!」
「ふは、ふはは、これくらい、ふぃーねりぜの魔女とよわれたあらしにかかれば、ろうってことないわよっ。おらおらぁ、どんどんこーい! ひっく」
「こいつは負けちゃいられねえっ。こっちにもマロ蛇酒三本追加!」
「こっちは五本だ!」
「じゃああらしはじゅっぽん……」
「もう止めてくださいレイカさんー!」
その場の空気に釣られて追加注文しようとするレイカにしがみ付いて、必死に止めるリルレットだった。
レイカは完全に酔っ払ってはいるものの、酔い潰れる気配はまるでない。最初の一杯で顔を赤くした彼女を見て、彼女なら大丈夫だろうと軽く見積もったのは大誤算だった。
(そろそろ連れ出した方がいいかも……)
そう思って、勘定を支払おうとしたときだ。
いつの間にかレイカが隣に座っていて、頬をぴったりくっ付けてきた。反射的に離れようとしても、がっしりと首に腕を廻されて動けない。
「ねえ、リルレットぉ? あんた、何か悩みがあるんじゃないの?」
「くっさ! お酒くさ!」
「言いなさいな、ほらぁ」
は~と息を吹きかけられ、頭がくらくらする。酒を飲んだことはないが、飲める年になっても飲まない方が良さそうだ。
レイカはリルレットにべったりくっ付いたまま、琥珀色のマロ蛇酒をグラスになみなみ注いだ。
「レイカさん、そろそろ止した方がいいんじゃ……」
「だーいじょうぶらって。ほんと、これくらい。そんなことより、あんたの話よ。何か話があってあたしんとこに来たんでしょーが」
所々呂律の怪しいレイカだが、まともな思考力は残っているようだ。相談に乗ってもらおうと来たのは事実だし、酔っ払いでもレイカはレイカと、リルレットは腹を括った。
「実は……」
室内の喧騒の合間を縫うように、ぽつりぽつりと話し始める。ジーンと恋仲だったところから始まり、ある日突然恋が終わったこと、彼のことを忘れるため、自分の生き方を見つけるために王都に出てきたこと。そして最近になって彼と再会してしまったこと。
レイカは時折相槌を打ちながら聞いていたが、そのうち恐ろしいくらい静かになって俯いてしまった。眠ってしまったのだろうかと肩に触れようとすると、突然レイカが怒号を上げた。
「なあによ、それえ!? その男、勝手すぎるじゃらいのよお! そもそもあんたが振ったんでしょーがあっ! ざけんなってーのッ」
「ちょっ、レイカさん!?」
椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がると、レイカはばしばしと机を殴った。リルレットは少しずつ窪んでいく店の備品を見守ることしかできない。それでもレイカの怒りは止まらなかった。
「あんたのことだから、全部自分のせいにしてるんじゃないの? いい? あんたは何っも悪くない。悪いのは全部ジーンって男。はい決まり、決定可決! 大体ねぇ、おかしいと思いなさいよ。四年前っつったらあんた、えーと、何歳? え、十二? やだ若い……ってちがーうっ。十代の五歳差っつったら、結構なもんでしょうがっ。十二歳! まだ子供じゃないのっ」
「でも、うちの村じゃ結構普通でしたよ? 少なくとも、十四歳の頃にはそういう話も珍しくなくなります」
レイカはびしぃっと人差し指をリルレットの鼻先に突きつけた。
「そういう問題じゃないのっ。そんな早さで人生決めるなんて、大馬鹿よ、ばかばかっ。あたしなんか、婚期逃す覚悟で働いてるんだからね!」
「ご、ごめんなさい」
「謝らないでよー、なんだか悲しくなってくるじゃないっ」
そう叫んで顔面を両手で覆う彼女が本当に泣いているのかどうかはともかくとして、レイカの言うことも尤もだとリルレットは思った。
四年前の自分は、見ている世界が狭かった。自分と家族と友人とジーン、村の皆で世界の全てが構成されていた。代わり映えのしない退屈な毎日に満足していたのだ。だから自分の相手はジーンしかいないと信じ込んで、それ以外の可能性なんて思いつきもしなかった。ジーンが切り出した別れは、幸か不幸かリルレットの思い違いを正してくれた。実際に村を離れ、色んな体験を経た今なら、あれは意味のある別れだったと確信をもって言える。
「私はジーンを責めたいわけじゃなくて……」
橋の上で再会した彼が、四年前から逞しく成長した彼が、リルレットにとってどういう存在なのか。それが知りたくて、レイカのところへ来たのだ。
何も彼女に全てを決めてもらおうというのではない。レイカから見たリルレットがジーンのことをどう思っているのか、二年間ずっと見守ってきてくれた彼女なら何か言ってくれるのではないかと期待して、藁にも縋る思いで来たのだ。
四年前のあの日、ジーンが悲しい思いで村を去って行ったのは、誰が何と言おうと自分のせいだとリルレットは思っている。だから、もう二度と彼に不誠実な答えは返したくなかった。
「私、自分のことなのに分からないんです。ジーンのこと真剣に考えようって思ったら、何かこう、何かが邪魔をして……胸がそわそわして落ち着かないんです。それで、ジーンのこと考えられなくて」
「…………」
「こんな気持ち、初めてなんです。夜も眠られなくて。せっかくレイカさんに紹介してもらったお仕事も、手がつかないことがあったり……そんなの、ダメですよね。どうしよう。私また役立たずになっちゃう……」
邸を追い出されるのかと思うと、じわりと涙が滲んだ。零れるか零れないかのギリギリの線を保って揺れる光を、レイカは鋭い目で見つめる。その目はもう酔っ払ってなどいない。
酒に濡れた赤い唇が開き、静かな一言を放った。
「今のお仕事、好き?」
リルレットははっとしてレイカを見やる。年上の恩人は、とても温かい眼差しをしていた。リルレットを通して他のものを見通しているような顔つきだった。不意に、彼女とクラエスが幼馴染だと言ったシンシアの言葉を思い出す。レイカは自分の向こうに幼馴染を見ているのだ。
「はい。とても好きです。クラエス様のお手伝いをすることが、私の幸せです」
それだけは、迷いなく断ずることができた。
王都で自分の生き方を見つけるという目的が、いつの間にかあの家で働くことに変わっている。リルレットはそのことに気付いてすらいない。
同じように、ジーンの返事に悩んでいたはずが、当たり前のように仕事をクビになるかもしれない心配に摩り替わっている。それ自体が答えのようなものだ。
「ふっ。く、くくく……っ」
「れ、レイカさん?」
急に俯いて肩を震わせ始めたレイカに、リルレットは大いに戸惑った。酔っ払いすぎて最後の一線が切れてしまったのか。
「ぐ、ごめんな、さい、リル……あたし、あたし」
「もしかして気持ち悪いですか? 吐きそうですか?」
「ちが、そうじゃなくて」
「え。じゃあ何だろう?」
かくんと首を傾げる。その頭を、突然レイカが両手で抱えた。
「嬉しいのよう、あたしは! あなたが自分の居場所を見つけてくれて。本当に本当に嬉しいの!」
「ひあっ。い、痛いです、レイカさんっ」
「離さないわよー。気が済むまではっ。店員さーん! マロ蛇酒一本追加ー!」
「ちょ、レイカさん! 私まだ話がっ」
最後まで言い終えることはできなかった。一層強く抱きしめられたせいだ。恥ずかしさと息苦しさでリルレットは顔が真っ赤になった。それでもレイカは離そうとしない。
その日の酒盛りは、本当にレイカの気が済むまで続くことになった。
***
「ジーンへの返事は、あなたがよく考えて決めなさい。私が口を挟めることじゃないわ。その代わり、一つアドバイスしてあげる」
「アドバイス?」
外食の帰り、別れの間際にレイカが言い出したことはリルレットに希望を与えた。しかし、その希望はすぐに意味の分からないものとなる。
「そ。リルレットが今日あたしに相談したかったことを、クラエスにも聞いてみなさい」
「クラエス様に……? それで答えが分かるんですか?」
リルレットは首を傾げた。なぜ彼の名前が出てきたのかも分からないし、レイカに出せない答えが他の誰かに出せるとも思えなかった。
しかしレイカは余裕たっぷりに笑う。
「分かるかもしれないし、分からないかもしれないわ。言ったでしょ、あなたがよく考えて決めなさいって。ただ、あたしよりクラエスの方が適任なことは確かよ。保証する」
レイカに保証されては文句は言えない。リルレットはわけが分からないながらも頷くしかなかった。そんな彼女を満足そうに眺め、レイカは上機嫌に鼻歌など歌いながら去っていった。
リルレットはとても歌う気になどなれない。ハンメルト邸へ帰る道すがら、レイカの言った意味を必死で考えた。しかし、考えても考えても混乱は深まるばかりで、分かったのはジーンへの返事ほど心を乱す事柄ではないということだけだ。
(とにかく、レイカさんの言ったとおりにしてみよう)
帰ったらすぐに実行に移そうと決意した。
しかし、邸が近付くにつれてリルレットの足取りは重くなる。喉が酷く渇く上に、心なしか動悸もするようだ。
(どうしよう……緊張する。なんて話せばいいんだろう、ジーンのこと)
レイカに話したのと同じ内容を繰り返すだけでいい。頭では分かっているのだが、何となく気が進まない。まるで親に悪戯したことを自己申告するような気分だ。
一度緊張してしまうと、リルレットの身体は言うことを聞かなくなる。動かなければと思うほどに、筋肉が強張る。
少しだけ休憩、と言い聞かせ、リルレットはその場に蹲った。ハンメルト邸の明かりはもうすぐそこに見えている。
辺りはすっかり暗くなり、人通りは全くない。リルレットに気付く者は一人もいない――はずだった。
「がうっ」
聞き慣れた狼の鳴き声に顔をあげる。ハンメルト邸の門が開き、一匹の小柄な獣が飛び出してくる。
リルレットは目を瞠った。
「イシエ……それに、クラエス様?」
小さく名を呼ぶと、彼は薄明かりの下で微笑んだ。月が蒼く照らし、まるで幻想の絵の中にいるかのようだ。けれど幻なんかではない。門を開いたのは彼だった。いつまで経っても帰らないリルレットを心配して、扉の外で待っていたのだ。
「おかえり、リルレット」
呼ばれても答えずに、しばらく呆然とその場に蹲っていた。
反応のなさを訝しんだクラエスが、首を傾げながら門の外に出る。
リルレットは空色の大きな瞳を更に見開いて、酸素に喘ぐように何度か口をぱくぱくさせた。
「クラエス様が……外に出てる!」
「俺はどういう目で見られてるんだろうね」
クラエスは自嘲気味に笑うと、おもむろにリルレットの傍へ歩み寄ってきた。しゃがみこんだままだったことに気が付いて慌てて立ち上がると、ふわりと肩に温かいものが被せられる。クラエスが大切にしている外套だった。
「寒いだろう。頬っぺたが真っ赤だ」
「あ……気が付きませんでした」
いわれてみれば、頬が凍るように冷たい。手や足もかじかんでいた。そういうクラエスはシャツ一枚で寒くないのかと見上げると、思ったよりも近くにいたので、リルレットはびっくりして思わず俯いてしまった。
「どうかした?」
「なっ、なんでもないです。これ、ありがとうございます」
外套の前を掻き合わせて礼を告げると、彼は嬉しそうに微笑んだ。それをまともに見ることができなくて、またもや顔を逸らしてしまった。
(うぅ、とてもじゃないけど、ジーンのこと言い出せない……)
クラエスに背を押されるがまま歩き出したリルレットには、レイカの助言を実行に移すだけの勇気がない。
「ほら、中に入ろう」
その言葉には辛うじて頷き返すことができた。
明日だ。明日の朝、相談してみよう。
逃避の言葉を胸中で繰り返しながら、現実の温かさに縋ろうとした。




