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水の都で恋をして  作者: 良田めま
第二章
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小さな友達

 彼は、この日が来るのを長い間待ち続けていた。百年の孤独が報われる、この時を。

 ずっと歩いていた。朝も夜も、一時も休まず。そうすることでしか己の存在を見つめることができなかった。成長も老いもなく、ただひたすら消耗するだけのこの身体は、きっと誰にも見咎められることなく朽ちてゆく。


 空に還るのだ。

 そのために帰ってきた。

 母なる風と水が生んだ、この都へ。


 恐れることなど何もない。

 ただ、記憶に残るあの人の笑顔のどこにもないことが、少し悲しい。

 それさえなければ、今より清清しい気持ちで消えることができただろう。一方で、それがあったからこそ、自分のような生のない命も輝くことができたのだと思う。

 無垢な人間に感謝を捧げて――遂に彼は力尽きた。


 ***


「新しい朝がきたーっ」


 歌いだしそうな勢いで、ハンメルト邸の窓が開く。開かれたのは最上階の窓で、開けたのはその部屋の現在の主、リルレットだ。

 第一声と共に窓を大きく開け放ち、しばし景色を鑑賞するというのが、ここ数日の習慣となっている。四階分の高さなので彼女は誰にも気付かれていないと思っているが、大きすぎる声のせいで近隣の住人には駄々漏れだ。

 中には目覚まし時計代わりにしている人もいる。

 今も、向かいの家のおじいさんが元気いっぱい扉を開き、鼻歌を飛ばしながら玄関前を掃き始めた。


「今日もーいい天気だなー、こんな日はーアイスクリームー食べたいなー」


 ゆらゆらと身体を揺らしながら即興で歌を作る。ハッキリ言って音痴である。飛ぶ鳥落とす勢いとは本当はこのことを指すんじゃないかというくらい下手だ。

 玄関を掃いていたおじいさんがパタリと倒れ、家の中からおばあさんと娘夫婦が悲鳴を上げて飛び出してきた。


「あ、そうだ。今日はクラエス様からお使いを頼まれていたんだっけ。早く色々済ませちゃおーっと」


 歌をやめて、てきぱきと身支度を整え始めるリルレット。

 その瞬間おじいさんが目を覚まし、お向かいさん家は感動の嵐に飲み込まれた。家族がおいおいと泣きながら家の中に戻っていく頃には、リルレットの支度もすっかり整っている。

 三角巾をきゅっと締めたリルレットは、すっかり彼女の所有物となった箒を手に一階へ降りていった。



「クラエス様ー。起きてますかー? あ、イフリータさん、おはようございます」


 階段を降りると、丁度食堂の扉を幽霊のような女性がすり抜けて出てきたところだった。

 イフリータには三つの姿がある。

 契約主や限られた人間にしか見えない霊体、人と全く変わらない実態、契約状態にある魔人だけが持ちえるスピネルの三つだ。今のイフリータは霊体、実も蓋もない言い方をすれば幽霊と似たようなものである。


『おはよう、リルレット。クラエスならまだ寝てるわよ。というか、さっき寝たところ。書斎にいるわ』

「ええっ。せっかく寝室綺麗にしましたのに……」


 悲しそうにそう言うと、イフリータは申し訳なさそうに眉根を寄せた。


『ごめんなさいね。一昨日はちゃんとお部屋に戻って休んだのよ? 普段あんまり人と関わらなさすぎて分かりにくいかもしれないけど、あれでも一応感謝してるんだから』


 それは初耳だ。リルレットはぴくんっと顔を上げた。イフリータは嘘や誤魔化しを言うような人ではないから、本当だというのが伝わってくる。その辺りは主人に似ているのだろう。クラエスもまた、自分の意に反することは言わないし行わない人だとリルレットは感じている。

 嬉しいような、恥ずかしいような。


「そっか。使ってくれてるんですね。……ふふっ」


 照れ笑いするリルレットをイフリータは微笑ましい顔つきで見守っていた。その顔が、ふと玄関を向く。一枚の扉を隔てた向こうに何かを見つけたように。


『あら、何かいるわ。玄関の外』

「え? お客さんですかっ?」


 リルレットは突然のハプニングに慌てふためきながらも、なんとか使用人としての務めを果たそうと玄関を飛び出していった。


「今行きまーす!」

『あ、リル――』


 イフリータが引き止める暇もない。引き止めようとしたことに、特に理由はない。ただ、普通の客ではないような気がしたのだ。イフリータはつい伸ばしかけた手を頬に当て、何かを思い出そうとするように呟いた。


『この感じ……覚えがあるような、ないような。どこだったかしら』



 玄関を飛び出したリルレットは「お待たせしましたーっ」と言いかけた口を噤み、そこにいたものをまじまじと見つめた。門の手前、つまり敷地の中。玄関まで続く白い石畳の上に、銀色の小さな物体が蹲っている。ゴミには見えないし、誰かが置いていったとも思えない。

 おそるおそる近付いてみると、それは微かに動いていた。丸く縮こまるように横たわる、四本足の物体。小さな三角形の耳。前足の間に埋もれた顔を見て、思わず悲鳴をあげた。


「おっ……おお狼ー!」


 へたりと座り込み、ぷるぷると震える。顔は真っ青になり、だらだらと冷や汗が流れる。目がぐるぐる回って、今にも意識が遠のきそうだった。

 リルレットは狼が苦手だ。家畜を襲うからという理由で狼を嫌う村人は多かったが、そのせいか村の子供たちは、「悪いことをすると狼に食べさせるぞ」と脅されて育ったのだ。実際に村の家畜を狼が襲うケースは数年に何度かあったので、リルレットなどは、大人たちは本気なのだとすっかり信じきっていた。


 目の前にいるのは、子供とはいえ狼。本能的な恐怖がリルレットを襲う。そもそも、なんでこんな街中に狼がいるのだろう。見やると、門扉は僅かに開いている。この狼が押し開けたのだろう。


(なんて頭のいい子! そこまでして私を食べたいのね。全然嬉しくないけどっ)


 逃げなければと思うけれど足がへたって立ち上がれない。早く、早くしないと食べられてしまう――。


『あらぁ? 人間じゃないとは思ったけれど、本当に珍しいお客さんだったのね~』


 呑気な声が後ろから聞こえてきた。真上を見上げれば、豊満な胸、もといイフリータがふよふよと浮いている。絶景かなー! と叫びだしそうになる衝動を堪え、リルレットは震える声を発した。


「そんな悠長に構えてる場合じゃないですよ、イフリータさんっ。狼ですよ、狼? 食べられちゃいますよー!」

『落ち着いて、リルレット。この子は狼じゃないし、あなたを食べたりもしないわ』

「だって、おおか――え? 狼じゃない?」


 イフリータは狼の前に降り立ち、そっと掌を背中に翳した。


『だいぶ弱っているみたいね。消滅寸前だわ』

「消滅?」

『この子を形成してる魔力が尽きかけてるのよ。あと数分もしたら消えちゃうわね。どうする、リルレット?』


 リルレットは一瞬最後の問いかけの意味が分からなかった。振り返った瞳が真剣な眼差しをしているのを見て取り、ぐっと息を呑む。彼女が何を云おうとしているのか分かったからだ。


「助けられるんですか?」

『寿命を延ばすことは可能よ』

「じゃ、じゃあ、助けてあげてください」


 何も考えずに答えてから、本当にそれで良かったのだろうかと疑問が頭を掠めたが、リルレットの言葉を受け取ったイフリータは既に自分の魔力を狼に流し込んでいた。迸るような緋色の魔力はリルレットの目には映らない。しかし、気圧されるような圧迫感をイフリータの背から感じた。


 狼は――狼ではないらしいが、リルレットは他に何と呼べば良いのか分からない――ぐったりとしたまま、しばらくはピクリとも動かなかったが、イフリータが頭を一撫でするとその瞼をおもむろに開いた。黒い二つの輝きが空気に晒されてきらりと光る。リルレットは恐怖を忘れて身を乗り出していた。


「わ、綺麗」


 その言葉に反応したのか、狼は四本の足で立ち上がると、そろそろと窺うような慎重さで彼女の方へ近付いてきた。

 リルレットは少し驚いたものの、狼でないと分かった後では怯えることを控え、先程イフリータがしたように狼の背を撫でてやる。それでも尚、小さな恐怖はあった。

 恐る恐るといった手つきに狼が嬉しそうに目を細めると、自ら頬を擦りつけて来て、最後の芽が取り除かれた。


「わわ、人懐っこいです、この子」

『そうみたいね~』


 恐らく違うとイフリータは思ったが、口に出したのは反対の言葉。


(ま、いっか。詳しいことはいずれクラエスが説明してくれるわね、きっと)


 のほほんと微笑んだまま、今頃書斎の奥で目を覚まし、難しい顔をしているであろう主に丸投げする。面倒で細かい作業が大嫌いなイフリータだった。



「これは珍しい。霊滓れいしのお客さんとはね」


 狼を見たクラエスの第一声は、イフリータと似たようなものだった。その中の聞いたことのない一語を拾ってリルレットは聞き返す。


「霊滓ってなんですか?」

「我々魔術師は《万物の源(アストラル)》と呼ばれるエネルギーを操り、魔術を行使する。アストラルは大気中や水中、地中、鉱石や草花など、自然界のありとあらゆる場所や物に宿っている」

「は、はぁ」


 突然始まった魔術の講義に、目を瞬かせながらも耳を傾ける。


「アストラルは尽きることがない。何故なら、魔術として使われた力は、用が済んだ後再びアストラルとなって自然界に還るからだ。その様子を実際に目視した人はいない。昔からそう云われているだけの話だよ。ただ、目に見ることのできないアストラルだが、魔術師には感じ取ることができる。魔術師なら皆、先人の説が正しいと思っているよ」


 そして、クラエスは魔術師の素養とアストラルの関連性、自然界からアストラルを引き出す方法、相性の関係などについて滔々と語った。肝心の霊滓の説明については一言もないが、専門用語を殆ど交えない解説は分かりやすくて面白い。


(こんなに穏やかに話す人、知らないなぁ)


 クラエスの声は柔らかく、陽だまりの中にいるみたいに心地よくて、いつの間にかリルレットは目を瞑って聞き入っていた。一見眠っているような安らかな表情だが、よく見れば口元が笑っているのが分かる。


 それに気付いたクラエスが、白昼夢でも見ているのだろうかと思って見つめていると、不意に目を開いたリルレットと視線がかち合った。二人は慌てて視線を逸らした。


「で、話を元に戻すと、魔術が行われた後アストラルは自然界へと還るわけだが、稀に凝縮して姿形を為してしまうことがある。それを霊滓と呼ぶんだよ。霊滓は魔術師の制御を離れ、自立して行動を始める。傍目には普通の生き物と変わらないが、その正体は血と肉のない魔術の塊だ」

「狼じゃないって、そういう意味なんですね。まだちょっと信じられないけど」

「霊滓は大きな魔術を行った際に生じやすいと云われている。けれど本当に稀な現象だからね。研究してる人も少ないんだ」

「そうなんだ……お前、特別なんだね」


 後半は腕の中の狼に向けて放たれた。すると狼は、彼女の言葉が分かったみたいに一声鳴いた。昔聞いた狼の声によく似ている。だけど、今はもう怖いと感じることもない。


 リルレットに懐いた様子の狼を見ていたクラエスは、心なしか厳しい声で彼女に言った。


「忠告しておくけど、あまりそれに情を移さないことだよ」


 リルレットが顔を上げると、同じように狼もクラエスを見やる。早くも同調しつつある彼女らの様子に、苦々しい物がクラエスの胸中に広がる。


「霊滓の寿命は大体数秒から三年前後。イフリータに分け与えられた程度の魔力では、それほど長くはその姿を保てない。つまり、別れは遠くないということだ。入れ込めば入れ込むほど、別離は辛くなる。キミにそれが耐えられるのかな?」


 表情を強張らせ、ぎゅっと狼の身体をかき抱く少女から目を背け、彼はそっと背凭れに身体を預けた。

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