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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第二章
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《風》

 狼はリルレットの後をどこにでも付いてきた。モップ掛けに合わせて揺れるエプロンの紐にじゃれつき、雑草抜きする傍らで土の匂いをくんくんと嗅ぎ、リルレットが料理をしている間は椅子の下で丸まって眠った。知能は高く、仕事の邪魔にならない場所やタイミングを理解しているようだ。イフリータの話によれば、強力な魔術によって生じるほど賢く、寿命も長いのだという。


「じゃあ、この子は三年くらい前に生まれたかもしれないんですね」

『そうとも限らないわよ。数秒から三年っていうのは、あくまで人間が観測したデータに基づいた推測だから。もしかしたら百歳のお爺ちゃんかもしれないし』


 イフリータの冗談にリルレットは笑い声を立てた。どちらにしても、残り僅かの時間を一緒に過ごすのだ。彼がいつどこでどのように生まれた存在であろうと、自分の傍を選んでくれたことがリルレットは嬉しかった。

 情を移すなというクラエスの言いつけを早速破ったことになる。だけど、こればかりはどうしようもない。向こうから懐いてくれるのを突き放すことなんてできない。


 狼は買い物にも付いてきた。リルレットの方も一緒にいるのが当たり前だと思っているので、何の不思議も感じなかった。都会は狼を見たことがない人が多いらしく、温厚そうなおばあさんからは「可愛いわんちゃんね」などと言われて苦笑いした。犬どころか、本当は狼ですらないのだが。

 彼が悪さをしないことは分かっているが、念のため人の多いところでは狼を肩に乗せた。身体が小さいので丁度よい上に、狼は服に掴まるのが上手い。肌に爪が引っかかって痛いということもなかった。


 いつも利用する店の前に差し掛かった頃、女性の甲高い悲鳴が上がり、男が通行人を突き飛ばしてこちらの方角へ走ってきた。物凄い早さと形相だ。しかも、なぜか真っ直ぐリルレットに向かってくる。悲鳴をあげた女性が叫んだ。


「その人スリよ! 捕まえてっ」

「え、え、えええ!?」


 そう言われても、猪みたく突っ走ってくる男を止める術など少女にあるはずもない。かといって避けることもできず、あわあわと慌てふためくリルレットの肩から、銀色の塊が勢いよく飛び出した。


「ぐえっ」


 べたんっと男の顔に張り付いた狼は、振り払おうと襲いくる手を掻い潜りつつ、かぷんと男の鼻に噛み付く。その間に追いついてきた女性が、踵の高い靴で男の脛を蹴り上げた――だけでは飽き足らず、スリの手から奪い返した鞄で後頭部を何度も叩く。更に、悲鳴をあげる男を周囲の通行人が何人かで取り押さえ、男は無事お縄となった。


「……凄かったわね、いろいろと」


 半ば担がれるようにして連行されていく男の背を見ながら、リルレットは呆然と呟いた。彼女の足元にお座りをした狼は、どことなく誇らしげだ。彼のお手柄でもあるのだから、誇る権利はいくらでもあるだろう。


 リルレットと狼にお礼を言う被害女性の顔は、まるで溜まりに溜まったストレスが綺麗さっぱりなくなったみたいに晴れやかだった。その顔を向けられたリルレットも、なんだか気分がよくなってくる。

 一人と一匹は上機嫌で屋敷へ帰った。

 夜、ベッドの上で髪を梳かしながら、リルレットは狼に話しかけた。


「あなたの名前、決めないとね。狼じゃないんだし、いつまでも“狼さん”じゃ可哀相だもの」


 狼は首を傾げた。その顔は、別に構わないよ、と言っているようにも見えた。が、やはり名前は決めておきたい。名前を付けることで余計に離れがたくなったとしても今更だ。決めておいても損はないだろう。


「何がいいかしら。私、名前決めたことないんだよね」


 弟の名前も、家で飼っていた牛や羊の名前も、全部父親が決めていた。リルレットの名も彼による命名だ。


『あなたの名前はどういう意味なの、リルレット?』

「わあっ」


 いきなり後ろから話しかけられたので、驚いたリルレットはベッドの上で跳ねた。振り返ってみれば、案の定イフリータだ。彼女は悪戯が成功した子供のような顔で笑っていた。


「もう、脅かさないでくださいっ」

『うふふー。だって、反応が素直で可愛いんだもん』


 つんつんとリルレットの頬っぺたを突きながら、「役得だわ~。後で自慢しなきゃ」とワケの分からないことを言うイフリータ。まるっきり子供扱いだと、リルレットは頬を膨らませた。


『あらっ。反抗的だわっ。これはお仕置きせねば~』

「きゃあっ。な、何するんですかっ」


 悲鳴をあげるリルレットに構わず、イフリータは彼女の頭から首、肩へと手を滑らせる。


『さわさわ。さわさわさわ』

「ひあああ!? くすぐったいです、やめてくださいー!」

『うふふー。うふふふー』


 なおも嫌がるリルレットを触りまくると、しばらくして気が済んだのか、イフリータは満足げに手をすり合わせた。


『これは秘密にしておこっと』

「だから何の話ですか!」


 リルレットは羞恥心から顔を真っ赤にして叫んだ。眦をあげて怒ってみせても、魔人は全く懲りない。それどころか余計に喜ばせるだけだと気付いたリルレットは、湧き上がる無力感を呑んで何もかも諦めた。


「それで……なんだっけ」

『名前の話よ。リルレットの名前の意味』

「そんなこと聞いて、どうするんです?」

『知りたいだけよ』


 だめ? と可愛らしく首を傾げてみせる。こうされるとリルレットは嫌と言えない。もちろん、イフリータは計算尽くなのである。


「私の名前……ですね。確か、妖精伝説に出てくる名前から取ったんだって父が言ってました」

『どんな伝説なの?』

「よくある御伽噺ですよ。妖精の少女が人間の男の子に恋をして、神様に人間にしてくれるよう頼むんです。そしたら、神様は七年間、月にお祈りを捧げたら願い事を聞いてやると妖精に約束するんです。妖精は言うとおりにするんですけど、神様は約束を忘れてしまってて……」

『まぁ、ひどい。詐欺じゃないの!』


 と、イフリータは本気で憤った。リルレットは「御伽噺ですよ」と苦笑して続ける。


「でも、月が神様の代わりに妖精の願いを叶えてくれるんです。妖精は人間になって、晴れて男の子と結ばれます。めでたし、めでたし。このお話は、契約の大切さを説いてるんだって父は言ってました。私には何のことだかよく分からないけど」

『わたしには分かる気がするわ』

「クラエス様と契約関係ですもんね」


 イフリータは誇らしげに胸を張る。


『そうよ。《魂の契約》と呼ぶの。誰も切ることのできない強い糸よ』

「……人間同士にもあるのかしら」


 最後は呟きながら、切ない胸の痛みを感じた。

 ずっと想い続けていた少年と最後には心を通わすことのできた妖精。もし人間になる夢が叶わなかったら、彼女はどうしただろう。悲しみを抱えたまま果てるのか、新しい恋を見つけるのか。

 私ならどうするだろう。

 ぼんやりしていたリルレットは、イフリータの声に我に返った。


『じゃ、その妖精の名前がリルレットなのね』


 普通はそう思うだろう。この話をすると、皆同じことを言う。


「違うんです。リルレットは月の名前なんですよ」

『月に名前があるの?』

「ええ、春の月をリルレットって呼ぶんです。夏はイヴリー、秋はサフレット。それぞれに纏わる伝説があって、さっき話したのは《リルレットの妖精》という名で語り継がれてきたそうですよ」

『へぇ……』


 イフリータは感心するような溜息を漏らした。膝の上で狼も似たような反応を示している。その頭を撫でながら、リルレットは考えを廻らせた。


(伝説……伝説か。この子の名前も、何かのお話から拝借しようかな)


 しかし、リルレットは他に丁度良い伝説を知らない。本はほとんど読まないし、子供の頃に母が枕元で話してくれた御伽噺も、大抵は「青年」や「少女」で事足りた。リルレットと同じ月の異名を使うにしても、イメージに合わない。うーんと悩んでいると、その悩みを見て取ったイフリータが助け舟を出した。


『イシエはどうかしら。古い言葉で《風》という意味よ』


 その声が確信のようなものを含んでいたように感じられたので、リルレットはしばし返答もせず、ぼうっと魔人を見つめた。イフリータは紫水晶の瞳で少女を見返し、ね、と首を傾げた。その可愛らしさに負けて、思わず頷いてしまう。


『決まりね。今日からあなたはイシエよ。よろしくね、風の子』


 イフリータがぱちんと掌を合わせて言うと、狼――イシエは嬉しそうに甲高く鳴いた。彼が気に入ったのなら何も言うことはない。気のせいか、ここ数日で一番喜んでいるように見えて、リルレットはほんの少しだけ嫉妬した。


(むぅ。いいもん、いいもん。明日も一緒にお出掛けしてやるっ)


 頬を膨らませた彼女に気付いたイフリータがからかい、リルレットは顔を真っ赤にして抵抗し、イシエが細い尻尾を振りながらはしゃぎ回る。

 こうして、二人と一匹の夜は更けていった。


 ***


「魔術研究局、ですか」


 初めて聞く組織の名を口に出して、リルレットは不思議そうにクラエスを見返した。彼はいつものようにふんわりと微笑み、


「そ。俺が在籍してるところだよ。そこの上司が俺に渡したい物があるらしくってね。先日頼もうと思っていた件がそれで、さっき急に思い出したからキミに行って貰おうと思うんだけど」


 他に用事がある? と聞かれて、リルレットは正直に、ないですと答えた。暇すぎて、とうとう庭の花壇に手をつけようと考えていたところだ。もちろんクラエスの許可を貰った上で、である。


 それはともかくとして、初めて主人の仕事について話を聞く機会を得たリルレットは、どきどきして頬を高潮させた。魔術師だから魔術に関係のあることだろうとは思っていたが、詳しいことは何も知らなかったのだ。

 軽い擦り傷を彼に治してもらって以来、リルレットは魔術に憧れのようなものを抱いていた。自分で使いたいなどとは夢にも思っていないが、もっとよく知りたいとは思う。せっかく、すぐ傍に魔術師がいるのだし。

 リルレットはここぞとばかし、張り切って尋ねた。


「そこって、どんなところなんですか?」

「面白みの欠片もないところだよ」


 あっさり断言され、ほんの少し鼻白む。

 聞き間違いだろうか。しかし、改めて問う勇気もない。

 気を取り直して。


「例えばどんな魔術を研究しているんでしょうか」

「さあ。人それぞれだから。興味ないよ」

「…………」


 聞き方を間違えたのだ、そうに違いない。


「きっとたくさんの人が日夜人々の生活に役立つため様々なことをなさっているんでしょうね!」


 もう自棄だった。しかしクラエスの返答は素っ気無い。


「さあねぇ。入局の日以来行ってないし」


 そうだったー! この人引きこもりだった!

 両手両膝を突いて床に這い蹲るリルレットに面白そうな視線を落としつつ、クラエスは何やら細々とした説明と共に、何冊かの書物を入れた鞄を手渡した。が、その声も今のリルレットには届かない。じたばたと四本足で暴れるイシエを引き剥がされたことも気付かなかった。


(気付かない振りをしていたんだわ、私。クラエス様がこうなったのも、きっと何か原因があるはず。あるはずなのよっ)


 リルレットは彼に関する様々な噂は嘘だと判断していたが、ただ一つ、滅多に外出しないという噂だけは真実だと認めざるを得なかった。なんたって、滅多にどころではなく、外に行く素振りすら見せないのだから。まだ数週間分の彼しか知らないからと自分に言い聞かせるが如く期待を抱いていたリルレットだが、ここに来てそれは淡い期待だと知った。


(決めたわ、次の目標。絶対、クラエス様を外に引きずり出すッ)


 そんな決意を胸に秘めているとは露知らず、クラエスは呼びかけても応えない使用人の背を押して玄関の外に立たせると、無情にも扉を閉めた。

 気付けば、日光が照り付ける白い石畳の上。肌が焼けるような痛みを覚えつつ、リルレットはいつの間にか手に握らされていたメモを頼りに、ひいこらと道を急ぐのだった。

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