上手な嘘、下手な嘘
なんでだ。
何がどうなっている?
宙に浮かんだ身体は、一定のリズムで揺れている。心臓の鼓動が大音量で響いて五月蝿い。なのに妙に心地よくて、困っているはずなのにずっとこうしていたいような気もする。
なんでだ。
疑問がぐるぐると頭の中を回っていた。
(なんで私、クラエス様に抱っこされてんの?)
間近にある整った顔にどぎまぎしながら、リルレットは必死に頭を働かせようとする。
なぜこうなったのか。どこで何を間違ったのか――。
屋敷に帰ってきて真っ先に考えたことは、イクセルに突き飛ばされたときにできた傷を誰にも見せないようにすることだった。そのためには、服を着替えるのが手っ取り早い。そう思ってこっそり自分の部屋に戻ろうとしたのだが、門を開けるなり飛びついてきたイシエとイフリータに見つかってしまう。そのままズルズルと書斎に引き立てられてから暫くは、リルレットが懸念したとおりの展開となった。
すなわち詰問タイム。
「えっとですね、この怪我は、ちょっと転んじゃってできたわけです、はい」
『目を泳がせながら言っても説得力ないわ、リルレット』
「ほ、本当は人にぶつかって、その弾みで転んじゃったんです」
「だったら最初からそう言えばいいじゃないか。どうしてわざわざ嘘をつく?」
『……怪しい』
二人にジト目で睨まれたリルレットは、ぎゅーっと目を瞑って無言の圧力に耐えた。
どこまで話せば、ロルフとの約束を守ることになるだろうか。まずイクセルの名は伏せて、ロルフに会ったことも内緒にしておく。突然放しかけられたのは事実だから、後は城の中ではなく外で突き飛ばされたことにする。相手のことは知らない、必死に逃げたから顔も覚えていないで通せば騙せるだろう。
でも、なんだか虚しい。上手な嘘の吐き方とは、こういうことなのだろうか。
ロルフとの約束は破れない。けれど、そうするとクラエスに嘘を吐いてしまうことになる。嘘の代償は胸の痛みだ。怪我の痛みなんて比じゃないくらいの激痛で、胸が張り裂けそうになる。
目に涙が溢れた。二人を裏切りたくなくて、その狭間で押し潰されそうだった。どうしてこうなることが分からなかったのだろう? 秘密を守ろうとすれば嘘を吐かなくてはならなくことくらい、簡単に想像がつくだろうに。
ふと頬に温もりを感じて目を開くと、クラエスが心配そうに見上げていた。主人に膝をつかせていると分かった途端、涙は引っ込む。しかし彼はリルレットから手を離さなかった。
「他に怪我をしたところは?」
「ひ、膝を、少し」
「歩いて帰ったのかい?」
王城からは船が出ている。それに乗らなかったのかと聞かれていた。
リルレットはこくんと頷き、慌てて言い訳をした。
「でも、別に痛くないし、大丈夫ですから」
それも嘘だった。傷は深くないが、歩くたびにズキズキと無視できない痛みを感じていた。ただ、田舎にいたときはこの程度の怪我は日常茶飯事だった。彼女にとっては痛いうちに入らないのだ。
クラエスは不機嫌そうに眉根を寄せている。リルレットは、自分が嘘を吐いたからだと思い落ち込んだ。その表情がまた彼を誤解させる。
「やはり痛むんじゃないか」
「え?」
ふわり、と身体が浮いたかと思うと、次の瞬間にはクラエスの顔がすぐ近くにあった。鼻先が触れるくらい近かったのは一瞬だけ。あまりに突然のことだったので理解が追いつかないでいると、彼はごく自然にリルレットを横抱きにしたまま歩き始めた。イシエを抱っこしたイフリータがひらひらと手を振るのが、彼の肩越しに見えた。
あっという間に書斎を出ると、玄関前を通って二階へ。いつもと違う歩幅や視線の高さに戸惑う余裕もない。部屋に運ばれているのだということが分かったときには、耳まで真っ赤になっていた。
「お、おろっ、おろろっ」
「なんだって?」
「降ろしてくださいっ。この格好っ、とととっても恥ずかしいです!」
「じたばたしてると靴が脱げるよ」
「ではなくて!」
――この人、絶対分かっててやってる!
笑顔の裏に意地の悪い胸中を読み取り、リルレットは歯痒さに身悶えた。
そうこう言っている内に屋根裏部屋だ。運ばれている間、なんとかクラエスの手から逃れようと身体を捩ったりしていたが、場所が場所だけにあまり大きく動けないのと、ガッシリ肩を掴まれているのとで、部屋に着く頃には既に諦め半分になっていた。
クラエスはリルレットを抱いたまま片手で器用にドアノブを廻し、中へ入る。
「女性の部屋ですよっ。勝手に入るのは紳士として如何なものかと思います!」
「俺は紳士とは程遠いし、入られて困るなら鍵を掛けて出て行くべきだったね」
「わっ」
落とされた先はベッドの端だった。出て行ったときと何一つ変わらない部屋なのに、貴公子然としたクラエスがいるだけで相対的にみすぼらしさが上がる。女性の部屋とは言ったものの、女の子らしい持ち物は前から持っていた衣服数着しかない。呆れられるんじゃないかと不安になるリルレットを余所に、クラエスは肘の怪我を魔術で癒すと、次に膝を治療してしまった。
「血のついた服は洗うしかないね。すまない」
「そんな、謝られることなんて一つもないです。心配してくれて、ありがとうございました」
部屋まで運んでくれたのも、心配あってのことだろう。度が過ぎているような気がしないでもないが、彼の気遣いには本当に頭が下がる。
人にぶつかって転んだなどと信じていないのは、クラエスの顔を見れば明らかだ。しかし、彼は本当の理由についてもう二度と触れようとはしなかった。リルレットが思わず浮かべた涙を見てからだ。
(どうしてこんなに優しいんだろう)
ユイに言われたからではない。前から漠然と感じていたことが、はっきりとした輪郭を伴っただけだ。ユイの問いかけはきっかけでしかない。
クラエスの態度が変わった理由は、状況とタイミングを考えれば大凡の見当はつく。
(たぶん、私……だよね。でも、なんで?)
《なぜ》は一つでは終わらない。次から次へと、飢えを満たすように、際限なく求めてしまう。
それはきっと、どうでもいいことではないからだ。
優しさの理由を知りたい。人が優しさを向ける相手は決まっているのだとユイは示した。ユイの想定内にはクラエスがいた。婉曲的な言い方で、彼に関する何かをリルレットに伝えたがっていたのだとしたら――あのとき直前まで彼の話をしていたのだから、十分有り得ることだ。
深く考えようとすると身体が震えた。奥底に怯えのようなものが奔った。
「今日はもう休んでいいよ。疲れただろう」
上から降ってきたクラエスの声にどきっとする。人の前だというのにぼ頭がお留守になっていた自分を彼はどう思っただろうか。礼儀を知らない奴だと怒っているかもしれない。汚名を挽回しようと、リルレットは慌てて立ち上がる。
「大丈夫です。これくらい、疲れたうちには入りませんよっ。山育ち、舐めないでください」
「ここに来てからずっと慣れない生活なのに、休み一つ与えなかっただろう? これはお詫びだよ。今日ゆっくり休んで、明日からまた頑張ってくれたらいい」
「そんな……」
休み無しなんて慣れっこだ。でも、確かに以前の暮らしとは色々違って、戸惑うことも多かったかもしれない。
リルレットの迷いを感じ取ったのか、クラエスはぽんっと肩に手を置いて微笑んだ。
「じゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい――って、クラエス様!」
釣られて返事をしたときには、彼は部屋を出るところだった。
なんて素早い。いや、自分がぼんやりし過ぎなのか。
「あのっ」
呼び止めれば振り返る。そのことに妙に安心する。
「……忘れてました。ユイさんから、よろしく伝えるようにって」
「ああ、分かった。ありがとう」
今度こそ彼は出て行った。閉じられる扉と、その向こうに消えていく背中を呆然と見送り、ぽすん、とベッドに腰を落とす。
一人きりの部屋は静かだった。それまでの会話や恥ずかしさや申し訳なさ、諸々のものが胸を過ぎっては消えていく。代わりに残ったのは、包み込むような温かさ。
ありがとう。
その一言で、嫌なことが一気に吹き飛んでいった。
何をやっても上手くいかなくて、最後の頼みの綱とばかりにハンメルト邸の使用人となった。最初はどうなることかと思ったけれど、家主は噂に聞くような怖い人ではなかった。そればかりか、今まで数多の職場でクビを言い渡されたことが嘘だったみたいに、何から何まで絶好調だ。
ここに来てよかった。邸の主が彼でよかった。
鼻の奥がつんとして、透明の涙が一筋、綺麗な曲線を描いた。




