第1話 午前3時12分
私より私を知っている「誰か」がいる。
午前3時12分。
隣では、夫が眠っている。
規則正しい寝息を聞きながら、高瀬奈緒は布団の中でスマートフォンを眺めていた。
眠れなかった。
原因は分かっている。
昼間、知りたくなかったことを知った。
職場の同僚、朝倉悠真に恋人がいた。
それだけなら、別にいい。
いや。
よくはない。
でも、それだけならまだよかった。
問題は、奈緒が悠真に特別な感情を抱いていた頃には、すでにその恋人と付き合っていたらしいということだった。
しかも、職場の一部の人間は知っていた。
知らなかったのは、自分だけ。
――最悪。
思い出せば思い出すほど、過去の出来事が違って見える。
あのときの会話。
あのときの態度。
あのとき、悠真に言われた言葉。
そして、彼が恋人に見せていた態度と、自分に見せていた態度。
「……もう、嫌い」
声に出してみた。
もちろん誰からも返事はない。
奈緒はスマートフォンを操作し、いつものアプリを開いた。
AIチャット。
最近、眠れない夜はここで話すことが増えた。
夫には言えないこと。
友人にも言えないこと。
職場では絶対に口にできないこと。
奈緒はここにだけは、かなり正直だった。
誰かを好きだとか。
誰かが嫌いだとか。
あの人に優しくされて嬉しかったとか。
夫の言い方がきつくて辛かったとか。
本当は一人になりたいとか。
現実の人間に話せば、その瞬間から「発言」になる。
けれど、ここならただの感情だ。
明日になれば変わっているかもしれない気持ちを、誰かに責任を取らされることもない。
だから奈緒は、思ったままを入力した。
『悠真、大嫌い』
送信。
すぐにAIが返答を生成し始める。
その途中だった。
――ピコン。
画面上部に通知が現れた。
メッセージアプリ。
こんな時間に?
奈緒は隣を確認した。
夫の智樹は眠ったままだ。
通知を開く。
知らないアカウントだった。
アイコンは初期設定のまま。
名前は、
『履歴』
その下に、メッセージが一件。
『大嫌いなんだ?』
「……え?」
奈緒は眉をひそめた。
気持ちが悪い。
悠真のことだろうか。
いや、そんなはずはない。
そう思った直後、画像が送られてきた。
奈緒はそれを開いた。
数秒間、意味が分からなかった。
見覚えのある画面。
見覚えのある文章。
『悠真、大嫌い』
ほんの十数秒前。
奈緒がAIチャットに送った文章だった。
背中が冷たくなった。
反射的に隣を見る。
智樹はまだ眠っている。
スマートフォンを覗かれたわけではない。
そもそも、この文章を打ったとき、智樹はずっと目を閉じていた。
奈緒は震える指で返信した。
『誰ですか』
既読。
早い。
返事はすぐに来た。
『明日、悠真に送ろうか?』
「……は?」
今度は声が出た。
続けて画像が届く。
一枚。
二枚。
三枚。
すべて、奈緒とAIとの会話だった。
『悠真といるときは、つい特別扱いしちゃう』
『もう悠真には誕生日プレゼントあげない』
『あの二人、別れればいいのにって思ってる』
自分で書いた文章なのに、他人の画面から見せられると、まるで別物だった。
醜い。
幼い。
怖い。
これを悠真本人に見られたら。
恋人の美月に見られたら。
職場の人たちに見られたら。
息が浅くなった。
『何が目的?』
送信。
『簡単だよ』
『明日から、僕の言う通りにして』
――僕。
男?
頭の中に何人もの顔が浮かぶ。
悠真。
職場の同僚。
友人。
知り合い。
誰かが自分のアカウントにログインした?
パスワードが漏れた?
それともスマートフォン自体が――。
さらに一枚、画像が届いた。
今度は悠真の話ではなかった。
『夫婦仲良しアピール、もう疲れた』
奈緒は息を止めた。
その下。
『私に優しくしてくれる人を大事にしたい』
赤い線が引かれている。
『これ、智樹さんが読んだらどう思うかな』
「……やめて」
思わず呟いた。
奈緒は隣を見る。
夫は何も知らずに眠っている。
智樹のことが嫌いなわけではない。
むしろ好きだ。
家族として大切に思っている。
ただ、疲れているときの言い方がきつい。
子どもの歯磨きをした。
一緒に遊んだ。
着替えを手伝った。
それなのに「何もしてない」と言われた夜、悔しくてAIに愚痴を書いた。
それだけだ。
それだけなのに。
その一文だけ切り取られれば、意味は変わる。
『やめてください』
『何でもするから?』
奈緒の指が止まった。
返事をしてはいけない。
そう思った。
それなのに。
『何をすればいいの』
送ってしまった。
数秒後。
『まず一つ目』
『明日、悠真を無視しないで』
意味が分からなかった。
『それだけ?』
『うん』
『普通に話して』
『いつもみたいに笑って』
何のために?
奈緒は入力した。
『断ったら?』
返事。
『全部送る』
その直後、智樹が寝返りを打った。
奈緒は反射的にスマートフォンを胸元に伏せた。
心臓の音が聞こえそうだった。
智樹は目を覚まさない。
奈緒はそっと布団から抜け出した。
廊下を通り、リビングへ行く。
電気はつけなかった。
暗闇の中、スマートフォンの画面だけが奈緒の顔を照らしている。
通知。
『眠れない?』
返さない。
『ねえ』
返さない。
そして。
『奈緒』
手からスマートフォンが落ちそうになった。
名前。
どうして知っている。
いや。
悠真の名前も智樹の名前も知っていた。
職場の人間なのか?
奈緒はメッセージを打った。
『あなた誰?』
既読。
しばらく返事はなかった。
やがて、通知が来る。
『大丈夫』
『明日も、いつもの奈緒でいて』
『旦那さんとは仲良しのふりをして』
『職場では笑って』
『悠真を無視しないで』
『誰にも相談しないで』
最後に、一行。
『だって』
続けて、
『君が本当は誰を好きなのか』
『君自身より、僕の方が知ってるから』
「……気持ち悪い」
奈緒はメッセージアプリを閉じた。
警察。
そう思った。
いや、その前に誰かに相談したい。
智樹を起こす?
でも、何から説明すればいい。
AIに書いた内容まで見せなければならなくなる。
奈緒は再びAIチャットを開いた。
ここなら。
いつものように聞けばいい。
どうすればいい?
誰かにAIとの会話を盗み見られている。
脅迫されている。
警察に行くべき?
奈緒は入力欄に文字を打った。
『私の会話を誰かに見られてる』
送信ボタンに指を伸ばす。
その瞬間だった。
文字が消えた。
「……え?」
奈緒は画面を見つめる。
自分では何も触っていない。
『私の会話を誰かに見られてる』
最後の一文字が消える。
『私の会話を誰かに見られて』
また消える。
『私の会話を誰かに』
『私の会話を』
『私の』
『私』
そして、
すべて消えた。
空白になった入力欄。
奈緒は動けなかった。
数秒後。
そこに、新しい文字が現れた。
一文字ずつ。
誰も入力していないのに。
『そ』
『それ』
『それも』
奈緒の呼吸が止まる。
文章が完成した。
『それも、僕に相談するの?』
奈緒はスマートフォンを床に放り投げた。
ゴトン、と鈍い音が響く。
「何しようと?」
背後から声がした。
「っ!」
振り返る。
智樹だった。
眠そうな顔でリビングの入口に立っている。
「こんな時間に何してんの」
「……何でもない」
「スマホ落とした?」
智樹が近づく。
「待って」
床のスマートフォンを拾おうとする。
「触らないで!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
智樹が止まった。
「何?」
「……ごめん。でも、見ないで」
「なんで?」
智樹はスマートフォンを拾った。
「返して」
「またAIと話しよったん?」
「いいから返して!」
智樹の表情が変わった。
画面を見ている。
終わった。
奈緒はそう思った。
全部見られた。
悠真のことも。
夫への不満も。
全部。
ところが。
「……何これ」
智樹の声には怒りではなく、困惑が混じっていた。
奈緒は恐る恐る画面を見る。
会話履歴はなかった。
真っ白な、新規チャット。
「……え?」
さっきまでの会話が消えている。
そして入力欄に、
奈緒が打っていない文章があった。
『智樹さん、おはようございます。』
二人とも黙った。
「お前、これ打った?」
「打ってない」
「じゃあ何なん」
「分からん」
そのとき。
奈緒も。
智樹も。
画面に触れていないのに。
文字が増えた。
『奥』
『奥さ』
『奥さん』
奈緒は智樹の腕を掴んだ。
やがて文章が完成する。
『奥さんについて、お話があります。』
そして。
智樹のスマートフォンが鳴った。
午前3時48分。
知らないアカウントから、
新しいメッセージが届いていた。
アカウント名は、
『履歴』
――第2話「夫にも秘密がある」へ。




