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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第二章
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ユイ・セイナード

 貴族の住む街、第一層区フィーネリゼ街。そこを超えた王城の敷地内に、魔術研究局の建物はある。リルレットも踏み込んだことのない、未知の領域だ。

 平民街とは趣の違う、言ってしまえば贅を尽くした絢爛な家々に感嘆の溜息を漏らしつつ、早く通り過ぎてしまおうと足を速めた。通り過ぎる人は皆上品な格好をしていて、場違いな自分が浮き彫りになる。

 着ているものは勿論、靴や髪飾りやアクセサリ等どれ一つとっても、自分には似合わないだろうなと思う。どんなに綺麗に着飾ったところで、リルレットは素朴な娘だ。それはそれである種の人たちに人気は出るかもしれないが、幼い頃から上流家庭の品格を養ってきた者たちと汗水流して働いてきた者の差異がある。

 華美な服を着て畑仕事や掃除はできない。だから、綺麗な衣装を羨ましいと思っても、即座に自分には縁のないものだと切り捨てることができた。

 そんな自分が働いている家のことを思い出して、リルレットはくすっと笑った。


(そういえば、あの人たちとクラエス様とも何か違うな)


 もっとも、皺だらけのシャツを着ていたり釦を掛け違えていたり、食事の席に使用人を同席させたりする人である。他の貴族と比べられない点は多いだろう。


(平民街に別邸建てたりね。クラエス様というより彼のお家がヘンなのかも)


 アトラティク街の屋敷を建てたのは彼の父だが、そのことをリルレットは知らなかった。


 そうこうしている内に城門に着いた。ここから先は、国王の演説など特別な日にしか一般には開放されない。リルレットのような平民は目立つらしく、彼女はすぐに門番に見つかった。


「この先に何か用か、娘」


 疚しいことなんて何もしていないのに、反射的に身体が強張る。門番の鋭い目つきは国民としては頼もしいが、自分に向けられていると思うと怯えが先に立つ。


「あの、く、クラエス・ハンメルト様の使いの者です。魔術研究局に用があって参りました」

「ハンメルト……ああ、なるほど」


 それだけで理解できたのか、或いは関わりたくないのか、門番はすぐに警戒を解いてくれた。


「通っていいぞ」

「え、いいんですか」

「わざわざあの変人の名を騙って侵入する不審者もいまい」

「あー……」


 納得できたような、してはならないような。複雑な表情のリルレットに苦笑を返し、門番は門の隣の通用口を開いてくれた。


「研究棟は東の端だ。そこにも見張りが立っているから、身分を証明できるものを提出してくれ」

「え、私、そんなの持ってません」


 クラエスからは何も聞いていない。いや、言ったのかもしれないが聞いていなかった。ここまで来て中に入れなかったら、一旦戻らなければならない。役立たずだと思われたらどうしよう――。

 嫌な汗まで出てきたリルレットに、門番は何をそんなに慌てているのかと首を傾げる。


「自分の手を見てみろ」

「手?」

「何か浮き出ているだろう」


 そう言われて両の掌を開いてみる。すると、門番の言うとおり、右の掌に家紋のような物が浮き出ていた。インクや粉で書かれたものではない。端っこを少し擦ってみたが、滲みも消えもしない。まるで皮膚そのものが変色したみたいだ。


「それが証明書だ。魔術師がよく使う手だから、覚えておくといい」

「……? はい、分かりました」


 覚えておくと何か良いことがあるのだろうか。


(あ、そうか。魔術師の使用人なのに知らなかったから、教えてくれたんだわ)


 見かけによらず親切な人だ。リルレットはぺこりとお辞儀をして、東の方へ歩いていった。

 王城は予想以上に広かった。中庭は優に二、三区画は入りそうな広さがあり、正面には西から東まで続くコの字型の建物、その奥に王が住まう御殿がある。要所要所に見張りの兵士が直立の姿勢で立っていて、リルレットは彼らの視界に入らないように恐る恐る東へ進んだ。少し進むと、見張りの兵士も見えなくなった。


 街の方角を振り返ると、眼下に赤や茶の屋根が立ち並ぶ景色を望むことができた。グランリジェは王城を頂点としてなだらかな傾斜が広がっているので、こうして遠くまで見渡すことができるのだ。


 都市を一直線に突っ切るジェール河はキラキラと煌き、その上を川岸から川岸へ行ったり来たりする渡し舟が優雅に泳いでいる。繁華街の賑やかさは荷馬車や人の流れで表され、城から一番遠い職人街は、いくつもの白い煙で営みが分かる。『層区』と呼ばれる王都特有の単位で区分けされた街の中に、全ての王都民が暮らしている。


 しばし足を止めて見入っていると、空と一体化したような不思議な感覚に陥った。怖いけれど、嫌ではない。懐かしい感じさえする。

 クラエスもこの景色を見たことがあるのだろうか。そんなことを尋ねてみたい気持ちに駆られた。もしあるのなら、この感覚を共有したい。彼の口からどのような感想が飛び出てくるのか、知りたいと思った。そんな機会があれば、の話だが。

 柔らかな風に撫でられ、さっきよりも清清しい気分でリルレットは街並みから視線を外した。



『魔術研究局』


 と、青銅の看板に金色の塗装で書かれた文字を、確認の意味を込めて口の中で読み上げる。


「うん、ここだわ」


 玄関脇の詰め所に立っている見張りに声を掛け、掌を見せる。すると、すんなりと中に入れてくれた。丁寧に局長室の場所まで教えてくれた。門番といい親切な人に続けて二度も当たるなんて、今日は良い日だ。


 魔術研究局とは、文字通り魔術を研究する機関だ。人々のより良い生活のため、というのが表向きの理念だが、中に詰めている人々の本音の九割は単に知的好奇心を満たすためである。

 セイナード局長をはじめ、局員のほとんどが好き勝手に研究と実験を繰り返している。しかし、それはただ単に放任主義だったり窓際部署だったりするわけではなく、「どんな研究が思わぬ成果を生むか分からないから」という一応の理由がある。

 魔術は古来の自然信仰と呪術を基礎としているので、それを扱う人間にも原理がよく分かっていない部分が多い。原理が分からずとも現象は起きる。研究者は大きく分けて、全ての原理を解き明かそうとする者と今起こせる魔術を極めようとする者の二種類で、今は後者の方が多いらしい。


 建物の中に入ると、異質な雰囲気に包まれた。場違いなリルレットを受け入れるでも追い返すでもなく、遠巻きに見られているような錯覚。ざっと辺りを見回すが、人影は全くない。

 何となく暗いのはハンメルト邸と同じだ。もしかして、魔術の研究には暗い方が都合が良いのだろうか。などということを考えながら進むと、言われたとおりの場所に緑色の扉を見つけた。プレートには『局長室』と書かれている。


 ノックをすると、低い女性の声で「はい」と返事が返ってきた。てっきり局長は男性だと思い込んでいたリルレットは少しだけ驚いた。ハキハキとした清涼感のある声は、レイカを思い起こさせる。


「クラエス・ハンメルト様の使いの者です」

「……ああ、どうぞ。開いてるから入って」


 答えはやや間を置いて返ってきた。最初は待ち構えていたみたいに良い反応だったのに、なぜだろうと首を傾げる。やっぱり、日数が開きすぎたのが問題だろうか。向こうも忘れてしまうくらいの間隔が開いていて、思い出すのに時間が掛かったのかもしれない。

 今更のように冷や汗が髪の間から垂れてきて、リルレットは心の中で主に抗議した。


(今日思い出したって、適当にも程がありますよー!)


 きっと怒っているだろうな。怒っているに違いない。今からクラエスの代わりに怒られるのだ。しかし、それが使用人の務めなら果たすしかない。勇気を奮い起こすのだ。


「失礼しますっ」


 思い切って、ガチャリと扉を開いた。するとそこには、見慣れた光景、によく似た光景。数え切れないほどの本が壁と床を埋め尽くし、中央奥に置かれた机の上にもうず高く積み上げられている。その向こうから眼鏡越しにこちらを見ている女性が一人。

 彼女が局長だろう。すらりと通った目鼻立ち。銀色の長い髪を揺らして立ち上がった女性は、クラエス程ではないにしろリルレットよりずっと背が高い。だが、威圧感は彼女の方が圧倒的に上だ。クラエスは微笑むと見る者を安心させるが、彼女の微笑は獲物を前に舌なめずりをする肉食獣のようだった。

 反射的に背筋が伸びる。


「初めまして、だな。私がユイ・セイナードだ。ここの局長を務めている。君はクラエスの使いということだが?」

「はい、り、リルレットといいます。受け取る物があるとのことで、クラエス様の代わりに参りました」

「私は奴に直接来るよう言ったのだがね?」


 どきーんと心臓が跳ねる。今のリルレットはまさに獲物。蛇に睨まれた蛙、虎に睨まれた野兎。背筋を冷たいものが流れ、視線が泳ぐ。


「ええっとぉ、ですね、そのぉ。クラエス様は、ぐ、具合が……」

「具合が?」


 ユイは怜悧な眼差しでリルレットを見据える。

 ダメだ。読まれている。


「具合が大変よろしくて……」

「ふむ」

「ですから、そのぅ」


 もうダメだ、相手の納得の行く言い訳を思いつかない。そもそも、そんなものないのだから当然だ。思いつく、つかない以前に、喋るべき言い訳がない。適当に言い繕うにも、生半可な嘘が通用しない相手であることは明らかだ。

 リルレットの頭に「詰み」の二文字が浮かぶと同時に、ユイの口元には微笑が浮かんだ。満腹の捕食者が、余裕の体で獲物を逃がす笑みである。リルレットが救われた瞬間でもあった。


「ふ。適当な嘘で誤魔化さなかったことは褒めてやろう。もし具合が悪くて来られないなどと言い出したら、君がどうなるか私にも分からなかった」

「お、怒ってらっしゃいますか?」

「もちろん。だが、私の怒りはハンメルトに対してだ。君に対しては何とも思っておらんよ」

「はぁ、よかった」


 ……よかったのか?

 と、一瞬脳裏を疑問が掠めた。しかし、事はユイとクラエスの問題だし、いずれ二人の間にどのような争いが勃発しようとも、決してリルレットの責任ではない……はずだ。


「それはそうと、君は奴の使用人なのかね?」


 唐突にそんな質問が降ってきた。そんなことを聞いてどうするのだろう、と首を傾げながらも、リルレットは素直に答える。


「はい。二週間ほど前から、住み込みで働かせていただいてます」

「二週間。その前は?」

「さ、様々な職場で修行してました」


 たらりとこめかみを汗が伝う。


「ふむ。実際は?」

「……ありとあらゆるお店をクビになりました」

「ふ。やはりな」


 全てを見透かすユイの前では、つまらない誤魔化しは通用しないのだった。

 ユイはふ、と笑って、


「奴の家に厄介になるような者が、普通の履歴の持ち主であるはずがないからな。その様子を見ると犯罪を犯したわけでもなさそうだし、君という人間に興味が湧いてきたよ」

「私なんて、何の面白みもない人間です。単にプレッシャーに弱いだけで」


 縮こまりながら抗弁する。興味が湧いたなんて言われたのは初めてだ。よく分からないが、『魔術研究局長』という肩書きは偉いのだろう。そんな地位の高い人に面白がられる理由なんて思い当たらない。


「いやはや、ますます君のことを知りたくなってきたよ。プレッシャーに弱い人間が、あの家で二週間も持つかね。持たないと思うね、私は」

「そうでしょうか。クラエス様はとてもお優しい方ですし、私としては、使用人が何度も入れ替わったという話の方が信じられないですよ」


 顎に指を当てながら答えると、ユイは驚きに目を瞠った。むしろ、彼女の意見にリルレットの方が驚いたのだが。相手も同じことを考えているようで、ユイはしばし顎の下で手を組むと、面白いことを考え付いた子供のように笑った。


「なるほど。いやはや、そうか。よき兆しかな」

「あの……? 何を仰っているのか、私には全然」

「君は、人が人に親切を施すのはなぜだと思う?」

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