優しさの意味
突然の質問に、リルレットはきょとんとした。目を何度か瞬いて、問いの意味をゆっくりと考える。
「えと、その人が優しいから?」
「確かに、親切な人間は優しいといえるだろう。しかし優しさは誰しも持っているものだ。たとえば私の知る人間の話だが、妻や部下を物のように扱う強欲貴族が、自分の娘にだけは甘くなる。当然、娘の目には優しい父親に見えるだろう。彼は親切な人間かね」
「それは……」
親切だとは思いたくない。親切な人間は「誰にでも」親切であるという暗示が、知らず知らずのうちに掛かっているのだ。人を物のように扱いながら、一方で娘を可愛がるというのは、少々歪に思える。が、よくよく考えればおかしなことではないとも思う。人間らしい、と言うのだろうか。
「意地悪なことを訊いてしまったな。私の言いたいことはだね、人は好きな人間には優しくし、嫌いな人間には冷たくする。ただそれだけのことだ。親切は人を選ぶのだよ」
「で、でも、嫌いな人に親切にできる人もいると思います」
「ああ、そうだね」
あっさりと肯定されたことに少々驚きつつも、リルレットはほっとした。だが、ユイは全てを見透かすような目で彼女を見た後、言った。
「君は人を嫌いになったことがないのだね」
「…………」
答えられなかった。ユイの言う通りだったからだ。
田舎の人たちは皆優しかった。もちろん厳しさも優しさと同じくらいあったが、それは生きるためだった。小さな社会では、横の繋がりを強くすることが大事なのだ。故にその繋がりから逸脱した者は激しく非難されるし、酷い罰を受ける。幸いにしてリルレットのいた頃は大した事件もなく、平穏に過ごしていた。人間の汚い面を見なくて済んだということだ。
王都に出てきてからも、たくさんの親切にあずかってきた。その最たるものがレイカで、彼女がいなければとうの昔に村に逃げ帰っていたことだろう。反対に、自分をクビにした人たちに対しては逆恨みのようなものを抱くこともあった。しかしミスをしたのは自分で、彼らを恨む理由がないからと、すぐに逆恨みした自分を恥じた。
ユイは、リルレットが嫌いになるほど他人のことを見ていないとでも言いたいのだろうか。じっくり考えたことはないので、確かにそういう部分はあるかもしれない。だが、彼女は嗤っているのでも責めているのでもない。一般論を唱えているわけでもない。何かを伝えたがっているのだと、リルレットは感じた。
ユイはなぜ突然こんな話を始めたのだろう。その前はクラエスの話をしていたはずだった。
はっとする。ユイの伝えたいことは、彼のことなのではないだろうか。
(クラエス様は私に優しい……私にだけ優しい? どうして?)
思えば、彼の態度は少しずつ変わってきたような気がする。最初の頃は、リルレットが何をしていても我関せずといった態度だった。顔はいつも笑っていたけど、どこか遠くにあるような感じがしていた。雇用主と使用人という関係上、特に気にはならなかったが。
最近はちょっと違う。なんというか反応が自然になった。
それが良いのか悪いのかは分からないが、彼の中で何かが変わったのは明白だ。
どうして?
結局はそこに行き着く。
難しい顔のリルレットをじっと見守っていたユイは、彼女の思考を遮るように肩をぽんと叩いた。リルレットからすれば、いつの間にかユイが横に立っていた構図だ。そのときの驚きようと言ったらない。もう少しで悲鳴をあげそうなところだった。
「あまり考えすぎるのも良くないよ。けしかけた私が言えることではないがね」
その言葉に、リルレットはぎこちなく頷くことしかできなかった。
ユイは大きく手を叩き、場の雰囲気を一変させた。
「さて、本日の用件だが。君も聞いている通り、ハンメルトに渡したい、いや、返したい物があってね」
「返したい物?」
「そう。これだ」
と言うと、机の一画を示した。そこにあったのは、両手に載るサイズの小箱だった。クラエスの部屋にあった木箱を思い出したが、あれよりは見た目が凝っていて、蓋には小さな鍵もついている。おもちゃのようで可愛い。
「ちょっとやそっとでは壊れないが、万が一のこともあるので丁重に扱うように。こっちが鍵だ。なくさないようにポケットにでも入れて持って帰ってくれ」
「分かりました。中身はいったい何ですか?」
気になって尋ねてみると、ユイは悪戯っ子のようにニヤリと笑った。
「ハンメルトに訊いてみるといい。教えてくれるかどうかは分からんがな」
「じゃあ、そうします」
小箱は見た目に反して、ずしりと重たかった。上下がひっくり返らないよう両手で籠の底に置き、布を被せる。
先程の彼女との会話に釈然としないものが残っていたが、にこにこと笑うユイは一切の言及を許さないかのようだった。
「では、セイナードさん。私はこれで」
「ユイでいい。ハンメルトによろしくな」
「はい、ユイさん。必ずお伝えします」
リルレットは最後ににっこりと笑って、部屋を出ようとした。扉を閉めるとき、中から少し弾んだ声が聞こえた。
「また会おう、リルレット君」
そして扉は閉まった。
建物を出ると、少し冷たい風がリルレットの髪を揺らした。太陽が傾いたせいか、急に肌寒くなったようだ。
(季節の変わり目かな。まだ少し早いような気がするけど)
年に何度か、急に気温の下がる日がある。おそらく今日がその日なのだろう。
ちらりと城の方に目をやると、竜が描かれた国旗が目に入った。グラマニシエ渓谷とジェール河を創ったと伝えられる、シルフィルヴィという伝説の竜だ。建国の祖とも云われているが、記録が残っているわけではないらしい。あくまで伝説上の生き物だ。
その旗が激しくはためいているのを見ると、ぶるりと身体が震えた。ポールの先端の飾りが何とも寒々しく光っている。こちらの気持ちまで冷えてきそうだ。
(寒いのは苦手だな)
リルレットは足を速めた。籠が揺れて、中身がぶつかる音がする。ちょっとやそっとじゃ壊れないとユイは言っていたから、大丈夫だろう。
それよりも、何だか怖かった。風の冷たさとは違う悪寒が背筋を這っているような気がする。誰かにじっと見られているみたいで気持ち悪い。それが気のせいでないと分かったのは、門と研究局の中ほどに差し掛かったときだった。
「おい。そこのお前、ちょっと止まれ」
兵士だと思ったリルレットは、言われたとおりに立ち止まって声のした方を向いた。
男がいたのは目隠しに植えられた木の陰で、夕日を避けるようにして立っていた。着ている物で、彼が兵士でないことはすぐに分かった。明らかに貴族の格好だ。
年はクラエスより少し上くらいだろう。美形の部類だが、人を見下すような目がリルレットを竦ませる。
男はリルレットの行く手を遮るように移動した。なんとなく不快な感じがした。
「どういったご用件でしょうか」
「お前、あの屋敷の使用人なんだってな?」
リルレットの問いかけを無視して、男はぞんざいな口調で言い放った。
あの屋敷というのはハンメルト邸以外にない。他に誤解を受けるようなことをした覚えはないからだ。門番とのやりとりを聞いていたのかもしれない。
恐る恐る頷くと、男は一瞬憎憎しげに顔を歪めた。それから、見定めるような目つきでジロジロとリルレットを観察する。まるで舐めるような視線に怖気づいて、彼女は微塵も動けなかった。
やがて視線が絡み合い、男はにやりと笑ってこちらに近付いてきた。
「いい趣味してんじゃん、アイツも」
「そ、それはどういう……?」
「なぁ、俺の家に来いよ」
どういう意味かと聞こうとしたとき、男の声がそれを遮った。まるで相手の反応なんて関係ないというように。
言っている意味が分からずに尋ね返そうとすると、否応なしに手首を掴まれる。籠が地に落ち、小箱がぶつかる硬い音がした。はっとして小箱に気を取られた隙に、男はリルレットを引っ張ってどんどん歩いていく。
「あのっ、籠落としたので……は、離してくださいっ」
「放っておけよ、あんなもの。どうせクラエスのだろ?」
主の名を吐き捨てられたことにカっとして、リルレットは男の手を振り払った。相手が油断していたせいか、女の力でもあっさりと離れる。
唖然とする男を余所に、リルレットは籠に駆け寄って小箱の無事を確かめた。外見は傷一つ受けていないが、中身までは分からない。しかし、男の目の前で中身を改めるのは嫌だった。
それよりも早く逃げないと。こちらが嫌だといっても、簡単には聞き入れてくれそうにない。男が背後に近付いてきているのは分かっていたので、リルレットは研究局の方へ駆け出した。あそこなら人がいる。ただ、兵士に助けを求めたところで、貴族相手にリルレットの言葉をどこまで受け入れてもらえるかは分からない。あの傲慢そうな男なら、権力を楯にして無理矢理引っ張っていくなんてことも平気でしそうだ。だけど、親切にしてくれた兵士を信じてみるしかなかった。
(どうか、諦めてくれますようにっ)
貴族にしてみれば、リルレットなど平民の一人に過ぎない。わざわざ追わずにどこかへ立ち去ってくれることを願った。
しかし、男は予想以上にしつこかった。
突然背後から突き飛ばされたリルレットは、小さく悲鳴を上げて転んだ。膝と左肘に鋭い痛みが走る。じくじくと血が滲むのが衣服を通して伝わってきた。
「大人しくしてろよ……」
憤りから大きく呼吸をしつつ、男が詰め寄る。顔全体に怒りを滲ませ、抵抗すれば手をあげそうな雰囲気を漂わせている。
こんな怖い思いは初めてだった。初めて夜道を歩いたときですら、周囲の家に灯る明かりのおかげで安心できた。いざとなれば、その明かりのいずれかに頼ればよかったのだ。
しかし、見張りの兵士も見えないこんなところでは、リルレットを助けてくれる人は一人もいない。震えだしそうになるのを堪え、必死に抗った。
「わ、私に何の用ですか? 気に障ることをしたのなら謝ります。だから、これ以上近寄らないでくださいっ」
「じゃあ自主的に来るか?」
「行くわけないじゃないですかっ」
「だろ。だから、無理矢理連れ去るしかないんだよ」
男はにたにたと笑いながら、再びリルレットの細腕を掴んだ。
――今度こそダメだ。
覚悟を決めたというよりも男の顔を見たくなくて、目を瞑る。その直後、呻き声がして男が離れていく気配があった。