別れと旅立ち
金色の麦畑に挟まれた道を、一人の少女が息せき切って駆けていた。大きな空色の瞳が印象的な、垢抜けないながらも素朴な可愛らしさがある女の子だ。
名をリルレット。
まだ幼いその顔には、いっぱいの喜びを浮かべている。それもそのはずで、これから婚約者に会いに行くところなのだ。十二歳で婚約、というのは田舎では珍しくない。親同士が友人で、酒の席で戯れに交わした約束が現実になるなんてこともよくある。
けれど、リルレットとその彼は少し違った。親同士が友人であることは確かだが、約束を交わしたのは本人たち。小さい頃の誓いを大切に携えてきた結果だ。
だからリルレットは信じていた。
自分はこのまま大人になるのだと。彼――大好きなジーンと夫婦になるのだと。
そのジーンに呼び出された。こんなに朝早くに何の用だろうとか、どうしてどちらかの家じゃダメなのだろうとか、深いことは考えなかった。ジーンに会える。ただそれだけで嬉しかったから。
最近の彼は少し変だった。以前は毎日のように顔を合わせていたのに、修業が忙しいとかで――彼は騎士を目指して剣術の稽古をしている――一回も会えない日が続いていた。同じ村に住んでいるのに。
リルレットはそれを淋しいと思いながらも、決して口にすることはなかった。いずれ一緒に暮らす日が来るのだから。まだあと数年は先の話だけど、その日は確実にやってくる。だから焦る必要なんてない。
そうは言っても、久しぶりに会えるとなるとやっぱり嬉しい。はしゃいでしまう。いつもより早く起きて、家で飼っている牛の世話をしている間もそわそわして、待ち合わせより三十分も早く家を出て、今もこうして走っている。
もうすぐ彼に会える。やっと会える。嬉しくて心臓が飛び跳ねているのか、走っているせいなのか分からないくらいだ。
約束の丘が見えてきた。小さい頃、二人でよく星空を見上げた丘だ。残念ながら二人だけの秘密の場所とは言えないけれど、十分思い出が詰まった場所。
その上に見慣れた姿が立っているのを見つけて、リルレットは思わず声を上げた。
「ジーン!」
彼がおもむろに振り返る。まるで彼女が後ろにいることを知っていたみたいに。
早く会いたいのは自分だけではなかった。そう思って、リルレットは胸が暖かいもので満たされていくのを感じた。
予定より早く訪れたという意味では、間違いではない。ジーンも早くリルレットに会いたかったのだ。けれどそれは、少女が思い描いているのとは別の理由からだった。
五歳年上の恋人の胸中など知る由もなく、リルレットは不吉な予感にそっぽを向いている。ジーンの表情がいつもより固いことだって、気付いてはいたけれど特に不思議に思わなかった。
「おはよう、ジーン! 久しぶり。ふふっ、なんか変ね。こんな麦と牛ばかりのちっさな村に暮らしているのに、久しぶりなんて」
「あ、ああ。でも、俺は最近隣町にいることが多かったから」
「そうそう。剣のお稽古ね。上手く行ってるの?」
「ああ」
ジーンが習っているのは、元騎士だという老人の我流だ。隣町でひっそりと暮らしていた老人に偶然出会った彼が剣の教えを請うようになってから、もう六年近くの月日が経つ。
それまでも彼はたびたび騎士になりたいというようなことを口にしていたが、家の跡継ぎのこともあるので親には遠慮していた。変わったのは今の先生に出会ってから――と、リルレットは少し淋しく思う。
「ジーンの夢だもんね。早く叶うといいよね」
「ああ。そのことなんだけど」
「なあに?」
リルレットは少し首を傾げてジーンを見上げた。彼の話すことを一言一句漏らすまいとするかのような必死さに、ジーンの口元にも笑みが零れる。
が、唐突に彼はその笑みを消した。きゅっと口を引き締めて、体全体に緊張を漲らせる。
「実は、王都に行くことになった。師匠が、騎士の試験を受けてもいいとお許しくださったんだ。一週間後に村を発って、二か月向こうに滞在する。試験に合格したら、そのまま王都で暮らすことになる」
リルレットは思いもしなかった展開に驚き、しばらくは何も言えなかった。
ジーンが騎士の試験を受ける。受かったら彼の夢が叶う。村からいなくなる。
「そ――そう、なんだ。よかった……うん、いいんだよね? 私も、喜んで」
「嬉しくないか?」
「嬉しいよ。ジーンの夢が叶うのは。でも、そっかぁ、遠くなっちゃうのかぁ。これから会うのが大変になるね。うん……。でも私、応援するよ。ちゃんとお手紙書くし、そうだ、おばあちゃんが教えてくれたお守りを作るね。よく効くっておばあちゃん言ってたよ」
そう言って、リルレットは明るく振る舞ってみせた。しかし、それが虚勢だということはジーンも見抜いている。
少女は純粋だ。何一つ疑っていない。ジーンと結ばれる未来を。だから、単純にジーンが村から出ていくことを淋しがっている。
ただそれだけ。
それだけなのが、ジーンには辛い。
「リルレット。俺、自信がない」
「何言ってるの。あの厳しい先生が、やってみろって言ったんでしょ? 大丈夫だよ。私は剣のことはよく分かんないけど」
「そうじゃない。俺は絶対騎士になってみせるよ。試験に受かる自信はある。師匠以上に分かってる。俺が言ってるのは……」
ジーンは一旦口を閉ざした。ようやく、リルレットの胸にも不安が過る。彼が何を迷っているのかは分からないが、次に出てくる言葉が面白い冗談でないことは分かった。
「俺が言ってるのは、お前のこと。王都に行っても、リルを想い続ける自信がない」
――風が吹き抜けていった。二人の髪や衣服を揺らして、悪戯っ子のように笑いながら通り過ぎていく。
リルレットの目には、ジーンしか映っていなかった。素晴らしい空の青さや、立派に枝葉を拡げた常緑樹や、金色に輝く麦畑などは、遠くに霞んで見えなくなった。
ジーンが何か言っている。動く口元と耳に入ってくる彼の声とが、ちぐはぐに重なって聞こえる。
お前はまだ子供だから。
その一言だけが、やけにはっきりと耳に残った。
ジーンは旅立っていった。村人総出で盛大な見送り。前夜には酒宴。えんやわんやの大騒ぎ。翌朝は村の大人の半数近くが二日酔いに苦しんだが、なんとか英雄の旅立ちには間に合った。
日が昇ると同時に彼は二本の足で村を出た。
騎士を目指す者は、王都まで徒歩で行かなければならない。困難な道のりを歩く決意を示すために、馬や馬車の旅を禁じているのだ。中には誰も見ていないのをいいことに楽をする者もいたが、ジーンは十日近くかかる道のりを全て歩くつもりだった。
顔立ちよし気立てよしで村の人気者だった彼の旅立ちには、多くの若い女性が泣いた。が、その中に婚約者だった少女の姿はない。
彼女は家で泣いていた。
「う、うえぇぇん」
「……姉ちゃん。うるさくて勉強できないんだけど」
「うるさい、ばかカールっ」
「うるさいのは姉ちゃんだってば」
「うわぁぁぁんっ」
反論するとますます大きくなった泣き声に、弟のカールは溜め息を吐いた。
一週間前、姉がフラれた。その日からずっとこうだ。さすがに四六時中泣き喚いているわけではないが、時々心に触れることがあると部屋に閉じこもって号泣する。
そろそろ一人部屋が欲しいなぁと思いつつも、カールはリルレットの傍を離れない。
両親もジーンの見送りに行き、フェルミエ家に残っているのは姉弟二人だけだ。能天気な父と母は、娘がフラれたことは何とも思っていないらしい。初恋は実らないもの、だそうだ。
カールは仕方ないと思う。王都にはリルレットより美人で大人で魅力的な女性がたくさんいるだろう。そもそも田舎娘が洗練された都会の女性に敵うはずがない。
「……大人で、魅力的」
「やべ。声に出てた?」
ぐすっと鼻を啜る音が聞こえる。泣き声は止んだが、悲哀が収まったわけではなさそうだ。
さすがにマズイと思ったカールが見守る中、リルレットは何度も目を擦りながら呟いた。
「ジーン、私が子供だからって。だから、考え直せって。何を考え直すの? 分かんないよ」
「…………」
「私、私……」
ずびっともう一度鼻を啜り、リルレットは決然と顔を上げた。
「私、独り立ちする! 大人になって、そんで、そんで、絶対、もう二度と年上なんか好きにならないっ」
「…………」
――なんでそうなるんだ?
と、弟に不思議がられていることも知らず、リルレットはシーツの端でずびいっと鼻を噛んだ。
そして二年後。
ジーンはあっさりと試験に合格し、そのまま村に帰らぬ人となった。
彼の母親の話によると、年に数回届く便りでは、まだ見習いをしているが焦らずに頑張ると書いてきたらしい。忙しいらしく年初めにも帰って来ず、彼女は少しだけ淋しそうにしていた。
ジーンからの手紙はリルレットにも届いている。がしかし、リルレットは未だに開く気になれないでいる。
何が書いてあるのかと思うと、怖くて読めないのだ。
ジーンは子供の彼女を置いて去って行った。彼の中では、リルレットは二年前の子供のままだ。もう二度と好きだと言ってはくれないし、年相応にも見てもらえない。
でも、もういい。ジーンのことは吹っ切った。その証拠に、王都に行くのだって平気。未知への恐怖はあるけど、期待の方が大きい。これでやっと独り立ちできるのだから。
「これでよし。準備は万端。すぐにでも出立できるね」
「姉ちゃん、本当に行くの?」
「当たり前だよ。前から行ってるじゃない。お父さんたちだって割と簡単に認めてくれたし、心配いらないよ」
「心配なんてしてないけどさ」
最近少しずつ背が大きくなってきた弟は、拗ねたように口を尖らせた。図星を指されて、照れているのだ。
リルレットはくすりと笑って、何通かの手紙を手に取り眉根を寄せた。
「ジーンの手紙も持っていくの?」
「い、一応ね。まだ読んでないし、いつか読みたくなるかもしれないから」
「早めに目を通した方がいいよ。大事なこと書かれてるかもしんないし」
「分かってるよ」
リルレットはムッとして手紙を荷物の間に挟むと、やや乱暴な手つきで鞄を閉めた。
これで本当に準備は完了。明日の出立が待ち遠しい。
少女は一人王都へ旅立つ。自立した大人になるために。
好きな人に子供だと思われるのはもう嫌だ。
だから早く大人になりたい。そのためには働くのが一番。仕送りすれば両親たちだって助かる。
それに、一般的な年頃の娘の心理として、都会にも興味がある。きっと広くて楽しいところなのだろう。素敵な出会いもたくさんあるに違いない。
そう、きっと。
「楽しみだなぁ。わくわくするなぁ。ねぇ、カール。カールも一緒に行かない?」
「行かない」
「ふんだ。けち」
「何がけちだよ。実は不安なんじゃんか」
「そ、そんなことないもんっ」
半眼を向ける弟から慌てて視線をはずし、わざとらしく鼻歌を歌う。
家族や友達ともしばらくお別れだと思うと、淋しくて行きたくなくなる。
だけど、もう決めたのだ。不安には目を瞑って、前だけを見ていよう。
明るい明日を。
そして、困難な明日を。