閑話 師が残したもの
「へぇ。上手いね。全然目立たない」
雇い主の偽りのない褒め言葉に、リルレットはそれまでの不安げな顔から一転、得意満面になった。
クラエスの手の中にあるのは、着古された一着の外套だ。彼の持ち物だが、擦り切れていたり解れている箇所があったので、リルレットの出来る範囲で修繕したのだ。満足いく出来栄えになるまで何日も掛かり、昨夜徹夜をしてやっと最後の仕上げを終えた。
外套をひっくり返したり光に掲げたりするクラエスを、リルレットは何かを期待するような目で見つめる。当の本人は、視線には気付かずに修繕の痕を指でなぞっている。痺れを切らしたリルレットが口を開くまでそうしていた。
「クラエス様、羽織ってみてください」
「別に寒くないよ?」
クラエスがきょとんとした顔で返すと、リルレットは口を尖らせた。
「いいじゃないですか、ちょっとだけ。ほら、ほら」
何かに憑かれたように急かす彼女に何を感じたのか、渋々といった体で外套を背に廻す。するとリルレットはきゃあと騒いだ。
「よく似合ってますよ、クラエス様!」
「前と変わらないんじゃないかな」
「それはそうですけど、一応褒めておこうかと」
「……あっそ」
クラエスは醒めた様子で外套を脱ぐと無造作に畳んだ。それを机に置き、リルレットが淹れた紅茶のカップを手に取る。入れ替わるように外套を取り上げたリルレットは、自分の上げた成果を満足げに広げる。
持ち主が言ったように、ちょっと目には修繕痕は分からない。以前の使用人の持ち物なのか、屋敷には針も糸も揃っていた。そのおかげで、外套に合う糸も難なく手に入った。生地がしっかりしていて縫うのに少々梃子摺ったが、睡眠時間を削った甲斐のある出来栄えだ。
「この外套、とっても大切にされてるんですね」
しみじみと呟く。言おうと思って放った一言ではなかったが、前々から感じていたことではあった。
彼なら外套など新しくて上質な物がいくらでも買えるだろうに、一つを擦り切れるまで使い古している。外へ行く用もないのに常に身近に置いてあるのは、この外套が特別で大切なものだからだ。
「もともとは師の持ち物なんだ」
「え?」
顔を上げると、クラエスと目が合った。彼は腕の中の物を指差して続けた。
「俺の師匠。物持ちのいい人で、その外套も二十年くらい前に作ったものらしい」
「へぇ」
道理で古いはずだ。ここまで長持ちするとは、余程丈夫に作られてあるのだろう。
「その方はどんな方だったんですか?」
「俺に魔術の扱い方を教えてくれた人で、命の恩人でもある」
「命の?」
心配そうに眉をひそめるリルレットを見て、クラエスは少し笑った。
「昔、無茶な力の使い方をして死にそうになったことがあって。その様があまりに酷かったのか、国一番の魔術師として名高かった師自ら指導してくれた。朝から晩までね」
「ああ、だから本がいっぱいなんですね」
資料室の、天井まで届こうかという本棚の群れを思い出しながら言う。
「あれらは後から持ち込んだものだ。一年間で二階にある量の半分くらいを暗記させられたよ。そのおかげで割と早く一人前になれたんだけどね」
それからクラエスは、魔術は通常、師について学ぶものなのだと教えてくれた。一人前の魔術師になるために掛かる期間は最低で五年、長ければ十年以上要する。彼は勉強を始めて四年後には独り立ちを許されたというから、人より優秀なのだろう。それだけではなく、先生の教え方も良かったのだろうと、リルレットは彼の話しぶりを見て信じるようになった。
「会ってみたいなぁ。クラエス様のお師匠様に」
「生きてたら是非そうしてほしかったけどね。師は四年前に亡くなったよ」
「あ……そ、そうなんですか。ごめんなさい」
クラエスは静かに首を振る。その様子からは寂しさや悲しみといった感情は感じられない。無理に押し隠している風でもなく、どちらかというと諦めてしまっているようだ。
たとえ世界で一番優秀な魔術師でも、死んだ人を生き返らせることは不可能だ。クラエス自身力のある魔術師だからこそ、余計に無力感が募るのかもしれない。
「お師匠様は、どうして――亡くなられたんですか?」
途中まで口にしてしまってから後悔した。けれど一度声に出したものを引っ込めることもできず、結局最後まで言ってしまう。不自然な間からリルレットの心情を読み取ったのか、クラエスは彼女を安心させるように微笑んだ。
「病気だよ。……大変だったな、あのときは」
一段と低い声で呟く彼の脳裏には、王国の軍団が同盟国アルセルドへ向けて出発する、前夜の出来事が蘇っていた。
***
(これから何が起こるのか……)
クラエスは目の前を歩くアルヴィド・バルテルス近衛魔道士長の黒い外套を見つめながら、御殿へ続く長い廊下を歩いていた。もうすぐ十九歳になる彼の顔には、若干の不安と緊張が見られる。それも無理のないことで、これから彼は国王夫妻と初めて対面しようというところだった。
無論国王の顔は知っている。毎年開かれている誕生祭には、王妃ともども特別編成された隊に護られ、馬車に乗って街を回るからだ。クラエス自身は人の多いところはあまり好きではないが、王の顔くらいお前も見ておけと師に言われて、連れ出されたことがあった。
だが、遠くから見るのと直接会って話をするのとは全然違う。無礼を働いて自分が咎められることは怖くないが、アルヴィドに迷惑が掛からないか、それだけが心配だった。
この時点で、何かやらかしてしまうことはクラエスの中で確定である。魔術にしか興味がなく、それ以外のことは全くと言っていいくらい学んでこなかった彼は、他人に対する接し方というものを殆ど知らない。恐らくこうだろうといった具合で無難な態度を演じてみても、目線一つで相手を怒らせたこともある程だ。彼にしてみれば不快にさせるつもりなど全くなかったのだが。
(どうやら俺は貴族には受けが悪いらしい)
その一言で納得してしまうクラエスだった。
例外は、アルヴィドとロルフとレイカ、準騎士のロルフ繋がりで知り合った騎士団の次男坊や三男坊たちくらいなものだ。イフリータは少し違うが、気の置けない友のような存在ではある。
国で一番の権力を持つ国王夫妻が彼らのように寛大であれば少々は気も抜けようが、少ない可能性に全ての期待を賭けるような博打は打てない。ゆえに緊張している。
アルヴィドはなぜこんな自分を陛下に合わせようとするのか、まったくもって不可解だった。
「お前も知っているとおり、明日はアルセルド王の要請を受けて軍団が出立する。陛下もお忙しい御身であまり時間が取れないが、逆に今が好機なのでな。無理を言って拝謁が叶った」
「そうですか」
クラエスの返事は素っ気無い。師が何をしようとしているのかも興味がない様子だ。弟子のそんな淡白な態度に、アルヴィドは怒るでもなく嘆息した。
「やれやれ。先が思いやられるな」
「関心がないのは俺にもどうしようもありません」
「それだけではないのだが……ま、お前がもって生まれた宿命か」
「意味が分かりません」
「だろうな」
アルヴィドは前触れもなく立ち止まり、振り返ると弟子の顔を見下ろした。この頃からクラエスは長身だったが、軍人でもあるアルヴィドは更に大きかった。昔は筋肉もついて騎士団の団長たちと比べても遜色のないほどだったが、流石に年には勝てないのか、最近は目に見えて衰えていた。だが、温厚そうな垂れ目と白い口髭には今の方が似合っている。
その目が真剣な光を点し、愛弟子を見つめていた。
「お前はこれから苦労することになるだろう」
「これまでも苦労はしてきました」
「これまで以上の苦しみだ。今までは、お前は一人ではなかった。私がいて、お前のことを分かってくれる友がいた。だが、これからは違う。お前は、かつて見たことのない場所へ行く。そこにはお前のことを受け入れてくれる人間がいるかもしれない。いないかもしれない。私としては、いることを願う。だが万一その願いが通じたとしても、これまで以上の重荷を背負うことに変わりはない」
アルヴィドはそこで一旦言葉を区切った。
「ま、お前なら難なく乗り越えるのかもしれんがな。お前は私が見てきた中で一番鈍い。ふふ、己に絡みつく羨望や嫉妬の糸も見えておらんと知ったときは、呆れてものも言えなかったぞ」
「羨望……? 俺は人に羨ましがられるようなものなど何も持っていませんが」
そう訝しむ弟子を、師は慈しむような顔で見つめる。まるで今までの出来事を全て振り返っているような遠い目をしていた。
「師匠?」
「もう私は師匠ではない」
アルヴィドはくるりと反転してクラエスに背を向けた。
いきなりとんでもないことを言われて目を丸くしたクラエスは、慌てて彼の後を追う。
「どういう意味ですか?」
「お前はもう一人前だという意味だ」
「同じ台詞は五年前にも聞きました。本当はどうなのですか」
「慌てずとも近い内に分かるだろうよ」
「師匠!」
その後何度問い質しても、アルヴィドは決して口を割ろうとはしなかった。
クラエスは何としてでも今知りたい。彼にとって、アルヴィドが師でなくなるということは、見捨てられるに等しいことだ。他の誰に蔑まれても、彼にだけは同じことをしてほしくなかった。
自分は何かを間違えたのか。かつて見たことのない場所とは何処か。
急に、未だ感じたことのない不安が彼を襲った。しかし、弟子の蒼褪めた顔を見てもアルヴィドは何も言わない。アルヴィドは全てを分かっている。分かった上で突き放そうとしている。
クラエスは考え込んで、歩幅が変わったことにも気付かなかった。
ふと顔をあげると、御殿を護る近衛騎士二人の前にアルヴィドがいた。立ち止まり、クラエスを待ってくれている。そのことに安堵した彼は、少し駆け足になって近寄ろうとした。
その目に、信じられないものが飛び込んでくる。
アルヴィドの大きな身体がゆっくりと前に傾ぐ。一瞬だけ赤いものが見えたのは、後で気のせいではないと分かった。
鈍い音を立てて膝をつき、磨かれた床の上にどうっと倒れこむ。
アルヴィドは、身体を一度痙攣させた後は、人形のようにぴくりともしなかった。
クラエスは思わず足を止めてその光景を見ていた。傍にいた近衛騎士ですら、突然の出来事に反応できずにいた。
ようやく師が倒れたのだと理解し、走り出した。
アルヴィドの傍らに跪き、何度も何度も名前を呼ぶ。身体を揺すって起こそうとしたが、近衛の一人に止められた。もう一人の騎士は、御殿へ医者を呼びに走った。その間もクラエスは師匠の名を呼び続けた。反応のない、抜け殻のような身体に向かって。
点々と咲いた赤い花が、まるで天上の花の如く、艶かしく咲いていた。
御殿の一室に運ばれたアルヴィドは、その夜の内に息を引き取った。その場には国王夫妻も居たが、クラエスの記憶は曖昧だ。言葉を交わしたような気もするし、一言も口を開かなかったような気もする。
一つだけ言えるのは、あの日、アルヴィドが彼にどんな重荷を背負わせようとしていたのか、永遠に分からなくなったこと。それを知っている人も、答えてくれる人もいなかった。
重荷を背負う不安から逃れられた――などという安堵感は微塵もなかった。師が命じることならば、たとえ激痛が伴うことでも、なんだって受け入れるつもりだった。
最も尊敬する人がこの世からいなくなってしまったことが、世界の終わりのように感じられた。
***
「ふぅ」
「お疲れですか?」
嘆息を疲れと勘違いしたリルレットが尋ねてくる。空色の大きな瞳は、何でも申し付けてくださいと言っているようだ。実際彼女はいつでもそういう気構えで、ちゃんと休んでいるのか心配になるくらいだった。
「大丈夫。少し考え事をしていただけだ」
「無理はなさらないでくださいね。もしクラエス様が倒れちゃったりしたら、私運べませんから」
一瞬、息が詰まる。脳裏に血を吐いてぐったりとした恩師の姿が浮かんだ。
「あ、でもイフリータさんに頼めばいいですね。力持ちですもん。この前なんか私がいくら引っ張っても抜けなかった雑草、根っこごと引っこ抜いちゃったんですよ。片手で」
そう言って笑うリルレットに救われるような心地がした。
「でも、無理はしないのが一番ですよ。考え事がお仕事なのは分かりますけど、ちゃんと栄養摂って程ほどに休憩も挟むんですよ」
「まるで母親みたいだね」
「心配してるって意味では、同じですよ」
どことなく誇らしげに言うリルレット。何が彼女をそうさせるのかは全く分からないが、嬉しそうなのでよしとする。彼女のそんな表情を見るのはとても楽しいし飽きない。
自分の他にも知っている人間がいるのかと思うと、悔しさに似た感情が込み上げる。
手放したくない。いつまでも独占していたい。けれど彼女から離れたがるようなことがあれば、彼はそれを受け入れざるを得ない。ずっと傍にいてほしいと思うと同時に、大切なものを繋ぎとめておきたくない気持ちも混在しているのだ。
自分の手の中には何もないと信じることで、いずれ来る別離の悲しみを和らげたい――そんな心理が自分からも透けて見え、沈鬱な気分になる。
しかし、それを吹き飛ばしてくれるのもリルレットの笑顔だった。彼女は怖気づくことなくクラエスの顔を覗き込んだ。
「ほらー、またムズカシイ顔してますよ。眉間に皺寄せる代わりに女の人が寄り付かなくなっちゃっても知りませんからね」
「いいよ」
即答が思いがけなかったのか、リルレットはきょとんとする。そんな彼女も可愛らしく、自然とクラエスも微笑んでいた。
「いいよ。今のままで」
逃れたくても逃れられないものがある。だったら、せめて捕まる瞬間までは永遠というものを信じてみたい。それが彼の僅かな望みだった。




