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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第二章
12/69

変化と自覚

 頼んでいたことは後日に回すとクラエスに言われ、リルレットは早足に書斎を立ち去った。その胸には小さな身体が抱かれたままだ。後から音もなくイフリータが付いて来るのが分かったけれども、たった今言われたことが頭の中でぐるぐる回っていて、他のことを考えるゆとりがなかった。


(寿命が三年ってどういうこと? 長くは保てないって、それより短いの?)


 ぐるぐる、ぐるぐる回る。回り過ぎて酔ってしまいそうだ。気付いたら屋根裏部屋のベッドの上で頭真っ白のまま横たわっていた。

 目の前で狼がちょこんと座り、リルレットをやや上から見下ろしている。その真っ黒な瞳に慰められているような気がして、リルレットはきゅっと唇を結んで身体を起こした。


「こんなんじゃないのに」


 つい数十分前に出会ったばかりの小さな存在に、なぜここまで惹かれるのか分からなかった。しかも自分は最初怯えていたのに。にもかかわらず、向こうから近付いてきてくれたからだろうか。迷子の子供を見放せないのと同じように。

 あの時の狼は、まるで自分は怖い存在じゃないんだよと訴えかけているみたいだった。リルレットに安心してほしくて擦り寄ってきたような気がする。だからなのか、ぎゅっと抱きしめて「私は大丈夫だよ」と言ってあげたくなる。


「お前はそれでいいの?」


 相手が困ると分かっていて口にした。卑怯な自分を自覚して、口の端を曲げる。狼は首を傾げてこちらを見上げる。問いかけが理解できなかったのか、単に見上げるために首の角度を変えただけなのかは判別できない。

 ごめんねと呟いて、リルレットは窓辺に腰掛けるイフリータを振り返った。


「イフリータさんの魔力で、なんとかならないんでしょうか。さっきみたいに」


 イフリータは微笑みながら頭を振った。


『無理ね~。この子の持つ本来の魔力と同質でなければ、その場凌ぎにしかならないわ』

「でも、何回も繰り返せば……」

『わたしの魔力でこの子を塗り替えたら、この子はもうこの子じゃなくなるわ。異質な魔力はむしろ毒なの。どちらにしろ消滅してしまうのよ。分かって、リルレット?』


 母のように諭されると何も言えなくなって俯いた。

 やはり助けるべきではなかったのか。助けてもほんの少し寿命を伸ばすだけと知ってて、どうしてイフリータはリルレットに全てを委ねるような問いを投げかけたのか。だが、だからといって彼女を責める気にはなれない。


 どうしようもないのなら、自分はどうすればいいのだろう。理由は分からないが、狼はリルレットの傍を離れようとしない。まるで彼女のことを母か何かと勘違いしているみたいだ。そんな小さな存在を突き放すことが出来るはずもなく、膝の上に顔を載せて眠る狼の頭を撫でる。


 きっと、今までずっと一人だったのだろう。狼の様子を見ながら思う。

 この街はとても美しくて住みよい町だけど、一人で生きていくには広すぎる。

 だから放っておけないのか。仕事をクビになるたびにレイカに頼らなければならなかった情けなさと一緒に、不安や孤独といった感情はリルレットの心に深く刻まれていた。


(私は決めた。あとは……)


「クラエス様にどうやって許してもらおう」

『どういうこと?』

「私がこの子といることを快く思わないみたいだったもの。それでなくとも、私は使用人に過ぎないんですし」


 しゅんとしてそう言うと、イフリータは目を瞬かせた後、声を上げて笑いだした。


『そんなこと気にする必要ないわよ~! あなたのプライベートを縛る権利なんて、クラエスにはないもの。自分で世話しますーってなことを言ってればだいじょーぶよっ。まぁ、世話なんて必要ないけれど、霊滓には』

「でも、家の中をうろついてたら迷惑だとか思われないでしょうか」

『そうねぇ。霊滓は魔力の塊だもの、たとえ視界に入らなくても気にはなるかもね。あの子魔術師だから』


 屋敷の外にいても気が付いたのだ。中にいれば、どこを歩いているのかくらいは嫌でも分かってしまうだろう。


「じゃあ……」


 やっぱりダメかもと肩を落とすリルレットの鼻先を、イフリータはちょんっと突く。驚いて見開かれた目の真ん前で、鼻を突いた人差し指が軽快に振られる。イフリータの綺麗な顔がすぐ傍まで迫ったので、リルレットはたじろいだ。


『ダメよ~、今からそんな顔してちゃ。ちゃんと話してみないと分からないでしょ。まずはあの子のところに行って、お願いしてみましょ。ね?』


 口調は柔らかいが、有無を言わせぬ強気な態度だ。気付いたらリルレットはコクコクと頷いていた。


『そうと決まれば早速書斎へ行くわよ。ねぇねぇ、リルレット、知ってる? この家の階段の手摺に乗ってね、滑り落ちると面白いの。一階までずさーって。ずさー。ね、やってみない?』

「無理です、ごめんなさい」

『むぅ。ノリ悪いわねぇ』


 即決で拒否すると、イフリータは残念そうに口を尖らせた。子供っぽい仕草に思わず笑ってしまう。彼女は時折こういった邪気のない言動をする。見た目とのギャップが微笑ましいというか、妙に安心する。

 軽く睨まれたので、リルレットは笑いを引っ込めた。これは話題を逸らさなければ。


「そういえばイフリータさんって、クラエス様のこと『あの子』って言いますよね」

『ん? そうかしら?』

「さっきも言ってましたよ。『あの子』って」

『んー、そうかもしれないわねぇ』


 魔人に自覚はないようだ。しかし指摘されれば思い当たる節はあったのか、リルレットを向いて意味ありげに笑う。


『ま、わたしにとっては子供みたいなものよ~。こう見えても長生きだから』

「イフリータさん、いくつなんです?」

『やだぁ! 女に年齢としは聞かないでっ』


 恥ずかしそうにくねくねと身体をくねらせる。やだと言いつつ、どう見ても嫌がっているようには見えない。それを示すように、イフリータはぴたりと艶かしい動きを止めるとこちらに身を乗り出した。


『それにね、最初に出会ったとき、クラエスは今のあなたより幼かったのよ。もう十年近く前になるわね』


 そう言うと、イフリータは懐かしそうに目を細めた。とても優しい顔つきから、二人の出会いはさぞかし運命的だったのだろうと想像する。その一方で、『十年』というキーワードがやけにリルレットの胸に響いた。


(そういえば……クラエス様は私より七歳も年上なんだっけ)


 村では十歳差の結婚なんてザラにあったから、じっくりと考えてみればそれほど大きな差ではない。貴族は十歳差どころか親子ほど年の違う男性に嫁ぐこともあると聞くし、それに比べたら七歳は普通だ。

 しかし、二度と年上を好きにならないと決めたリルレットにとって、その差は大きい。そんな決断をしたのは、少しでも相手に子供だと思われたくないからだ。ジーンが五歳年上だから尚更だった。


『どうかした? リルレット』

「ううん、なんでもないです」


 リルレットは沈鬱な思考を振り切って、誤魔化すように笑った。頬が少し引き攣っていた。


(ないない、そんなこと。あんな格好良い人と一緒に住んでたら、誰でも想像くらいしちゃうよ)


 だから冤罪、潔白だ。ちゃんと大人になりきるまでは、絶対に間違ったりしない。


 ***


 クラエスは椅子に身を沈めてじっと目を閉じていた。

 リルレットに冷たい態度を取ってしまった。そうするつもりではなかったが、狼の形をした霊滓が彼女に懐いているのを見たら不安を感じて、ついあのような態度に出てしまった。


 霊滓は生き物ではない。魔力の塊だ。消滅を死と呼ぶことはできても、死体は残らない。その最期は、恐らくリルレットが思っているよりあっけないものになるだろう。そのとき彼女がどう感じるかと想像すると、得体の知れない不愉快な感覚に襲われる。


 あの少女が――一点の曇りもなく笑うことのできるリルレットが悲しむ姿なんて、考えたくもなかった。

 彼女が死を知らない人間だとは思わない。十六年生きていれば、祖父母なり親戚なり、近しい人との別れを誰しも体験するだろう。その人たちの死が、いつか訪れるであろう狼の姿をした霊滓との別れに匹敵しないなどとは思わない。

 そういう問題ではないのだ。ただ、彼女の涙を見たくない。ただそれだけ。


(これも甘やかし、かな。一体いつの間に)


 自分は変わってしまったのか。

 最初は、イフリータが珍しく気に掛けているから少女に興味を持ったのだった。クラエス以外誰も知らないことだが、使用人が次々と辞めていった理由の半分は彼女の悪戯が原因である。他人に見えないことを利用して、皿を割ったり物の位置を動かしたり不気味な声で脅かしてみたり、何かと迷惑をかけていた――というより、怖がらせていた。

 今回もそうなるのだろうと思っていたのだが、実際は違った。イフリータ自ら姿を見せ、初日から何かと協力を申し出ているのだ。彼女が人間に友好的な態度をとるのは、クラエス以外では初めてと言ってもいい。


 それから約一ヶ月。

 一つ屋根の下に暮らしていても、クラエスとリルレットの接点は実はそれほど多くない。リルレットは屋敷中あちこち働きまわっているし、クラエスは一日のほとんどを書斎で過ごしているからだ。たまに資料室で古い資料を漁ったり、最近は彼女の要求に応じて寝室で休んだりもするが、生活の中心が書斎なのは以前と変わらない。


 それでも、同じ空間を共有していれば分かることはそれなりにある。

 たとえば、リルレットは働き者だがぼんやりするのが好きだ。時折下手な歌が聞こえるが、そんなときは何も考えていない。彼女なりのストレス発散法なのだろう。

 それから、果物が好きだ。料理によく果汁を使う。それを食べるときは実に幸せそうな顔をする。それを見て素で微笑んでしまったことが何度かある。

 他にも、自分の髪質を気にしていたり、可愛い物が好きだったりする。

 そしてクラエス自身は、彼女の新鮮な一面を見るたびに少しずつ満たされていくような気がしていた。この広いようで狭い屋敷の壁が取り払われるような、爽快な風が流れてくるのを感じた。


 以前、クラエスはイフリータに、リルレットに不満はないと言った。そのときは彼女の仕事ぶりに不満はないというニュアンスだった。しかし、今なら違った意味の答えが返せるだろう。

 レイカのリルレットに対する友情ほどではないが、それに近い、いや、それ以上の親近感を感じ始めている。友人や家族ではなく、もっと別の存在として。改めてレイカに言われるまでもなく、彼女を傷つけるような行為はしないつもりだ。

 だからこそ、クラエスは自己嫌悪に陥っている。何も言わず足早に立ち去った後姿を何度も思い返しては、そのたびに溜息を吐いた。


 こんな時、昔の自分がどうしていたのか、思い出そうとしても思い出せない。ロルフと衝突することはしょっちゅうあったが、謝罪の言葉を交わすでもなく、いつの間にか元通りになっていた気がする。レイカとは喧嘩というより一方的な説教だったし、他に心を許した友人は少なかった。

 思い出せなくて当然だ。こんな経験は、未だかつてないのだから。


「クラエス様」


 はっとして顔を上げると、狼を抱いたリルレットが真剣な顔で立っていた。少し肩を震わせながらも、決意を秘めた眼差しをじっとこちらに注いでいる。

 ――ああ、この子はこんな顔もできるのか。

 また一つ、新しい顔を知った。それと同時に、彼女が自分にとって単なる使用人などではないことを確信する。


「私、この子と一緒にいたいです。いつかお別れしなくちゃいけないとしても」


 その短い言葉で十分だった。いや、言葉なんてなくても良かったのだ。あの目を見れば、あんな目で見られれば、自分はそれに逆らえない。他の誰かが彼女と同じことを言っても、或いは同じように振る舞ったとしても、こんなに心を掴まれることはないだろう。


「ちゃんと面倒を見るんだよ」

「は、はいっ」


 年長者らしく言うと、リルレットは頬を上気させて喜んだ。葛藤も自己嫌悪も全部洗い流してしまうような眩しい笑顔に、つい見惚れる。

 とても綺麗だった。


「クラエス様?」

「あ、いや。なんでもないよ」


 まさか、使用人として家にいる女の子に、見惚れていたなんて本当のことは言えない。下手をして彼女に辞められでもしたら居た堪れない。彼女だって後がなくてこんなところで働く破目になったのだろうし、これ以上の重圧を課すのは酷というものだ。

 クラエスは誤魔化すように、机の上にあった本を適当に開いた。


「じゃ、仕事に戻って。その霊滓に関しては全部キミに任せるから」

「はいっ、ありがとうございますっ」


 書斎を去っていく軽快な足音を聞きながら、クラエスはまた重苦しい溜息を吐いた。

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