おとうと
魔術研究局に初めて顔を出して、二週間が経った。主は相変わらずの引き篭もりっぷりで、「いい天気だから外に出ましょうよ」といくら誘っても応じない。
むしろ天気の話題は危険だと悟った。なぜなら、晴れだろうが雨だろうが、リルレットが天候に言及すると姑みたく不機嫌になるからだ。話はしてくれなくなるし不要な外壁の掃除は命じられるしで、良いことなど一つもない。
なので、「クラエスを寝室で休ませる」に続く第二の目標、「クラエスを外出させる」は未だ達成できずにいる。
そんなわけで独り寂しく庭の雑草を抜いていると、イフリータが言伝を携えてきた。
『なんだかね、急な来客があるらしくって、リルレットには夕方まで外で時間を潰してほしいんですって』
リルレットはぱちくりと目を瞬かせる。
「私がいちゃいけないような用件なんですか?」
『というか、あなたの存在を知られたくないんだと思うわよ』
「そう、なんだ」
ふと、二週間前の王城での記憶が蘇った。あれから城の近くを通ることはなく、イクセルにも顔を合わせていない。向こうも、わざわざリルレットに会いに来ようとはしないようだ。やはり彼女を連れ去ろうとしたのは単なる気まぐれで、意味のない行動だったのだろう。
もしクラエスがあの出来事のことを知っていたら、リルレットをイクセルに合わせたくないと思うだろうか。
(さすがに自意識過剰かな)
あまり深く考えることはせず、リルレットはクラエスの言伝を了承して邸を出た。
「さて、問題はどうやって夕方まで過ごすか、ね」
イシエを連れて街に出たはいいものの、暇を潰す場所など思いつかない。カフェに入っても限界はあるだろうし、特に買い物の用もない。若者が遊ぶ場所などひとつも知らないし、知っていたとしても怖気づいて近付くこともできないだろう。
(レイカさんは仕事だろうし。困ったなぁ、どうしよう)
悲しいことに、他に親しい知り合いはない。働くので精一杯で、交友関係を広げることなんて全く頭になかったのだ。
強いてあげるなら、レイカの他にはロルフくらいか。しかし彼は騎士だし、休みは使用人よりも少ない。
(騎士か……。あいつ、どうしてるかな)
四年前、自分の下を去っていった男を思い浮かべる。いや、そうではなく、自分が彼から離れたのか。どちらにしろ、もう二度と彼との未来を描くことはないのだと確信している。悲しくないといえば嘘になるが、寂しさはとうの昔に薄れ、今ではもう昔馴染みの一人でしかない。
確か、彼は今年で二十一歳。もう見習いは卒業できただろうか。入団が遅かったとはいえ、剣術修行は何年も前から積んでいた。片田舎での修行が都会でどれだけの成果に繋がるかは分からないが、全くの無意味ではなかったはずだ。
騎士団の階級は、上から正騎士、準騎士、従騎士と続く。その下が見習いで、騎士の内に数えない。貴族は試験の後に準騎士または従騎士となるが、平民は例外なく見習いから下積み時代が始まり、最高でも準騎士にしかなれない。それ以前に、剣術の腕はもちろん、馬術、槍術などの武芸、肉体だけでなく精神的にも優れたものでなければ、騎士とは認められないのだから、準騎士になるのだって難関中の難関である。
慣習的に、準騎士となるのは大体二十歳から二十五歳くらいだ。そう考えれば、二十一歳のジーンはまだまだこれからと言えるかもしれない。
村にいたときに貰った手紙は、まだ封を開けていない。一方の彼はもちろん実家とのやり取りを続けているはずなので、リルレットが王都に来ていることは人づてに知っているだろう。
「手紙……あ、そうだ。すっかり忘れてた」
立ち止まると、足元にじゃれ付いていたイシエが勢いづいて転んだ。
リルレットが思い出したのは、自分の親宛の手紙のことだった。ハンメルト邸で使用人として働き始めてから、まだ一度も連絡を取っていない。向こうから手紙が届くことは稀なので、両親はまだ娘が宿屋に寝泊りしていると思っているはずだ。近況報告と一緒に仕送りも包まなくてはならない。
転んだことが分からず、きょろきょろと頭を振り回しているイシエを抱きかかえると、リルレットはくるりと反転した。
(便箋、買いに行こう。インクも無かったっけね、確か)
いつも利用している雑貨屋は橋を渡った向こうの区画だ。可愛い便箋がいくつも置いてあって、いつか全種制覇しようと目論んでいるのである。
リルレットは意気揚々と歩き出した。
***
『久しぶりに会って話がしたい』
昨日、弟がそう連絡を入れてきた。
突然のことだ。クラエスが別邸に閉じこもる生活を始めて以来、兄弟とは四年間も繋がりがなかったのだ。そんなものは断ち切るのがお互いのためと、むしろ進んで縁を切ろうとしていたくらいなのに、今更何の話があるというのか。
「嫌な予感がするな」
『どっか行ったことにしちゃう?』
「俺がここから出ないのは向こうも知ってるだろうから無駄だよ」
イフリータの提案は魅力的だったが、現実的に考えると蹴らざるを得ない。彼らを嫌っているのはイフリータも同じなので、彼女は不満そうだった。
彼女にはスピネルに変化するという逃げ道があるのだが、嫌いな人間の顔を見るより、契約主を兄弟と一人で対峙させる方が気に食わないようだ。
義理堅い性格は魔人らしくはないが、彼女らしい。
『お茶淹れる?』
「いいね。とびきり熱いのを淹れてあげよう」
『熱くて不味いヤツね! リルレットが淹れるとあんなに美味しくなるのに、どうしてあなたのは苦いのかしら?』
「さあねぇ」
冗談を言い合っているうちに、時は刻一刻と過ぎていく。時計はないが、大体の時刻は分かる。丁度昼を過ぎた頃だろう。
リルレットは今頃何をしているだろうか。
彼女に暇を出したのは兄弟に会わせたくないためもあるが、毎日働きづめでろくに休暇のない彼女に、羽休めをしてもらうためでもあった。夕方まで帰らないように言ってあるので、兄弟と鉢合わせることもないだろう。
リルレットを見ていると、どうも休むという概念すら彼女にはないのではないかと思えてくる。農業や酪農には休日というものがないため、彼女が休みの使い方を知らなくても不思議ではないのだが。
そういうクラエスとて、リルレットと似たようなものだ。
彼には最初から魔術しかなかった。魔術師をやっているのも、それしかないからだ。今更他のことに時間を使えといわれても困る。
ぼんやりと魔道書に目を通している内に、彼がやってきた。
イフリータは彼には見えない霊体となって、クラエスの背後に控えている。相手から見ると一対一の構図だ。
「やあ、久しぶり。クラエス」
クラエスより二歳年下のリネーは、兄のことを名で呼んだ。兄とは認めていない、という意思表示だろうか。弟の意外な可愛らしさに、クラエスは思わず微笑む。
リネーは蜂蜜色の髪に青い目の、イクセルによく似た顔立ちだった。ただ、雰囲気はまるで違う。次男のような品の無さは影すら見えず、目つきも鋭いというより理知的だ。
芝居がかった仕草で書斎を見回す彼は、さっそく食わせ者の片鱗を見せ付けている。
「別邸には初めて入ったけど、結構明るいね。あれは魔術で照らしてるの?」
クラエスは頷いた。同じ魔術師であるリネーなら、聞かなくても分かることだ。
氷細工のような顔が、用件を早く言えと伝えている。それを素早く読み取ったリネーは大仰に肩を竦めてみせた。
「冷たいなぁ。四年ぶりに再会した弟だよ? 他愛無い会話くらい、してくれたっていいじゃない」
「他愛ない会話など望んでいないくせに、よく言うよ」
嘆息交じりの台詞に、リネーはにこりと笑みを返した。リネーもイクセルも、どちらかと言えば母親似だ。儚げな少女のような容貌をしていた彼女のことは、正直よく覚えていない。身体の弱かった彼女は、逝くのも早かった。
「用件は?」
「ここ、新しい使用人を雇ったんだってね。無愛想なクラエスの使用人にしては、長く続いてるらしいじゃないか」
クラエスの眉がぴくりと跳ねた。その反応を見て、楽しそうに口の端を上げるリネー。
「兄さんに聞いたんだよ。この前、偶然会ったんだって……」
こちらの知りたいことを目敏く察知し、尋ねられる前に情報を小出しにしていく。
『相変わらず、相手を苛立たせるのが上手い人間ね』
馬鹿にするようなイフリータの声がクラエスの耳にだけ届いた。
魔人の声を聞き流しながら、クラエスはリネーの思惑を探る。
リネーの言う《兄》は二人いる。長男のエリックと次男のイクセルだ。エリックは問題ない。人を蔑みはしても、蔑まれることには慣れていない小心者だ。同じことはイクセルにも言えるが、激情家の次男は扱いが難しい。反面、計算高い一面を併せ持つ。クラエスを疎んでいる点も二人の、いや三人の共通点だ。
もしイクセルがリルレットに会ったのだとしたら、クラエスの嫌がらせとして、一言二言、彼女を傷つけるようなことを言ったかもしれない。実際に怪我をさせる場合だって有り得る。
(怪我……?)
クラエスの脳裏に、二週間前の出来事がフラッシュバックのように蘇った。
肘と足に血を滲ませて帰ってきたリルレット。彼女は怪我をした本当の理由を頑として言わなかった。イクセルに会い、彼がクラエスの兄だということを知ったのだとしたら――。
目の色を変えたクラエスを、リネーは面白がるように見つめた。
クラエスと同じ思考に至ったイフリータが食いつくように叫ぶ。
『この男、燃やしてやるわ!』
色めき立つ魔人を咄嗟に魔力で抑え込む。単純な魔力の強さは魔人の方が遥かに上だが、契約による力関係は逆転する。契約主に抑えられると、イフリータは身動き一つ取れなくなる。悔しそうに歯軋りする気配を背後に感じながら、クラエスは冷静さを取り戻していった。
(リネーは馬鹿じゃない。単なる嫌がらせのために、家名に泥を塗るような行為は許さないはずだ)
クラエスとリネーら兄弟には、利害のために対立する理由は一切ない。全ては終わったことのため、不気味な余韻のように反目し合っているに過ぎないのだ。むしろ、彼らにしてみればクラエスを上手く利用した方が益になる。こちらを苛立たせる言動も、主導権を握りたいのと嫌悪感とが半々だろう。
クラエスは背凭れに背中を預け、リネーから身体を背けた。
「用件は?」
「あれ、使用人の話はしたくない?」
「お前と話をしたくない。お前の兄さんのくだらない醜聞なら、聞いてやってもいいけどね」
あからさまな嫌味に、リネーの眉間に皺が寄った。
「つまらないなぁ。クラエスがそんなつまらないことを言うなんて」
「疲れてるんだよ。恥さらしの起こした騒動に付き合わされてね」
リネーはサッと顔色を変えた。それを横目に見ながら、彼にとって二番目の兄が未だに目の上の瘤であることを知る。邪魔者は何年経っても邪魔者であり続けるらしい。
やれやれと呑気に首を振るクラエスに気付いてか気付かないでか、リネーは乾いた笑い声を立てた。
「嫌だなぁ、何の話? 困ってるなら相談に乗るよ」
「そんなことより、用件を聞こう」
再三の冷たい問いかけに、リネーはぐっと言葉を詰まらせた。自分を見ようともしない兄の横顔に何を感じているのだろうか。笑顔を張り付かせていた顔は、今は怒りを露わにしている。だが、それ以外は厚い壁の向こうで、怒りすらも演技なのではないかと思えてくる。
しばらく沈黙が続いた。できることなら黙ったまま出て行ってもらいたい、立ち去りたいと双方が強く思ったことは確かだ。
だが、弟の方は勝敗のつかないまま引き下がることを良しとしなかった。
唇を笑みの形に持っていくと、ゆっくりとクラエスの視界に移動する。
「いい話を持ってきたんだ」
嫌な予感がした。リネーにとっていい話が、クラエスにとっても同じであるとは限らない。
「ねぇ、そろそろ身を固めるつもりはない? 義兄さん」
リネーが放った一言は、水面下でとはいえ、クラエスの神経を逆撫でするのに十分な効果を孕んでいた。