5 珈琲で解きほぐせたら
その日は、魔装具カフェ周辺には濃い霧が立ち込めていました。
霧は、東洋で秋の季語を意味するそうです。もうしばらくすると、冬支度も始めないといけないかもしれませんね。
その日も、リリアーナは暇な午前中を過ごしていると、
『カランカラン♪』
「あ、いらっしゃいませ!」
珍しいです。午前中にお客さんが来るなんて、ましてやこの濃い霧の中。
ただ、午前のお客さんは経験上、訳ありな方が多い気がします。
それは、他にお客さんがいないので相談しやすいとか、リリアーナと会話しているうちに深い話に繋がる事があるからです。
あとは、ゼフィルのような暇な人間くらいでしょうか。
「あの、こちら魔装具も扱っているとお聞きしたんですが」
その婦人は、頭を覆うパーカーを後ろへ下げ、リリアーナが案内する席に着きました。
「扱ってはいますが、なんでも揃えているわけではないんですよ。むしろ、売れてないから、残っているといってもいいくらいですし」
婦人は、あまり元気が無いように思えて、とはいえ、顔の肌艶はまだ良さそうでしたから、心の元気が無いのかなと、リリアーナは考えました。
人間、生きていればいろんなことがあります。
いろんなことがあるから、それを乗り越えた時には身体に一本太い芯の通った強い人になれるとリリアーナは信じています。
聖女の勉強をしているときに教わりました。神様は、乗り越えられない試練は与えないことを。
出来れば、試練を与えないでほしいところです。
元気が出ないときに、無理に元気になる必要は無いんです。
そんな時には何も考えずに、珈琲の香りに任せておけばいいのです。
「あ、えっと、あ、じゃあ、珈琲お願い出来ますか?」
もちろんです。心を込めて珈琲を淹れますね。
リリアーナは、さっそくカウンターへ戻って準備を始めます。
やがて、店内は得も言われぬ芳醇な、いたずらに鼻をくすぐるほどの香ばしく。
今日のような朝霧の中を収穫した珈琲豆の、熟成の時をも凝縮した、澄み渡る琥珀色の、悪魔も誘惑するほどの、神様が口にしたのが珈琲です。
御婦人の凝り固まった心が少しでも解きほぐせたらいいなと、リリアーナが真心を込めて淹れた珈琲です。
「温かいうちにどうぞ」
テーブルの上の一杯の珈琲が、どれだけの時間を忘れさせてくれるのか。
願わくば、少しでも癒しになれたら嬉しいなとリリアーナは思います。
「・・・はあ、美味しい・・・♪」
綻びが解けていく御婦人を見るのがリリアーナは幸せでした。
「こちらに、時間を動かす魔装具があるとお聞きしたんですが」
なるほど、このお客様は忙しい中、なんとか時間を作りたいとお考えなのでしょう。
リリアーナは、思い出しました。
「時間操作は出来ませんが、時間を作れるように出来る魔装具はありますよ。来たるべく未来を他人に擦り付けられる魔装具。
避けられない運命を、例えば自分の借金を、嫌いな人にぶん投げるとかも出来ます。これを使うと、ある日を境に、お隣に借金を取り立てに行ってしまうとか」
リリアーナは、ティーカップのお皿2枚と各砂糖2個を出して、それぞれをペアにしてテーブルに置きました。
「二つの珈琲。片側の珈琲を甘くしたいと思ったら、隣の各砂糖を瞬間に移して、この珈琲が甘いと運命を決めてしまえる魔装具です」
そう言うと、角砂糖を片側のを取り出して、片側に移動させます。
角砂糖2個は甘い珈琲の運命であって、角砂糖の無くなった珈琲は苦い運命にあると。
嫌いな午後予定の仕事があれば、暇な午前中にすり替えてしまうとか出来ますね。
運命の歯車をいじってしまう魔装具といえば、早いかもです。
御婦人は、お出しした珈琲を両手で大事に持ちながら尋ねてきます。
「それは、例えばお腹が痛い娘から、全然平気な私へ移動させることは出来ますか?」
・・・。
鈍感が得意なリリアーナも、質問意図と場の空気で、普通の魔装具が必要なお客様では無いと思いました。
「理屈で言えば可能だと思いますが、そもそもお腹が痛いなら、お医者様に診ていただくほうが普通なのかなと
・・・その、失礼ですが、どなたから魔装具はお聞きに?」
「神殿の聖女様に聞きました。こちらには、時間を移動させるとか、そういった魔装具があるはずと」
じつは、リリアーナのお店には、確かに時間に関係出来る魔装具もあります。
ありますが、使い道がかなり限定されるとか、倫理的な観点からもあまり外には出したくないと考えているものです。
「私も以前は神殿仕えをしていたので、その関係でここにそういった魔装具があると人伝てで、広がったかもしれませんが、正直お役に立てるようなものでは無いかと思います。
よろしければ、お話を聞かせていただけませんか?」
御婦人は、すっかり冷めてしまった珈琲を見つめながら、うつむき加減でなんとか言葉を紡いでいるようでした。
「・・・娘が床に伏せていまして。あまり具合が良くなく」
この段階で、リリアーナの胸中はじつは察してしまったかもしれません。
どうか、この予感が外れますように。
「お医者様には見せたんですか?」
「はい・・・あの」
「あ、珈琲を淹れなおしますね」
リリアーナは、ここで話を止めました。なんとなく聞きたくないと思ってしまったから。
冷えた珈琲カップを下げて、カウンターで新しい珈琲を淹れようとした矢先、入口から男が入ってきました。
『<カランカラン♪>』
「おはよう!リ・・・? おはよう」
ゼフィルが元気良く・・・、が、入った瞬間の店内の空気を察しました。そんなに低い気温でもないのに、空気は重く、温かさが感じられない。
客席にはお客さん。真剣な相談とか話をしていたんだなと。
かと言って、すぐに店を出るのも気まずいものです。
目が泳ぐゼフィルを見て、リリアーナは機転を効かせます。
「彼はここの店員なんです」
ゼフィルは、ペコリと頭を下げて、そっとカウンター奥へ避難しました。