日常の風景
その日、リルレットは空の買い物籠を提げて、大勢の人で賑わう市場をぶらぶらと歩いていた。広場に張られたパラソルや簡易テントの下には、船で運ばれてきた新鮮な魚や野菜、果物や調味料、海外からの珍しい品、織物のカーペットなどが所狭しと並んでいる。中には本当に売れるのか分からないようなものも混じっているが、以前働いていた市場の親父さんが「こういうのはノリだ」と言っていたのを思い出し、「そうかこれがノリか」と一人納得する。
王都で暮らし始めた頃は、市場など怖くて行けなかった。ただでさえ人が多くて真っ直ぐ歩けないのに、そこで買い物をするなんて絶対に無理だと思った。レイカに無理矢理連れてこられなければ、今も遠ざけていたかもしれない。改めてレイカに感謝しつつ、リルレットは市場の雰囲気を楽しんでいた。
今日の夕飯はお魚にしようと、よく利用するテントに足を向けたそのときだ。
「お前、リルレットじゃねえか!」
「ひぃっ」
聞き覚えのある胴間声に反射的に肩を竦めるリルレット。声のした方角を向くや否や、ものすごい勢いで何度も頭を下げ始める。
「ごめんなさいごめんなさい、もうしませんごめんなさいぃっ」
「いや、怒るつもりはねーんだけどよ」
突然謝りだした少女にびっくりした人が、二人を振り返りながら通り過ぎていく。
我に返って頭をあげると、筋骨逞しい肉体に丸顔という、アンバランスな格好の親父がぽりぽりと頭を掻いていた。
リルレットは自分の滑稽な姿に赤面し、気まずさのあまりぎこちない笑みを作った。
「いきなり変なことしてごめんなさい、デルさん」
「いや、大声を上げたオレも悪かった。こんなところで会うとは思わなかったんだ。すまん、リルレット」
デルに謝られると却って恐ろしい。
彼はリルレットのかつての雇い主で、売り物の殆どを路上にばら撒いて傷めてしまった彼女をクビにした人でもある。見た目通り、怒っても怒らなくてもかなり怖い。辞めさせられたときなど、いつ縄で縛られてジェール河に捨てられるかとびくびくした程だ。
だが当のデル親父は、昔のことなどすっかり忘れたような顔でニカッと笑い、親しげな口調で話しかけてきた。
「で、今日は買い物か?」
「はい、そうなんです」
「良かったら見て行かないか。さっきのお詫びにまけてやるぜ」
「わぁ、本当ですかっ」
貧乏暮らしが長いと、お得な話には一も二もなく飛びついてしまうものだ。
デルの店では、南方から仕入れた果実を売っている。この辺りにはない色鮮やかな品種が多いのが特徴で、味も絶品と来ている。デル自ら仕入れし、出来の良い実しか売らないのだ。これで人気がないという方が嘘で、狭いテントにはリルレットの他にも二、三人の客が果実を手にとって見比べていた。
リルレットは果物が好きだ。というより甘い物が好きだ。アップルパイやシュークリームなど、果物やクリームをふんだんに使ったものが特に好物である。しかし、彼女の懐具合ではそういった贅沢が出来るのは月に一度あるかないか。恋焦がれるあまり自分で作ろうとしたのだが、宿のオーブンは一つしかないので断念せざるを得なかった。今なら挑戦できそうなのだが――レシピさえあれば。
瑞々しい果実をじっくりと見定めていると、デルが思いついたように尋ねてきた。
「そういえばリルレット、お前、今はどこにいるんだ?」
「どこ?」
「どこで働いてるんだ、って意味だ」
「ああ、そういう意味ですね」
リルレットは太陽のような眩しい笑顔で得意気に言い放った。
「ハンメルトさんのお家です!」
ずざざっ!
リルレットの周りの人たちが、瞬時に数メートル後退る。皆一様に目を見開き、信じられないものを見るかのような眼差しで彼女を見つめている。周囲の反応が理解できないリルレットはきょとんとして左右を見回し、首を傾げた。
「んんっ?」
鳥の糞でも落ちてきたのだろうか。いやいやそれくらいで大袈裟な。あっ、もしかして私の頭にっ!?
それはさすがに嫌だなと、リルレットは慌ててハンカチを取り出し髪の毛を拭った。が、当然彼女の推測は外れである。
「おい、リルレット……」
「なんでしょうっ」
一生懸命頭を拭うリルレットは、デルの気遣うような視線に気が付かなかった。
「お前、大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ、当たり前じゃないですかっ。洗えば綺麗になりますし、考えようによっては私、ツイてるかもしれませんっ!」
何言ってるんだこの人はという目で見ると、同情の眼差しを返される。気付けば周囲の人たちもデルと似たような表情だ。
「いや、お前がいいんならオレが言うことはないんだが……そうか、そんなに覚悟を決めていたのか。くっ、泣かせやがるぜ。辛いことがあったら言えよ? 雇ってやることは出来んが……故郷に帰るための旅費くらいなら出してやるからなッ」
「オレにも出来ることがあるなら言ってくれッ」
「頑張るんだよ、お嬢ちゃんッ」
突然左右から激励の言葉が飛んでくる。
真剣な物言いで勇気付けようとする青年がいれば、涙ぐみながら応援してくれるおばさんがいる。しかも言葉だけではなく、名前や連絡先まで書いたメモまでリルレットの持つ手籠に投げ入れられる。中には果物や野菜など放り込んでくれる人までいて、籠はあっという間に食材で溢れかえった。
なんだかよく分からないが、親切な人たちだ。いや、親切の度合いを超えている。
グランリジェには良い人が多いと前々から思っていたけど、見ず知らずの娘にこんなに優しくしてくれるなんて……! ただ鳥の糞が当たっただけなのに。
「み、皆さん……! 私こんなこと初めてですっ。ありがとうございます! 私、頑張ります!」
健気でいたいけな少女の姿に胸を打たれる人々に一礼し、リルレットは涙を必死に堪えながら市場を後にした。
――その日の夜。
市場での出来事を聞いたイフリータは腹を抱えて爆笑し、クラエスは何とも言えない表情を浮かべた。
***
風の泣く音も、星の滑る音も聞こえない無音の闇の中。
突然、リルレットはぱちりと目を開いた。
顎まで引き上げた布団の裾を握り締めたまま、呻くように一言。
「……眠れない」
ベッドに入って小一時間。いつもなら十分と経たずに夢の世界へ旅立ってしまうのが、今日は一向に眠気が訪れない。
眠ってしまうほど体力を消耗していないのか、眠れないほど腹が減っているのか。
真相はそのどちらでもなかった。
がばっと布団を剥ぐと、
「やっぱり気になって眠れないっ。玄関の鍵を掛けたかどうか、やっぱり確かめるべき? だよねっ」
自問自答すると、急いで靴を履いて部屋を出る。
以前は幽霊屋敷のようにひっそりと佇んでいたハンメルト邸だが、ここのところ、頻繁に玄関の開け閉めが繰り返されている。言うまでもなく、リルレットが出入りしているのだ。
そのため鍵を掛けっ放しというわけにも行かず、大抵は午後の買い物を終えた直後に戸締りをしている。
だが、今日は少し違った。一度鍵を掛けた後、リルレットは買い忘れに気付いて屋敷を出た。走って店まで行き、帰るときも駆け足だった。急いでいたせいで、扉を閉めた後の記憶がないのだ。鍵を掛けたのか、掛けていないのか。
リルレットはなるべく音を立てないように階段を降りてしまうと、飛びつくように把手を掴んだ。扉は開かない。ちゃんと使命は果たしていた。
「よかった。これで安心して眠れるわ」
小一時間ベッドの中で悩んでいたとは思えない台詞である。当初は眠くて眠くて仕方がなかったせいだが。そのまま眠ってしまっていたら、次に目覚めたときには綺麗サッパリ忘れていただろう。
鍵が掛かっていた事実よりも、気がかりを解消できたことに気をよくしながら戻ろうとしたとき、書斎から洩れる橙色の光に気が付いた。ランプの炎に似た、魔術の明かりだ。
(クラエス様、まだ起きてるのかな?)
一言声を掛けて上がろうか。でも、仕事中だったら迷惑かもしれない。
そう思いつつも、足音を立てないように忍び足で書斎の方へ歩み寄っていく。蔦の装飾がなされた紫檀の本棚に両手をかけ、そっと向こうを覗く。
彼は机に突っ伏していた。リルレットの位置からでは、寝ているかどうかまでは分からない。何も知らない人間が見たら、意識を失って倒れていると勘違いしてもおかしくない格好だ。
立ち去ろうとしたリルレットだったが、クラエスの肩を見て躊躇った。彼がいつも毛布代わりにしている外套がない。少し迷った後、彼を起こさないように慎重に足を運ぶと、思った通り椅子の足元に落ちてあったそれを拾った。
手に取ってみた外套はかなり古いものらしく、ところどころ解れも見られる。あまり目立つものではないが少し気になった。直す人がいなかったのだろうが、せっかく長く使っているのに勿体無い、と生来の物持ちの良さが頭をもたげる。
(直す人がいないなら、私が直させてもらってもいいかな)
クラエスのことだから駄目とは言わないだろう。しかし念のため了承は取っておこうと、外套を彼の肩に掛ける。――このとき、もう少しリルレットに注意力があれば、彼が寝息一つ立てていないことに気付いただろう。しかし、彼女は眠かった。鍵が掛かっていたことに安心したら、急に眠気が戻ってきたのだ。
リルレットは穏やかな顔の彼に視線を落とし、思わず溜息を零した。
白皙の美青年とは彼のことを言うのだろう。線の細さはいかにも魔術師らしい。本当は少し気難しいことを知っていてもなお感じられる、育ちの良さ。
月のように美しい髪が、襟首に隠れている。その髪が一房、目元にかかって邪魔そうだった。「だから」という程度の軽い気持ちで、リルレットはその髪を耳に掛けてあげた。人差し指に何とも言えない滑らかな感動が伝わってきて、リルレットは頬を高潮させた。
「わ。サラサラだ。いいなぁ」
自身の癖が強く硬い髪質にコンプレックスがあるせいか、クラエスの柔らかな髪に惚れ惚れする。なんて恨めしい、いや羨ましい。
クラエスの髪をかきあげたその指で、自分の前髪を少し摘んでみた。やっぱり感触が違う。どうやったら改善できるのだろうと首を捻るも、思い出されるのは母の言葉だった。
(諦めろとか言うから、諦められないんじゃない。お母さんの馬鹿)
せめて、自分に似合う髪形があれば良いのだが。リルレットはいつも項で一括りだ。それ以外に髪の弄り方を知らない。いっそのこと、男みたいにばっさり切ったら、気にすることもなくなるのだろうか。
「ふぁ……あふぅ」
悩みが一瞬で吹き飛びそうな欠伸を一つ。そろそろ起きているのも限界に近い。
「おやすみなさい」
主である青年に囁くと、目尻に滲ませた涙を拭いながらリルレットは書斎を後にした。
それから数分後。
使用人が去った後十分な間をおいて、長い吐息が空気を動かす。
寝た振りをしていたクラエスは、上半身を起こすと、疲れたように両腕で頭を抱え込んだ。
(この前のことと言い心臓に悪すぎだ、あの子は!)
外套が肩に掛けられた気配で、転寝をしていたクラエスは目を覚ました。そのとき起きれば良かったのだが、状況が把握できなかったせいでタイミングを逃してしまったのだった。
この前――シャツの釦を掛けなおした際のことと言い、不意打ちのように距離を詰めてくるのは天然だろうか。それとも、若者の間ではあれくらいが普通なのだろうか。少し外に出ない内に時代は変わっているのかもしれない。
ふと視線を感じて頭上を見上げると、イフリータが羨ましそうに指をくわえてクラエスを見下ろしていた。そのときを待っていたかのように、イフリータはもごもごと口を動かす。
『いいなぁ。リルレットに撫で撫でしてもらって』
「……キミの目は節穴かい?」
誇張も甚だしい。撫でられたのではなく単に触れられただけだ。そこのところを間違ってもらっては、まるでクラエスがリルレットに甘えているようではないか。断じてそんなことはない。彼女がいなければ片付けもろくにできないとしてもだ。
しかしイフリータは己の視力と発言に何の問題も感じていないらしく、
『ふーんだ。いいもんね。今日はリルレットと一緒に寝るから』
べーっと舌を出して言い捨てると、どこかへ消えた。炎の魔人とは思えない幼稚な捨て台詞だ。本来の特性であるはずの苛烈な性質はどこへいったのだろう。彼女のことだから、元から持っていなかったのかもしれない。クラエスでさえ、彼女の属性は別にあるのではないかと、時折疑ってしまうくらいだ。
溜息を一つ落として頭を振ると、すっかり眠気の吹き飛んでしまった眼で書類の束を眺めた。眺めているだけで、読む気は全くない。一枚、手に取ることは取ったのだが……。
――おやすみなさい。
彼を起こさないための配慮か、声になるかならないかの囁き声が耳の奥に蘇り、視線が書面の隅から動かなくなる。
おやすみなんて、久しぶりに聞いた。自分に対して使われることなんてもう一生無いんじゃないかと思っていた。それだけで、何か特別なことのような気がしてくる。リルレットにしてみれば単なる挨拶に過ぎないのに。何かが変わろうとしていることを悟らないわけには行かなかった。それが何であるのかは、まだ分からないけれども。