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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第三章
22/69

苦悩のはじまり

 翌日は朝から雨が降っていた。しとしとといった儚げな降り方ではなく、いきなりの土砂降りである。

 リルレットは、自室でジーンからの手紙を読んでいた。彼女の足元では、暇を持て余したイシエが机の脚を齧っている。小さいながらも鋭い牙が、ガリガリと木を削っていく。

 突然、便箋を持っていた手が震え始めた。両手を握り締めた拍子に便箋の上部が破れ、リルレットは我に返った。


「嘘でしょ」


 もう一度手紙を読み始める。一行目から、最後の行まで一字一句逃さずに。瞬きも忘れるほど見開かれた目が左右に動いて、数分後にぴたりと止まった。


「なんで!?」


 がたん、と音を鳴らして立ち上がる。イシエの口の中で脚がぽっきりと折れ、狼は目を瞬かせた。

 リルレットは蒼褪めた顔で手紙が出された日付を見た。

 二年前の夏。彼女が王都へ旅立つ一ヶ月程前だ。

 二度愕然とし、リルレットはその場にぺたんと座り込んでしまった。もはや立ち上がる気力もない。

 手紙には、こう書かれてあった。


『将来が見えてきた今ならリルレットを迎える覚悟がある。いつか王都で一緒に暮らさないか』


 ***


 その日は、朝から雨が降っていた――といっても外に出ないクラエスには殆ど関係なく、聞こえてくる雨音は集中力をあげるための丁度よい小道具でしかない。

 雨が降ろうと風が吹こうと、邸の中は快適だ。魔石によって常に一定の温度と湿度に保たれている上に、ゆっくりと人に感じさせない程度に空気が流れているのだ。魔術師に何年も稼動するような魔石を作らせるには、それなりに金が掛かるので、こういった魔石は貴族の家にもそうそうない。自分で作れば人件費も掛からないというわけだ。魔術師の特権である。


 そういえば今日はリルレットの姿を見ていないなと、クラエスは文字を目で追いながら思った。いつもならバタバタと慌しい足音が聞こえてくるのに、それもない。部屋で縫い物でもしているのだろうか。

 一度気になりだすと止まらなくなった。文字が、分解された椅子みたいに意味のない羅列と化す。

 クラエスは席を立った。


 少しの間意識を集中させると、真っ直ぐ資料室へ向かった。そこにイシエの魔力を感じたからだ。彼らはいつも一緒にいるから、そこにリルレットもいるだろうと思った。

 案の定、彼女は資料室で黙々とハタキを振っていた。彼女の身長では書棚の上まで届かないので、椅子を踏み台代わりにしている。

 クラエスが入っていくと、まずイシエが気付いて一声鳴いた。その声でリルレットも気付く。

 彼女の顔を見たクラエスはぎょっとした。


「……どうかした?」

「別に、なんでもありません」


 リルレットはむすっとして答えた。

 なんでもないことはないだろうと反論しかけるが、彼女の気迫に押されて言葉を詰まらせてしまう。

 ぷくっと膨れた頬、への字に曲げた口、一睡もしていないような暗い目。これが不機嫌でなければ何を不機嫌というのだ。


「リルレット?」


 重ねて声を掛けると、彼女は申し訳なさそうな顔で椅子から降りた。


「ごめんなさい、クラエス様。生意気でした」

「いや。それはいいんだけど」

「よくないです!」


 突然大きな声を出したので、クラエスは驚いて返す言葉を失った。見ればリルレットは顔を青くし、ハタキを握る手を小刻みに震わせている。心配する気持ちから思わず手を伸ばしかけたのを、リルレットの声が遮った。


「本当にごめんなさいっ。わ、私、頭冷やしてきますっ」


 手をするりと擦り抜けてゆく彼女を、クラエスは見送ることしかできなかった。背後で閉まるドアの音を聞きながら、イシエと目が合う。取り残された者同士、通じるものでもできたみたいに暫く見詰め合っていた。そのせいか、イシエが何かを訴えているような目をしていることに気がついた。

 小さく溜息を落として、クラエスは部屋を出る。必要ないかもしれないが、イシエが出てこられるように少しドアを開いたままにしておく。

 狼が出てくる気配はなかった。



 邸の中であれば、探す場所は少ない。まず一階から回ってみることにして階段を降りてゆく。近いのは居間に続く階段だ。一段一段降りながら、クラエスは昨日のリルレットの様子を思い出していた。

 外から帰るなり不思議な質問をして、逃げるように部屋へ戻っていったリルレット。様子がおかしいといえばおかしかったが、どちらかというと機嫌は良いように思えた。ただ、彼女が無事に帰ってきたことに安心して気が抜けていたので、確かとはいえない。


 イフリータに聞けばもう少し詳しいことを思い出すかもしれないが、最近やたらとリルレットのことで絡んでくる彼女に尋ねるのは癪だった。頬っぺたが柔らかいだの小さくて抱き心地が良いだの、喧嘩を吹っかけているようにしか思えないのだ。もちろん、クラエスの内心を察しての悪戯心だろう。

 思い出したら腹が立ってきた。絶対イフリータには頼るまいと決意する。


 階段を降りきったクラエスは、歓談用の卓子やソファが並んだ居間を眺めながら腕を組んだ。その一画が、ロルフが勝手にやってきて勝手に酒を飲んでいく以外に使われた記憶はない。


 リルレットは何を悩んでいるのだろうか。少々の困難は明るさで跳ね除けてしまうような娘だ。思いつめた顔をするからには、余程辛いことがあったのだろう。

 問題は、彼女がそれを話してくれるかどうかだった。たとえば異性には話しにくいことかもしれないし、そもそも他人に言いづらい内容かもしれない。


 一番怖いのは、打ち明けてくれるだけの信用が自分にない場合だった。

 自信はあまりない。全く信用されていないとは思わないが、相談するに相応しい相手は他にいる気がする。そう思うと、途端に胸が締め付けられるような息苦しさを感じる。

 反射的にシャツの一番上の釦に手をやるが、もともと掛かっていないものは外せない。行き場のなくなった手で髪をくしゃくしゃと掻き回して、クラエスはひとけのない一階に背を向けた。

 そして、ぎくっと身体を強張らせた。

 階段横の、行き止まりになった通路に蹲るリルレットを見つけたのだ。ただでさえ小柄な身体を更に縮こませて、頭上に暗雲でもかかっているかのような暗い雰囲気を漂わせていた。


「どうした、リルレット?」


 そこで初めてクラエスの存在に気付いたみたいに、リルレットの肩が震える。おそるおそるあげた顔は、まだ少し蒼褪めていた。


「何か嫌なことでもあった?」


 言いながら、ゆっくりと近付く。排他的な気配は彼を見た途端に引っ込んだが、不安そうな陰りは消えていない。まるで白百合の蕾のような未熟さが、堪らなく愛おしく感じられた。

 クラエスの問いに、リルレットはふるふると頭を振った。嘘だ。彼女のことをよく知らない者でも分かるであろう嘘に、少しだけ胸が軋む。


「話せないようなことかな?」


 意識して「俺には」を省略した。自分ではなくても他の誰かになら話せるかもしれないことを、認めたくなかったのかもしれない。たとえ彼が認めなくても、彼女の気持ちは変わらないというのに。

 リルレットは答えない。ただ頭を振り続けている。その頬が、先程と違って僅かに紅潮していた。


「何でもないんです。何ていうこと、ないんです。少しびっくりしただけ……すぐ落ち着きます、だから……大丈夫です」

「……本当に?」

「本当です」


 そう言って、リルレットは笑顔を作った。無理をしているのが見え見えで、返って話を聞き出しづらくなる。気付かずに不満な顔をしていたのか、リルレットは慌てて言葉を付け加えた。


「強いて言えば、ちょっとムカついちゃって! それで悲しくなって……ごめんなさい。迷惑ですよね?」

「そんなことはない。ただ、少し心配しただけだよ」

「え?」


 その場にしゃがみ、意味が分からずきょとんとする彼女に目線を合わせる。


「キミでも怒ることがあるんだと思ってね」

「そ、そんなの当たり前ですっ。私だって、腹の立つことはいっぱいあります」

「俺に対しても?」

「そんな、恐れ多い!」


 間髪入れぬ否定にクラエスは苦笑いする。


「できれば、意に沿わないことがあるなら俺にも遠慮なく言ってほしいな」

「でも……」

「お願いだよ、リルレット」


 真摯な顔で見つめられると、リルレットは暫し魂の抜けたような顔をした。はっとして我に返ると、自分の膝に視線を落とし、小さく頷く。

 クラエスは満足げに微笑み、右手を彼女の頬に伸ばした。目の下あたりをぐいぐい拭って離すと、シャツの袖に黒い汚れが付いていた。掃除の際に顔を汚したのだろう。

 びっくりするリルレットにもう一度微笑みかけ、クラエスは立ち上がった。

 話を聞きだすのは自分では無理だということが分かった。だったら、安心して話せる相手に任せるしかない。たとえば、レイカのような大人の女に。

 明日、晴れたら少し休みをあげよう。その間に何をするかはリルレットの自由だ。そんなことしかしてやれない自分に、クラエスはもどかしさを感じた。



 クラエスが去った後も、リルレットは暫く通路の隅に蹲っていた。発熱を疑うほど顔が赤い。しかし、頭の中は意外と冷静だった。クラエスと会話していたおかげかもしれない。腹立つやら悲しいやらで混乱していたのが、彼と話をしている間は落ち着いていた。だが、その効果もそろそろ切れそうだ。


「ああもー、信じられないっ!」


 リルレットは叫んで、熱い頬を両手で挟んだ。

 浮いたり沈んだり、彼女の心は忙しい。

 それもこれも、全てジーンのせいだ。彼が手紙に書いていた内容が原因だった。


 手紙の中で、ジーンは後悔していた。勝手に別れを切り出したことを。いつか一人前の騎士になり、迎えに行けるまで待っていてくれと言えなかったことを。彼の申し開きによれば、迎えに行く意志がないわけではなかったらしい。ただ、まだ子供の彼女にそれを強いる覚悟がなかったのだ。


 最初は混乱した。その後、ああそうかと思った。ジーンはまだ自分を好きでいてくれるんだと、嬉しい気持ちになったりなんかもした。

 けれど、再び手紙を読み返す内に――リルレットが同じ街にいるとは知らないジーンは、王都の良さを次々に並べ立てていた――浮かれた気持ちが急に萎んでしまって、空虚感に包まれた。


 水が綺麗なことも、街がきちんと整理されて住み心地が良いことも、物が豊かなことも、全部リルレットが知っていることだ。確かに二年前は何も知らなかった。そのときなら、彼女は目を輝かせてジーンの賛辞に心を開いただろう。

 だけど時間は過ぎてしまった。リルレットが手紙を鞄の底に眠らせている間に。ジーンに対して申し訳ない気持ちで一杯になった。

 全部自分が悪い。手紙を読もうとしなかったことも、ジーンについて村を離れる覚悟を決められなかったことも、あれもこれもそれも全部。


 ……本当に?

 一年前だろうが二年前だろうが、ジーンがリルレットを振った事実は変わらない。まだ若いから待っていてくれと言うべきだったなどと今更後悔するくらいなら、自分への想いなんかキッパリサッパリ忘れてほしい。自分はそう思って王都にやってきたのだから。


「それこそ……本当なの?」


 リルレットは震える声で呟いた。

 ジーンのことを本当に忘れようと思っていたなら、王都行きなんて選ばなかったはずだ。未練があったからこそ、村を出る決意をしたのではなかったか。


 ジーンは返事を待っていると言っていた。

 分からない。

 難しい問いではないはずだ。彼女が彼を好いているかどうか、それだけ答えればよいのだから。

 なのに、分からない。

 好きか嫌いかと聞かれたら勿論好きだが、そういう問題ではないような気がする。

 リルレットは焦った。焦るほどに頭の中がこんがらがって、額に汗が滲んできた。


 一度切れた糸の端が、今、手元にある。

 拾うべきか、捨てるべきか。

 彼女が決めなければならない。


「どうしよう。どうしよう……?」


 決められない。分からない。

 彼女の心を表すかのように、雨はその後三日間降り続いた。

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